XNUMX(46)44-B ~(47)サイゴウ
(46)44-B
キョロキョロと辺りを見渡すと、暗闇の遠くの方から、例のエマニュエル夫人が座っていそうな籐で編まれたピーコックチェアに腰かけたバンバが、椅子ごと滑るように目の前へと現れ、俺の1メートル手前で止まった。そしてあたかも今していた会話の続きのように「おにいちゃんがホテルの部屋から出る時、ワタシ言うたやん。エレベーター使うなって、それ守っとったらヤクザなんかに会わへんかったんやで」と言った。
「・・はぁ・・・」
「(春のアナタ)なんてドラマ、一回も見た事あらへんねん。ワタシはな、あんたを(完璧なタイミング)で帰らせるように嘘ついたんや。あの時、帰れと言うたとおりのタイミングであんたがすんなり階段使こうて帰ってたら、こんな事にはならへんかったのにな」
「ああ・・そうだったんですか・・なんか、すいません」
「ほんまやで。ワタシ、ヤンちゃまなんて好きちゃうもん。もっとワイルドなアントニオ・バンデラスとかの方がすっきゃねん。デスペラードのDVDも持ってるしな・・って、そんなんはええねん。とにかく分かったやろ?ほんの些細なズレでどえらい事になんねん、人生っちゅうのは」
「そうですか・・あの、ところでここは?俺は死んだんじゃないんですか?・・・」
周りを見渡したが、辺り一面真っ暗闇で先が見えない。ここはまるで、うたた寝中に浮かび上がった時に訪れた、宇宙の果てのような空間だった。そんな所で我々二人は、立っているのか浮かんでいるのか分からない高さで面と向かって対峙していた。ホテルで会った時と全く同じ服装、コーヒーカップを片手にバンバは言う。
「知らんよー、こんなとこ。ここはおにいちゃんの場所なんやで、ワタシはあんたに呼ばれて来ただけなんやから」
「えっ?」
「多分やけど、あんたが無意識でワタシに助けを求めたんとちがう?」
「・・俺がアナタを呼んだ?」
「こないだも言うたやん、ワタシらはもう、もつれてもうてるって。ええか、人っていうのはな・・いや、物もやけど、一回関係が出来てしまうと、そこには磁石のようなお互いが引き合ったり反発しあったりするエネルギーが生まれてしまうねん。それを人は縁とか呼んだりすんねんけど、そのエネルギーっちゅうのがこれまたやっかいで、そのせいで色んな未来のバージョンが出来てまうねん。・・なんちゅうか、ポイントっちゅうか点っちゅうか、そこからまたどんどん枝分かれしていって・・まぁ上手く説明でけへんけど、とにかく些細な挨拶をかわした程度の関係でも、そこでエネルギーが発生して無限に可能性が生まれんねん。せやから逆に言えば、会わなければ生まれへん。お互いが認識し合わなければな。せやからワタシは、あんたとアイツらを会わせんようにしとったんや」
「・・でも俺がエレベーターを使ったせいで」
「そうや、運転してた男と関係がもつれて最悪のバージョンの未来が出来たんやな」
「・・・・」
俺は黙った。なぜかというと、違う事も気になったからだ。
「・・もしかしてバンバさんはヤクザ達の事を知ってるんですか?」
「当たり前やん!いつの間にかホテルの名義も変わってて、いかつい連中がコソコソ出入りするようになって・・そんなん気づかないわけないやん!ワタシ88やけど耄碌してへんで。ちゃうねん、逆にアイツらを使うてボディガードさせてんねん、そしたら余計な人間も詮索できへんし、ワタシがあっこに住んどる事もバレへんやろ?」
・・・さすが、食えないばばあだ。
「だからそんなんはええねん、今はあんたの事やろ」
「ああ、確かにそうですね・・・どうしましょう?」
「アホか!知らんわ」
「・・・そうですか・・」
「ちゃうわ、アホ!知ってんねん、今の知らんわはあんたの事なんてもう知らんわ、の知らんわや、どないしたらええか分からん、の知らんわではないねん、ドアホ!」
「ああ、そうですか、関西弁は難しいな」
「難しないわ。ほんまに・・・あんな、にいちゃん、時間ないから言うたるけど、どこかで違和感を感じた時があったやろ?最近。そこの前の状況と同じ事したらええねん。そのズレたと思う所がな、さっき言った(ポイント)やねん。その(点)っていうモノにはな、人とか場所・・状況っちゅうかな、そんなんのどれかが関係してんねん。おにいちゃんが枝分かれした状況を思い出せれば、その時と全く同じ事をしたらええねん、わかるか?」
「・・・」ポイント?点?そんな特別な事をした覚えは・・・あっ、アリスとの不適切な・・
「それとちゃう」とバンバは俺の思考を読み取って言った。
「意外と特別な事やないねん。日常的な普通の動作でも起きてまうから。例えば電車に乗る、商店街を散歩する、エステに行く、ドライブする、ポイントはどこにでも潜んでんねん」
俺はしばらく考えたが全く身に覚えがなかった。
「あんたのそういうとこやろなー、女が逃げてったんは。」
「えっ」
「気づいてるようで気づいてへんのよ。特に自分の事や重要な事についてはな。あんな、鈍感さっちゅうのは時に人を殺めるほどの凶器にもなるんやで。」
・・そう言われると、返す言葉がなかった。俺の今までの人生において、思い当たる節があり過ぎる。
「目を瞑って」とバンバは言った。
「ここでですか?」
俺はこの途方もない暗闇の空間で目を瞑るのが怖かった。そうするともう二度と戻ってこれないような気がしたからだ。
「ええから、言われたとおりにせい」
「・・・はい」
この状況で選択の余地は無く、俺はバンバを信じて目を閉じた。あの時の宇宙の最果てと同じく全く音がしない。風も匂いも・・・そういえばヒラタはどうしただろう?アイツは無事だろうか・・・「余計な事は考えんでええ。」とバンバの声がした。
「そのまま力を抜いて、あんたが一番リラックスしてる時を思い出しなさい。深呼吸して、思い出すっちゅうより思い描くっちゅう感じで」
ここに空気があるのだろうか?と思いかけたが、これも余計な思考だろうと、考えない事にした。暗闇の中で目を閉じると、より闇が体にまとわりついてくる感覚がした。静寂は果てしなく広がり、自分というものが末端から分散していく。俺は肺に入ってきているのか分からないまま酸素を吸う動作をして、二酸化炭素を吐くフリをした。何度か繰り返しているうちに徐々にバンバの存在が遠ざかっているような気がした。
「ワタシに意識を向けんでええ。」そのバンバの声は、確かにさっきよりも遠くから聞こえた。
「第一このワタシは本当のワタシではないんやから。あんたが作ったあんたの中のワタシや。あんたがバンバならこうするだろうと思って指示させてんねん。向こうのバンバは毎回同じ服を着てへんし、ヤクザの事も知らんかもしれん。でもある意味ではここのワタシも本当のワタシやねん。向こうのワタシは・・・いや、あんたもやけど、本当は全て分かってんねん。誰もが分かってて分からんフリをしてんねん。今のあんたの深呼吸みたいにな。本当はみんな分かってんねんけど、知らんぷりせなあかんねん。そうしないと生まれてきた意味がなくなってまうからな。あんたの中のワタシが分かっているという事は、実はあんたも分かってるって事やねん。ここのあんたも向こうのあんたと違ってるやろ?けど、どっちも本当のあんたや。わかるかなぁ・・・」
バンバの声はどんどん遠ざかり、もうほとんど聴き取れなくなった。俺は目の裏で自宅の寝室のベッドの上で、いつものようにうたた寝をしている自分の姿を完璧にイメージした。狭い室内、コーヒーの匂い、使い古した布団の心地よい質感、色褪せただらしない部屋着で、子供の頃から変わらず、右腕を上げて額に乗せる体勢を取って居眠りをしている・・・・。
ー(注)ここからの話は(43)の続きになります。そのまま読んでも問題ありませんが、分かりにくい場合は(43)の後半を読んでから、続けてこの先をお読み下さい。ー
<44 - B>
右腕のしびれを感じながら、俺は二度寝から目を覚ました。幼少から続く片腕を上げて寝るクセのせいで三十代半ばでもう、四十肩の症状が出始めてている。今は変な寝方をしたからか、首も痛い。俺は立ち上がって腕を回しながら、カーテンを開けた。外を見ると穏やかな日差しが入り、真夜中に鳴っていた車のクラクションによる町のざわめきはもう微塵も感じない。だがそのせいで、こっちは交通事故に巻き込まれたような夢を見た気がする。最近会った印象の強い人間達、ヒラタやバンバが出てきたがどういうストーリーだったかは全く思い出せない。・・まぁよくある事だ。CDプレイヤーに入れたままだったクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングの「デジャヴ」を取り出し、かわりにナッシュが在籍したホリーズのベスト盤をかけた。子気味良いリズムの「(Ain't That) Just Like Me」が俺のぼやけた意識を覚醒させる。全員が二十歳前後とは思えない演奏力だ。彼らはビートルズとほぼ同期だが、きっとあの時代にライブを見ていたら俺はホリーズの方に軍配を上げていたかも知れない。
時計を見ると、11時過ぎ。夕方から撮影スタジオに行ってサイゴウ元投手の取材をするわけだが、少し彼の事を予習していった方がいいだろう。俺は野球に詳しくないし、余りにもぶっつけで行って失礼があったら訊きたい事も訊けなくなる。そして沢口明菜に少しでも会えたなら、そのチャンスを逃す手はない。わざと時間を間違えたフリをして30分早く行ってみようか。ナミチに多少怒られるかも知れないが構わないだろう。例えすれ違う程度でも、沢口がマツシタの件を喋りたくなるような、何かしらの爪痕を残してやる・・人と人とは一瞬の出会いであっても、それで何が起こるかは全く分からないのだから。
(47)サイゴウ
一九三五年 七月二日
灰烏家の裏山から濛々と煙が立ち昇っている。一比己は家の納屋で銃剣の整備をしながらその方向を見つめている。・・・どうやらお篭り(オコモリ)が始まったようだ。当主の選別が拗れれば終わりは分からねぇ。今回は候補も多いしな。きっと長引くだろう。何かあった時の為に計画をもう一度見直して、武器の整備も怠らねぇぞ。よく眠り、飯を食い、女も食らっておく。最後になるかも知れねぇからな。とにかくお篭りからお披露目の儀まで、全てはあと数日で決まる。よく目を見開いて、耳をかっぽじっておくんだ。何かが変る時には、それに紛れてよからぬモノが入り込んで来る。俺はぬからねぇぞ。もう何が起こるかわかんねえんだから・・・。
2010年 12月23日
クリスマスを目前に控えた、この時期だけの特別な街明かりがちらほらと点き始めた頃、俺は人波を逆走するようにXNUMX撮影スタジオへと向かっていた。都心部だという事もあり、仕事帰りのサラリーマンはまだあまり見かけないが、授業が終わった学生たちの大群が街中に放出され、どことなく辺りの空気が浮足立っているように感じる。それは別に悪い事ではない。人は誰しも楽しむべき時間を愉しめばいいのだ。
ナミチには特に興味はないが、健三社長のところから出ているスポーツファイト・マガジンのバックナンバーでサイゴウ投手の記事を読んだ事で、彼に会うのは少し楽しみになった。しかし、あれほどの成績を甲子園で残していた人間が、どうしてプロで成功しなかったのだろう?アマレスのメダリストが、根本的に違うプロレスの世界で成功しなかったというのなら話は分かるが、いくらバットやボールなどの違いがあったとしても、怪我でもなければあそこまで実績のある投手が、まともに投げさせて貰えなくなるほど失脚する事などあるのだろうか?サイゴウくん自身は、この事に触れられたくないだろうが、そこはどうしても気になる所だ。そして沢口明菜。彼女とは何とかして接触しなければならない。何と言っても彼女がマツシタに繋がる鍵なのだから。しかしそれと同じぐらい、俺が興味を持っているのは明菜の母、牧村だ。セーラやバンバ等、周りの人間から話を聞いていて知った気になっていたが、実際には俺は一度も会った事がない。だが、彼女自身が以前の人物像と(変わってしまった)という事や、セーラとの長い関係、そしてバンバから聞いた、彼女がこの世界に来る前にいたという世界と(俺がうたた寝の中で経験した事)には、何らかの繋がりがあるような気がする。そういう意味では牧村が一番、有益な情報を持っている人間なのではないかと、俺は思っている。
目的地に近づくに連れ、喧噪が激しくなってきた。いくら発展した繁華街とはいえ、平日のこの時間にしてはいささかうるさ過ぎる。駅に向かっていた人々が、いつの間にか俺と同じ方向に集まり始め、サイレンの音や人を制止するような声も聞こえる。・・何だか妙な胸騒ぎを感じる。信号の向こうに変わった形の建物が見えた。あれが撮影スタジオの入ったXNUMXビルで間違いないだろう。さらに近づくと入口の前に救急車、消防、警察の車両が見えた。騒めきの内容が少し聴き取れるほどになり、俺は気づくと走り出していた。
「ダメですよ、入っちゃ」と、規制線の張られた所で若い警察官に止められた。
「関係者です」と俺は咄嗟に嘘をついたが「証明出来るものはありますか?入館証とか」と、年齢の割に仕事の出来る警官で簡単にはいかなそうだった。バッグをさぐって証明出来る物をを探すフリをしながら別の方法を考えている時に、入口から何人かの人間が外に出てくるのが見えた。その中に健三社長が見せてくれた写真に写っていた浅黒い長身の男性がいた。ナミチだ。
「ナミチさーん!」と俺は声を上げた。「ナミチさーん、すいませーん!」
ナミチはいぶかしがりながら俺の方に近づいてきた。
「えーっと、どなたでしたっけ?」
「池上セーラから紹介して頂いた者です、今日サイゴウくんのインタビューをする事になっていた」
「ああ、貴方ですね、随分早いですね、えーっと、まぁとりあえず、どうぞ」
若い警官はイマイチ納得いかないような顔をしたまま、規制線をズラして中に入れてくれた。俺はナミチに駆け寄って小声で訊いた。
「一体何があったんですか?」
「うーん、ちょっとこちらへ」
ナミチは俺の肩を抱きながらエントランスの方へと誘導してくれた。ビルのガラスは中から外は見えるが、外からは見えない仕様だ。中に入ると華やかな仕事をしているであろう人々が十数人ほど、一様に険しい顔で立ち話をしていた。ほとんどの人間がXNUMXのロゴが胸に入ったTシャツを着ていて一種の宗教団体のように見える。ナミチはそこで俺の肩から手を下し、ズボンのポケットからゴールドの名刺ケースを取り出すと、一枚抜き出して「改めまして、カメラマンのナミチです」と自己紹介をした。
「ああ、どうも」俺も慌ててバッグから自分の名刺を出してナミチに渡した。昨日急遽自分で作った、スポーツ記者名義の名刺だ。しかも所属として勝手に林屋出版の社名も拝借している。一応、用意しておいて良かった。
「運動部の記者さんなら言っても問題ないと思うんだけど、他の部署の人にはこれですよ」と言ってナミチは人差し指を口に当てた。
「はい、もちろんです。それで一体何が?」
「明菜ちゃんの母親である、マネージャーの牧村さんがさっき、このビルから飛び降りました」
「ええ!」と言ったあと俺は自分の口を塞いだ。「・・失礼しました、さっきとはいつですか?」
「本当にさっきです。サイゴウくんと明菜ちゃんの撮影がもうほぼほぼ終わりかけた頃、うちのスタッフが撮影の終了を告げようと控室に行ったのですが、牧村さんはいませんでした。いつもなら撮影中もずっと娘の様子を見ているんですが、開始早々に牧村さんの姿が見えなくなったのでおかしいとは思ってたんです。」
俺は絶句した。ナミチからは年齢と不釣り合いな甘ったるいココナッツのような香水が漂ってきた。
「・・・牧村さんの容体は?」
「今救急車で運ばれましたが、多分ダメでしょう。このビルは上から見るとコの字になっていて真ん中が中庭になっています。そこの地面はコンクリートで、屋上の6階からですから・・・」
「・・そうですか・・・沢口明菜さんは?」
「今、控室でスタッフから説明を受けています。まだ衣装だったからメイクを落として着替えたら病院に向かうと思いますよ。あ、サイゴウくんもそろそろ出てくると思うけど、この状況で取材を受けてくれるかは分からないから、悪いけど自分で交渉して貰えます?」
「もちろんです。」
サイゴウくんはいいとして、沢口はまだ10代の女の子だ。母親を突然失う事の衝撃は余りある事だろう。父親も亡くなっていると聞いているし、彼女にとって牧村は公私ともに唯一信用できる人間のはずだ。流石に俺も今の彼女に何か訊けるような図太さは持ち合わせていない。とりあえずサイゴウ元投手が来たら取材可能か訊いてみよう。・・・しかし、セーラはこの事を知っているのだろうか?まだ大々的にニュースにはなってはいないだろうが、彼女も知ったら相当ショックを受けるはずだ。側にいられない事が歯がゆい。
「すいません、そんな感じで大丈夫ですか?ご覧の通りバタバタでちょっと電話しなきゃいけない所もあるので」と、ナミチが眉毛をハの字にして言った。
「ええ、もちろんです、色々お世話になりました。えっと、ここでサイゴウ投手を待っていて大丈夫ですかね?」
「ええ、大丈夫ですよ、取材許可が下りたら3Fの会議室を使わせて貰ってもいいだろうし、この辺には個室の店も沢山ありますから」
「分かりました、ありがとうございます」
「ではまた、どもどもー」と言って、ナミチは電話を片手に去って行った。そのバブル期を引きずった独特の軽妙さは、健三さん達双子の兄だとは全く思えなかった。
ナミチ「そう、多分今キミが病院に行っても何も出来ないと思うよ。警察も来てるかも知れないし。第一、救急車で運ばれたって言ったって即死だろうから。・・いやね、アシスタントの岩嵜ちゃんいるでしょ?そう大学出たばかりのあの子。・・そうなんだよ、あの子が発見しちゃってさ、ぶっちゃけ到底助かっているような状況じゃなかったんだよ・・・うん、彼女も相当ショック受けててさ、ちょっと気分も悪くなっちゃったから近くの病院に行かせたんだ。うん・・だから帰るのは遅くなると思うけど・・・いや、こっちは心配しなくていいけど、キミもあまり考え込まず、静かにしておいた方がいいよ、うん、それじゃまた後で。うん、はーい」
セーラ「うん・・・お疲れさま」
俺が受付の裏辺りで電話をかけるフリをしながらスマホのボイスメモに状況を録音していると、エレベーターが開いて、サイゴウ元投手がお連れと思わしき男女二人と一緒に現れた。
大柄ではないが(スポーツファイト・マガジンには176cmと書いてあった)良質の筋肉を備えたいい体格をしている事はスーツの上からでも分かる。3人は立ち止まり、男性の方が「本日は色々ありましたが、撮影お疲れ様でした。またよろしくお願い致します」と言って、深々と頭を下げてから入口とは逆方向へと歩いて行った。女性の方はマネージャーらしく、その場で手帳のような物を開いて予定を確認している。俺はサイゴウくんの方へと近づいた。
「お疲れ様です。何か大変な様子ですね、取材の方はどうしますか?日を替えて頂いても構いませんが」
「お疲れ様です、そうですね、ボクも何が起きたかちゃんと聞いてなくて・・えっ、あれっ?取材?」とサイゴウくんが驚くと、横にいたジャケットを着て髪を後ろに束ねた若い女性が手帳のページを確認して「いや、ないですね」と言った。おいおい、ナミチ、どうなってるんだよ、そう思ったがこの世界、こういう事はままある。俺は低姿勢を崩さずに「ナミチさんから聞いていませんか?スポーツファイト・マガジンの者なんですが、現役だった頃の話を少し聞かせて貰いたいと思いまして・・・」と言った。
「あっ、ああー、そう言えばそんな事ナミチさんが言ってたな、現役の頃の取材をしたい人がいるって」そうサイゴウくんが言うと、横の女性が「サイゴウさん、またやりましたね。いつも言ってるじゃないですか、口約束で仕事を入れないで下さいって。」と冷たく言った。
「ああ、ごめんごめん、ナミチさんと話してる時に良いですよって言っちゃったんだよ」
「そういうの困るんですよ」
「いやー、ごめんごめん」
どうやらサイゴウくんは女性の尻に敷かれるタイプのようだ。
「大きな記事ではないので、お時間は取らせません。一時間ぐらいで終わらせるつもりですので、お願い出来ませんか?」と俺はすかさず割って入った。
「うーん、ナミチさんの顔を立てる為にも断れないよなぁ、何時まで空いてる?」
マネージャーと思わしき女性は眉間にしわを寄せながら「撮影も予定より早く終わりましたし、18時のエブリデイ・ニュースの出演時間まででしたら何とか」と言った。
「そう、テレ日はすぐそこだし、入り時間まであと一時間半はあるね。それで大丈夫ですか?」とサイゴウくんは言った。
「ありがとうございます。十分です。」
「じゃあ、近くに美味いサンドイッチ屋があるので、そこに行きましょう。撮影でお腹すいちゃって」
「分かりました」
マネージャーは持っていたコートをサイゴウくんに渡して「裏から出て下さいね、後で迎えに行きます」と言って自分はエレベーターに乗り直し、地下の駐車場へと降りて行った。サイゴウくんはキャメル色のチェスター・コートを羽織りながら「さぁ、行きましょう」と爽やかな笑顔で言った。
「徒歩でですか?大丈夫なんですか?顔さされたりしません?」と俺が言うと「甲子園の頃なら。」とサイゴウくんは笑った。「店はすぐそこなんです、それにこの辺の方は芸能人になれてますから、ボク程度では誰も騒ぎませんよ」
我々は表の喧噪を避けるように、裏口の方へと向かった。その時、後ろの方でポーンとエレベーターが到着する音がした。振り向くと大勢の人間に囲まれた沢口明菜だった。周りにいるスタッフ達の隙間から見える小柄な彼女は、少し前に雑誌やCMで見た時とは別人のように美しく輝いていた。そして俺がもっと驚いたのは、さっき自分の母親がこのビルから飛び降りたにも関わらず、沢口明菜は何事もなかったかのように笑っていたのだ。




