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巌窟女王の愛娘  作者: ロサロサ史織
第一章 エステルライヒへの道
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(5)『元』社交界の華、グリュナー侯爵夫人

 



 神聖帝国先々代皇帝ヨハン17世と皇后(『女帝』)ヨハンナ・ガブリエラの六男ロスムントは、誕生時にしばらく産声を上げることもなく、死産と判定される直前になって弱弱しく初めて産声を上げた。

 産声がないことを嘆き、しかも続く後産に苦しんでいた『女帝』と、周囲に仕える女たちを生まれた時から怯えさせた不忠者と見做された。

 生来の虚弱体質に加え、知能も学芸も劣るということで、帝国内の王侯貴族たちの中でのクリステンベルク公爵の評価は地を這っている。

 もとより彼の母『女帝』が出産するには厳しい高齢となってからの末子であり、上の子供たちの中にも誕生日を待たずに夭折した者が何人もいたが、産声があそこまで遅れた子供はいなかったのだ。そしてとても小さな赤子だったのが致命的と見做されている。

 なかなか寝返りを打てるようにならず、歩き始めたのは三つになってから。そして言葉をほぼ話さない。十までは、十五までは、二十歳までは生きられぬだろうと囁かれ続けたが、母后ヨハンナ・ガブリエラとエステルライヒ宮廷にとどまる兄姉たちによる執念ともいえる看病と細やかな世話によってか、年とともに基礎体力が追いついてきたのか、ロスムント皇子は生き永らえた。

 だが、どうにか言葉を話すようにはなっても学習はまったく振るわず、気分転換にと庭園に連れ出せば少しの日差しにも疲れ果て、散歩どころではなくなってすぐに侍従や近衛に背負われて居室へと運び込まれた。

 文字を憶えられなかったために読書はできなかったが、侍従や引退した騎士の語る物語などには興味を示し、よく記憶した。

 外には出られずとも折々に活けられる草花や花木の枝を眺めては絵を描きたがり、専任の美術講師が学術院から迎えられた。夜に絵画の続きをしようとすれば鉱物絵の具を溶いた油が引火してぼや騒ぎを起こしたり、絵の具そのもので気分を悪くし嘔吐したり、祖先が蒐集した絵画や焼き物コレクションに落書きしたり、故意でなく破損させてしまい慌てて直そうとしてさらに破壊するなどということもあった。

 もはや宮殿には置けないと『女帝』が匙を投げ、静かで空気のよい郊外に小さな屋敷を与え、傳役もりやくと古株の侍従たちに一任されるようになった。

 宮中の多くの侍女や女官たちから遠ざかったためなのか、その頃から女人を恐がるようになったという。


 そんなクリステンベルク公爵が結婚した!


 相手は、もはや滅亡したと考えられているランツァー王国の、しかも庶出の王女で、クリステンベルク公爵よりもはるかに年嵩の元修道院長だという。それを早々に懐妊させたと帝国中を騒がせている。

 前触れもなく皇帝がそんないわくのありすぎる女人を公開したのも驚かれたが、年増の公妃へと親しげにまとわりつき片時も離そうとしないクリステンベルク公爵の姿も驚きをもって迎えられた。

 クリステンベルク公爵の女嫌いはつとに著名であったのだ。


「信じられませんこと。あんなにおつむとおからだがお弱くて、お子様のようなおかたが、閨のことだけは名手でした、なんて呆れますわね」

「さもなければ、お相手になられた元修道院長様のほうが極意を究めておられたのかもしれませんわねえ」

「ありえますわね! 女子修道院など昔は娼館と変わらぬ(ところ)だったと聴きますわ」

 皇宮(ホフブルク)のサロンの一角で、貴婦人の集団が声高に『内緒話』をしている。内容は既に皇宮どころか帝国中に噂として流れていることなので、後ろめたさもないのだろう。

「ぅおっほん!」

「きゃっ!」

「たいそう愉快なことをお話しですな、淑女諸姉。(それがし)にも詳しくお聞かせ願いましょうか」

 皇帝の侍従に背中から慇懃に声をかけられた貴婦人たちは、悲鳴を上げて青くなり、一斉に奢侈な扇子を広げて目から下を隠した。

 この結婚が皇帝の意を受けたものであることなど、知らぬ者などいないのである。

 そして、ドレスと体型と声だけでも相手が誰なのかを特定できる能力があるからこそ、彼は皇帝の侍従なのである。

「こ、これはモルゲンレーテ宮中伯閣下、ごきげんよう。いいお天気ですわね。愉快なお話とはなんのことですの?」

 貴婦人たちのかしらだった一人、グリュナー侯爵夫人が強気に向き合った。

 母方からバウフブルク家の血を引くことを最大の誇りとする、『元』社交界の華である。年齢に見合ってたいへんにふくよかでどっしりと威厳はある。

 モルゲンレーテ宮中伯は薄っすらとした笑みを浮かべ、慇懃無礼に重々しく礼をとった。

「淑女諸姉に於かれては、いやしくも皇帝陛下のおん弟君クリステンベルク公爵殿下とそのご寵愛深き妃殿下を誹謗中傷なさいますか。皆様につきましては皇帝陛下と皇后陛下へそのままお伝えするのみ。あとは皆様のご夫君がどうとでもなさるかと」

「なんですって?! お、お待ちなさい、わたくしたちはクリステンベルク公爵殿下ご夫妻の仲睦まじいところを讃えていたのですわよ? お間違いなさらぬよう」

「そ、そうですわよ。殿下ご夫妻は出逢ってすぐにも、それはそれは情熱的に結びつかれたわけですから、歓ばしいことですと話していただけですわ!」

「わたくしたちを讒言なさろうというモルゲンレーテ宮中伯閣下こそ、言い掛かりというものですわ。お控えあそばせ!」

 グリュナー侯爵夫人ゲルマイネの後ろに半分隠れた、ゲーレン伯爵夫人ロスマリナとフーバー伯爵夫人エーリケが援護射撃してきた。

「なるほど。淑女諸姉にはクリステンベルク公妃殿下が羨ましいと(おっしゃ)いますか。そうですか。ぜひ妃殿下へ改めてご紹介など致しますゆえ、お愉しみにお待ちください」

「ちょ、なにを仰いますの。もう両殿下へのご挨拶は済みました。大きなお世話は嫌われますわよ、侍従閣下」

 グリュナー侯爵夫人のふとましくも重々しい威嚇に、モルゲンレーテはわざとらしく片眉を跳ね上げる。

「なんの、ご遠慮召さるな。公妃殿下はエステルライヒにはまだ不慣れであられる。皆様のところの豊かな産品についてきっとご興味をお示しくださいますよ」

 モルゲンレーテはにこやかに一礼して去った。

 貴婦人たちは真顔を見合わせてしまう。

「……ゲルマイネ様、い、いかが致しましょう?」

「……あれはもしや妃殿下へ贈り物などせよというお勧めでは……?」

「お黙りなさいエーリケ様、ロスマリナ様。あんな……落ちぶれた王家の、しかも庶子ですのよ! そんな配慮が必要だなんてありえないわ」

「で、でも、あの、ゲルマイネ様、クリステンベルク公妃はご領地ニンフェンブルクともよく通信なさっているという話もございますし、そ、それに、聖地ザンクト=アンゲレン修道院を運営なさってきた手腕はおありかもしれ……ないと……思うのですが……」

 それまで強気夫人たちの後ろでひっそりと同調していただけの気弱夫人、ベルゲン伯爵夫人サルヴィアがおずおずと発言した。が、グリュナー侯爵夫人の威圧的な視線に言葉尻が消える。

「サルヴィア様。妊娠中の公妃になにができると仰るの? どうせ側近が体裁を整えただけでしょう」

「あら、でもゲルマイネ様、元聖女だからこそ公妃を崇め奉る(やから)もきっと()いて出てきますわ。ザンクト=アンゲレンなどという憧れの聖地からお輿入れなさったのですもの。お近づきになっても損はありませんわよ。……たぶん」

「そうですゲルマイネ様、無駄に敵を作ることはありませんわ。公爵殿下のあのご寵愛ぶりと、皇帝陛下の肩入れを無碍になさるのは危険ですわ。ここで男子などお産みになれば、ますます驕り高ぶるに違いないのですもの。そうなってから近づくのは難しいかもしれませんし……」

「…………そうね、考えておくわ」




 ということで、グリュナー侯爵夫人はその三日後にはどっさりと馬車2台の手土産持参でクリステンベルク公邸を訪問した。むろん前日までに訪問したい旨の使者を立て、面会許諾を確認してのことである。

「このたびは御懐妊、(まこと)におめでたくお慶び申し上げます。初産はなにかと御不安もござりましょう。御懐妊中は御気分が優れない時も多々ござります。子を持つ者として、公妃殿下へせめてものお慰みにと、我がグリュナー侯爵領のお奨めの品など取り揃えて持参致しました。御笑納下さいますれば恐悦に存じまする」

「これはかたじけない。グリュナー侯爵夫人にはお気遣い痛み入る。我が身ももはや若くはないゆえ、今上(きんじょう)陛下、皇后陛下からも雨のような御見舞いを頂戴し、ねぎらいの玉音(ぎょくいん)の数々も恐れ多くも(はずか)しく、身の置き所もなく途方に暮れているところなのだ。グリュナー侯爵夫人にはよくぞ訪ねてくれた。礼を言う」

「……両陛下のおん覚えめでたく、お慶び申し上げる次第でござります」

 深々と跪拝してから、ゆったりとした物腰でグリュナー侯爵夫人は静々と起き直った。

 壁際に設えられた巨大なディヴァン(=長椅子)にゆったりと掛けるクリステンベルク公妃の胸元に視線を置き、目を合わせないよう細心の注意を払い観察する。ほっそりとして美の基準としての肉付きはいまいちだが、気高い美しさと『女帝』好みの簡素な黒いドレス、厳格な修道の世界にいたことを思わせる毅然とした物言いは、侮るには危険とグリュナー侯爵夫人は判断した。

 このランツァーから来た年増王女がエステルライヒ宮廷にデビューした時点で、彼女は公妃だった。クリステンベルク公爵の体調を理由に婚礼は内々に済ませたとの発表があって宮廷がざわつくところ、続く懐妊が発表されたことで、様々な憶測が飛び交い、その上体調を理由に公爵夫妻は公邸に引き籠もってしまったため、実際に当人たちを知る者は一握りの重臣と側近のみ。

 ぽっと出の皇族とお近づきになりたい貴婦人も、興味津々で落ちぶれた王女を見たいだけの貴族も様々だったが、そのほぼ全てが面会を謝絶されたという。

「俗世では滅多にお目にかかれる機もないキーファー大公殿下も、こちらへ御見舞いにお越しと伺いました。驚きました。公妃殿下には、大公殿下と御昵懇であらしゃいますのね」

 全方面で、か弱いクリステンベルク公爵よりも、壮年で壮健なキーファー大公と親密なのだろうという探りに、公妃はにこやかに頷いた。

「いかにも。キーファー大公殿下は我が妹を養女としてお迎え下さり、御支援下さる大恩ある格別なるおかた。幾重にも感謝してしきれぬほど崇高な尊者でおわします。清浄たる神の使徒へ御恩寵を垂れたまえ。グリュナー侯爵夫人は慧眼であられるな」

「……おん妹君であらしゃいますか」

「うむ。今は亡きファライエン26世陛下の嫡妹、ファリア・アウグスティーネ王女殿下である。こちらのおんかたもあまり頑健とは言い難く、慣れぬ異国のことでもあり宮廷に出るのは未だ控えておるのだが、いずれ折を見て皇帝陛下の御意が下されることであろう」

 聖女の託宣のように重々しい言葉に、グリュナー侯爵夫人は愕然となり絶句した。

 革命による幽閉と処刑が伝わる正嫡の王女が実は生きていて、エウロペイアを支配する聖秘蹟教に於ける聖地キーファーの大主聖であり神聖帝国の選帝侯の一人でもある重鎮、キーファー大公の養女となってエステルライヒにある。重大ニュースである。

 もしやそれは、亡国の王女を次なる皇帝の后として迎え入れ、いずれは動乱のランツァーを平定し併合しようという遠大な動きの前触れなのではあるまいか?

 高鳴る動悸を隠しつつ、グリュナー侯爵夫人はまた静々と平伏した。

「…………それは、真に慶ばしい限りでござります。王女殿下にお目に掛かれる日を、幾千秋の思いでお待ちすることでありましょう」

「よしなに」


 頭を下げたまま静々と後ずさり、公妃との会見室を出ると、侍女が続いているかも無視して脱兎のごとくに足早に公邸を退去、馬車を飛ばして私邸へ舞い戻ったグリュナー侯爵夫人が、夫以下の宮廷貴族への天然ラウドスピーカーとなったのはいうまでもない。

 噂は政治をも動かすのである。





けっこう好きですゲルマイネ様、、、ぐぷぷ

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