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XNUMX  作者: 上兼一太
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XNUMX(42)ウエイトレス ~(43)ナッシュ&ヤング

(42)ウエイトレス


「コーヒーのおかわりは?」

 年齢の割に声の低いウェイトレスがコーヒーサーバーを片手にやって来たが、我々は静かにそれを断った。その女性店員は返事もせずに去って行った。・・確か彼女は、以前ここのコーヒーを不味いと言ったマツシタをレジで睨みつけていた娘だ・・・ん?、いや、その子で間違いないのだが、それよりももっと最近、俺はどこかで彼女を見かけたような気がする・・どこでだ?・・こことは違う制服を着ていた気がするのだが・・・あっ、そうだ、遊園地だ!、あの場末の遊園地で受付をしていた女性従業員、あれも彼女だ!・・そうか、こことバイトを掛け持ちして頑張っているんだな・・若いのに偉いじゃないか。・・しかしわからない、どうしてあんなに愛想がないのに接客業ばかりやるのだろう?適材適所という考え方をしないのだろうか?何もその仕事に就かなくても・・例えば本気で罰ゲームを嫌がるタイプのお笑い芸人のようだ。彼女は若く、シャツが張り裂けんばかりの胸を持ち、足も長いのだが、お世辞にも顔だちが良いとは言えないし、サービス業をやるにはとにかく愛想が悪過ぎる。それでも合格させた面接担当者にも問題はあるが・・・そう言えば、今ほどの売れっ子になる前のマツシタが(どうしてオレの周りには、顔が悪くて胸のデカイ女か、顔が良くて胸の小さい女しかいないのだろう)と嘆いていたな・・・俺はその事を思い出して、ふと笑みがこぼれた。

「どうかしましたか?」と健三社長が俺の顔を覗き込んだ。

「あ、いえ失礼しました。そう言えばさっき、亡くなったケンジさんには健三さん以外に身寄りがなかったとおっしゃってましたが、結婚などは一度も?」

「はい。我々の父はご存知のように3度結婚して愛人も沢山いましたし、長男の雄一はそのDNAをしっかりと受け継ぎ、バツイチですがカメラマンという職業柄、今も女性には困っていないようです。もう年金を貰うような歳なんですがね、ははは。そして我々双子の弟たちは、一目で分かるように私もケンジも女性にはずっと縁がありませんでした、たまたま私は運良く結婚出来ましたが、ケンジには家族はいません・・そういう相手もいなかったと・・・」

「あっ」

「?」

「いや、いたんです。そう言えば一人だけ。」

「ご結婚されていた?」

「いえ、そうではないんです。でも確か、一時期同棲をしていような・・・とにかく真剣な交際をしていた女性が一人いました」

「その方は葬儀に来たんですか?」

「いえいえ、そんな感じではないです。誰も知らないんです、私にもどういう方なのか全く見当もつきません。もちろん会った事もないですし、兄は名前さえ教えてくれませんでした。本当に存在していたのかも怪しいぐらいです。ただいつだか・・もう15年ぐらい前ですが、一緒に酒を飲んだ時に兄は酔っぱらったのか(一緒に住んでる女がいるんだ、もしかしたら結婚するかも知れん)とポロっとこぼしていました。」

「ほーう」

 俺は失礼ながら意外な気がした。あの、用心深くどんな人間であっても他人を信用しないようなモウリという男が、女性と一緒に生活をし、結婚まで考えていたとは。

「兄が(幸運の世界)に入信したのは、きっとその女性と別れたからです。思うに寂しさを何かで埋めたかったのでしょう」

「そうですか・・・」

 ・・そう言われると気の毒な気がした。生涯ただ一人の女性にフラれて、宗教に救いを求める・・究極的にモテない男の末路・・モウリという人間の意外な繊細さが垣間見えるエピソードだ・・・ん?いや、ちょっと待て、本当にヤツはそんな男か?他人の不幸を暴いて雑誌を作るような男だぞ・・細かいが繊細ではない、それよりも幸運の世界とモウリ・・何か違う接点を持っている気がする・・この違和感・・そうだ、バンバと会った時の会話を思い出せ・・そこに何かヒントがあるはずだ・・・確か会ってすぐ、彼女はこう言った(よう来てくれたな、ワタシごっつい忙しいねん、仕事もあるし、この歳になると急に友達が死んだりするやろ?)友達?あのバンバに?・・いや、まさか・・そんな・・だとしたら、これはヒントどころではないぞ!

「健三さん、お兄さんが女性と同棲していたのは15年前って言いましたよね?」

「えっ、ええ大体それぐらいです、それが何か?」

 バンバがクーデターで幸運の世界を追い出された時期と一致する。

「あの、変な質問ですが、お兄さんが交際していた女性は関西のご出身ではないですか?そうでなくても関西弁を喋っていた可能性はありませんか?」

「えっ?い、いやー、私はその方の名前や年齢も全く知らないので・・出身地となるとさっぱり・・」

「そうですか・・・」

「あっ!イタッ!」

 健三社長はビクっとして膝をテーブルにぶつけた。

「大丈夫ですか?」

「あ、貴方の言うとおり、関西の方かも知れません!今思い出したんですが、その兄が酔っぱらった時に(アンタのお腹がかわいいねん、狸みたいやわ)ってよく言われるんだよ、と惚気ていたんです」

「やっぱり・・」

 今日の俺は冴えてる、というか(あの体験)をした時の超感覚の明瞭さが、どこかに残っているのかも知れない。

「でも、どうして?・・・」

 健三さんはぶつけた膝を擦りながら困惑の表情を浮かべた。俺は強烈なパンチラインを告げる事にした。

「これはあくまで仮説ですが、お兄さんの元カノは(幸運の世界)の代表だった、万場幸代かも知れませんよ」

「まさか!!」

 健三社長はのけぞって、今度は頭を椅子の背もたれにぶつけた。二度大声を出したせいで、あのウェイトレスがこっちを睨んでいた。

「いえ、もちろん確証はありません。ただそんな気がするだけなんですが、ここだけの話、私は最近ちょっとしたコネでバンバ本人に会いました」

「えっ!あの人生きているんですか!!」

 それはそうだ、一般的には例の団体のクーデターからバンバは姿を消し、その後の消息を知る者はいない。テレビに出るほど有名な霊能力者だった彼女が、名前を変えショートヘアにイメージも変えてヤクザに囲われながら官僚やブルジョワ相手のカウンセラーをやっているなんて、誰も思いはしないだろう。健三さんが鬼籍に入っていると思うのも当然だ。

「はい、そしてバンバは私に、急に友人が死んだ、と言っていたんです。」

「し、しかしそれが兄だとは・・」

「確かにそれだけでは私もそうは思いませんでした。高齢になると同級生が亡くなっていくという当たり前の話ですが、バンバは開口一番わざわざ初対面の私にその事を言ったのです。彼女はおしゃべりですが、無意味な事は言いません。そこが普通の女性と一線を画すところです。実際私もその言葉をバンバから聞いた時には頭にモウリ・・あ、失礼、お兄さんの事は全く浮かびませんでしたが今、健三さんの話を聞いてかなり核心に近づいた推測が出来ます。私は記者です、いくつかのピースだけで全体像を作るのが仕事です。」

「確かに・・」

 健三社長は額の汗を派手な柄のハンカチで拭った。俺は残りのコーヒーを飲みきって、やはりさっきおかわりを貰えば良かったと思いながらも、自分の考えが喋りながら纏まるのを期待して続けた。

「まずバンバとお兄さんは、バンバが自分で作った団体を追い出された直後、またはその直前ぐらいに知り合ったはずです。これは健三さんがさっきおっしゃった、お兄さんから交際相手の話を聞いた時期から考えた物です。もしかしたら最初、バンバは素性を隠していたかも知れない、しかし二人の距離が近づき、隠し事が減って行く中で彼女は、自分が(幸運の世界)を作った事、そしてそこから追い出された事をお兄さんに話した。」

「は、はぁ・・」

「それを聞いたケンジさんはこう思ったのではないでしょうか?(キミの為に取り戻してあげる)と。・・いや、これはいささかロマンティック過ぎるかも知れないですね、(キミを追い出した団体なんてオレが潰してやる!)かも知れません。」

「ああ、兄ならそう思うかも知れませんね」

「とにかくどっちにしろ相手は強大過ぎるので、その為には内部に入らないといけない。信者の多い宗教団体なんて外からちょっとやそっと叩いたところで何のダメージもありません、お兄さんは記者としてそれを分かっていたのでしょう、だから内部調査の為に(幸運の世界)に入信したのではないでしょうか?」

「な、なるほど・・」

「そしてきっとケンジさんは、教団にバンバとの関係を気づかれるのを恐れて、別れてはいないものの同棲を解消し、バンバの方は実弟の・・・」

 俺は亡くなった弟が建てたホテルに匿われている事を言いそうになったが、それを言うと口止めされている現在のバンバの所在や状況を説明しなければならなくなるので、取りあえずその部分は言わない事にした。

「・・実弟と一緒に行方をくらませた。」

 健三社長は腕組みをして唸った。しかし狸のような体形でそれをするには腕が短く、すぐに外れた。

「いや、双子の私でもどうして兄が急に宗教に目覚めたのかサッパリ分からなかったのです。うちは仏教の家系、確か祖父の代が灰烏蓮宗だったと思うのですが、我々は特にその影響も受けていませんし・・・個人的な恨み、いや、目的で兄が幸運の世界に忍び込んだ、という考えは非常に納得が出来ます。確かにその方が自然だ・・しかし」

「バンバと恋仲だったとは考えにくい?」

「ええ、率直に言ってそこだけはイメージが出来ません・・・まぁ相手が誰であれ、兄が一人の女性と真剣に交際しているということ自体が考えづらいのですが・・万場ってあの万場ですよね?結構前ですが、よくテレビ番組で超能力とかを披露していた?」

「そうです。メディアで顔が売れてから、その資金を元に宗教団体、幸運の世界を作った」

「記憶ですと、綺麗な方でしたね、長い黒髪をなびかせて関西弁でまくし立てながら・・気が強そうな感じでした・・・あの人と兄が?・・うーん、それに第一、万場さんは今じゃ結構なお歳じゃないですか?私がテレビで見てたのだって子供の頃ですよ?我々とだって多分20歳ぐらい離れているんじゃないかなぁ?」

 俺は言いたかった。もし今の88歳のバンバと健三さんが並んだら、仲睦まじい夫婦に見えますよ、と。実際、15年前のバンバだったら優に50代には見えただろう。双方を知っている俺からすると、何より二人がお互いのどこに惹かれたのかという事の方に興味がある。もし次にバンバに会える機会があったら訊いてみようか・・いや、怒られそうだな。俺はテーブルに置かれている葬儀の集合写真をもう一度見直した・・・もちろんそこにバンバの姿はない。

「お葬式に出席された方はここに写っている人で全部ですか?」

 そう俺が訊いても健三社長は心ここにあらずという感じで、自分の中で色々な事が整理できていない様子だった。

「ああ、はい、兄は親戚とも縁が遠かったので来てくれたのはこれで全てです・・あ、通夜の方は仕事関係の人間が何人か・・ほんの数人ですけど来られましたよ、雇っていたライターの方とか・・」

「その中に、小柄な老婦人はいませんでしたか?」

「老婦人?・・・いや、うーん・・・あっ、いましたね、一人。昔、兄の会社で事務をやっていたとかいう小柄なおばさんが。」

 事務なんて嘘だ。

「ショートヘアで白髪でした?」

「ああ、そうでしたそうでした、お焼香だけあげてすぐに帰られましたが。・・えっ、まさか」

「ええ、それが多分、万場幸代ですよ」

「そんな!」

 例の女性店員が見かねて(他のお客様もいますので、大声はやめてください)と言いに来た。健三社長は謝っていたが、他の客といっても二人だけで、そのどちらもが対角線上の扉のある喫煙席の中にいた。

「帰ったら芳名帳をご覧になってみて下さい。もしオチアイユキエと書いてあったら、それが間違いなく万場です。」

「オチアイ・・そうですか、確認してみます・・・しかし、二人は最近まで親交があったのですかね?別れていなかったとか・・」

「うーん、そこは分かりかねますね、とっくに別れていたのかも知れないし、別れているようで別れていなかったのかも知れない、またはただの友人になっていたのかも知れない。男女の事はその二人だけの取り決めみたいなものがありますから」

「そうですね・・・あ、いけない!もうこんな時間だ」

 健三社長はあわてて写真等をバッグに入れながら「すいません、妻と待ち合わせているんです。もうすぐ結婚記念日でして・・それにクリスマスですから、そのプレゼントを買いに」

「そうなんですね」

「こちらからお呼び立てしたのに突然バタバタしてすいません、ちょっとでも遅れると彼女の機嫌が悪くなるので」

「どーぞどーぞ、私の事はお気になさらずに。・・あっ、そう言えばお兄さんの右目は結局戻ったんですよね?最後は綺麗なお顔でお別れが出来て良かったですね」

 そこで健三社長の動きがピタッと止まった。

「あの・・何の事ですか?兄の右目?・・兄は昔から両目とも何の問題もありませんが?」

「えっ?」

「いけない遅刻してしまう、今日はありがとうございました。いやいや貴重なお話を聞かせて貰えて良かった、流石、一流の記者さんだ、我々とは想像力が違う。それではまた!」

 そう言って健三社長は二人分のコーヒー代を支払って足早に店を出て行った。俺は狐につままれた・・いや、狸に化かされたような気分になった。



(43)ナッシュ&ヤング


 一九三五年 六月三十日

 

 村は静けさに包まれている。お清めの祈りが終わり、お篭り(オコモリ)が始まろうとしている。開始までの手順は口伝で当主にのみ伝わっており、灰烏家の人間達でも知らないが、お清めが終わった二日後の丑の刻からお篭りが始まる事は村の人間も知っている。今は嵐の前の静けさだ。森林の中で鈴虫が鳴いている。草が濡れ、風が湿気を帯び、土の蒸した匂いがする・・・ガキの頃は良かったと、いつもの小高い丘の中心で大の字に横たわり一比己は思う。本当に自分が幸福であったと気付くのは、いつものその時間が終わってからだ。大人になれば自由になれると思っていたが、そうじゃねぇ。金も時間もあるが、いつの間にかしがらみが重泥のように足にからみついて身動きが取れなくなった。それでも当主に選ばれなければこの村を出ていかねばならない。そうしなければ間違いなく自分が殺される。これは言わば、生死を賭けた戦争だ。俺と村との戦争。負けは許されねぇ。


 2010年 12月2x日


 普段とは違うおかしな出来事が起きた時、そこに意味を持たせる人間とそうでない人間がいる。俺は今、真夜中の3時半にベッドの上で漫然と考え事をしている。というのも、一時間ほど前に裏の駐車場の方から突然、大きなクラクションが鳴り響き、心地よい眠りから叩き起こされたのだ。最初俺は自分の車の可能性があるかも知れないと、外に確認しに行こうか思ったが、その前に窓から覗いてみると、駐車場よりももっと手前の、私道に入る道路の角に一台の車が路上駐車していて、どうやら音はそこから鳴っているようだった。道幅も狭く角に郵便ポストが設置されており、その場所には今まで車を停めるような人間はいなかった。だがおかしな事によく見てみると、あったはずのポストは撤去されていて、車は丁度そのスペースに停車していた。・・・ポストがなくなったのはいつからだろう?俺は一瞬、この騒音は新日本連合の嫌がらせなのかとも思ったが、車はベージュの日産マーチで、中には誰も乗っておらず、どう見てもヤクザが使うような車種でもなかった。それに堅気の俺に金を返しに来るような連中だ、一般市民を夜中に叩き起こすような事はしないだろう。週末の早朝から大声を上げて走り回る政治家の宣伝カーなどの方がよっぽどタチが悪い。サラリーマンが寝坊できる唯一の朝をぶち壊して何が国民の味方か。

 その後も、クラクションはブブゼラのように誰が聴いても不安になるほどの大きなボリュームで20分ほど鳴り響き、通報を受けたであろう警察官が二、三人駆け付けたものの、どうする事も出来ずに右往左往としていた。そのうち野次馬も集まりだし、それからしばらくして何かの業者のような人間が現れ、故障していると思われる車に何らかの修理を施し、音は止まったものの持ち主らしき人間は遂に現れず、この辺りがいつもの落ち着きを取り戻すまでには、またしばらくの時間がかかった。俺は案の定眠れなくなり、小さな音でクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングの「デジャ・ヴ」をかけながら、昨日の健三社長とのやり取りを脳内で反芻していた。元バーズのデヴィッド・クロスビーと元バッファロー・スプリングフィールドのステファン・スティルスとニール・ヤング、そしてイギリスから参加した元ホリーズのグラハム・ナッシュ、米英の超一流ミュージシャン達による、本当のスーパーグループが生み出した1970年の奇跡の名盤。いつ聞いても素晴らしく、聴く度に新たな発見のあるアルバムだ。

 ・・・健三社長が持ってきた写真に映っていた女性は間違いなくセーラだった。セーラがモウリに実際に会ったかは分からないが、会いに行った事には間違いないだろう。それは例の自分の記事を取り下げさせる・・のは、もう雑誌が出た後だから無理な話だが、訂正記事のような物を次号で掲載するようにと交渉しに行ったのかも知れない。絶対ないとは言えるが、残念ながら彼女がモウリを殺す動機はある。・・そうでなくても、モウリの死因がまだ確定していないのならセーラに警察の手が伸びる可能性もある。彼女が重要参考人である事には間違いない。・・・しかし、なぜ健三社長は兄であるモウリの目玉が両方とも(前からある)と言ったのだろうか?・・あれほどの衝撃的な出来事を、俺に特別だと言って話してくれたのに、その事自体を根こそぎ忘れるなんていう事があるだろうか?最も近い身内が突然亡くなったショックによる急性健忘症だろうか?・・それにしては奥さんとの結婚記念日はきちんと覚えていた・・・。そもそも俺が今感じている違和感は健三社長に対してだけではない。宇宙空間のような場所から地元のK町に辿り着いて、戻って来てから、ずっと居心地の悪さのようなものを(この世界)に感じている。あの時、ベッドの上でうたた寝をしていたはずなのに、帰って来て空中から見た俺の身体は、布団の中に入って何事もなかったかのようにぐっすりと眠っていた・・175センチ70数キロの俺を、小柄なアリスが移動させたとは思えない。目が覚めた後、金縛りの間に行われたアリスとの不適切な行為の感触や手応えもなかった。・・それを言うならアリスという人物は本当に実在しているのだろうか?ドラゴン達に投与された睡眠薬による幻覚だったのではないだろうか?・・・そしてヒラタ・・確かに指はくっついていたが、いくら名医にすぐ診せたとはいえ、前日に切断されたはずの指に切り傷程度の包帯を巻いて動かしていた・・そんなバカな・・・もしかして切ったフリか?・・確かニシムラは元マジシャンだと言っていた・・まさか、俺を恐怖に陥れてバンバの情報を聞き出す為に奴らが仕掛けたトリックだったのか?・・・そう言えば、ニシムラに盗られたはずの金もきっちり全額戻ってきた・・モウリの目は戻ってきたどころか、最初からあったと健三さんは言った・・・目も指も金も、無くなったと思った物は全て元通り、何事もなかったように。・・・なかった?なかったといえば、あのポスト・・家の近くのポストはいつから無くなっていたんだ?バンバに会いに行った時もその前を通ったはずだ・・その時はあったか?・・いや昨日だって、駅に向かっていたんだから見ているはずだ・・・どうだった?あったのか?

 アルバム7曲目の「アワ・ハウス」でグラハム・ナッシュが(五分間だけ頭を休めて・・)と歌っている時、俺は小さな稲妻のようなものが背筋に走るのを感じてベッドから飛び起きた。そしてCDコンポの近くまで行って、立ててあったアルバムのジャケットを手に取り、何百回も見てきたそれをもう一度改めて確認した。開拓時代のカウボーイの様ないで立ちで写るメンバー達のモノクロ写真の上部に、オレンジ色の文字でクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング「デジャ・ヴ」と書いてある・・・やっぱりだ・・なんてこった・・ナッシュ&ヤングだ・・俺が二日前までいた世界でのバンド名は、クロスビー、スティルス、(ヤング&ナッシュ)だったのに。

 

 例えば、自分の立っている場所で足の形を型取って、目を瞑ったまま思い切り上にジャンプした時、着地地点は飛ぶ前の足の形から必ず少しズレているだろう。俺の今いる場所はまさにそんな所だ。コンセントや紐の上に足が乗っていると、どうにも気持ちが落ち着かないが、それに似た感覚で、自分がいるべき場所からほんの少しズレて、アウトラインを踏んでいるという違和感がある。多分俺は(あそこ)からうまく戻って来れなかったのだ、余りにも高い所から着地をして足半個分ほど外れてしまった、そんな気がする。・・牧村さん、同情しますよ、これがアナタを悩ませていたものだろう?

 俺は一度眠るのを諦めてリビングに行ってコーヒーを淹れた。もうすぐ5時になる。会社へ行く者、学校へ行く者、朝になってから帰宅する者、それぞれの一日が始まろうとしてる。人間は今この瞬間しか認識できない生き物なのに、今日という一日が昨日の延長線上にあるという事を誰も疑わずにいる。目の前しか見れないのに後ろや横ばかりを気にしている。俺は「いや、学校はもう冬休みか?」と独り言を言った。

 仮定したように、自分が元のいた世界からズレた場所にいるとすれば、それは多分、ほんの紙1枚分ぐらいのズレだろう。ノートの端に描いたパラパラ漫画のほんの1ページ先か後。書いた絵の動きはしっかりと見比べないと違いは分からない。多分鈍感な人間だったら、ポストがない事もヤング&ナッシュも勘違いで済ましてしまうはずだ。俺だって1年前だったら気づかない。だが今は耳をすませば、警報がしっかりと聴き取れる。クラクションではない、鳥のさえずり程度の小さな警報。起った後に鳴る警報と、起こる前に鳴る警報がある事も分かる。牧村は俺とは違い、大きく離れた場所から来てしまった。それはまともな神経であればとても耐えられるものではないだろう。彼女がバンバやセーラに助けを求めたのも無理はない。

 俺はマグカップを手に部屋を見渡して、このリビングでアリスと共有した数十分という時間の残り香を探した。置手紙は捨ててしまったし、着ていた物は洗濯してしまった。それこそ科捜研にでも来てもらって分析して貰わない限りは、もう彼がいた証拠はない。もしここがアリスのいない世界だとしたら、元の世界とのズレは自分が思うよりもずっと大きいだろう。これから俺は新たに起きる出来事だけでなく、それまでに起きた出来事とのすり合わせもしていかなければならなくなる。・・面倒だな。・・俺はコーヒーを飲んだマグカップを洗い、歯を磨いて仕事場兼寝室に戻った。ベッドの上に寝転び、今日のスケジュールについて考える。・・今日は夕方から撮影スタジオに行って、サイゴウ元投手を取材する。実際には野球にもサイゴウくんのセカンドキャリアにも俺は全く興味がない。目的はそういう話をしつつ、サイゴウくんが持っていた(アレ)について探る事だ。いつどこで、どんなタイミングで(アレ)を失い、天才は凡庸な投手になったのか。元を正せばマツシタに、子供の頃持っていた能力アレはなぜ大人になると無くなるのか?という話をされた所から全ては始まっているのだ。それを追求する事がマツシタの死因解明にも繋がってくるのだろう。文脈は何が起ころうとパナマ運河のごとく流れている。そしてその件に直接関係していると思われる人物、沢口明菜にも今日会えるかも知れないのだ。俺は大きな仕事の前に感じる武者震いのような物を久しぶりに体感した。そして少し笑った顔のまま、またベッドの上で眠りに落ちた。

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