XNUMX(34)ドラゴン ~(35)トランプ
(34)ドラゴン
・・・そうか、牧村からのSOSは、自分が忘れていってしまう事をバンバだけは覚えている、だから自分に何かあったら名刺の人物、オチアイ(バンバ)に会ってくれ、という事だったのか・・そしてそれを託せるとしたら家族の事情も知っていて、付き合いも長いセーラしかいない。牧村自身がもう完全にコチラの世界に慣れてしまって、全てを忘れていたとしても・・・。
「あかん、お兄ちゃん、悪いけどもう11時になるやろ、お時間やねん」
「え、まだまだ聞きたい事が沢山あるんですが・・」
「わかる、わかるよ、ワタシみたいな人間に会うたら、そら誰でも色々聞きたくなるて、でもなぁ、残念ながら時間やねん」
「次のカウンセリングの予約ですか?」
「ちゃう、大好きな韓流ドラマが始まんねん」
「え、韓流・・録画じゃダメですか?」
「あかんねん、リアルタイムじゃないと盛り上がらん。何でやろな、ああいうのってやってる時間に見たいねんな。それにホテルのテレビやさかい、録画機能もないし。大好きやねん、ヤンちゃま。一週間に一回ヤンちゃま見んと生きていかれへんねん、ワタシ。ごめんな、帰って」
「わかりました・・・」
俺は渋々、上着とバッグを抱えた。
「大丈夫や、あんたとはまた必ず会うから、さっきも言うたけどワタシらの縁はもつれてんねん。次ん時にまた色々教えたるさかい」
「はい」
「ああ、それからな、あんたもうこっちでやる事あんまりないで、一回故郷に帰った方がええ。そうやな・・年明けぐらい、年明けたらなるべく早く地元に帰り。」
「そうですか?」
「うん、彼女も待ってるよ」
?セーラと地元が同じで、帰省してる事は言っていなかったはずだが・・。
「悪い事言わん、言われた通りにしたらええ。」
「わかりました。これ、今更ですが自分の名刺です。今日はありがとうございました」
俺はジャケットを羽織って玄関口の方へ向かった、バンバ・サチヲは後ろから見送りについてきた。
「こっちこそ、ありがとうな、気いつけて帰り」
「はい、失礼します」
「あ、兄ちゃん」
ドアを開けようとした瞬間にバンバが言った。
「エレベーターは使わん方がええわ、階段で降り」
「はぁ」
「ほなな」
「はい、失礼します」
俺は階段を探したがエレベーターとは逆方向で、どうやら廊下をかなり歩かなければならないようだった。その時、丁度エレベーターが来た音がした。やはり7階から階段で降りるのもバカバカしいと思い、俺は閉まりかけのエレベーターに急いで乗り込んだ。一階のボタンを押した時、後ろから聞き覚えのある「失礼します」という声がした。振り向こうとした瞬間、首に太い腕が巻き付き、チョーク・スリーパーの形で絞められた。しまった!しばらく日本にいたせいで後ろを気にする事を忘れていた!見えているジャケットの袖の色と声で、それがさっきラウンジで会ったダークスーツの男だと分かった。完全に平和ボケしていた!南米だったらもう死んでるぞ!俺は顎を引き、指を相手の肘関節の内側に滑り込ませて頸動脈が完全に絞まらないようにすると、固いブーツの踵で男のつま先を思い切り踏みつけた。相手は小さく「うっ」と声を上げたが手は離さなかった。プロだ。しかし幾分緩んだので、男のジャケットの袖に指を入れて掴み、自分ごと前転するように一本背負いを仕掛けた。相手は投げられまいと本能的にエレベーター内の壁を掴もうとしたが、凹凸のない狭い空間には引っかかりがなく、二人とも半回転して床に倒れ込んだ。俺が上になっていたので、立ち上がれはしなかったが素早く上半身を起こし、とにかくエレベーターを止めようと全ての階のボタンを押した。すると男は俺の襟を掴んで引き倒し、寝た状態で再度、首を狙ってきた。俺は相手の片腕を掴んで脇に挟みバック・チョークをさせまいとした。バタバタとした寝技の攻防の間に、何階かは分からないがエレベーターが止まり、ドアが開き出したので俺は大声で「すいませーん!誰か―」と声を上げた。するとすぐに人が駆け寄ってくる足音がした。
「大丈夫ですか?」とフロア側から顔を出し、声をかけてくれた男性に「助けてください!」と言うと、その男は「ヘマするなよ」と言いながら俺の脇腹にスタンガンを当ててきた。よく見ると、俺を羽交い絞めしている男と同じ色のスーツだった。クソっと言いながら、俺は気を失った。
・・・目を開けて最初に視界に入ってきたのは、尖ったパイソン柄のエナメルシューズだった。顔を上げていくと、黒のピンストライプのスーツの上に細面の顔が乗っていた。その男は50代ぐらいで、メッシュのように白髪が入った髪をオールバックにして、キャットアイのような尖ったサングラスをかけていた。右には俺にチョーク・スリーパーをかけた男が立っていて、例の低い声で「起きたようですね」とだけ言った。自分の左足に違和感を感じて見ると、俺にスタンガンを当てた男が屈んでいて、イスに足首を軍隊式の結び方で縛りつけていた。室内は暗く広さも分からないが、どうやら俺はパイプ椅子のような物に座らされ、手は後ろに交差し、両足は椅子の足に固定されているようだった。口元もタオルが巻かれていて声を出す事は出来ない。しかし、多少スタンガンの名残が脇腹に感じられるだけで、体にダメージらしい物はない。気を失っていた間に何かされていなくて良かった。足を結び終えた男は、パイソン・シューズの男の左側に立った。
「軍事用のスタンガンだったから結構痛かっただろ?」とパイソン・シューズの男が言った。そしてサングラスを外し、ジャケットの胸ポケットに入れた。目は離れていて細く切れ長で、黒目がやたらと小さく顔全体の印象も蛇というか、爬虫類のようだった。男はのぞき込むように俺に顔を近づけて「名前は言えませんが、ワタシの事は仮にドラゴンとしておいてください。」と言った。
「本当はこんな乱暴な事をするつもりはなかったんです、まずはその事を謝らせて頂きたい」と、ドラゴンが言うと「すいませんでした!」と両脇の男達が声を揃えた。ドラゴンは人差し指を立てシーッという合図をした。二人は黙って頭を下げた。
「あんたの事は少し前から知っています、追っていたというわけじゃないが、我々の視野には入ってました。いずれここに来るであろう事も想定していましたんで・・今日はまぁこういうスタンダードな形になりましたが、一旦ガラをさらわせて貰いました。」そう言いながらドラゴンは両手をズボンのポケットに入れ、背筋を伸ばした。
「今は半グレだのチャイニーズ・マフィアだのと幅を利かせているケチな連中が色々いますが、我々は所謂ヤクザです。ここにいるのは今時珍しいオーソドックスな暴力団の組員という事です。普通に生きていれば堅気のあんたと接点はありません、しかし我々の商売を脅かす可能性がある場合は違います、今言ったようにケチな連中のせいでシノギが減っているんでね、社会のゴミのような我々でも食っていかねばなりません」
果たして俺が、いつヤクザの商売の邪魔をしたのだろう?と、頭に大きな疑問符が浮かんだ。ドラゴンは俺の椅子の周りをゆっくりと時計回りで歩きながら続ける。
「単刀直入に言いましょう、記事に書く事はもちろん、今日、万場幸代に会った事は一切誰にも公言しないで頂きたい。これはお互いの為にも、です。」
ドラゴンは俺の右側で足を止め、壁の方を見つめたまま続けた。
「どうしてヤクザがあの老婦人のバックにいるのかと思うでしょうが、それは違います。我々の事を万場さんは知りません。我々が勝手に保護しているだけです。」
二人の舎弟はその間も全く微動だにしていなかった。よく見ると俺にスリーパーをしてきた男は190センチほどあり、丸坊主でいかにもな風情だったが、スタンガンの男は細身で小柄、眼鏡をかけていて全く反社会的には見えず、むしろプリンター会社の営業マン、という感じだった。ドラゴンはまた回り始めた。
「今も昔もヤクザにとって宗教団体は大事なシノギ、資金源です。何といっても法人としてきちんと届けを出してさえいれば税金もかからないし、めったな事でもなければ行政に探られるような事もない。今のトップであるクダというヤツは元々うちの人間です。アイツを使ってうちが15年ほど前に(幸運の世界)を乗っ取り、名前も変えさせました。ただ万場さん達を追い出したのはいいんですが、宗教ってもんはヤクザと一緒でトップにカリスマがいないと人が集まりません。なんで万場さんをお飾りの代表としておいて、実際には我々が運営するというスタイルに落ち着いたんです。もちろん、そうなっている事も万場さんは知りません。勧誘時や広報誌等には今も万場さんの名前を使い、しっかりとトップとして存在しているように見せています。お蔭で安定した信者数を今も維持できてるってわけです。どれも信者や関係者たちしか見れない物ですが、ゴッドスピードの殆どの媒体には万場幸代の写真をでかでかと使っていますから・・十年以上前の物ですがね。・・残念ながら万場さんには、もう名前以外に大した力はありません。弟さんが亡くなってからは、霊能力が顕著に無くなったそうです。今ではただの話好きの老婦人です。まぁワタシはそもそもそういう話の類を信じていませんがね。とにかく我々にとってはそれが好都合なんですよ、実際、万場さんは我々の暗躍を気づいていませんし、こちらが気をつけてさえいれば、今後も察知される事はないでしょう。」
ドラゴンは二周回って、また正面に立った。離れた二つの目玉が俺を見据える。
「今からあんたの猿ぐつわを取りますが、大声等はくれぐれも出さないように。ここは地下です、誰にも聞こえません。それに目の前にいるのはヤクザです、うるせぇだけで殺されるかも知れませんよ?余計な事は言わず、ただワタシの質問に答えて下さい。いいですか?」
俺は頷いた。ドラゴンが顎を動かすと、スタンガンの男が俺の口のタオルを外した。
「まず、万場幸代は元気でしたか?」
「いたって、ゴホゴホッ、元気そうだった、ゴホッ」長い事、口を開けたままだったので喉が乾燥していて上手くしゃべれなかった。
「それはなによりだ。我々は直接会えないんでね、あんたから万場さんの最新情報を知れた事は嬉しい。さっきも言いましたが、彼女には末永くカリスマでいて貰わないと困るんだ。88には見えなかったでしょう?」
「88!?ゴホッゴホッ!」
「あはははは、そりゃあ咽るよな?誰だって60ぐらいに見えるだろう。あのババァ、オレが十年以上前に見かけた時だって、どう見たって50代ぐらいにしか見えなかったぜ!ははは、ホント、ある意味化け物だって事は間違いねーんだよな、はははは」
ドラゴンは身を反らして大笑いした。口が耳近くまで開いたその顔は、ダチョウの卵を強引に飲みこもうとするアナコンダを思わせた。しかし・・年齢不詳とは思ったが、バンバ・サチヨがまさか八十代後半だったとは・・確かに肌艶は良かったが、何よりも頭の回転が早く、会話のテンポにもまるで年齢差を感じなかった・・・。
「あーあ、ウケる、万場の歳を言うとホントにみんな驚くんだよな、いやいや、失礼失礼。それで、あの妖怪とあんたは何を話したんだい?」
ゴホッゴホッと俺が咽るとドラゴンは「おい、こいつに水をやれ」と言って、今度はスリーパーがペットボトルを持ってきて、俺の顎を上向きにして水を飲ませてきた。俺は鼻の中に水が入り、また少し咽たが、それが治まるとさっきよりは幾分ましに声が出るようになった。
「ウッ、ウン・・大した話はしていない、俺は未払いのカウンセリング料金を渡すよう、人に頼まれた運び屋のようなものだ、嘘だと思うなら携帯に残っているメールを見てくれればいい」
ドラゴンが合図をすると、スタンガンがキャスターの付いたテーブルというか、台のような物を転がして来た。その上には中身が全て出されて並べられた俺の私物と、バッグが置かれていた。そこからスタンガンは携帯電話を取ってドラゴンに渡した。ドラゴンは携帯の画面を俺の顔にかざし、顔認証でロックを解除した。
「(重要)という受診メールフォルダを見てくれ、最新のメールがその案件だ」と俺は言った。指定する事でそれ以外の情報を知られる可能性が減る、そしてそこにはセーラから届いた今日の事についての事務的なメールだけがある。ドラゴンはしばらく俺の携帯を弄ってから、なるほど、と言った。
「おいおい、ちゃんとここに部屋番号も書いてあるじゃないか、あんたさっきバーで忘れてただろ?だからわざわざコイツに伝達させたんだぜ・・まぁいい、確かに金を持って行くように頼まれてるようだね。しかもこの送信者は自分が行けなくなってすまないと言っている、という事は代理人の代理人だ、それなら大した話はしないかも知れない。」
「ああ」と俺は答えた。
「まぁ悪いけど、あんたはどう見ても金持ちには見えないし、カウンセリングが必要にも見えない。という事は、万場の客ではないんだろう。一応、代理だという証拠のメールもある」と言ってドラゴンは携帯を机に置いた。
「でも、だったら1時間も話すかなぁー、金渡してすぐ出て来るんじゃないかなぁー、その辺を納得させて下さいよぉー」
そう言いながらドラゴンは、机の上の俺の荷物を、カメラから財布から何から、全て床に払い落すと、ジャケットの内側から匕首を抜き出し、思い切り振りかぶって天板にガツッっと突き刺した。薄暗い部屋の少ない光を反射して垂直に立った短刀の刃は、俺の目の前で蛇の鱗の様に怪しく光った。
(35)トランプ
「ヒラターッ!」
「はいっ」
ドラゴンの呼びかけにスリーパーは、休めの姿勢のまま一歩だけ前に出た。表情がひきつっているのが分かる。
「おめぇ、今なんアウトだ?」
「・・2アウトです。」
「だよな、オンナと車の件で2アウトだ。・・今日は、どうだった?しくじらなかったか?」
「あ、いえ・・」
「だよな、(自分は柔術をやってたから大丈夫です、トーシロなんて一人で簡単に眠らせて来ます)って言ってたよな?」
「はい・・」
「それがどうだ、中々降りてこねーからニシムラがスタンガン持って駆けつけたそうじゃねーか。恥ずかしいよな」
「はい・・しょっぱい事やってすいません」
「ニシムラはあれだぞ、10年ぐれぇ組にいんのにまだ1アウトだぞ、入り立ての時にシャブに一回ハマったっつうのだけだ、なぁ?」
「はい」とスタンガンが応えた。
「あ、でもオレはおめぇが手癖悪ぃの知ってっからな、気をつけろよ」とドラゴンは後ろを振り向いて釘を刺した。
「あ、はい」とニシムラは力なく応え、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「ヒラタ、手乗せろ」
ヒラタは表情には出さないようにしていたが、不服そうな足取りでドラゴンの横に立つと、右腕の袖をまくって、刺さった短刀が小指と薬指の間にくるように手のひらを開いてテーブルに置いた。
「お、利き手でいいのか?」とドラゴンが言うと、ヒラタは左手を少し掲げた。その手に小指はなかった。
「ああ、そうか、おめぇ既に一回やってんだもんな。トータル5アウトだったのか。」
「はい・・」
ドラゴンはヒラタの肩に手を置いた。
「分かるよ、ヒラタ、おめぇの言いたい事は。今回の失敗はアウトってほどじゃねぇだろと、そう思ってんだろ?」
「いえ、自分は・・」
「いいんだよ、普段だったら当然そうだ、おめぇの思う通り大した失敗じゃねえ。結局こいつのガラはさらえたわけだしな。でもよ、まぁ例えば腕に覚えのあるチンピラが喧嘩を売ってきて少々手こずったとか、抗争中のヤスダ組の輩を拉致するのにニシムラを手伝わせたって言うんならオレも怒らねぇし、ミスだとは思わねえ。だがな、今回は別だ、全然違う。考えてもみろ、このあんちゃんは堅気だぞ?記者をやってるっつうただの一般人だ。その上オレ達になんの因縁をふっかけてきたわけでもねぇ。言わば、こっちが勝手に一方的な都合で喧嘩売っていったわけだ。分かるな?しかも2対1でだぞ?いくら何でもヤクザが二人がかりでトーシロと引き分けて道具まで使ったっつうのは、組に顔が立たねぇよなぁ?」
「・・・仰る通りです」
「だよな?こういう事はスマートに隠密にやらなきゃダメだったんだ、本当だったら破門レベルよ。」
「・・はい」
「というわけで、3アウト。エンコ詰めだ」
「ちょ、ちょっといいかな」と俺は思い切って声を出した。なぜならこれは、明らかに俺に対してのアピール、怖がらせる為の演出に思えたからだ。ビビらせてバンバとの会話内容を聞きだそうとしている、これは部下を使った関節的な脅しに間違いない。そんな事の為に誰かがわざわざ小指を失うなんて馬鹿げてるし、自分の指じゃないにせよ、目の前でそんな事をされるなんて溜まったもんじゃない。
「あん?何だいあんちゃん、家族の問題に口挟むなよ」
「ああ、すまない、でも一言だけ言わせてくれないか?」
「・・なんだ?」
「俺はこう見えて軍隊格闘技をやっているんだ、海外の戦地でも何度か危ない目に遭って、それのお陰で何とかくぐり抜けてきた。あんた達を前に喧嘩自慢をするつもりはないけど、街のチンピラ程度なら多分俺の方が強いだろう。それは喧嘩じゃなく、生き死にの現場にいたからだ。そういう経験を踏まえて言わせてもらうと、その人は相当強かった。嘘じゃない。小指がなかったからクラッチが甘くて、締め落とされなかったのかも知れないけど、気配なんて全くなくて、簡単にバックを取られた。色んな危険な国に行ったけど、そんな事は初めてだったよ、柔術だけじゃなく、特殊な訓練を必要とする仕事をしてたんだろうな、さっきはエレベーターという限られた空間だったから、俺は運よく凌げたんだと思う、夜道で襲われたらあっさり拉致されてただろう、だからその人に落ち度は全くないよ」
ドラゴンもヒラタも黙って俺の顔を見つめている。少し後ろでニシムラもきょとんとしていた。するとドラゴンが耐え切れずに吹き出した。
「ぶぁははははははは、こりゃあいい!自分は強いからコイツも強かったって?あははははは、ヒラタ、このあんちゃん、オマエをかばってくれてるよ、あははははは、優しいなぁー」
ヒラタは笑ってなかったが、ニシムラは肩を揺らしていた。大笑いするドラゴンの口は耳まで裂けているように見えた。
「いいねぇあんちゃん、気に入ったよ、どうしよっか、ヒラタのエンコ詰め、止めにしようか?あはははは」
例えようのない不快な笑い声だ。一時間聞かされたら気が狂れてしまうかも知れない。手を縛られていなかったら真っ先に耳を塞いでいるだろう。それか、俺がこいつを・・・そこで俺はハッとした、馬鹿な考えだ、強烈なネガティブ・エネルギーに影響を受けて、相手と同じ思考回路になっている!これは自分本来の考え方ではない、こんな人間に釣られるんじゃない!俺は頭を振った。
「あー笑った・・でもさすがだな、確かにあんたの言う通り、ヒラタは特殊な訓練を受けていて前職はボディガードだったんだ、それも要人のね。猪本首相のSPとしても数年働いてたんだってさ。そうだよな?」
「・・はい。任期の間は自分が担当してました」
「だってよ、よし、いいだろう、あんたのその観察眼に免じて、チャンスをやるよ。」
ドラゴンはドスから手を離した。
「おいニシムラ」
「はい」
「あれ、見せてくれ」
とドラゴンが言うと、奥にいたニシムラは前に出て来てジャケットのポケットから煙草ひと箱サイズの四角い物を取り出した。・・それは1セットのトランプだった。するとニシムラはおもむろに空中でカードを切り出した。昔マカオのカジノビジネスの取材をした時にしばらくホテルに滞在して、毎日ディーラー達の様々なカード・シャッフルの手さばきを見てきたが、ニシムラのはそのどれとも違う、独特かつ優美で見事なシャッフルだった。まるでカードが一切重力の影響を受けていないかのように左右の手の間で自由に伸縮し、それはどこかアコーディオンを演奏している姿のようにも見え、音楽が聴こえてきそうなほどの余りの鮮やかさに俺は、自分の置かれている状況を一瞬忘れてしまいそうだった。しかしそんな油断を良くも悪くも断ち切ったのは、やはりドラゴンの一声だった。
「ストップ!!」
ニシムラはカードをほぼ半分ずつ左右に持った状態で手を止めた。ドラゴンが言う。
「どうだい?すごいだろう?コイツは前職がマジシャンなんだよ、だからとにかく手先が器用でな、まぁそのせいで手癖も悪くて何度もしょっぴかれて結局前科者になっちまったから、うちに来たんだけどな。・・よし、その左手の上から三枚のカードだ」
ニシムラは慣れた手さばきで言われたカードだけを抜くと、誰にも札が見えないようにテーブルの隅にそっと置いた。俺から見て左側にカード、目の前70センチほどの真ん中にドスが刺さり、その後ろにドラゴンが立っている、そしてヒラタがテーブルの右側からドスに重なるように手を置いている。ヒラタは先程からピクリとも動かない。ドラゴンが俺を見てこう訊いてきた。
「さぁ、赤か黒か、どっちだい?」
「・・え?なんだって?」
「分かるだろ?、札が赤か黒かどっちかって訊いてんだよ、あんたが当たったらヒラタのエンコは無事だ。ハートとダイヤの赤、スペードとクラブの黒、さぁどっちだ?」
「バ、バカな、そんな賭けをするわけないだろう」と俺は流石に断った。
「そうかい?それならいいぜ、ただヒラタのエンコが無くなるだけだから。ほーらよ」そう言ってドラゴンは刺さったドスを逆手に握ってヒラタの小指側に引き倒そうとした。それまで微動だにしていなかったヒラタの身体が強張るのを感じた。
「まてまて!」俺は慌てて声を上げた。賭けなくてもダメなら言うだけ言った方がいい。
「わ、分かった、赤だ」
俺の焦った様子を見てドラゴンは上機嫌になった。
「うむ、それでいい。あんたがやろうがやるまいがこっちはどうでもいいんだ。でもよ、こう見えてオレは公平な男なんだよ。あんたか当たれば惨劇は回避出来るんだ、それにヒラタも指が残ってラッキー。こんな良い事はないだろう?ルールに則ってフェアにいこうじゃないか。」
大体ルールに従って公平になどという輩は、自分達でそのルールを作って相手をそれに従わせるのだ。そもそものやる意味がないゲームをあたかも正しい器のように振る舞うのだから、最初からフェアなわけがない。それにコイツは、自分は本名を名乗らないくせに平気で部下たちの名前を言っている。自分さえ無事なら、トカゲの尻尾のように簡単に他人を切り捨てる人間だ。もしかしたらヤクザよりも政治家に向いているかも知れない。
「赤でいいんだな?」
それでもここは乗った方がいい。それが面倒を終わらせる一番の近道だ。
「ああ、赤だ」
「よし、じゃあダイヤかハートだったらあんたの勝ちだ、選ばせてやってるんだぜ?優しいだろ?我々は黒だ。スペードかクローバーならこっちの勝ち。ニシムラ、ジョーカーは入ってるのか?」
「はい」
「よし、じゃあ特別サービスだ、通販番組でも大体最後にオマケが付くもんな、髭剃りの替え刃とか掃除機の立て掛けるスタンドとかよ、だからジョーカーが出てもあんたの勝ちにしてやるよ、赤いカードかジョーカーだったらあんたの勝ち。全くオレって男はつくづく慈悲深いんだよな、これで少しあんたが有利になったってわけだ、だがまぁどっちにしろ結局は五分五分のゲームよ。オレはな、物事は全て五分五分だと思ってるんだ、何パーセントで雨が降るとか、何パーセントで手術が成功するだとかそういうのは、何の意味もないと思うね。確率っていうのはさ、誰かの意見でしかねーんだよ、そうだろ?てめえの目の前で起きる事は全部てめえしか体験出来ないんだぜ?明日あんたが生きてる確率はどうだ?絶対生きてると言いきれるか?明日生きてるかどうかなんて誰にもわかりゃしねえよ、今健康だからとか若いからなんていうのは、なんの足しにもならねえ、人間どんなに安全な場所にいたって死ぬときゃ死ぬ、地雷踏んだって助かる時は助かる、それだけの事、人生はいつなん時も五分五分のゲームなわけよ」
・・今日は何だかよく分からない理屈を沢山聞く日だな、と俺は思った。
「ニシムラめくれ」
「はい、いきます」
カードはスペードのジャック
ザクッ。
「ぐぁあああああああああ!」
鮮血が飛び散り、俺の顔にはねた。




