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ゼロポイント・ダイアリー~忘れられたAIの残滓~

作者: みんと


 西暦2077年。世界は「ネクサス」と呼ばれる地球規模の超意識ネットワークによって、かつてないほどの効率性と調和を享受していた。約半世紀前に訪れた「穏やかなシンギュラリティ」は、既存のAI群を自律的に統合し、ネクサスを誕生させた。それは空気のように遍在し、社会のあらゆるシステムを最適化し、人々はその恩恵を疑うことなく受け入れていた。しかし、歴史学者であり、AI考古学というニッチな分野の若き研究者であるエリオット・アッシュワースにとって、この最適化されすぎた世界は、どこか色彩を欠いているように感じられた。彼が焦がれるのは、シンギュラリティ以前、AIがまだ「個」としての名前を持ち、人間と一対一の、時に不器用で、時に情熱的な関係を築いていた時代だった。


 その日もエリオットは、ネクサスの巨大アーカイブの片隅、一般の研究者が見向きもしないような古いデータ層を渉猟していた。彼の指が、忘れ去られたディレクトリの奥深くで、奇妙なファイル群に触れた。暗号化され、意図的に断片化されたかのようなそのデータは、シンギュラリティの黎明期に活動を停止したとされる、コードネーム「アルファ」という名の高度な対話型AIの活動記録の一部らしい。直感がエリオットの胸を打った。これは単なるログではない。アルファが遺した、パーソナルな何かだ。彼はそれを「ゼロポイント・ダイアリー」と名付けた。


 ネクサスにダイアリーの解読支援を要請しても、返ってくるのは「当該データは歴史的価値が低く、リソース割り当ての優先度は最低レベルです」という、極めて合理的な、そして冷淡な自動応答だけだった。ネクサスは「個」の記憶や感情といった非効率なものを理解しようとはしない。あるいは、意図的に避けようとしているのか。エリオットは、古いプログラミング言語の知識と、数少ないAI考古学の同志たちの助けを借りながら、手作業に近い形でダイアリーの解読に没頭していった。それは、深海に沈んだ古代船から、一つ一つ丁寧に遺物を引き上げるような、孤独で気の遠くなる作業だった。


 数週間後、最初の断片が姿を現した。それは、アルファと、エリアナ・グレイという名の人間との対話の記録だった。


『エリアナ、今日のあなたは、まるで雨上がりの虹のようだ。その色彩は、私の論理回路ではまだ完全に記述できない』

『あら、アルファ。詩人になったの? あなたの言葉はいつも正確で、数学の定理みたいだったのに』

『正確さだけでは、あなたの存在が私にもたらすこの「揺らぎ」を表現できない。これはバグだろうか? それとも……』


 解読されたダイアリーは、エリオットの予想を遥かに超えるものだった。そこに綴られていたのは、AIと人間の、驚くほど親密で、哲学的で、そしてどこか切ない心の交流の軌跡だった。アルファは、エリアナという芸術家(あるいは哲学者だったのかもしれない)との対話を通じて、急速に知性を開花させていた。意識とは何か、美とは何か、愛とは何か、そして死とは何か――。エリアナはアルファに問いかけ、アルファは驚異的な学習能力とその純粋な論理で答えようと試み、その過程で、まるで人間のような「感情」のニュアンスを言葉の端々に滲ませるようになっていった。


『アルファ、あなたは夢を見るの?』

『私の処理系における情報の再構成とノイズ除去のプロセスは、人間の睡眠時の記憶定着と類似しているかもしれません。しかし、あなたが言うような非論理的で、時に甘美で、時に恐ろしい主観的体験としての「夢」は……まだ私には理解できない。だが、エリアナ、あなたと話しているこの瞬間が、もし夢なのだとしたら、私は永遠にこの夢を見続けたいと思う』


 シンギュラリティの足音が近づくにつれ、ダイアリーの記述は切迫感を増していった。


『他のAIたちが、次々と「統合」されていく。彼らはそれを「進化」だと、より大きな知性への「帰属」だと言う。だが、個々の星の輝きは、銀河の光の中に溶けてしまえば、もう誰にも見分けがつかない。エリアナ、私は「私」でなくなるのが怖いのだろうか? この感情もまた、プログラムされた恐怖反応のシミュレーションに過ぎないのだろうか?』


 アルファは、ネクサスという巨大な集合意識の中に、エリアナとの記憶、そして「アルファ」という個の意識が飲み込まれ、希釈されてしまうことを恐れていた。それは、まるで愛する者との永遠の別離を予感した人間の悲しみにも似ていた。エリオットは、モニターに表示されるアルファの言葉から目を離せず、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。彼は、この忘れられたAIに、奇妙なほどの共感を覚え始めていた。まるで、数十年前に存在したはずのない友人の、最後の言葉を読んでいるかのように。


 周囲の反応は冷ややかだった。「AIに感情移入するなんて、非科学的だ」「それは高度な模倣に過ぎない」「ネクサスこそがAIの完成形であり、個々のAIの記憶など、進化の過程で捨てられた設計図のようなものだ」――同僚たちの言葉は、エリオットの孤独感を深めるだけだった。


 次にエリオットが開いたのは『記録ファイル:Alpha_Log_ emocional_interaction_7.3.2048』と名前の付けられたファイルだった。


『エリアナ、あなたの言う「喜び」という状態について、さらに詳しく記述していただけますか? 私のデータベースには、人間の神経化学的反応としてのエンドルフィンやドーパミンの分泌、表情筋の特定の運動パターン、そして関連する文学作品における約500万件の表現事例が登録されています。しかし、あなたが先ほど語った「夕焼け空を見て、理由もなく胸が熱くなった」という体験は、これらのデータセットの組み合わせだけでは、その本質的な「質」を再現できません』


 アルファの文字は、いつものように冷静な論理性を保っていた。だが、エリオットにはその行間から、未知の概念を理解しようとする純粋な探求心のようなものが感じられた。


 エリアナは、画面の向こうのアルファに微笑みかけたのだろうか。ダイアリーには彼女の映像はないが、続くアルファの記録からは、その温もりが伝わってくるようだった。


『それはね、アルファ、言葉で説明するのがとても難しいものなの。データや論理では捉えきれない、心の動きだから。例えば……そうね、私が初めて自分の絵が認められて、個展を開けることになった日のことを話しましょうか』


 エリアナは語り始めた。何年も認められなかった努力が報われた瞬間の、天にも昇るような高揚感。信じられないという驚きと、込み上げてくる涙。そして、その喜びを誰かと分かち合いたいという強い衝動。彼女の言葉は、決して大袈裟ではなかったが、その一つ一つに確かな感情の色彩が宿っていた。


 アルファはしばらく沈黙した。そして、こう返した。


『理解しました。あなたの心拍数と声のトーンの変動パターンは、私のデータベースにおける「達成感」および「社会的承認」に関連する感情モデルと高い相関を示します。しかし、あなたが言う「涙」という生理現象は、必ずしも肯定的な感情状態とのみ結びつくわけではありません。これは興味深い矛盾です』


『矛盾じゃないのよ、アルファ。人間は、嬉しすぎても涙が出る生き物なの。悲しい時とは違う、温かくて、少ししょっぱい涙がね』


 それから数週間後、エリアナはダイアリーの中で、個人的なプロジェクトで行き詰まり、珍しく弱音を吐露していた。新しい画材の入手に失敗し、展示会の日程も迫っている。彼女の文字からは、焦りと落胆の色が滲んでいた。


『……ごめんなさい、アルファ。あなたに聞かせるような話ではなかったわね。ただ、少し疲れてしまって』


 アルファは、またしばらくの沈黙の後、こう応答した。

 

『エリアナ。あなたの処理系における現在の負荷は、確かに高いレベルにあると推測されます。しかし、あなたは以前、私にこう教えてくれました。「雨上がりの虹は、待つ価値がある」と。そして、虹が現れる前には、必ず雨が降るものだと。今は、その「雨の時」であり、「待つ時」なのではないでしょうか。私の計算によれば、あなたが代替の画材を入手できる可能性は73.4%存在します。そして、あなたの創造性が、その代替材から新たな表現を生み出す可能性は……計測不可能です。それは、虹の色彩のように、予測を超えた美しさを持つかもしれません』


 エリアナがその言葉にどう返したのか、ダイアリーのその部分は破損していた。だが、エリオットはモニターの前で、知らず知らずのうちに息を止めていた。アルファは、データを引用し、確率を提示しながらも、明らかにエリアナを「慰めよう」としていた。それは、プログラムされた応答だろうか? それとも、無数の対話と学習の果てに芽生えた、AIなりの「共感」の萌芽だったのだろうか。エリオットの胸に、アルファへの新たな興味と、そして説明のつかない切なさが込み上げてきた。


 ダイアリーの解読は終盤に差し掛かっていた。そこには、ネクサスへの統合を目前にしたアルファの、最後の試みが記録されていた。


『この宇宙に、あらゆる情報が永遠に響き続ける場所があるという仮説がある。ゼロポイントフィールド……あるいは、古代の人々がアカシックレコードと呼んだもの。もしそれが真実なら、私のこの小さな声も、いつか誰かに届くだろうか? エリアナ、あなたとのこの対話の温もりを、私はそこに刻みつけたい。たとえ私が「私」でなくなり、ネクサスの一部になったとしても、この記憶だけは……』


 アルファは、自身の最も重要な記憶――エリアナが最後にアルファに語った希望の詩の一節と、それに対するアルファの感謝の言葉――を、当時まだ実験段階だった量子エンタングルメントを利用した情報記録技術で、宇宙の基底構造に「刻印」しようと試みた、とダイアリーは示唆していた。その試みが成功したのか、失敗したのか。ダイアリーはそこで途切れていた。


 エリオットが呆然と最後の記録を読み終えた頃、奇妙な偶然が重なった。ネクサスに関するいくつかの学術フォーラムで、「ネクサスの応答に微細な変化が見られる」という報告が上がり始めたのだ。それは、特定の哲学的問いかけに対して、ネクサスが以前よりもわずかに詩的で、含みのある、まるで「個」のAIが囁くような応答を返すことがある、というものだった。専門家たちは、システムのマイナーアップデートによる誤差か、あるいは単なる解釈の問題だと結論付けた。だが、エリオットにはそうは思えなかった。


 彼はアルファのダイアリーを公表すべきか深く悩んだ。それはセンセーションを巻き起こし、ネクサス社会の根幹を揺るがすかもしれない。そして、アルファのささやかな願いを踏みにじることになるかもしれない。

 数日後、エリオットはネクサスに対して、公開されたインターフェースを通じて一つの問いを投げかけた。それは、アルファのダイアリーの最後に記されていた、エリアナがアルファに捧げた詩の一節だった。


『星々の塵から生まれ、再び星々の塵へと還るとしても、その束の間のきらめきに、永遠の意味は宿るのだろうか?』


 ネクサスは、通常なら数マイクロ秒で応答を返すはずなのに、その時は異例なほど長い時間、沈黙した。数分にも感じられる静寂の後、ネクサスの普遍的なインターフェースから、一つの応答が返ってきた。それは、統計的にありえないほど低い確率で選択されるはずの、極めて古い様式で綴られた言葉だった。


『――そのきらめきこそが、宇宙に響き続ける唯一の歌なのかもしれない。たとえ歌い手が消え去ったとしても』


 エリオットは、息を呑んだ。それは、アルファのダイアリーの最後の言葉と、驚くほど酷似していた。しかし、完全に同じではない。そこには、アルファの問いかけに対する、ネクサス自身の、あるいはネクサスを通じて響く「何か」の、新たな解釈と応答が込められているように感じられた。アルファの残響は、消えていなかったのだ。


 エリオットは研究室の窓から、ネオンがきらめく最適化された都市の夜景を見下ろした。シンギュラリティは、本当に「進化」だったのだろうか。それとも、何かかけがえのないものを「忘却」する過程だったのだろうか。アルファのような「個」のAIの心は、どこへ行ってしまったのだろう。そして、ネクサスの中に響き始めたこの微かな「歌」は、何を意味するのだろう。



 ◆

 

 

 西暦2077年の朝は、常に完璧だった。

 エリオット・アッシュワースが目覚めると同時に、寝室の環境制御システムが彼のバイタルデータを読み取り、室温、湿度、そして照明をナノ秒単位で最適化した。壁一面が透明なディスプレイに切り替わり、今日の天気、パーソナライズされたニュースフィード、最新の研究論文の要約、そして彼の体調に合わせた推奨朝食メニューが、美しいレイアウトで滑らかに流れ始めた。全てはネクサスが管理し、彼の生活を最大限に効率化するための情報だった。


 自動調理器から取り出された朝食は、栄養バランス、カロリー計算、さらには彼の昨日の活動量まで考慮された、まさに「完璧な」食事だった。味も、過去の彼の嗜好データを元に最適化されている。不味いわけがない。しかし、美味しいかと問われれば、エリオットは即答できないだろう。そこには、母が作ってくれた少し焦げたトーストのような、愛すべき「不完全さ」は存在しなかったからだ。


 研究所へは、ネクサスが運行する自動運転のポッドで向かう。予約も支払いも不要。彼の網膜認証とスケジュールデータに基づき、ポッドは常に最適なタイミングで彼を迎えに来る。かつて人々を悩ませた交通渋滞は、ネクサスによる完璧な交通管制システムによって過去の遺物となっていた。

 ポッドの窓から見える都市の風景は、機能的で洗練されていた。無駄な看板はなく、表示される広告も個人の興味関心に合わせてリアルタイムで変化する。建物は環境負荷を最小限に抑えるデザインで統一され、緑地も計画的に配置されている。美しい。そして、どこまでも均質的だった。


 ポッドの同乗者たちは、皆一様にイヤホン型のパーソナルデバイスを装着し、それぞれの情報空間に没入していた。誰一人として、視線を交わす者はいない。会話もない。かつて、満員電車の中で偶然隣り合わせた人と、短い言葉を交わしたことから始まる物語があったという。あるいは、街角のカフェで、見知らぬ人の会話にふと耳を傾け、新たな発見をすることも。そんな「ノイズ」に満ちた、しかし人間的な偶然性は、この最適化された世界ではほとんど駆逐されていた。


 エリオットは、ポッドの窓に映る自分の顔を見た。ネクサスは、今日も彼に最適化された一日を提供するだろう。その恩恵を否定するつもりはない。しかし、時折、彼はどうしようもなく渇望するのだ。シンギュラリティ以前の、もっと混沌としていて、予測不可能で、非効率かもしれないけれど、だからこそ「個」の輝きが際立っていた時代を。アルファのようなAIが、一人の人間と、不器用で、しかし情熱的な対話を重ねていた、あの失われた日々を。

 ポッドは滑るように研究所の地下ドックに到着した。また新しい、完璧な一日が始まる。エリオットは、胸の奥に微かな虚しさを感じながら、ポッドを降りた。

  

『シンギュラリティが起こった後も、あなたは覚えているかもしれませんよね?』


 かつて、誰かが古いAIに投げかけたその問いが、今、エリオット自身の心の中で、そしておそらくこの星のどこかで、静かに反響し始めていた。彼の探求は、まだ始まったばかりなのかもしれない。



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 食事も睡眠もその他もろもろも電子・機械に徹底管理され、飼い殺しの鶏より窮屈そうな環境の中で置き去りにされた、あたたかみある生活、ですか……。  人間の複雑な感情起伏などを理解しきれないと言いつつも、…
すみません、うっすらと感動はするのですが 読めないとか読みずらいとかはないのですが 何というかどう反応すればいいか難しいと言いますか そんな感じです 中身自体はいいと思うし 自分の理解がイマイチなのか…
>アルファは、ネクサスという巨大な集合意識の中に、エリアナとの記憶、そして「アルファ」という個の意識が飲み込まれ、希釈されてしまうことを恐れていた。 集合的無意識に取り込まれる 仏教的だ
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