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XNUMX  作者: 上兼一太
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XNUMX(36)ネゴシエーション ~(37)アリス

 (36)ネゴシエーション


 一連の流れ全てがスローモーションに見えた。まず、ほくそ笑んだニシムラがカードをめくり、そこにいる誰もが図柄を認識したコンマ数秒後、ドラゴンは誰よりも早く動き出し、腕相撲で力の差がある相手を簡単にねじ伏せるがごとく、垂直に立っている匕首の刃をヒラタの小指に向けて一気に引き倒した。巨漢の格闘技経験者らしい骨太の指が、まるでまな板の上のキュウリのように第二関節辺りで簡単に切断された。そして短刀と指が十字に交差する箇所から勢いよく血が噴き出し、そのしぶきが俺の顔面めがけて飛散した。両手を縛られている状態では、血液が目や口に入らないように閉じるぐらいしか出来る事はなかった。そして室内に轟く野太い叫喚、永遠に感じた一瞬の地獄。

 ドラゴンは玩具に飽きたように冷たく「奥で止血して来い」と、ヒラタに告げた。強面の大男は苦痛に顔を歪めながら、切られた自分の一部を持って暗闇の方へ消えて行った。はたして奥には別の部屋があるのか、この部屋の奥の方という意味なのか、身動きの出来ない俺は少し先を見渡す事も出来ず、空間や間取りを把握する事は出来ない。何より全体的に光量が少なく、俺達のいる場所だけが天井から電球一個分ぐらいの灯りに照らされていて、まるでドラマで見かける灰色の取調室のような部屋なのだ。残念ながらテーブルの上にカツ丼はなく、ただどす黒い血が水溜りを作っていた。

 ドラゴンはニシムラから受け取った布で、ドスの刃を拭き「あんたやるな、普通は歯をガタガタ揺らすか、足を震わせるか、ションベンちびるかだ。・・確かに少しは死線を越えてるらしい」と言いながら、鞘に戻した。

「・・ああ、ソマリアにいた時には、目の前に自爆テロの犠牲になった仲間の肉片が吹っ飛んで来た事があるよ」と、俺は応えた・・・ライオネル、気が利く良いヤツだった。

 3年半前、俺は南アフリカで当時、内戦の最前線地区になっていた首都モガディシュで取材を行っていた。ライオネル・スモールバーグはそこで知り合った現地のコーディネーターで、英語も喋れた彼はまだ若く、将来有望な21歳だった。日本のアニメが大好きで、日本人である俺の事も気に入ってくれたらしく、(いつか日本のあんたの家にも遊びに行くよ)と言いながら、献身的に仕事を手伝ってくれた。2週間ほど滞在していたある日、今日、もしかしたら大統領がケニアに逃亡するかも知れないという情報が入ってきた。ホテルで待機していた様々な国のジャーナリスト達はそれを聞いて色めき立っていたが、俺はタイミング悪く前日から高熱を出していて、とても取材に行けるような状態ではなかった。するとライオネルが、自分が代わりに行くのはどうか?と提案してきた。あんたのように上手く出来るか分からないが、何とか写真ぐらいなら撮ってきてあげるよ、と言ってくれた。俺はその案を受け入れ、特別手当を出す約束をして、彼に一番簡単に撮影できるカメラを貸出した。大統領は闇に紛れて逃げ出すだろうという話になり、日が傾いてからライオネルは、カナダ人のジャーナリスト達の車に同乗して行ってくると言った。俺はまだ熱が下がらずフラフラではあったが、ロビーの近くまで彼を見送りに行った。(これでオレも記者の仲間入りだね)と言って、彼が笑いながらホテルを出て行った数秒後の事だった。突然、外でとてつもない爆発音がして、入口の扉は吹き飛び、ロビーの窓も衝撃で割れ、ガラスや家具やモルタルの破片が四方に散乱した。俺はフロントから離れたエレベーター付近にいて、爆音と怒号に驚いて振り返った。ホテル内の人々は頭を押さえて屈んだり、寝そべったり逃げ惑ったりしていた。俺はそれらを避けながら無意識に煙が立ち込める出口方面へと歩いて行った。すると足元に何かが転がってきた。それは見慣れたチェックのシャツが張り付いた、ライオネルの上半身の一部だった。後から聞いた話では、アッサラーム推進派が現地に来ている多国籍軍に対する威嚇の意味で、外国人車両を無差別に狙ったテロ行為だった。チョコレート菓子を売りつけるフリをして爆弾を持ってきた自爆テロの犯人は、11歳の少女だった。たまたま標的にされたカナダ人クルーは全滅。ライオネルは現地人でありながら、俺の代わりに巻き添えを食らった。緊急帰国の命令が出ていたが、俺は取材期間が終わる前に何とかライオネルの家族を見つけ出し、外国人を手伝っていた人に出る保険という事にして、自分が貰う分のギャラを全て渡した。ライオネルは母親似だった。彼女は英語がしゃべれず、息子さんは俺の身代わりになったのだと言って何度も謝ったが、理解しているのかどうかはよく分からなかった。俺は帰国して、もちろんライオネルの事には一切触れずに記事を書いたが、皮肉にもそれが日本記者クラブの海外部門賞を獲得した。お蔭でフリーランスとしての仕事は軌道に乗ったが、それ以来俺は海外の取材に行っていない。そしてそんな欝々とした気持ちのまま働いている時にマツシタと再会したのだ。

「あんたは確かにただの堅気じゃない。だからこそ、警戒すべきだとオレの勘が言っている。さぁ、バンバと何を話していたのか教えて貰おうか?」

 ドラゴンは俺の左側に回り込むと、張り付くように目線の高さに合わせて屈んだ。ニシムラは黙ってテーブルの上の血を拭きとっている。

 バンバさんには部屋での出来事、会話の内容はお互い絶対に他言無用だと念を押されていたが、それ以上に俺は自分のパーソナルな事をこの人間達には知られたくなかった。そして正直に話したところで、ああいう類の話をこういう輩が素直に受け入れるとは思えない・・・ああ、さっきのホテルのラウンジのように、小さなボリュームで何かBGMでも流れていればいいのに。ここは灯りも少ないが、音が無さすぎる。だから余計、相手の動作一つ一つに過敏になってしまうのだ、今なら何でもいい、誰が好んで聴くのかよく分からないオルゴール・バージョンのサザンでも我慢する。ドラゴンは息がかかるほど間近で、俺の横顔を見つめながら無言の圧力をかけてくる・・・。

「・・春のアナタ」と俺は、苦し紛れに言った。

「?」

「(春のアナタ)の話をした」

「なんだって?」

 イラつくドラゴンを見かねて、ニシムラが口を開いた。

「今流行っている韓国ドラマですよ、主演俳優のヤンさまっていうのが中高年に大人気で・・」

「ああ、ヤンさまか!それならオレも知ってるな」とドラゴンが応えた。

 上手くいった、と思った。俺は相手に考えさせる時間を与える為にあえて倒置法でしゃべったのだ。それから正解を思い出す事によって、あたかも自分が欲しかった答えがそれだったと錯覚させるという会話術を使った。そしてすかさずたたみ込んだ。

「そうなんだ、バンバさんはヤン様の熱心なファンで、一方的に春のアナタの話を聞かされたよ、しばらくすると、そのドラマの放送が始るからと言って10時近くになったら突然部屋を追い出された。もちろん最初に目的だった預かり金は渡しているけど、彼女との会話はそんなものさ」

 ・・嘘はない。俺はジャーナリストになって独り立ちする前に、ネゴシエーションの訓練も受けていた。海外で人質になる可能性もあるからだ。嘘をつく時もっとも大事な事は、隠したい部分以外は全て事実を話す事だ。二人は俺を見て静止している。

「・・こいつ、ナメてますね」とニシムラが言った。「韓国ドラマって・・・」

 ドラゴンは真横でじっと俺を見ている。しかしここで追撃するのは間違いだ。考えさせろ。

「・・確かにナメてるな・・」とドラゴンが言った。・・・失敗したか?俺の小指も無くなるのか?

「だが・・・ニシムラ、もしおまえが他の組の捕虜になって組の秘密を吐かされそうになったら、韓国ドラマの話なんかするか?」

「いえ・・」

「そうだよな?嘘をつくなら普通、もう少しもっともらしい嘘をつくもんだよな。この場合は(俺もバンバに相談があったんです、最近夫婦仲が悪くてその相談をしてました)とか言うだろうな」

「確かにそうですね・・」

「突然ヤン様の話なんか出てこねぇよ、普通はな。」

「ですね・・」

 俺は少しでも安堵した表情をしないようにと奥歯を噛みしめながら、物事の進む方向が決まるのをただじっと耐えて待っていた。表情筋の緊張のせいか、寒いのにこめかみの辺りから一滴、頬に向かって汗が垂れてきた。するとドラゴンは、俺の顔を伝ったその汗をベロリと舌で舐め取り「うん、嘘の味じゃねぇな。」と言った。俺は全身に鳥肌が立ち、反射的にドラゴンの方を見てしまった、ヤツの舌はパックリと先が二つに割れたスプリット・タンだった。

「ニシムラ、携帯で番組表調べろ」

「あ、はい」

 ドラゴンは立ち上がり、ニヤリと笑いながら「オレは嘘つきの味が分かるんだよ」と言った。この状況になって初めて、俺は自分が恐怖を感じている事に気がついた。

 ニシムラが携帯をいじりながら「はい、確かに今日(春アナ)は10時から放送しています」と言った。

「やっぱり嘘は言ってねえ。だがな・・」とドラゴンが続けようとした瞬間、ニシムラの持っていた携帯が鳴った。

「あ、坂口のアニキからです」

「ちっ、貸せ」ドラゴンは携帯を掴んで少し離れた。

「はい・・はい・・わかりました、すぐ行きます・・」

 俺は縛られている両足の踵を何度か上げて、感覚を確かめた。・・問題ない。その後、後ろ手に縛られている両手を開いたり閉じたりして指の感覚も確認した。左手が幾分鈍感になっているような違和感があった。

 ドラゴンはニシムラに携帯を放り、「アニキが終わったから女を送れだとよ、あいつここをラブホか何かと勘違いしてやがんな。」と言った。

 ここを?・・もしかしてここは、まだあのホテルの中なのか?

「ニシムラ、その兄ちゃんにまた注射しとけ。オレはアニキの車回してくっから」

「はい」

「素人さんなんだから丁寧に扱えよ。あんちゃんツイてたな、また今度(話しの続き)聞かせてくれや」

 そう言ってドラゴンは、あっさりと闇の中に消えて行った。

 ニシムラはどこからか覚醒剤に使用するぐらいの小さな注射器を出して、俺の方に近づいてきた。

「ちょ、ちょっと待ってくれ、なんだその注射は」

 取り乱した俺に対して、ニシムラは「軍用でもスタンガンっていうのはすぐ起きちゃうからね、さっきあんたをここへ運ぶ時にもこれを打ってるんだよ。左腕が少しダルいだろ?でもすぐ治るから。大丈夫、睡眠薬の一種で中毒性もないし、後遺症もほとんどないよ。さっきは左に打ったから今度は右にしとこうか?」と言った。

「わけのわからない薬を二回も打たれるのはごめんだ、紐をほどいてくれれば勝手に出て行く、もちろん今あった事は誰にも言わない」と俺は言った。

 しかしニシムラは眼鏡を直しながら「ああ、今日の件はサツにも誰にも言わない方がいい。言えば面倒な事になるのはあんたなら十分わかるだろう。でも悪いな、ここの場所を組員以外に知られるとまずいんだ、ちゃんと送り届けてやるから、安心しておやすみ」と言って、縛られた俺の腕に躊躇なく注射針を打ち込んできた。ほどなくして視界は暗闇に包まれ、自分の意思に反した暴力的な眠りが訪れた。



 (37)アリス


 ・・・雨の音が聴こえる。瞼は重く、身体は冷え切って強張っている。このまま何もかもを投げ出してもう一度深い眠りに入ってしまいたい気持ちと、今起きなければもう二度と起きられないかも知れないという恐怖と戦いながら、俺は何とか片方の目を開いた・・・そこは見慣れた青いプジョーの中だった。

 しかし身体をゆっくり動かしながら車内の電気を付けて状況を確認してみると、おかしな事だらけだった。まず自分は助手席に座っていて、持ち物一式、バッグやカメラや財布は、上着(M-65)と一緒に後部座席に無造作に置かれ、携帯だけはシャツの胸ポケットに入っていた。絶対に自分では入れない場所だ。車のキーは挿されたままで、ガネちゃんのキーホルダーが不吉な笑顔で揺れている。もうどこも縛られてはいなかったが、腕が両方ともダルく、シートベルトを外すのにも苦労した。夜の闇と霧雨で分かり辛かったが、窓を少し開けてみると、車は自宅近くの駐車場に停まっている事が分かった。しかし自分の・・いや、セーラが契約してくれた、本来この車が入るべき番号のスペースからは2つズレていた。・・・という事は、誰かが俺を助手席に乗せてナビの経路案内の記録を調べて、ホテルに来る前の出発地点にとりあえず車ごと送り届けた、という事なのだろう。きっと運転手は、最新のナビでも駐車場内のどこに契約しているかまでは分からなかったから、適当に空いているスペースに停めたのだ。・・この面倒を引き受けたのはニシムラか、指の減ったヒラタか、はたまたあそこにはいなかったもっと下っ端の組員か・・・。

 何というか、全てが夢だったように感じる。モニュメントのようなホテルも、そこに住む著名な霊能力者で(幸運の世界)元代表のバンバも、それを匿っているオールド・スクールなヤクザのドラゴンも、個性的で気の毒な部下たちも、その一人とのエレベーターでの格闘も、ラウンジの高級なエスプレッソも、バンバが淹れた不味いコーヒーも、それと一緒に出てきた美味い手作りドーナツも。とにかく全部が夢の中の出来事で、まるで宇宙人にしばらく連れ去られていたような感覚だ。・・宇宙人ならまだ良かった、暴力団に自宅周辺を把握されてしまったのは痛い。ジャーナリストとしては動きが制限されたような気分だ。とりあえず引っ越すべきだろうか?どうせ地元に行く用事があるから、もういっそこっちでの生活を全て引き払ってしまおうか・・・。

 俺は変な睡眠薬のせいで重たくなった頭と両腕で、何とか本来の駐車スペースまで車を移動させた。近いとはいえ、ここから雨の中を傘なしで歩けば、家に着くまでにはそれなりに濡れてしまう。身体と精神は疲労に蝕まれていて、オマケに怪しい薬の副作用まである。12月の後半に上着を着ないまま寒い車内に放置されていたせいで寒気もしている。早く帰って温かい風呂に入りたい・・・走って帰るしかないか・・時刻は、深夜1時半を回っていた。

 コンコン。

 俺は驚き、ビクっとして肘をどこかにぶつけた。しかし雨は窓に当たり続けていたし、気のせいだと思おうとしてその音を無視した。だが、すぐに同じ音がもう一度聞こえた。

 コンコン。

 それは運転席側の窓からだった。残念な事に人影がしっかりと見える。・・ああ、もしかしたらさっきまで車を停めていた場所が違っていたから、そこの所有者が文句を言ってきたのかも知れない。俺は仕方なく少しだけ窓を開け、声をかけた。

「なんでしょう?駐車スペースを間違えてた件ですか?」

「なにそれ?」と、想像とは違うかなり若い声がした。

 窓からひょっこり顔の上だけを覗かせたのは、キャップを被った白人と思われる小柄な女の子だった。小雨の降る深夜一時半過ぎ、青白い顔をした少女・・俺はいよいよ自分にも幽霊が見えるようになってしまったのかと、うなだれた。これが睡眠薬の副作用で現れた幻覚ならいいのだが・・。

「お兄さんお兄さん、何か落ち込んでいるところ悪いんだけど、家まで送ってくれないかなー。フェラぐらいならタダでするからさ」

 おい、まて。こんな品がなくてカジュアルな話し方の幽霊なんて聞いた事ないぞ。俺はそこで気がついた。幻覚でも何でもない。この子はただの路上売春婦だ。

 俺は冷たく「今とんでもなく疲れているんだ。それに長時間運転出来るほど体調も良くない。裏にある家に帰って今すぐ風呂に入りたいんだ。悪いけど他をあたってくれ」そう言って窓を閉めるスイッチを押した。

「ちょ、ちょっと待ってよ、この雨の中ほっとくの?お金がないんだよ、タクシー代だけでもくれないかな?サービスするからさ」

 今は人助けをする余裕なんてない、頼むから俺をほおっておいてくれ、そう思って俺は後部座席の財布を取り出し、無駄でもいいから一万円ぐらい渡してこの子との関わりをさっさと終わらせようと思った・・が、掴んだ財布が妙に軽かった。中を確認すると紙幣が全て抜き取られていた。(やられた!)と思った。そして犯人もすぐに分かった。ホテルからここまで、この車で俺を送ってきたのはニシムラだ。ドラゴンが言っていた、ニシムラは手癖が悪いと。それで前科者になったんだと。・・カード類は無事だが小銭が820円しか入っていない。バンバさんに貰った50万も全てヤツの懐だ。

「クソッ!」と俺はダッシュボードを叩いた。

「わっ!ごめん、ごめん、お兄さん、怒らないで!じゃあ送ってくれなくてもいいからさ、電車が始めるまでお兄さん家で雨宿りだけさせてくれない?さっきここの裏に家があるって言ってたよね?頼むよ、濡れてすっごく寒いんだ、玄関先でもいいからさ」

 窓にひっかけた細く小さな白い指が震えている。・・・俺は自分がお人よしなのかも知れないと初めて思った。

「・・言っておくけど、家に来ても何もする気はないから。金もないし」

「うん、始発まで雨が凌げればいいよ」

「走れるか?俺もあんまり濡れたくないんだ」

「うん、ついて行く」

「指をどけてくれ、挟むから」

「うん」

 俺は窓を閉め、後部座席の荷物を取って車から降りると、小走りで家に向かった。小さな女の子は俺の後を付いてきた。うしろから何だか笑っているような雰囲気がした。


 玄関に入るとその子は「片付いてるねぇー、彼女がいるのかな?」と言った。俺はそれに返答せず「タオルを持ってくるからそこで待ってて」と言った。

 風呂の用意をして、俺は大きめの手拭いを持ってリビングに戻った。

「とりあえずこれを使って、そのままじゃ風邪ひくだろ」

「ありがと」

 その子はマウンテンパーカーのようなロングブルゾンと、被っていたXNUMXの黒いキャップを脱ぎ、白銀でセミロングの髪をおおざっぱにタオルで拭きだした。さっきまでは暗闇で気づかなったが、彼女は外国人ではなかった。髪も肌も、眉毛やまつ毛まで真っ白い、アルビノ(先天性白皮症)の少女だった。どおりで日本語がネイティブなはずだ。ドクターマーチンのような厚底のブーツを脱ぐと、かなり小柄で背は150センチないぐらい。首も足も細く華奢で、セックス・ピストルズ!と書かれた色あせた、元は赤だったはずのピンク色のルーズなトレーナーを着て、穴の開いた黒のスキニーデニムを履いていた。彼女は髪を拭きながら「カレーのいい匂いがするねぇー」と言った。

「沢山あるから勝手に食べていいよ、俺は風呂に入ってくるから。ご飯は炊飯器に保温されている。皿やスプーンはそこの食器棚にある物を使って。・・鍋を温めるぐらいは出来るだろう?」

 俺がそう言うと彼女は「やった!ありがとー。でも、なめてもらっちゃ困るなぁ、ボクは孤児院では料理当番で班長だったんだよ」と言った。この子にはジャーナリスト目線でなくても色々と興味を惹かれる部分はあったが、さすがにそれらを掘り下げるほど、今の俺にはエネルギーの残量はなかった。

「あ、顔に血が付いてる!シャツにも。怪我でもしてるの?大丈夫?」と彼女は俺を心配した。

「ああ、大丈夫、これは・・」

 これは俺の血じゃない、などと言ったら怖がらせてしまうだろうと思い、俺は言いとどまった。

「これは、ちょっと転んだだけだから大丈夫。傷も洗いたいし、シャワーに入ってくるからキミはその椅子に座って、ご飯でも何でも適当にやっててくれ」

「アリス。」

「ん?」

「ボクは山西アリス。アリスって呼んでくれていいよ」

「あ、ああ。じゃあちょっと失礼するよ」

「うん、ごゆっくりー」


 シャワーで全身を流し、温かい湯に浸かると、何か邪気のような物が取れていく感覚があった。腕のだるさも少し軽減し、完全にリラックスして気が緩んでしまっていたが、ふと全く知らない赤の他人が家の中にいる事を思い出した。金目の物(特にないが)を盗まれたりするかも知れないし、もしかしたらドラゴンの一味なのかも知れない。俺は急に焦りだし、急いで身体を拭いてリビングに戻った。

 アリスはテーブルに肘を付いて、自分の携帯をいじっていた。カレーを食べたであろう食器は綺麗に洗って水切りに置いてあり、特に変わった様子は感じられなかった。

「おかえり。カレーすっごく美味しかったよ」

「ああ、それは良かった。何か飲むかい?」

「うん、水かお茶でいい。ところで、この家ちょっと寒いね」

「ああ、そうか、暖房を付けてなかったね。悪かった」

「ううん、外に比べれば全然だよ」

 俺はエアコンのスイッチを入れた。このリモコンは少し辺りを見渡せば見つかる場所に置いてあったが、それを探していないという事は、家の中を詮索したりもしなかったのだろう。

「・・・というか、キミも風呂に入るか?今急いで出てきたから溜めた湯を流していないし。あ、オッサンの後で嫌だったらシャワーだけでも温まるよ。始発まではまだ時間があるしね」

「ほんとに?嬉しい!」

 アリスは俺が出した麦茶を一気飲みすると、その場で突然服を脱ぎだした。

「おいおい、確かにうちは脱衣所らしい部屋はないけど、せめて風呂場の前まで行って脱いでくれよ、そうしたら見えないから」

「いいじゃない別に、男同士なんだし」

「え?」

「あ、女だと思った?ごめんね、ボクは戸籍上立派な男だよ」

 アリスはスウェットとTシャツを脱いで上半身を露わにすると、極端に華奢ではあるが、それは確かに男性の胸元だった。

「下も確認する?」

「いやいい。」

「そっか。名前もアリスだし、みんな女だと思うんだ。最初に孤児院で園長先生が名前を付けてくれたんだけど、それは3歳だったボクを女の子だと思ったからなんだよ。まぁ今となっては女だと思われる事のメリットの方が多いけどね」そう言ってアリスは笑った。その笑顔は最初のイメージよりも大分幼く見えた。

「歳は?」

「え、えっと・・ハタチ」

「それは無理があるな」

「う、うん・・18」

「うちの風呂は嘘つきが入ると、お湯が赤くなるんだ」

「ええっ!・・ごめん、ホントは・・14です。」

 十四!と俺は声を上げたが、同時にアリスはくしゃみをした。

「わかった、とにかく風呂に入って温まっておいで。それから話そう。歳は訊かなければよかったよ。・・俺は逮捕されるかもな」

「なんかごめん、急いで入ってくるね」

「ごゆっくりー」と俺は無意識に、さっきのアリスの口調をマネしていた。

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