XNUMX(4)メンソレ
端正な顔立ちで気の強そうな女性アナウンサーが何の感情も込めずに「続いては悲しいニュースです」と読み上げた、売れっ子漫画家の急逝のニュースは、最初俺の耳には全くの他人事として聞こえた。その突然死んだ漫画家と、自分の古い友人のマツシタが同一人物としてうまく繋がらなかったのだ。我々はまだ三十代の後半に差し掛かったばかりで、自分が死ぬこと自体、あまり意識した事のない年齢だ。俺に限って言えば、メキシコの麻薬カルテルの取材に行った時や、南アフリカの戦地に行った時などには危ない目にもあった。ヨーロッパの夜道でおかしな奴らに囲まれた事もあるし、中東で銃を突き付けられた事もある。それでも漠然と、自分はまだ当分死なないのではないかと思っている。そんな若さの同級生が、しかも数か月前に会っている友人があっさり死んだという現実を、俺はすんなりとは飲み込むことが出来なかった。
・・・マツシタが死んだ?・・あの、何本も連載を抱えながら一回り以上年下のグラビアアイドルともデートする、生命力に溢れた男が?
公表された死因は心臓発作だった。心臓発作とはまるで病名のようだが、実際には死んだ原因が分からない突然死の場合は大抵「心臓発作」と発表される。読んで字のごとく、心臓が何らかの原因で急に発作を起こし、止まる。ブレーキが壊れたとかタイヤがパンクしたのではなく、エンジン自体が何らかの故障を起こして、動作を停止したのである。その何らかは人間の場合、わからない事も多い。その日、都内の高級ホテルに泊まっていたというマツシタは、翌朝になると突然エンジンが止まっていたのである。プスンと。
俺はそれから悲しみに浸る時間を持てないほど忙しく動き回った。そうやって現実から逃げるのではなく、むしろ正面から向かい合う為に。なぜならニュースや新聞のような一般的なメディアから知り得るマツシタについての死の情報が、極端に少なかったからである。マツシタが連載していた雑誌は、いち早く追悼文と共に「公開予定の実写映画はスタッフ一丸となって、道半ばで亡くなった作者の為にも進めます!」と大々的にHPや紙面を使って発表した。また、マツシタ作品のアニメ放映権を持っているFテレビは「追悼スペシャル・アニメ全話放送!」と毎日CMを流した。しかし、そういう無駄に鼻息の荒い、結局は誰かが得するような情報は素早くメディア中から発信されたが、肝心のマツシタの、死そのものの情報は異常なほど目にする事が少なかった。そこには微かな、だが確かに感じられる「隠遁」の気配があった。だから俺は、今まで自分が15年間やってきたジャーナリストの仕事で得た、ありとあらゆる方法を使ってマツシタの死をなるべく正確に、客観的かつ精細に知ろうとした。もしかしたらそこには、俺なんかでは到底及ばない何か大きな力の流れがあり、その代償としてこの仕事から干される可能性があるのかも知れなかったが、しかしそれでも、それが唯一、俺がマツシタの死を受け入れられる方法だった。
だが、やはり事態はそう簡単にはいかなかった。曲がりなりにもプロの記者である俺が、ほとんど眠らずに丸々3日ほどの時間を使ったが、検索エンジンで知れる程度の情報以上の物は手に入らなかった。もちろん調べる前から感じていたが、それは想像以上に深く暗い闇だったのである。そこそこ売れっ子の漫画家の死。単純に考えればそれ以上でも以下でもないはずなのに、どうしてそれほど情報が操作されなければいけないのか。どこの側の人間が、少なくない労力とお金を使ってそれを塞き止めているのか・・・。
それでも俺は諦めずに、持てる手段を全て使って(貯金も使い切って)さらに3日後、ほんの小さなヒントのような物を掴むことに成功した。逆に手に入れたのはそれだけだったが、それは握った感触からすると必ず黄金に繋がっている細い糸の先端だった。
ある筋から聞いた話では、マツシタが都内の高級ホテルに宿泊していた最後の晩に、外食を終えて戻って来た時には一人ではなく、同行していた人間がいたというのだ。ホテルの地下にあるVIPの宿泊者用駐車場から直接エレベーターに乗って部屋に向かった為、この件を知る人間はほとんどいないし、一流ホテルと言えば末端のスタッフまで口が堅いのが定石だ。多分、駐車場の警備員とか、雇われの人間から漏れた話が回り回って俺の所に辿り着いたのだろう。最初この情報は非常に曖昧で、同行していた人間の性別も年齢も定かではなく、それどころか「誰か一緒にいたかも知れない」というレベルで、山椒の一粒ぐらいの手がかりだったが、その粒を少し噛んでみるとしっかりと辛みのわかる代物だった。俺は丁寧にしつこくしつこく、その小さな粒を味がしなくなるまでしがんでいった。すると遂には、辛みの向こう側の旨味にまで辿り着いた。色んな情報をかけ合わせ、人物像を洗い出してみると、その時マツシタに同行していたのはマネージャーでも雑誌の編集者でもなく、間違いなくあの、グラビアアイドル沢口明菜だったのである。
マツシタと沢口明菜が最初に会ったのは、俺が久しぶりにマツシタに会ったあの日の夜だ。ヤツは「今夜、やっとディナーに漕ぎつけた」と言っていた。それから約2か月半。彼らはその間に交際していたのかも知れない。ただ、沢口明菜が本当にその夜マツシタと一緒にいたとしても、アイツが死んだ事とは直接関係がないかも知れない。例えば、恋人とホテルに宿泊し、女性が帰った翌朝、男は心臓発作を起こした。相手が若く魅力的な女性であれば中年男性が張り切り過ぎるのはよくある話だ。それならそれでいい。事故なら事故でその確証が欲しい。俺はジャーナリストとして、そしてたった2年だが人口の少ない田舎町で共に過ごした同級生として、マツシタが何の原因で突然死ななければならなかったのかを解明しないと気が済まないのだ。
だがそこからの扉は、ぴったりと虫一匹入れないように完全に閉ざされていた。まず沢口明菜は、設立50周年を迎える大手芸能事務所の中でも今、最も売り出し中のタレントの一人であり、その近辺からは芸能生命に傷が付きそうな噂の類は、一筋も立ち上がっていなかった。彼女の周りは何重にも保護されており無菌ルームのようにクリーンで、どの筋からも中年漫画家になど繋がるような線は全くなく、他の男の影さえも一切見つからなかった。もし数か月前にマツシタ本人から接点を聞いていなかったら、俺はきっと沢口明菜に辿り着けなかっただろう。最低でもその日二人は朝まで一緒にいたのか、食後の短時間同じ部屋にいて彼女だけが先に帰宅したのか、それだけでも知りたかったが、畑違いで芸能関係にコネのない俺には、どうしてもそれ以上、沢口明菜に近づく事が出来なかった。世の中では、人気漫画家が突然死んだ晩に新人グラビアアイドルが一緒にいたかも知れないという事実は現状、全くないのである。もし強引にこの情報を公にしてフィードバックとして何かを得ようとしても、確かな裏付けの取れてない個人所有のネタでは真相を確かめられるどころか、虚言として名誉棄損で訴えられてネタと一緒に心中させられてしまう。違う筋からアプローチしようにも、そもそも俺の持っている他の情報も簡単には他言できないものだったから、同業者に引き換えに差し出す事も出来なかった。要するに完全な手詰まりである。俺は喪失感と自分の力のなさに愕然としながら、気乗りがしなかったものの藁をも掴む気持ちで、死から一週間後の十月一日に都内で行われたマツシタの一般葬儀に参列した。
お別れ会は人気漫画家らしく都内の会場で大規模に行われた。俺が一度も見た事のない、あたかも善人に見えるような不自然な笑顔で撮影されたマツシタの大きな遺影が飾られ、花は壁一面に敷き詰められていて一般の参列者も相当な数が押し掛けた。それだけマツシタの作品が人々に愛されていたという事なのだろう。それだけでも少し救われた気がした。そんな一般の列に紛れて、俺は一輪だけの白い菊を持って葬儀に加わった。何か真相に繋がるきっかけのようなモノがあれば・・そう思って周りをくまなく見渡していたが、芸能関係者はもちろん、散々訊きに行って煙たがられたマツシタの出版社関係の人間以外は見かけなかった。もちろん遺体はとっくに火葬されており、近親者は別日にお別れを済ましているのだから、マツシタの家族等の姿もなかった。そして当り前だが、わざわざ遠く離れたJ県から駆けつけてくるような、物好きの知った顔もいるはずはなかった。
得るものなしか・・・そう思って会場を去ろうとした時に、後ろから突然女性に声をかけられた。振り返ると全く見覚えのない、パンツスタイルの喪服を着たショートヘアの長身女性だった。目鼻立ちがクッキリとしていて薄化粧でも美しく、そして驚くほどに足が長かった。俺の苗字をハッキリと口にしたその女性に対して疲れていた俺は、分からないのに分かったフリをするのが面倒で、不躾に「どなたですか?」と訊ねた。すると彼女は、少しはにかんで答えた。そのほんの僅かな微笑みで、地球全体が1ワットほど明るくなったように感じた。
「わからない?ワタシだよ。」
俺はいやらしくならないように、もう一度その人の全体を見直して確認したが、どう思い返してもこんな美人の知り合いはいなかった。沈黙に耐えかねた彼女が言った。
「もう・・メンソレって言ったら、わかるかな?」
俺は生粋のJ県出身の人間と東京で出会ったのは、これが初めてだった。