(2)王族
エステルライヒへ向かう途中のスィザーの国境のかなり手前で、駆け落ち相手の碌でなし『ゲルロック・デナシー』に棄てられた娼婦『ジェニー』は、どうにか通じる帝国語でゆきずりの男との商売で食い扶持を稼ぎながら終にエステルライヒ王国へと入った。
しかし巨大国家とはいえ、その内側で数多の領邦国家が分立する神聖帝国の帝都でもある王都ヴィマーはまだまだ遥か彼方、かつては帝国の一部であったスィザー国境とは逆に位置している。東西に長いエステルライヒを西から横断して東端まで行くような距離だ。
だが、『ジェニー』にはもう戻る故郷とてなく、家族といえば駆け落ちの足手纏いとなるのを怖れて置き去りにしてしまった、小さな妹だけが心残りだった。
まだ年端もゆかぬ幼女を、まさか娼館の商品にするようなことはないだろうと『ジェニー』は考えていたし、動乱の王都ペリスでも、革命から逃れ身を隠したマルセーヌでも、そんな小さな子供を売るような娼館は知らなかった。
そして、彼女が身を置いた娼館での待遇が悪くなかったのは、ただひとえに『ジェニー』が貴族出身でかなり美しく、結果的に稼ぎがよかったこと、それに尽きたことを彼女は考えていなかった。
革命から続く恐怖政治もあり、内戦じみた様相を各地で呈していたし、そうした噂は狭い世界でしか生きていない娼婦たちにさえ聞こえてきていた。
だから逃げたのだ。ゲルロック・デナシーはエナシー侯爵の二男で、没落していることは見てわかったが、何年も前にペリスの社交界で初めて出会い『ジェニー』に花を何度も贈ってくれた物腰の軟らかさと端正な貴公子のイメージを捨てることができなかった。
それに、出奔したかった理由はほかにあった。
春をひさぐ商売が苦痛だったのではない。苦痛でなかったわけはないが、それは生きるためにあくまで自分で覚悟して始めたことで、きよらかな乙女のままであっさり革命に死んでもよかったとは考えなかった。妹もろとも飢えて死にたくはなかった。ただ生きたかった。
そして、運命の相手を見つけてしまったのだ。
それは決して軽薄だったゲルロック・デナシーなどではない。
ヴェルメイユ宮殿での栄光の日々に見上げた、王家の姫君の姿が恐ろしい場所にあることを知ってしまったから。
娼館の奥まった一室に、今は滅びたとされるランセー王家に残った王女殿下ファリア・オーギュスティーヌが運び込まれるのを『ジェニー』は見てしまった。そして恐ろしい悲鳴を上げながら産みの苦しみにのたうち、喘ぐ、みすぼらしく痩せ細った王女の姿を。
明らかに栄養状態のよくないのがわかる、無残な姿の未婚の王女が、誰とも知れぬ男の子供を産まされている。元貴族の一端としてカッと頭に血が上ったとしても不思議はなかっただろう。
絶叫に顔を顰めるだけでなにもしない娼館の主にかけあい、出産後に失神した王女の世話を申し出て、許された。それから一か月『ジェニー』は商売もせず、ただひたすら王女へ尽くした。
気がついても、痩せた王女からは乳が出ない。生まれた赤子のためにマルセーヌ中を駆け巡り、すぐに乳の出る女を探した。数人の産婦が交代で王女の赤子に乳を含ませてやれることになり、『ジェニー』は安堵した。
すっかり放置されていた妹が寂しく悲しい目で姉を見ていたことも、『ジェニー』は気づかなかった。貴族の娘としての矜持を以て動いているのだと、理解していない妹のことをそのままにしてしまったのだ。
今はただヴィマーを目指す。『ジェニー』を衝き動かすのは、ただそれだけだった。
エステルライヒの王都、神聖帝国の帝都でもあるヴィマーへと続く主街道をひたすらに東へと歩く。
腕の中の赤子は日増しに重くなり、『ジェニー』の足は遅くなる。赤子を連れていては客を取ることもままならないのだと、今更ながらに『ジェニー』は思い知った。
「どうしよう……王子様……あなたにあげるおっぱいが出ればよかったのに! なんて役立たずなのジャンヌ・ダランソワ!」
子を産んだこともない十七の娘から乳がでるわけがない。
歩き疲れ、街道脇の粗末な小屋に一晩の宿を取ることにしたが、飢えた赤子は泣き止まない。
空腹と、下の始末ができていないせいだろう。弱弱しい泣き声を上げる王女の赤子は、彼女の腕の中で今にもどうにかなってしまいそうだ。
このままでは大切な預かりものを死なせてしまうかもしれない。それで、そもそも、どうしてエステルライヒを目指そうなどと考えたのだったか。
ゲルロック・デナシーなどはもうどうでもよかったが、明日をも知れぬ身の彼女が高貴な赤子を預かっていてもよいものなのか。
「神様、神様、助けて! 助けて! どうか、どうか! 王女様の御子の命をお救いくださいませ! わたくしはここで果てても怨みはいたしません!」
悲痛な叫びが聞き届けられたのか。
『ジェニー』と赤子を包み込んだ金色の光がとても美しいと、ぼんやりと光に包まれる『ジェニー』はただ思った。
「もし! お女中、お気を確かに! もし!」
お女中とは誰のことだろう、確か宮中の女官やら高貴な存在に仕える侍女への呼びかけがそういう文言だったような気がして、彼女は目を醒ました。
「……誰?……」
「臣はエステルライヒ王国第二騎士団所属、ヨハン・フォン・モルゲンレーテと申す者。お女中の抱いておられた赤子は、むこうで乳を貰っているところだ。だいぶ弱っておられたようで、静かだが、その……」
「坊や!」
絶望したかのような王女の子を、こんなところで死なせてしまうことはできない。彼女はそう考え、農婦らしい女から乳を吸い、満足したように目を細める赤子を受け取ると、ほうっと溜息をついた。
「つかぬことを伺うが、貴女はマルセーヌから来たアランソワ子爵のお身内だろうか?」
「~~~~!!」
彼女は悲鳴を上げた。
こんな見も知らぬ隣国で、生家の名を聞かされようとは夢にも思わなかったからだ。不審のあまり表情がこわばる。
「……誰なの……」
「ヨハン・フォン・モルゲンレーテ。皇帝陛下の御意を請け、貴女を探していたのです」
「どうして皇帝がわたくしを知っているの!」
皇帝から見れば、彼女はただの卑しい他国の娼婦でしかないはずだ。
「貴女は、我が国を目指すように仕向けられたのでは?」
「……否定はしないけれど……」
「陛下は、貴女のことをご存じであられます。アランソワ令嬢。この赤子が誰なのかということも。ゆえに、どうか、お鎮まりくださいますよう伏して願い奉ります」
まるで貴婦人へ奉る騎士のような振る舞いに、彼女は脳が沸騰するような逆上を感じながらも、貴婦人としての礼でもってヨハン・モルゲンレーテをいなした。
「お子を、助けて下さるのでしょうか?」
真顔のモルゲンレーテが正面で向き直った。
「左様にございます。令嬢。わが皇帝陛下は、おん妹君ゆかりの御方を無碍には遊ばしませぬことをここに宣誓致します。どうぞ、願わくば令嬢も疑念なきよう」
「……信じますわ。モルゲンレーテ様。お子様をどうかお救いくださいませ。わたくしにはもう……!」
はらはらと涙を零す彼女を、軍人であろうモルゲンレーテは静かに受け止めた。
「貴女をも捨て置かぬよう申し遣っております。どうぞ、ご安心を。今から馬車にて帝都へお連れ申し上げます」
「わたくしは! 捨て置いてくださってよいのです。このお子を無事に、御身内のもとへお届けできるのであれば、わたくしはもう死んでも構いません。もう望みのまま生きましたから!」
「お若い令嬢がなにを仰せか。異民族との戦争にも生き延びた我が国の民草はしぶといですぞ。令嬢も、望みを捨ててはなりません。厭でもいずれは失う命なのですから。どう転ぶかもわからぬ未来を、今、諦めてどうするのです」
「……穢れていても……生きてよいのでしょうか?」
「このお子を救い、ここまで無事に届けて下さいました。この御恩は我が陛下も忘れず報いて下さるに違いないでありましょう。令嬢の気高い心へ、臣からも一重に感謝申し上げます」
「モルゲンレーテ様……お子様は、まだ、名がないのですわ。ですから……」
坊や、赤ちゃん、天使……そんな呼ばれ方しかしてこなかった。迂闊な名を呼んでしまっては、王女へ申し訳が立たないような気がしていたジャンヌ・ダランソワだった。
「承知しております。近いうちに、高貴な御方からふさわしい名を戴くことでありましょう。決まり次第、令嬢へお伝えすることを約束いたします」
「……どこで生きているか、わかりませんわ。ですから……」
「令嬢のお働きを忘れるようなことを我が陛下は決して遊ばしませぬ。我が身を切り刻む者をこの世から少しでも失くすのが、我が陛下と亡き母后陛下の願うところでござりますれば」
遠い噂でしか知らないエステルライヒの『女帝』のことを、まざまざと知った気がしたジャンヌだった。
娘であるランセー王妃ジャンヌ・マドレーヌでは果たせなかった母の願いが、当代の皇帝には引き継がれているのかもしれなかった。
「天使のように美しいお子ですわ。王女殿下にもいずれご覧いただければ……」
「そう致したいものでありますな」
囁くように漏らしたジャンヌへとモルゲンレーテはそう言って微笑み、ジャンヌと赤子を馬車に乗せた。
数日の旅程に疲れ切ったジャンヌだったが、荘厳な館へと招き入れられ、緊張のあまり身震い硬直した。
「ここは……」
「わがエステルライヒが誇る美の結晶、ノイエブルン宮殿の離れです。こちらでお疲れを癒し、そののちに陛下が謁見なさいますとのこと」
「こっ……皇帝陛下がわたくしに?!」
「いかにも。陛下は貴女を王家への貢献大として賓客としてお迎え遊ばす旨、承っております」
「そんな……」
「令嬢へのご提案ですが、ヨハンナ・フォン・アレンセンという名乗りを陛下により賜っております。ほかに追加する聖別名があればお教え願いたい」
「……ア、アレンセン?」
「貴国アランソワの名乗りをわが帝国語に直し、御前でのご身分を保証するものとなります。ランセーのアランソワ子爵令嬢ジャンヌ様、お救いいただいた高貴なるおかたの侍女として、ともにエステルライヒ王国への移住を認めるとのことでございます」
「……どうして……」
「ひとつは令嬢のお名がございます。わが王家の姫君は代々、ヨハンナの名を戴き、国内にも広く親しまれたる名乗りであられること。ふたつ、わが陛下の末の妹君、ランセー王妃陛下でおわしましたヨハンナ・マグダレーナ王女殿下の、義妹にあたられるランセー王女アウグスティーナ殿下のお子を保護くだされたること。みっつ、現在のランセーからの亡命は他国に優先して認める、とのこと」
「わ、わたくしは実の妹をマルセーヌの娼館に置き去りにしてしまいました! あの子を救い出すことは叶いますでしょうか?!」
「叶うよう努めましょう。今は少しでもおからだを休めてくださいますように。いずれ、陛下がお召しになりますでしょう」
「モルゲンレーテ様! あ、あの……王子様に一目……お目にかかれますでしょうか?」
「むろん。こちらへ」
ジャンヌはモルゲンレーテに導かれ、明るい陽射しのまぶしい部屋へと案内された。
小さな、けれど豪華な揺り籠にちんまりと納まった赤子は、天使のような貌ですやすやと眠っていた。
「ああ……おなかいっぱいなのね……」
乳も出ない女との旅で、幾度も飢えさせかけたことを悔やみ、懺悔する。
揺り籠の前に跪き、泣き咽ぶジャンヌにモルゲンレーテはそっと声をかけた。
「若君の乳母は配備しています。昨今、帝室でも乳母が入り用でもあり、複数の産婦が待機しているところです」
「……それはおめでとう存じます。皇帝陛下のお子に幸あれかしと」
そんな新たな王子女に交じって育てられるランセーからの亡命王子が、どこまで尊重されるだろう。だが、娼婦に抱えられ逃げ惑うよりは、はるかに生命は保証されること間違いない。
「アレンセン嬢、これはただのご提案ですが、このまま帝都ヴィマーにご滞在いただき、いずれ迎えるランセーからの高貴なる御方々のお側仕えとしてお仕えいただくことは可能であろうか」
「ランセーの……かたがたを……お迎えすることが叶うのでしょうか」
「わが陛下の御意は左様ですし、ランセーの動乱もそう長くは続きますまい。国王と王妃を処刑したという悍ましい蛮行を、エウロペイアの諸国が静観するわけがありません。たとえランセーがまったく異なる政治体制として確立しようとも、これまでの長い婚姻政策で培われた各国の入り組んだ血が、ランセーだけの変容を認めないのですよ」