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XNUMX  作者: 上兼一太
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XNUMX(48)ウインナー・ファンターズ ~(49)モーズ・アリスン

 (48)ウインナー・ファンターズ


 俺はその顔を見て咄嗟に輪に駆け寄った。ビル内には関係者しかいないのだから取り巻きも警戒せず、スタッフだと思われたようで誰にも止められる事なく、俺は沢口明菜の前に立った。

「沢口さん、お気持ちお察しします。時間がある時にでも詳しくお話を聞かせてください」そう言って俺は名刺を差し出した。するとそこにある肩書を見た男性スタッフが記者の類だと気づいて、素早く「あとにして下さい」と言いながら俺と沢口の間に割って入った。彼女は俺を一瞥もせず立ち去ろうとした。その瞬間に俺は「特にマツシタについて」と声をかけた。すると沢口明菜はほんのコンマ数秒だけ、俺の姿を目の端に入れて素早く名刺を取ると足早に去って行った。

 俺はサイゴウの方へと戻り、「すいません、行きましょう」と言った。サイゴウは「よく声かけられましたね、ボクなんか大スターの明菜ちゃんに緊張しっぱなしで撮影中も全く話しかけられませんでしたよ」と言った。



 <四十五分前の沢口明菜>


 いや~サイゴウ、マジとれぇわ、こんな簡単な撮影にどんだけ手間取ってんだよ、モデルじゃねーからポーズ取れねぇのは分かんだけど、ずっと顔ひきつってるし、アタシの肩抱くにしてもぎこちな過ぎだし、マジ童貞かよってはなし。ナミチのじじいもシャッター押せな過ぎてイライラしてんじゃん。もうコイツマジで共演NGにしよ。・・・ってか、アイツはどこ行った?マネージャーのくせにさっきからいないんだけど。母親面しなくなったと思ったら、マネージャーの仕事も放棄かよ。・・うーん、でも4回も(入れ替え)たのはやっぱまずかったかな・・もう元のママの要素全然なくなっちゃったし、流石にメンタル持たなかったかぁ・・まぁパパは一回でダメだったからママは持った方だけど・・・。


ナミチ「はい、オッケー・・うーん、とりあえずこんなもんかな・・前回撮った分もあるから、これで何とかなるだろう・・よし、とりあえず、終了としましょっか」

沢口明菜「お疲れ様です、ありがとうございまーす」

サイゴウ「あ、お疲れ様です、あの、ボク大丈夫でした?」

ナミチ「えっ・うーん・・そうだねぇ・・」

沢口明菜「全然大丈夫ですよー、本当のモデルさんみたいでしたー」

サイゴウ「ほんとに?ありがとー」

 んなわけねーだろ!このスポーツ馬鹿!!

ナミチ「えーっと、岩嵜ちゃん!データ確認するから牧村さん呼んで来て」

カメラアシスタント岩嵜「はい、あ、すいません、えーっと、それがさっきから牧村さんの姿が見えなくて・・」

ナミチ「見えなくてじゃなくて探して来てよ、その辺いたでしょ?」

岩嵜「あ、はい、行って来ます!」

沢口明菜「あのぅ、前室にいなかったら多分、屋上の喫煙所とかでセッター・・じゃなくて煙草吸ってると思いますよ、すいません、お手数おかけして」

ナミチ「いーのいーの、明菜ちゃんは気にしないで!全く気が回らないんだよなー、岩嵜ちゃんは」

 ・・てかマジ、アイツうざ過ぎ。マネージャーなんだから常に側にいろよ!なんでアタシが謝んなきゃいけないの?ったく、そのまま屋上から落ちろっつーの!・・・あーあ、退屈だなぁー、もう芸能界なんか入らなきゃよかったなー、次は何やろうかなぁー・・・ところでアタシ、いつからこんなギャルマインドになったんだっけ?



 <1時間後のサイゴウ>


 どでかいクラブ・サンドを2つ、一瞬で平らげてからサイゴウ元投手は「ここのサンドイッチはおやつに調度いいんですよね」と言った。プロレベルのスポーツ選手になると体に蓄えられるエネルギーの量が違うのだろう。俺はいつものようにコーヒーをちびちびと飲んでいた。

 XNUMXのビルから50メートルほどしか離れていないその店で、俺達は店内の少し奥にある半個室のテーブルを挟んで座っていた。店の外からはまだ牧村の事故によるざわめきの余韻が聞こえている。正直その件の方が気になっていたが、今は二度と会う事は出来ないであろうサイゴウ元投手と話す機会を得ているのだ。とりあえずこっちに集中しなければ。

「この店の店長さんが大の日本ウインナー・ファンターズのファンで、ボクが来るといつもこの席を使わせて貰えるんです。永久欠番ならぬ永久欠席とでも言うのかな、あはは、でもここだけカーテンも閉まるし、取材もしやすいでしょ?」

 確かに店内は純喫茶のようで古めかしく広くもないが、ここなら込み入った話も出来るかも知れない。まず俺はサイゴウが最も輝いていて本人も話しやすいであろう、高校球児だった頃の話から聞く事にした。


「・・・って感じでバレンタインには高校にトラックでチョコレートが届きましたよ」

「へぇー、それは凄い、まるでアイドルですね、流石、甲子園のバンダナ・プリンスだ」

「いえいえ、お恥ずかしい。」そこでサイゴウは追加のティラミスを頼んだ。

 まさか約一時間も高校時代の話だけをするとは思わなかった。高校から社会人野球、プロ野球への歩みを聞いた上で、徐々に投手としての才能が薄れていった事の方に話を向けていって、頃合いを見て(力の喪失)についての話を訊き出そうと思っていたのに・・・。テレビ局への入り時間まであと十数分、許された取材時間はもうほとんどない。サイゴウはニコニコ顔で運ばれてきたティラミスを食べ始めている。

「意外と沢山食べるんですね、現役時代からですか?」

「いえ、子供の頃からです。自分はあまり満腹感を感じた事がなくて・・小学校の低学年の頃は結構太っていてイジメられましたよ」

「へー、そうなんですね」

「それでヤバいと思ったのか、父親に無理やり近所のリトルリーグに入れられて・・それで野球を始めました。痩せられたのも野球のお蔭ですね」

 しまった、さらに過去の話にいってしまった。これでは一向に話が進まない。

「面白い事に野球を始めたら沢山食べなくなったんです。おかしいでしょ?普通は逆なのに。それで今、また野球を止めたら大食漢に戻ったんです。だから今でもトレーニングはかかしませんよ、走ったり、ジムに行ったり、今の方が現役の時より動いてるかも知れないですね、じゃないと太っちゃうから」そう言ってサイゴウはティラミスの最後の一口をほおばった。

「私のような小食の人間からすると、沢山食べれる事もある種の才能だと思います。フードファイターの方とか」

「確かにそうですね、ボクはあの時、無尽蔵に食べれる才能と引き換えに野球の才能を手に入れたのかも。」

 しめた、と俺は思った。

「なるほど、野球の才能の代わりに今度はキャスターの才能を手に入れたと?」

 ナプキンで口を拭くサイゴウの手元が一瞬止まった。しかしまたすぐ例の笑顔に戻り「いやー、ボクにはキャスターの才能はないですよ」と言った。額を出し、短く切り揃えられた髪の毛、ライトグレーのジャケット、嫌味のない一重瞼に屈託のない微笑み。さすがプリンスだ。好感度だけはまだ微塵も失われていないじゃないか。

「というか、ボクにはもう何の才能もないんです」

「何を言いますか、スポーツキャスターとしてニュース番組にレギュラー出演しているし、モデルもやっているし、スポーツ誌にコラムも連載なさっているし、オリンピックや世界陸上の時には海外から中継なさってたじゃないですか、並みの人間には出来ませんよ」と、俺はおべっかを言った。自尊心に訴えて逆の気持ちを引き出させる会話術だ。

「それはそうなんですが、全ては高校球児時代に築き上げた名声のお蔭で・・ボクにはもう何も・・全ては惰性でしかなくて・・・」とサイゴウは、この日初めて顔をうつ向けた。多分素直な人間なのだろう。もう時間もない、俺は思い切って切り出してみた。

「高校最後の夏に、帰省したからですか?」

「えっ」と、サイゴウは顔を上げた。

「あの夏に時の人であったサイゴウ投手がT県に来ていたのは、地元の人間は大体知っています」

「・・・」サイゴウは黙って俺を見つめている。

「私の地元はT県J市なんですよ」

 サイゴウはそのまましばらく俺を見つめてから、さっきまでとは違うとても小さな声でこう言った。

「・・もしかして貴方は、灰烏家の人間ですか?」



 (49)モーズ・アリスン


「ハイ・・ガラス?何ですかそれは?」俺は初めて訊いた、苗字であろうその音感に、特別な違和感を感じた。

「あ、違うんだ」サイゴウは溜息をつきながら椅子に体重を預けた。

「失礼、気にしないで下さい」

「気になりますよ、ハイガラスというのは苗字ですよね?どういう字を書くんですか?」

「遺灰の灰に、鳥類の烏で灰烏です。」

「どうして私がそこの人間だと思ったんですか?」

「いえいえ、うちの母の親戚の家系だというだけです。貴方がT県J市の出身だと言ったので、ただ単にそこに住んでいるボクの親戚の苗字を出しただけですよ、本当に気にしないで下さい。」

 サイゴウはさっきまでの自信のなさそうな顔から、いつもの屈託のない笑顔に戻っていた。彼が何かを隠している事は明らかだ。・・さて、どこから攻めていこうか・・。

 カランコロンカラン・・その時、店のドアが開いてサイゴウの女性マネージャーが入って来た。

「そろそろお時間です、車は外に停めてあるので乗っていて下さい。」

「あ、もうそんな時間か、それじゃあ失礼します。会えて良かった」

「あ、ちょっと」

 サイゴウはさっと伝票を持つとマネージャーにそれを渡して自分は足早に店を出て行った。若いマネージャーは支払いを済ますとこっちを見向きもせずサイゴウの後を追って出て行った。俺は完全に獲物に逃げられた間抜けな捕食動物の顔になっていた。


 一瞬、テレビ局まで追いかけようかとも思ったが、撮影スタジオより警備は堅いだろうし、ナミチのような伝手もないから簡単には入れないだろうと思い直してやめる事にした。しかし俺には他の伝手がある。野球選手の事は野球の専門家に訊けばいいのだ。大人しく残りのコーヒーを飲み干して、俺はクリスマス・ムード一色の街を後にした。


「・・・なるほど、では私が何とか取り次いでみます。とは言え、サイゴウくんはもう現役選手ではないのでうちとはあまり関係がないですし、忙しい人ですから確約は出来ませんが・・・」と健三社長は電話口で言った。

「お手数おかけします。ほんの数分でもいいので、もう一度話したいと伝えてください」

「分かりました、一応確認ですが電話でもいいんですよね?サイゴウくんと話せれば」

「はい、大丈夫です、今日の昼にしたインタビューで一つだけ聞き忘れた事があって、それだけ訊ければ今回の仕事は済みますので」と俺は詳細は省いて言った。

「了解しました。それぐらいなら可能だと思いますよ。では何かしらの返答があったら連絡しますね」

「ありがとうございます。あ、ただサイゴウくんのマネージャーに気づかれるとちょっと追加取材は難しくなるかも知れません、どうやら私は嫌われてしまったようで・・」

 あの女性マネージャーは多分、俺が普通のスポーツライターではない事に気づいていたのだろう。でなければ取材を中断させるかのように割って入ってくる事はないだろうし、帰り際に挨拶だってきちんとするはずだ。あの態度は、よく分からないヤツに余計な事を訊かれる前に自分のタレントを守ったと考えるのが妥当だ。

「そうなんですか?まぁとにかく私が知っているのはサイゴウくんの携帯電話だけなので、とりあえず本人に話してみますね、久しぶりなので番号が変わってないといいんですが・・」

「流石ですね、助かります。」

「いえいえ、サイゴウくんも私には貸しがありますから」

「・・と、言いますと?」

 俺の問いかけに少し黙ってから健三社長はこう言った。

「貴方だから言いますけど、絶対にオフレコにして下さいね」

「もちろんです」健三社長は俺を信用し切っている。

「ご存知だと思いますけど、サイゴウくんは甲子園で野球の才能を使い果たしてしまい、そのままプロになる事を諦めて大学野球で様子を伺っていた時期がありますが、その頃彼は以前のような投球が出来なくなっている事をとても悩んでいました。案の定、少しずつ生活は荒れていき、そしてハマってしまったのが闇カジノです」

「闇カジノ!?」

「はい、マンションの一室で高額のレートで行われている非合法な賭博場です」

 俺は慌てて健三社長にバレないように携帯の録音機能をオンにした。

「そこにサイゴウくんは夜な夜な通い詰め、瞬く間に結構な金額の借金が出来てしまいました。しかもその事をある雑誌に嗅ぎつかれていて、記事にされるところでした。」

「でもそんなスキャンダルは公にならなかったし、彼はその後なんの問題もなくファンターズに入ってますよね?という事は・・」

「ええ、私がもみ消しました。」と健三社長は、あまり人に自慢出来ないような事をあっさりと認めた。

「・・というか、そのネタを掴んでいたのは、幸いな事に兄の雑誌だったのです」

「なるほど」確かに真っ先にモウリが食い付きそうなネタだ。

「サイゴウくんは高校生の時にはうちの雑誌の常連で、大学野球に入ってからは伸び悩んでいた事も知っていましたし、私は超一流になる事は無理でも何とかプロまではいかせてあげたいと個人的に思っていました。兄は野球系のネタが入った時にはいつも私の仕事に支障がないように事前に掲載確認をしてくれていましたし、そのスキャンダルが出るとサイゴウくんは選手生命以前に、法的に裁かれて人生が破綻してしまう可能性もありましたので兄に頼んでボツにして貰いました。それだけではなく兄は、また例のようにどういうやり方かは分かりませんが、闇カジノ側の人間と話をつけてサイゴウくんとキッパリ手を切らせたのです。」

「えっ、まさか、借金を肩代わりしたとか?」

「いえ、それはありません。兄はお金にはうるさいので」

 確かに、俺がやった記事のギャラも雀の涙だった。

「しかしどうやったんでしょう?不法なカジノなんて、仕切ってるのは裏社会の人間でしょう?」

「ええ、まずカジノの借金はその後すぐにプロになったサイゴウくんがファンターズとの契約金で払っていると思います。以前私に(契約金はアノ件で全て消えましたよ)と言っていたので。お金さえ入ってくればカジノとしてはいいわけですから、根本的にはそれで解決した形です。そもそも非合法で法外な掛け金を払わせていて、十分向こうは儲かっています。しかしその後もしつこく付き纏われてもいけない。そしてこれは私の想像ですが、兄がやったのは、カジノの人間にサイゴウくんを出禁にさせて名前も抹消させたのだと思います。多分(サイゴウぐらいのビックネームの出入りが公になるとすぐにカジノが摘発されるぞ)とか何とか言って。しかし裏の人間を話し合いの席に着かせることだって素人が出来るような事ではないのですが、兄にそれが出来たのは多分、幸運の世界の信者だったからだと思います。」

「えっ?」

「確証は取れていませんが、その闇カジノの元締めは幸運の世界と関係のある暴力団、新日本連合だったのではないでしょうか」

「ああ、なるほど!そうか、そもそもネタもそこから入って来た可能性がありますね」

「仰るとおりです。兄の情報網は多岐にわたりますが、そのルートもひとつの線である事は間違いないでしょう・・・あ、でも貴方も新日本連合と幸運の世界の繋がりは既にご存知なんですね、さすが有能な記者さんだ」

「ええ、ちょっと知った顔の人間達がいるもので」と言いながら、俺はドラゴン達の顔を浮かべた。

「ところで、突然ですが健三さんは(灰烏)という苗字をご存知ですか?」

「ハイガラス?・・ハイガラス・・・どんな字を書くんでしょう?」

 やはり俺と同じ質問をしてきた。「燃えかすの灰にトリの烏です」

「・・う~ん、ちょっと思い当たる物がないですねぇ」

「そうですか」

「それが何か?」

「いえ、ちょっと最近知った古い苗字だったので博識な健三さんならご存知かなと。」

「あはは、私を買い被り過ぎですよー」と言いながらも褒められて満更でもないご様子だ。

「ちなみにサイゴウくんの話をマツシタにしたのは健三さんでしたよね?それはどういう話だったんですか?」

「ああ、プロに入った後、サイゴウくんを特集した雑誌を作る時に、ご飯を食べながら二人だけでざっくばらんにインタビューをしたんです、その時にさっきの契約金を借金にあてた話とか、有名女優との恋愛の事とか絶対載せられない話も沢山したのですが、そんな中で大分酔っぱらった彼が突然(あの夏に田舎に帰らなければ、ボクはまだ160キロ近い速球と真横に曲がるスライダーを投げられたのに)って言ったんです」

「ほう・・それはどういう事ですか?」

「いやぁ、私にもよく分かりません。話を聞いたのはもう結構前ですし、その時サイゴウくんはべろべろでしたからね。私も(自分の才能が無くなった事を誰かのせいにしたいんだな)と思って話半分で聞いていましたから。とにかく彼は高校三年の夏休みに家族で母方の田舎であるT県に遊びに行って、戻って来たら野球の才能がなくなっていた、だから親と一緒に帰省なんてしなければ良かったと悔やんでいました。その話が何か面白かったので、そういう話題が好きなマツシタさんに私がポロっと言ってしまったんです。そういえばサイゴウくんと会ったのはその時が最後ですねぇ。あ、いけないダジャレみたいになっちゃった」

「そうですか」と俺は流した。その感じなら、もう一度サイゴウと話しても大した情報は得られないかも知れない。俺は健三社長にお礼を言い電話を切った。


 それから丸二日が経った。クリスマス・イブとクリスマスを家から一歩も出ずに俺は調べ物や、年明けから長期的に実家に帰る準備にあてた。テレビを付けると牧村の死が、どのチャンネルでもセンセーショナルに報道されていて、沢山のカメラに囲まれた沢口明菜は涙を流し、しっかりと、そして見事に悲劇のヒロインを演じていた。これで彼女の成功はさらに揺るぎない物になっただろう。結局俺は牧村という人間に会う事は出来なかった。人の縁とは面白いもので、会えそうもない人に突然会えたり、すぐ会えそうだと思っていた人とは結局会えなかったりもする。一度会っただけで心底分かり合えたと思っていたはずが、二度と会う事がなかったり、全く気が合わないと思っていた人間と生涯を共にしたり・・・40年近く生きてきても俺にはそのルールが全く分からなかった。

 二日の間、携帯電話は一度も鳴らず、メールも重要な物は届かなかった。人通りの少ない住宅地にあるアパートの一室で完全に外界と遮断され、誰ともコミュニケーションを取らずに48時間以上が経過していた。その間に自分が発した言葉と言えばほとんどが「あっ」とか「おっ」とか「ふー」などの呼吸の延長にあるもので、最長のセンテンスにしても「付けると暑いけど消すと寒いな」という、エアコンに対しての一方的ないちゃもんだけだった。

 灰烏家についてインターネットで調べてもみても、全国珍しい苗字ランキング38位という事ぐらいしか出て来なかった。図書館に行って、T県についての古い歴史を調べればあるいは何か分かるかも知れないが、どうしても今は外出する気分になれなかった。いざとなったらバンバに分けて貰った金があるという精神的な余裕から、仕事の営業もしなかった。50年代から60年代のモーズ・アリスンのアルバムをCDやレコードでとっかえひっかえ聴きながら、余り有益とは思えない時間の過ごし方をしていた。アリスンはEverybody's Cryin' Mercyの中で「人々はぐるぐる回り、自分達がどこへ向かっているのかを知らない」と歌っていた。そして26日の夕方にそれまでの沈黙を破って携帯電話が突然、鳴り響いた。

 俺はその時、夕食の準備をしていて(味噌煮込みうどんの食材を切っていた)本当は電話に出たくなかったのだが、サイゴウの可能性もあるし、もっと大きな獲物(名刺を渡した沢口明菜)が釣れた可能性もあったので出ないわけにはいかなかった。

 スマホを持つとやはり知らない番号だった。健三社長ではない、俺は慌てて包丁を置いて通話を押した。

「もしもし?」

「もしー、元気ですか?」

「ん?」

「もう忘れちゃったの?ボクだよボク、アリスだよ」

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