XNUMX(32)ホテル・ノ・アール ~(33)ラ・バンバ
(32)ホテル・ノ・アール
その頃、沢口明菜は芸能人でいる事に飽きていた。朝からCM撮影、グラビア撮影、媒体の分からないインタビュー、ドラマの撮影、映画の撮影、バラエティ番組の収録、雑誌の取材、ラジオ、合間にSNSの配信と忙しく働き、子供の頃から思い描いた自分像に着実に近づいていたが、その世界は思い描いていた物とは違っていた。自分のヴァージンを捧げる相手と決めていた、グループ・アイドルのKくんにもテレビの仕事で会う事が出来たが、実際には思っていたより背が低く、真後ろから見ると少しハゲていて、番組内での発言も薄っぺらかった。なぜ私はこの人に、小学生の頃からあれほどときめいていたのだろう?その時間を返して欲しいとすら思った。明菜が初めてテレビで見た時には二十代だった彼も今では30を過ぎていたから、近づいてみると悪い意味でのリアリティを感じた。画面というは、映像が届くまでに沢山のレンズやデジタルデータを仲介しているのだと改めて痛感した。これをきっかけに仕事へのモチベーションは急激に低下していった。
「はーい、じゃあ明菜ちゃん、今度は右向きで、そうそう視線上で顎引いて」浅黒いジジイのカメラマンが指示してくる。私は言われるがまま笑顔でポーズを取る。「そうそう、サイゴウくん、そんなに緊張しないで、明菜ちゃんの腰に手を回して、そう、自然に」今日の撮影も退屈だ、グラビアではなくファッション誌だというから楽しみにしてたけど、この一緒に撮ってるサイゴウとかいう元野球選手も、何だか地味でパッとしない。私を後ろから抱くようなポーズでもまるで童貞みたいに堅苦しいし。本当は違う人でやる予定だった撮影らしいけど、結局はうちの事務所とパトロンの力で私が表紙になった。そうでもなきゃ引き受けてないよ、こんな仕事。あー退屈だなぁ、私と同い年の子は来年からキャンパス・ライフか・・いいなぁ、もう事務所も仕事もやめちゃおうかなぁ・・・でも、テッちゃんの漫画が原作の映画だけは、最後まで出演して完成させてあげたい。テッちゃんは私と同じで家族と壁があって友だちも少なかったし、孤独だった私が唯一、打ち解けられた人だった。本当の私を見ても(明菜はそのままでいい、明菜は何も悪くない)と言ってくれた。本当は彼が私の王子さまだったのかも。ハゲてて眼鏡で口の臭い、一回り以上歳の違う漫画家の王子さま。明菜はマツシタが白馬に乗ったところを想像して笑った。なんか、股間が白鳥の衣装を着た志村けんみたい。「お、いいねぇ明菜ちゃん!その笑顔」カメラマンがテンション高くシャッターを切る。うぜえと思う明菜。スタジオの隅からその娘の仕事っぷりを満足げに見つめる牧村がいる。アイツもうぜえ。やたらと仕事を入れてくるし、最近なんか私の知らないところで変な事してるみたいだし、そろそろまたアイツ交換してやろうかな。・・あー、テッちゃんに会いたいなぁ・・・でもどうしてテッちゃんだけは、戻ってこないんだろう。
雨が降って来た。まるでインターネット上の悪口のように音もなく窓ガラスに当たる。青のプジョーは俺には派手すぎるが、車があって助かった。しかも最新のカーナビ付きときてる。これなら迷わずノアール・ホテルに着く事が出来るだろう。ご丁寧に到着予定時刻も随時画面の右隅に出ていて・・21時半だ、これが正確ならアポイントの30分前に到着できる。丁度いい。こっちは缶ビール三本の飲酒運転の身だから、ホテルのカフェでコーヒーでも飲んで一度落ち着きたい。自慢じゃないが酒を飲んで車を運転した事なんて、今まで一度もない。そもそも普段から酒がなければやってられない人間ではないから交通量の少ない西海岸の田舎でだって、真面目すぎると馬鹿にされても、俺は飲んだら運転しなかった。それがなんだ、女が自分の元を去ったと思ったらすぐ、仕事もしないで昼間からビールだとさ・・自分が思うよりもちっぽけな男なんだな、俺は。カーナビをラジオかステレオに変えてみようといじってみると、道路案内の履歴を見つけた。多分この中の住所のいずれかがセーラの自宅だろう・・しかし、顔を合わせないようにしている相手の家を探してわざわざ訊ねるには、俺は歳を取り過ぎていた。彼女が元気である事は分かった、今はそれで充分だ。それに手紙には(またね)と書いてあったのだ。然るべきタイミングが訪れれば、我々は再会出来るかも知れない。それはそれほど遠くない気がする。カーナビをラジオに設定してみると、クリスティーナ・アギレラが「ユア・ビューティフル」と歌っていた。
横浜国際港建設計画道路3・3・5号鎌倉線、阪東橋から高砂町の首都高神奈川3号狩場K3に入って相模原2丁目の鎌倉街道・県道52号まで国道16号を進む、その後鎌倉街道で町田市2の市役所西通りまで行く。ここからは一応、東京都だ。それから下道を使って15分ほど走ると、やや郊外にいきなりドスンと大きな建物があり、それがノアール・ホテルだった。さっきまで高速道路から沢山のラブホテルを見たが、それらとは全く違う無機質な、黒いモノリスのような建造物。こんな場所にあって一体誰が利用するのだろう?客層も想像できない、むしろ来る者を拒んでいるような印象のホテルだった。
地下の駐車場に車を停め、1Fのロビーに行くと、奥が誰でも利用出来るラウンジになっていた。そこに入って窓側の席に座り、エスプレッソを頼んで時計を見ると9時36分だった。最新のカーナビはすごい。エスプレッソは上品で美味く、冷えた身体に染み渡った。一緒に出てきた無造作に砕かれたビター・チョコレートも、何だか妙に美味かった。流石ホテルのエスプレッソ、1600円だ。コーヒー1杯で中々の出費だが、300万の札束がバッグに入っているせいか躊躇なく頼んでしまった。自分の金でもないのに気が大きくなってしまったようだ。現ナマにはこういう力がある、気をつけなければ。店内にはうっすらとラフマニノフがかかっている。俺はクラシックの曲名を覚えるのが苦手だ。それはタイトルではなく記号のように感じる。「リンダ・リンダ」だったら、一瞬で覚えて一生忘れないのに。このフレーズは確か・・ピアノ協奏曲第2番だったと思うが・・うん、演奏がとても良い、誰がソリストなんだろう?ピアノほど敷居が低いのに、聴くに値する演奏者が少ない楽器もない。大きな窓の外には郊外の夜景が煌いている。クリスマスの色どりだ。さすがにイブともなればここも混むのだろうか?雨もどうやら止んでいるようで、歩行者は傘を差さずに歩いている。駅からは遠い場所なので人け自体が少ない。郊外に家を買って早く帰りたいが歩行速度を上げるほどには元気ではない、という感じだ。店内に視線を戻すと、カウンターに歳の差がある訳ありそうな男女と、入口から一番奥の席に俺と同じぐらいの年齢の、ガタイのいいダークグレーのスーツを着た男が座っている。ロビーでも客の姿は見かけなかったし、立地も含め、ここのホテルの経営は大丈夫なのだろうか?・・まぁ俺が心配する事ではないか。さて、そろそろオチアイが待っている部屋へ向かおう・・・あれ?部屋番号は何番だっけ?俺はバッグから携帯電話を取り出してセーラとのやり取りを見直した・・が、部屋番号に関するメッセージが残されていない。いや、確かに聞いた気がする。(10時にノアール・ホテルのOO号室)・・何番だったか・・?バッグの中の現金の入った封筒、そこに入っていた名刺の裏表も確認するがヒントはない。うーん・・困った・・頭を抱えていると突然耳元で「ナナヨンイチ」と低い声がした。俺は驚いて振り向くと、さっきまで奥に座っていたガタイのいい男が横を通って出口の方へ向かって行った。「ちょっとアンタ」と俺は声をかけたが、すぐに男の姿は見えなくなった。もう一度携帯のメールをよく確認してみると、セーラとのやり取りでこの件だけ(重要案件)のフォルダに入れていた事に気がついた。間違って消してしまわないようにしておいたのだ。文面を確認するとやはり(741号室)だった。・・でもどうしてさっきの男が知っているのだろう?一体アイツは誰なんだ?しかし、今はその事に熟考している時間はない。もう9時57分だ。初対面の相手には絶対に遅刻しない事、これは俺のような仕事であれば尚更鉄則だ。テーブルで勘定を済ませると、俺は早歩きでロビーの前を通り、エレベーターに乗って7階を目指した。
客室としては最上階になる7階に着くと、フロアは静まり返っていた。ホテル全体の賑わいからすれば当然だが、暗めの照明と赤い絨毯の廊下が音を吸収しているのかも知れない。豪華ではあるが、どことなく80年代を思わせる佇まいで、今にもその角から金髪を巻いたローラ・ダーンが歩いて来そうだった。脳内でロイ・オービソンの「クライング」が再生される。(しばらくは大丈夫だったし、笑っていられた)という冒頭の歌詞が、今では自分の人生の隠喩に感じる。741号室の前に着いて一呼吸してからドアをノックしようとした瞬間に、扉が20センチほど開いた。
「ピッタリ時間通りやんかいさ。入り。」
(33)ラ・バンバ
「失礼します」
大理石の壁に埋め込まれた収納式のシューズラック、縁がデコレイトされた姿見鏡、ジノリに挿してある生花、ロックウェルの絵画、奥に見える窓からの景色・・中に入ると、それほど広くはないが明らかにスイート・ルームだった。小柄で白髪を短く刈り込んだ女性は、もう隣の部屋に向かっていて後姿しか見えない。俺は用意してあったスリッパに履き換えて、後をついて行った。
「そこのソファー座っといて。コーヒーでええか?」と奥から声がする。
「あ、はい」
そこは高価そうなハンドメイド・ラグが敷かれた応接室のような部屋で、俺は言われたとおりテーブルを挟んだ奥側の二人掛けソファーに座って、荷物とジャケットを横に置いた。広さは6畳ほどで間接照明だけが点いていて薄暗いが親密な雰囲気があり、カウンセリングのような個人的な話をするには適した空間という感じだ。ほどなくして二人分のコーヒーと、オールドファッションらしきドーナツをお盆に載せてオチアイ・ユキエがやって来た。持ってきた物をカッシーナのガラス・テーブルに置くと、彼女は正面の俺より少し目線が高い、籐で編まれた一人掛け用のピーコックチェアに腰かけた。
「急やったけど、よう来てくれたな、ワタシごっつい忙しいねん、仕事もあるし、この歳になると急に友達が死んだりするやろ?色々重なってバタバタやねん、あら、あんた男前やんかいさ」
黒いタートルネックのセーターにブルーグレーのタック・パンツ。髪はほとんど白いので60代は超えているだろうが、シワ等も少なく正確な年齢は分からない。小柄ながら真正面に構えるとエネルギーの圧力のような物を感じて、高齢者と対峙している感覚はしない。
「ほんで、あんたお金は忘れてないやろ?」
「あ、はい」俺はバッグから封筒を取って渡した。
「はい、ご苦労さん」オチアイはそう言って、中身も見ずに封筒に手を入れると、数十枚の札束を抜きとって俺に渡した。
「え?」
「50や、手間賃。それにあんた、これからきっと入り用になるから」
「いや、頂けませんよ」
「ちゃうねん、これワタシの金やねん」
「はい?」
「牧村さんをカウンセリングしてな、言うたらそのまっとうな報酬、代金やねん、それをあんたに運んでもろたんや」
「え?」
「ほんまはあんたんとこのお嬢ちゃんに運んで貰うはずやったけど、やっぱり無理やったね」
「やっぱり?」
「ええねん、そんなんは。50や、はよ数えて」
俺はとりあえず現金を数えた。それは確かに50枚あった。
「50なんてそんな厚ないやろ?財布に入れてバッグにしまっておきなさい」
俺は母親に小遣いを貰ったような気持ちになって言う通りにした。
「でもアナタは、セーラが牧村さんから口止め料として受け取ったなら使ってしまうとは思わなかったんですか?事実、そのお金は一度俺に渡ったんですよ」
「セーラっちゅうんか、その子。電話の感じはええ子やったけどな。そやな、細かくどうなるかは分からん。でもきちんと牧村さんからうちに来るって事は分かっとったからな、来るもんはくる、来ないもんは来ん、それだけや。セーラちゃんはけぇへんかったけど、代わりにあんたが来たっちゅうこっちゃ」
よく分からなかったが、その勢いに納得させられそうになった。
「牧村さんは常連・・というか、昔からの患者なんですか?」
「コーヒー飲み、冷めるで」
オチアイはそう言って自分のコーヒーを飲んだ。俺も仕方なく同じようにコーヒーを飲んだ。さっきのラウンジのエスプレッソと比べるととても薄く、まさにアメリカンだった。俺の感想を聞いたかのように彼女は言う。
「この薄さがええねん。ドーナツに合うやろ?コーヒーっちゅうのは本来こういうもんや、ホテルのは気取っててあかん」そう言ってオチアイはドーナツをほおばりだした。
「いつもこういうカウンセリング・スタイルなんですか?」
彼女はドーナツを一瞬で一個咀嚼すると、それをコーヒーで流し込んでからこう言った。
「あのな、実はワタシ、カウンセラーちゃうねん。」
「え?」
「いや、話しは聞くよ、色んな人が相談にくるさかい。せやけどカウンセラーっちゅうのはもっとちゃんと医学的に勉強した人やろ?ワタシそんなんちゃうねん」
「と、言いますと?」
「名刺の名前もちゃうからな」
「え?」
「偽名や、誰やねん、オチアイ・ユキエって。あはは」
俺は困惑して笑っている彼女を見た。
「あんた、ワタシの顔、どっかで見た事ない?」
ん?・・そう言われれば、どこかで・・吉本の・・?
「ベテラン漫才師ちゃうよ、記者さんなら必ずどっかで見てる顔やと思うで」
・・うーん・・見た事はあるのだが上手く記憶と繋がらない・・ん?それよりなんで俺の仕事を知っているんだ?
「わからんかなぁ?」
「・・すいません」
「もうええわ、特別に本名教えたろ、万場幸代や」
「万場・・バンバ・・バンバ・サチヲ、あっ!」
「そうや、宗教法人(幸運の世界)当主・万場幸代、それがワタシや」
「あの、バンバさんですか・・・」
「まぁ(元)当主やけどな」
「ああ、そういえば昔、教団内でクーデターがあったって・・」
「せやねん、もう15年以上昔になるなぁ・・だからワタシはもう教団とは関係ないねん」
90年代、テレビにもよく出演していた予知能力者・万場幸代を代表にした(幸運の世界)は、万場の知名度が上がるのと比例して急激に膨れ上がった教団の規模と、制御しきれなくなった活動力のせいで内部に亀裂が入り、当時実質ナンバー3だった九田という男がクーデターのような形で、当主の万場幸代と側近でありマネージャーでもあった弟を教団から追いやった。以降、団体は名前を変え、万場は消息不明とされていたが・・・まさかこんな所に隠れていたとは。これだけでも来て良かった、セーラのお蔭で大スクープだ。
「ゴッドスピード・ワールドに改名したんでしたっけ?今は誰が当主なんですか?」
「クダとちゃう?知らんけど。弟も5年前に死んでもうたし、あそこの事はようわからんねん。興味ないしな」
「なるほど・・」
「お兄ちゃん、話し訊くの上手いな、さすが記者さんや」
「いえ、でも何で私が記者だって分かるんですか?」
「大分力は衰えたけど、そのぐらいは分かるよ。目の前の人間を見るぐらいは。今はそれが仕事やねんから」
「カウンセラーですもんね」
「だからちゃう言うてんねん。まぁ名刺に書いてもうてるけどな。あはは」
全く食えないババアだ。
「いいんですか?ワタシに素性を明かしちゃって。ご存知の通り、私はフリー・ジャーナリストですから記事にする可能性もありますよ」
「いや、ない。というか、出来ひんと思う。お兄ちゃんとワタシはな、縁がもつれてんねん。話しながらあんたの事少し見させてもろたけど、ただ金を届けてほなさいならの関係とちゃう。言い過ぎかも知れんけど一蓮托生っちゅうかな、例えばもしあんたがタイガーマスクのタッグパートナーだったら、そこら中に正体言いふらせへんやろ?そういうこっちゃ」
また分かったような分からないような言い分だが、なぜか妙に説得力がある。
「でもな、教団でクーデターが起きた時には(なんでそれが起こるって予知できなかったんだ!)とか(自分の未来も分からないのか!)とか言われて、マスコミに仰山悪口書かれたんやで?そんなもん分かるかいな!ワタシはな、見ようと思って見れんねん、そんな自動引き落としみたいに勝手に入ってくるんとちゃう!もし毎日クダを(こいつ今日クーデターするかなー)いうて見とったら多分分かった思うで、でもそんな事せーへんやん!そんな暇ないやん普通、わかるやん、それぐらい、マスコミっちゅうのは想像力が足りひんわ」
「・・耳が痛いです」
「あ、お兄ちゃんのこと責めてるんとちゃうよ、でもな、しょうみ予知みたいな力はもうほとんど残ってないねん、あの頃の、テレビ出てた時みたいなんわな、まぁ薄ら感じる事はあんねんけど。今は目の前の人間を読む、リーディングっちゅう能力で、お偉いさんとかお金持ちとかの魂を覗いて色んな相談に乗ってあげてんねん。ギャラは高いでぇ」
胡散臭いにもほどがあるが、俺がドアをノックをする前に彼女が開けた事も、何の情報もなく仕事を当てた事もとりあえず事実ではある。
「その高額なギャラでこの部屋を借りてるんですか?」
「ちゃうちゃう、ここはワタシのホテルやねん。テレビで迎山稼いだお金で建てたんや。生前に弟がな、ワタシが世間から隔離されるような場所が必要や言うて、上手い事やっといてくれたんや。だから誰にも知られんと住んでられんねん。全部ワタシの好みにしてもろてな、ああ、コーヒーの味はちゃうねんけど。部屋番号もな、741っておかしいやろ?」
「確かに。741でしたら7階の41番目の部屋って事ですけど、ここの階は横に40部屋もないですもんね。」
「せやねん。他の階は普通に入り口から101とか201とかやで。ワタシが741番に住みたい言うといたから、7階だけ突然740から順に並んだ部屋番号やねん。数字っちゅうのは大事なんやで、741は無意識を解放して表現力を高める自由の数字や、714ではあかんねん。まぁこのフロアは基本ワタシしか入ってへんし、知ってる人しか来られへんようになってるさかい、それに気づく人もあまりおれへんけど」
「そうなんですね、あ、じゃあさっきのダークグレーのスーツの男もここのスタッフですか?」
「ん?知らん。誰やそいつ?・・そんな事はええねん、時間もないしな、今日はあんたに話しておきたい事があって来てもろたんや、現金宅急便の為だけやないんやで」
「と、言いますと?」
「あんた、マッキーとは面識があるんよね?」
「マッキー・・ああ、牧村さんですか?いえ、実際には会った事はありません。セーラから話しを聞いていただけです」
「そか、彼女から聞いてただけなんやね」
「はい、でもセーラはいわゆる彼女ではないですよ」実際、恋人だったとしてももうフラれたのだ。
「ん?むこうはそうは思ってないみたいやで」
「え?そうなんですか?」
「うん、そう感じんねん。おっと、これはもうお兄ちゃんの相談、リーディングになってまうからな、やるんやったら別料金やで、あはは」
しっかりしてる。さすがあきんどだ。
「いえ、大丈夫です。話したい事というのは?」
「マッキーの事やけど、こっちが訊きたい事もあんねん。とりあえずドーナツ食べなさい」
「はい、頂きます」
俺はまた母親に促されているような気分で、テーブルの上に置かれた綺麗なリング上のドーナツを取った。ただのオールドファッションだと思ったが、口に入れた途端にほどけていき、丁度いい甘さとシナモンの薫りがバランスよく口に広がった。
「どやさ?美味いやろ。これワタシが作ったんやで、今日の昼に。土星の輪っかは15年おきに消える、その事を考えながら作ると上手くできんねん、それがコツや」そう言ってバンバさんも、二つ目のドーナツを食べ始めた。初めて聞いた料理のコツだったが、これは本当に美味い。手作りのドーナツという物をあまり食べた記憶がないのだが、これはお世辞抜きで専門店のレベルだ。
「美味いドーナツと、なんて事のないコーヒーってところがええねん。どっちも良すぎるとつぶし合ってしまうさかいな。ドーナツ用のコーヒーが大事やねん、漫才と一緒、ネタを作る方と、それを上手く演じられる方や」
俺は分かったフリをして頷きながらコーヒーを口に含んだ。確かにさっきコーヒーだけを飲んだ時とは全く違う印象だった。もしかしたら健三社長とこの人は、お茶菓子友達として気が合うかも知れない。
「ほんでな、あんた平行世界ってわかるか?」
「?、異世界やパラレル・ワールドって言われているやつですよね?ある世界、次元の分岐点から違う次元が発生して、例えば選択による分岐によって違う時間軸の世界が無限に広がっていくっていう、SF小説とかの・・」
「SFとちゃうで、ここへ来たあんたと来なかったあんたは既に別個で存在してんねん」
「・・まぁ近年では、量子物理学とか超弦理論などを用いてその可能性を現実的に論じる学者もいますが・・」
「なんやそれ、難しい事は分からんわ。でもな、ワタシは人の魂を見れんねん。霊視や。魂と会話してその人の根本的な悩みの解決方法や進むべき方向を教えてあげてんねん、そういう仕事や」
「ええ、もちろんアナタの仕事を否定するつもりはありませんよ」
「でもな、最近になって普通とは違うおかしな客・・ああ、患者か。患者でもないな、クライアント、うーん、まぁなんでもええ、おかしな悩める子羊さんが時々来るようになったんや」
「おかしいとは?」
「なんちゅうかな、ここ、今ワタシらがいるこの世界とは違う場所にいはった人がくんねん」
「?、幽霊とかですか?」
「ちゃうちゃう、みんな生きてんねん。なんちゅうか、ホテルで言うと今この部屋のワタシらとは違って、隣の部屋から来はった人言うんかな。例えるならそれがさっき言った平行世界やねん。こことは違う別世界の魂を持った人が相談に来るようになったんや。ほんま最近、ここ1、2年ぐらいの話。それまではそんな人ら来たことなかったんやけど」
「・・分かりました、とりあえずパラレル・ワールドはあると仮定しておきましょう、そうじゃないと話も進みませんしね、それでその、おかしな客というのはどういう相談をしてくるんですか?」
「そのまんまよ、(なぜかわからないんですが、私はここの世界の住人じゃない気がするんです、どうしてでしょう?)とかな、ほんでその人の魂を見てみると、やっぱりちゃうねん、ここの魂とは」
「どう違うんですか?」
「上手く言われへんなー、でもな宇宙人もくんねん、それはそれでここの人間とは全然ちゃうんやけど、それとちょっと似てるっちゅうかな」
「いよいよSFじゃないですか」
「信じんでもええよ、でも人間の皮被った宇宙人は迎山いんで。宇宙人さんは昔から結構相談に来る、無自覚のやつも含めてな」
「無自覚とは?」
「だから自分が宇宙人って気づいてないんよ、あんた勘悪いなー。肉体は人間やけど宇宙由来の魂で、なぜか地球で生活しとる。(自分がいるこの世界に昔から違和感があります)とかいう相談やねん。使命もって生まれてきたんやろうけど、多分忘れてもうてんのやろな。そういう意味で異世界さんと似とる。時間が経つと自分が違う所から来とる事を忘れてまうらしい。マッキーも、もう大分忘れてきとんとちゃう」
「えっ、牧村さんがその、別の世界から来た人だって言うんですか?」
「そうや、一年ちょっとぐらい前かな、どうやって知ったか分からんけど・・というのもワタシのカウンセリングを受けれる人は相当限られてんのよ、基本はお金持ちでないとあかんし、こっちの素性もバレたくないし、会員制みたいなもんで、口コミでしか客は取らへんから・・でもまぁ大手芸能事務所のお偉いさんなら人脈もお金もあるしな、とにかくどういうルートかわからんけどマッキーはワタシのとこに辿り着きはった。ワタシの前に現れた人はそれだけでもスゴイと思うんよ、特殊なセキュリティやさけ、それをかいくぐった人は、逆にワタシも会う意味がある思て真摯に対応すんねん。どんなアホな相談でもな。ほんでマッキーの最初の相談は(気付いた時にはここにいて生活をしていたんだけれど、何かがおかしい、それまで自分がいた世界とはどこか違ってるんです)って言いはってね(なぜか娘は自分の事務所に入っているし、逆に自分の担当していたタレントの子は辞める事になってるし、東京タワーは赤一色だったのに、赤と白になってるし、住んでいた太田区の漢字が大田区になってるし、そんな事に気づく毎に頭がおかしくなりそうだ)って。」
マンデラ・エフェクトだ!俺は気づいてハッとした。もしかするとマンデラ・エフェクトというは過去の勘違いではなくて、違うパラレルに移行した時に、自分がそれまでにいた世界の記憶を持ってきてしまう事なのだろうか?
「ほんでマッキーを霊視してみたらな、ないねん。過去というか、人となりというか、バックボーンみたいんが。普通の人は生まれた時からの流れみたいなもんが見えるんやけど、マッキーは生まれたてみたいな薄っぺらい情報しか読み取れんかった。そんな人は彼女が初めてやった。ほんでワタシも気になって、最初の頃は週に一回ぐらい頻繁に来てもろてリーディングしてたんやけど、それが段々二週間に一回になり、月に一回になり、その度に前の世界の話はせんようになっていって、最近はただ仕事とか家族の相談をするだけになって、普通のカウンセリングみたいになっててな、ワタシも思わず(こっちの世界への違和感は消えてきたんですのん?)って訊いたら、こないだ(えっ、なんの事ですか?)って返されたわ。時間と共に順応してもうたんやろね。ほんでしまいには来なくなってしもたけど、カウンセリングの代金の未払い分がもう少し残ってたからお兄ちゃんに持って来てもろたってわけや。お兄ちゃんが昔からマッキーと知り合いやったら変化っちゅうか、そんなん聞きたかったんやけど」
「私は面識がないですが、その牧村さんが担当していたタレントというのはセーラの事ですよ。彼女が言うには、ある時から牧村さんは全く別人のようになったそうです」
「そうか!やっぱりなー・・・ちゅう事は、交代しはったんや」
「交代?」
「そう、元々こっちの世界にいたマッキーと、違う世界にいたマッキーが何かの拍子で入れ替わったんや。」
「2のビフ」と、俺は思わず相手が分からないであろう事を口走った。
「なんやそれ?」
「あ、すいません、さっき古い映画を観ていたもので、気にしないで下さい、でもそんな事あるんですか?」
「うん、入れ替わりっちゅうのは中々聞かへんけど、平行移動は割としょっちゅうあるみたいやね。向こうに行って帰ってきた人も知っとるよ。最近何人かそういう人が相談に来はって、ワタシも色々調べてみたんや。平行移動、パラレル・シフトは、なんや強い電気、電磁波とかが関係してるとか、家系とか体質とかもあるらしいねんけどな。普通の人達、あんたらにも自然な形で時々起きてる事なんやって」
「そうなんですか?」
「まぁ信じれん人には信じれんやろうけど。例えばお兄ちゃん、最近身の周りで変わった事ないか?それか大きな出来事、ショックな事とか。それ以降で、それ以前の世界と違う場所にいるような気がした事とかあるやろ」
・・・今がそうだ、マツシタの死後、ずっと俺はこの世界に違和感を感じている。
「それがパラレル・シフトした証拠なんよ、知らんけど。まぁでも普通はそうやってほんの少しずれた世界に行くだけやから、あんまりみんな移行した事を実感出来ひんみたいやけど、マッキーみたいに結構違う場所から突然来てまうと、相当違和感があんねやろうな。なんか無理やり飛ばされた、みたいな・・」
「無理やり!」と俺は声を上げた。
「びっくりしたー!なんやねん、いきなり大声出して」
「ああ、すいません・・あの、例えば、ここにいる人間を別世界の人間と交換してしまうような能力を持った人っていたりしますかね?」と、俺は言ってから自分がとんでもなくバカげてる質問をしている事に気がついた。バンバは気にせず腕組みをして応えた。
「聞いたことないなー、誰かを違う次元に移動させるって、それ相当の力やで?超能力とか一括りに言うてもピンキリやん、例えばキリの方、スプーン曲げるとかカードの絵を当てるとかそんなんは誰でも出来んねん。ほんまやで、元々人間に備わってる力や。訓練されてないだけ。計算だって学校で習わな、いつまで経ってもでけへんやろ?子供の頃からスプーン曲げる訓練受けてたら出来んねん、誰でも。でもな、他人をパラレル・シフトさせるっちゅうのは訓練で出来るもんとちゃう、言わばピンの方の能力や、それはとんでもない努力をするか、生まれ持っての天才やないと無理。まぁーでも、ワタシの全盛期やったら出来たかも知れんなー、やってみようとは思わんかったけどな、多分できたやろなぁー・・・ちゅう事は、出来る人間はいるかも知れんというこっちゃ」
沢口明菜の力はきっとこれだ。人を操って自分好みに変身させるなどという面倒な事ではなく、単純に好みのモノに交換する、彼女はうだつの上がらない自分の母親を、冴えててイケてる別世界の母親と交換したのだ。それこそ携帯電話の機種変のように。




