XNUMX(44)カチッ ~(45)エンブレム
(44)カチッ
肌寒さで目を覚ますと、瞼を開くのと同時に耳元で「カチッ」という小さな音が聞こえた。
どうやら俺は布団の上でうたた寝をしてしまったようだ。アリスは俺の右の脇に頭を乗せて眠っていた。痺れた腕を引き抜こうと動かすとアリスは目を覚ました。
「・・んん・・あれ?今何時?」
俺は壁掛け時計を見た。
「まだ朝の五時を少し過ぎたところだよ、いてて」
「・・そっか、もう電車は動き出してるね、あ、ごめん、腕痺れた?」
「ああ、大丈夫」
アリスは今、目を覚ましたとは思えないほど素早い動きでベッドから立ち上がると、リビングに向かった。俺は腕も頭もまだ痺れていて、上半身をゆっくり起こすので精一杯だった。若さというのはすべからく素晴らしい。
「ねぇー」アリスの声がする。
「このカレーの残り食べていい?」
俺はやっとの事で立ち上がり、絞り出すような声で「好きなだけ食べればいい」と応えながらリビングに向かった。
「やたっ」
アリスはもう例の着古したトレーナーに着替えていて、手際よくカレーとご飯を温め直していた。
「一緒に食べる?まだ二杯分ぐらいはあるよ」
「いや、俺はいい。残るなら残しておいてくれ。昼にでも食べるかも知れない」
「分かったぁ」
俺は寝間着のままキッチンでコーヒーを淹れた。そしてカレーを食べるアリスの正面に座った。
「電車賃はあるのかい?」
「うん、千円とちょっとはあるから、電車なら帰れるよ」
「そうか」50万盗まれた今の俺より持ってるじゃないかと、俺は自傷的な笑みを浮かべた。
「随分と急いでいるようだけど」
「うん、本当はもっとずっと一緒にいたいよ、お兄さんの事気に入っちゃったし、それにもう他人じゃないもんね?」とアリスは熟練売春婦のような、不敵な笑みを浮かべた。・・やはりあの行為は夢じゃなかったのか・・・まいったな・・俺は頭を掻いた。
「でも、日が高くなる前に帰らないといけないんだ。ボクは太陽の光に弱いんだよ」
「ああ・・」確かにアルビノに直射日光は禁物だ。
「今日は寝る前にシャワーに入って日焼け止めも塗ってないし。瞳の色素も少ないから昼間に歩くと、光が沢山目に入ってきて眩しくて何も見えなくなっちゃうんだ。そうでなくても網膜の病気を発症してるから遠くない未来に失明するかもってお医者さんに言われてるし」
「そうか・・・」何も14歳でこれほど困難な人生にならなくてもいいものを・・・。
「てか、このカレー本当に美味しいね!園のカレーより全然美味しいよ、貴方がカレー屋さんをやってたらボク通うのになぁ」
「園?」
「うん、ボクが住んでいる孤児院の事」
「ああ、そうか」
「GSW学園っていうんだけど。」
「GSW!?」
「うん」
・・・まさかそれは(幸運の世界)が運営している孤児院なのだろうか?
「そこは、宗教系の学園なのかな?」
「うーん、よく分からないけどお祈りの時間とかはあるよ、ご飯の前にも毎回って言うのを3回唱えるし」
やはり幸運の世界がバックに付いているのは間違いない。ああいう団体はどんな所にでも忍び込み、一見、非営利と見せかけて金儲けを企てるのだ。
「カレー食べてたから気づいたけど、カイエダモン・ターメってなんかスパイスみたいだね、カルダモンとカイエンペッパーとターメリック。あはは」
アリスは屈託なく笑った。その顔は子供そのものだった。
一人で大丈夫というアリスを玄関で見送り(彼は、帰り際にクリスマスが終わったらまた遊びに来ると言った)俺は少し寝不足だったがそのまま洗濯や部屋の掃除をした。それから遅い朝食として最後のカレーライスを食べた。その後、寝室兼仕事部屋でメールのチェックを行い、11時が過ぎた頃に携帯電話が鳴った。画面には知らない番号が浮かんでいたが、セーラが(ここ一週間ぐらいのうちに知らない番号から電話があるかも知れないから出るように)と手紙に書いていた事を思い出し、俺は通話ボタンを押した。
「もしもし?」
「どーも、どーも!」
「は?」
「どーもー、波平の波、地球の地、超一流カメラマンのナミチでーす!」
「ああ、ナミチさん、お世話になってます」
「えっ、あれ?おかしいなぁ、お話しするの初めてですよねー?」
ん?どうしたんだ俺は。
「・・確かにそうですね、失礼しました」
「お初ですどーも。セーラちゃんからお話し頂いたスポーツ・ライターの方ですよね?」
スポーツ・ライター?俺が?いや、しかしここは話を合わせておくべきだろう。
「はい、そうです。お世話になります」
「確か、サイゴウ君に選手時代のインタビューをしたいという事で・・」
「えっ、えー、はい、そうです、投手時代やなぜ野球の世界からキャスターに転向したのか?など、その辺をお聞きしたいなと思っていまして」と俺は話を合わせた。
「なるほどー。急だけど明後日なんてどうです?撮影の後、夕方五時ぐらいならオッケーだと言ってましたよ」
「サイゴウ投手に会えるんですか?!」
「ええ、もちろん!ナミチにお任せあれ。というのも雑誌の表紙の撮り直しがありましてね、少し前に明菜ちゃんとサイゴウ君で撮ったんですけど、どうにもサイゴウ君の表情が硬くてね・・・OKが出なかったんですよ、あっ、こんな事言っちゃまずいか、あははは、とにかく表紙の分だけなんで五時頃には終わるからその頃にでもスタジオに来てください。上手く行けば明菜ちゃんにもチラっと会えるかも知れないですよー」
「もしかして明菜って沢口明菜ですか?」
「そうです!今最も勢いのある新人女優、沢口明菜ちゃんです、カワイイですよー」
まさかサイゴウ投手だけじゃなく、沢口明菜にも会えるかもしれないなんて・・・これはマツシタの件を訊く、またとないチャンスだ。
「場所はXNUMXスタジオという所です。有名ブランドが所有しているスタジオなので検索すればすぐ出てきますよ、なにか困ったらナミチにお気軽にご連絡くださいね」
「あ、はい、では明後日よろしくお願いします」
「はい、よろしくーどーもー」
電話は切れた。
・・・おかしい、どうして俺はナミチという人間の事を知っている気がしたのだろう?前にセーラから聞いていたんだっけ?・・。
違和感を抱えたまま、俺は電話を持ったついでで、久しぶりに前の職場の仲間に連絡をした。同僚だった頃、そいつは主に暴力団の事件を取材していた記者だった。数年ぶりの俺からの連絡に驚いていたが、彼は部署こそ変わったものの、まだその筋にも十分詳しかった。俺が昨日遭遇した(出来事は話さずに)ヤクザ達の特徴を告げると、そいつはすぐに人物を特定して、情報をくれた。ドラゴンと名乗った男は、本名を辰巳龍一朗と言い、南関東を取り仕切っている新日本連合会の幹部だった。不動産、クスリ、そして宗教法人等のしのぎで成り上がった叩き上げの武闘派らしい。舎弟達は、元SPのヒラタと元マジシャンのニシムラでどうやら間違いはなさそうだった。そして現在の幸運の世界と新日本連合の関係も訊いてみたが、それについては詳しくないようで(確かに宗教は彼の専門外だ)GSWの現当主のキダがドラゴンこと辰巳と同時期に組に入った、いわば二大幹部の一人だという事だけは分かった。だがこれはいいネタだ、とりあえず相手の所属先やある程度の素性も分かったし事だし、もしこれ以上何かあったらケツ持ちである組の本体にゆすりをかければいい。ペンは剣・・いやドスよりも強しだ。俺は元同僚に礼を言い、果たされないであろう食事の約束をして電話を切った。しばらくすると、林屋健三社長から「直接話したい事がある」というメッセージがスマートフォンに届いて、急遽今日の15時過ぎに会う事になった。場所はどこでもいいと言うので、俺はマツシタと使っていた、いつもの古いファミレスを指定した・・・あれ?・・健三社長にはつい最近会った気がするが・・おかしいな、まだヤクザに打たれた麻酔が抜けてないのか?というか、アレは本当に麻酔薬だったのか?・・もっとやばいクスリじゃないよな。俺はとりあえずシャワーに入って頭をハッキリさせる事にした。
思考と記憶がスッキリしないまま支度をしていたせいか、俺は健三社長との待ち合わせ時間に遅れそうになっていた。急いで玄関でコンバースの紐を結んでいた時、ドアチャイムが鳴った。どうせ何かの配達だろう。
「はい」と言って、返答も待たずに開けた扉の向こうに立っていたのは、ヒラタだった。
「よう、随分不用心じゃねえか」
「・・何のようだ?」と言った自分の声が思ったよりも好戦的で、我ながら驚いた。それは改めて明るい所で見るヒラタの巨躯や圧倒的な威圧感に、防衛本能が勝手に反応したからかも知れない。
「まぁそうイキるなよ、オレはただこれを返しに来ただけだ、渡したらすぐに帰る」
ヒラタは分厚い封筒を出した。
「俺の金か?」
「おお、察しがいいな」
確かになぜそれを、すぐにバンバに貰った金だと思ったのか自分でも分からなかったが、俺はヒラタから素直に封筒を受け取った。
「どうやら昨日、ニシムラがあんたを送った時に持ってきちまったらしいな。まぁそんな大金を現ナマで持っているあんたもあんただが、アイツの手癖の悪さは異常だぜ。それを知ったアニキが激怒してさ、ニシムラの奴はエンコと前歯が無くなっちまったよ。オレはエンコだけで済んだがな」
明らかに小指が欠損しているヒラタの手にはグルグルと包帯が何重にも巻かれていた。
「すぐに医者に見せたんだが、組が雇ってるのは闇医者だからヤブなんだよ、止血しか出来やがらねぇ。しかしニシムラのヤツはもうトランプも上手く切れないかもな・・・まぁそんなわけでオレが代わりに来たってわけよ。」
同じ間違いを繰り返す人間にはいずれ、それを止めざるを得ない状況が訪れる。身内に厳しいドラゴンは、よく言えば律儀な昔堅気のヤクザって事か。
「悪かったな、それじゃ確かに渡したぜ」
「ああ。・・・あっ、アンタ」
「なんだ??」
「車で来たのか?」
「そうだ。まぁこの指で多少運転し辛かったがな、それがなんだ?」
そこで俺の口から自分でも思いもしない言葉が飛び出した。
「駅まででいいんだ、送ってくれないか?」
ヒラタは右の眉毛を上げて「・・ジョーダンだろ?」と言った。
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「猪本首相の殺害を止められなかった責任はオレにある」と、運転席のヒラタが言った。
俺の同乗の申し出を「ヤクザの車に自ら乗りたがる変わり者がいるとはな」と馬鹿にしながらも承諾してくれたアルファードの車内で、ヒラタは前職に就いていた時の話をしてくれた。最初俺は駅までで良いと言ったが、「ヤクザに2、3分乗せるようなチンケなまねをさせるんじゃねぇ」と怒られ、行き場所を伝えると偶然ヒラタの帰る方向とも合致していたので、そのまま健三社長と待ち合わせている店まで送って貰う事になった。(健三さんが窓際の席に座っていない事を祈るが。)
思いのほか長く時間を共有することで、俺のジャーナリスト病が出てきてしまい、無意識だったがヒラタに色々と質問をしてしまった。ヒラタは(今)の事については(ああ、とか、まぁな)程度の返事で余り応えてくれなかったが、昔の事については意外なほど喋ってくれた。思うに一つは、自分の昔話をしたところでドラゴンや組とは全く関係がないと考えているだろうという事と、もう一つは過去について話せる人間がヒラタの周りにいないからではないか、という事だ。多分このぐらいの年齢(予想では俺の十歳ぐらい上)の人間は、人生の折り返し地点に入っていて、往々にして誰かに昔話をしたくなるのかも知れない。
「確かSPだった時は首相の護衛をしていたって?」
「そうだ、警護担当主任を3年やっていた。あの事件の時もオレは朝から猪本首相に張り付いていたんだ。自分が担当している間に、まさかあんな事が起こるとは思わなかったぜ」
ヒラタが言っているのは約十年前に起こった「猪本首相銃撃事件」の話だ。現役の総理大臣が全くの素人の個人的な感情によって、改造銃で射殺された。俺も記者になりたての頃で会社からこき使われていたから、この事件は嫌になるほど取材に行かされてよく覚えている。
細い道でも怪我をしている指でアルファードをすいすいと運転しながら、ヒラタは「オレのチームは完璧だった。それまでに首相はもちろん、海外から来た要人、宮家の人達だって、蚊に刺されるほどの危険にもさらした事は一度もない。」と言った。
「しかしあの時だけは怠慢だったと言わざるを得ない。まず選挙の時期でお偉いさん達が外に出る機会が多く、我々護衛する人間の絶対数が足りてなかったんだ。そこら中で色んな人間が演説だ講演だといって、警護も分散してしまっていた。そしてあの時の首相の業務も地方での短い応援演説だけという事だったから、最小限の人間が付く事になった。守る側も守られる側も、(一応)というぐらいの共通認識だった。いくら首相が来るとは言えども、そもそも応援される候補者に人気があるわけでもなかったから、それほど人は集まらないだろうと思われた。事前に告知していたわけでもないし、蓋を開けてみれば、やはり見に来た一般人はけして多く無かった。言い訳だが都内の警備に慣れている我々には、その余りにも違う閑散とした景色だけでも気が緩む要因だった。それでも首相と人々との距離はしっかり確保出来ていたし、車も規制がしっかりとされていた。だが・・いや、だからこそ・・・」
ヒラタは一度もこちらを見ずに喋っていた。まるでフロントガラスに過去の映像が写っているかのように。俺は助手席から擁護するような返事をした。
「ああ、確かにあんな地方で殺傷能力のある改造銃を持った若者がいるなんて誰も思わない。犯人は顔を隠すわけでもなく、飄々としていて、まるで予備校帰りの学生のようだった。若い女性が夜道ですれ違ってもあまり警戒をするタイプではないだろう」
ヒラタは俺の言葉を無視して「その日の朝、嫁から娘が高熱を出したと電話があった」と言った。
「・・ん?アンタ結婚してたのか?」
「昔な。だから正確には元嫁だ」
「そうか」
「元々熱を出しやすい子でな、体調を壊すとすぐに高熱が出る。しかしその時はちょっと異常だった。痙攣をし始めてるって言うんで、すぐに救急車を呼べとオレは電話口で元嫁を怒鳴った。仕事が終わり次第すぐにオレも駆けつけると言った。実際その応援演説の護衛が終わればその日の仕事はもう終わりだったんだ。しかし集中出来なかった。娘の身に何かあったらと、オレは気が気でなかった。あの子は幼稚園に入ったばかりで、毎日通うのを楽しみにしていた。しかし身体が弱く、入園してからも休みがちでうまく友達を作る事が出来なかったんだ。」
「そうか・・・」俺は、この男がどうしてここまで赤裸々に身の上話を聞かせてくれるのか不思議になってきた。もしかしてあの電話男シオザキのように、ヒラタも余命いくばくの重い病でも抱えているのだろうか?ヒラタは続ける。
「全てはほんの些細なズレなんだろう。今日生きていて、今死んでいない。そんな事はただの偶然に過ぎない。誰にとってもな。・・オレはあの時、道路の反対側を歩いている親子に目がいった。娘と同じ歳ぐらいの女の子の手を引いた母親がいた。朝の電話であんなに強く嫁を怒鳴りつける必要はなかった。前日の様子はどうだったとか、まるであいつが娘の病気に気づかなったかのようにオレは彼女を批難した。自分自身は滅多に家に帰らないくせにな。そんな事を考えて10秒ほど警護対象から目を離していたら、突然後ろからバクチクのような破裂音がして、ふり返ると猪本首相はもう首元を押さえて倒れていた。」
俺は黙っていた。ヒラタは教会の懺悔室にいるかのように一方的に喋り続けた。普段は無口な男であろうが、もう言葉が出て来て止まらない様子だった。
「その後、オレ達の警護班は恐ろしいほど糾弾された。当然だ、本物の銃を発砲した事もない完全な素人の若者一人から、国のトップの人間の命を奪われたのだから。それを守る為にオレ達は全員特別な訓練を受け、経験も積んだエリート集団のはずだった。だから外からだけでなく、中からも強くバッシングされた。班は直ちに解体され、メンバーは全員一発免職だった。この事は公になってはいないが」
「ああ、その件は俺も当時、警察関係者に聞いてはいたけど、圧力があって記事に出来なかったよ。」
「事件直後も当然バタバタしていて、結局一時帰宅が出来たのは2日後だった。それでもすぐに病院に向かったが、娘はICUに入っていた。脊髄に菌が入ったとかで、命が助かったとしても脳に障害が残るかも知れないと言われた。オレは嫁に解雇が決まった事は言わなかった。それから1週間ほとんど毎日病院で付き添っていたが、娘は退院する事なくそのまま息を引き取った。通夜や葬儀をやって、娘が死んでから2週間後にはオレ達夫婦は離婚をしていた。結局オレは仕事でも私生活でも守るべき対象を守れなかったんだ」
車はいつの間にか首都高速神奈川1号横羽線を走っていた。平日のこの時間は車も大型トラックや配送車ばかりで空いている。もうすぐ下道に降りて、あと5分程度で着くだろう。遅刻どころか、健三さんとの待ち合わせ時間の15分前には到着する。
「その後、新日本連合に拾われたのか?」と俺は言ったがヒラタは特に応えなかった。何を考えているのか前を向き、車は自動運転の未来の車体のようにコースになった首都高に沿ってただ滑らかに走っていた。・・・正直ここまでパーソナルな話になるとは思わなかった。送って貰えた事はありがたかったが、今では俺は乗らない方が良かったかも知れないと少し後悔していた。親しい間柄でもない人間の、記事にも出来ない個人的な話など聞く必要はなかったのだ。立場も年齢も環境も違い過ぎて友人になれるわけでもないのに・・・そんな事を思っていると、突然ヒラタが今度は打って変わって明るい声を上げた。
「ああ、そうかそうか!なるほどな!」
「・・どうした?」
「そう、そのあとしばらくして酒場の用心棒みたいな事をして食いつないでいた時に、辰巳さんに拾って貰ったんだけどよ、別に拾って貰わなくなって良かったんだよ」
「ん?」
「暴力団だぜ?筋通してるって言ったって、どんな組でも法に触れてるヤクザもんには変わりねぇ。年下の人間をアニキとか言って媚びへつらって、クスリもやって、両手の小指もなくしてよ、そんな事する必要なんてなかったんだよ」
「ん、どうしたんだ、急に?ヤクザ稼業が嫌になったか?」
「そうじゃねぇ。嫌になったのは今の今まで気づかなかった自分自身よ」
「なんだって?」
心なしか車のスピードが上がっている気がした。
「誠心誠意、仕事を全うして3年間命をかけて守ってきた総理大臣をあっさり殺されて、4歳になったばかりの娘も病気で死んで、嫁も出て行って・・・そうなんだよ、オレは実はあの時にもう死んでいたんだ」
「いや・・気持ちは分かるが・・」
「どうして今まで気づかなかったんだろうな、馬鹿だなオレは。誰一人守れなかったクセに、自分の命だけは守ろうとしがみついて、終いにはヤクザにまで身を落としてよ・・・全く惨めな奴だよ、オレは」
車はもう1段階スピードが上がり、俺の背中は座席に押し付けられるような感覚になった。
「ヒラタ!」とオレが声を荒げると、そこで初めてヤツは俺の方に振り向いて、小さな声で「すまねぇな、付き合わせて」と言った。そして一気にハンドルを切り、中央分離帯を乗り越えると反対車線を走ってきた大型トラックに、正面から猛スピードで突っ込んだ。
全てが一瞬の出来事だった。大きなクラクションの音が轟き、アルファードのフロントに輝くエンブレムが10トントラックの下部にめり込むや否や、体験した事のない凄まじい衝撃が全身を貫き、ガラスは割れ、エンジンは破壊され、俺の身体は座席と一緒にバラバラに引き裂かれ、同じようになったヒラタの肉片や粉々になった車の残骸と混じり合いながら四方八方にはじけ飛び、血しぶきをまき散らしながら道路の上にバラバラと投げ捨てられていった。
どこからともなくバンバの「せやからエレベーター使ったらあかん、階段で帰れと言うたやろ」という声が聞こえた。




