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文学

空と針

作者: 緋西 皐

路上で寝転ぶ髭男は青い空を仰いでは霞んだ目をしていた。

それは雲を隠すビルの傍ら。明らかに艶のあるビルの壁なのに、色のぼやける白雲のほうを隠すそれにわずかばかりの憤りと諦めを抱いて見上げている。


「高いところに行けば全ての物事が見えたのだろうか。そうすればこの異物に紛れる血液に疑念を抱くことなく、気持ちよく過ごせたのだろうか」


髭男はすでに未練はない。今更人生を変えようなどという熱意も無く、またそれが世間から憚られる心持というのも、たまに身体に刺さる視線から嫌を忘れるほど知っていた。

それゆえに彼のこの言葉を発しさせたのは、ビルの上で気持ちよくタバコを吸うスーツ姿や笑い合う若い女性らへの嫉妬や憧れではない。もはやここに来て彼の心は無く、ただ単に残るある種の本能的な疑問だけである。


それにしては悲しげに町々から映るのは、また彼がそんな目をするのは、むしろそういった疑問を追っているうちに心を落としてしまった、あるいは心の不必要性への悲しみである。

こうして恥をかきながらも彼は未だに死に切れず、とはいえ生きる理由もないというのに、死ぬ理由もなく、また欲望もない。それが悲しいのだ。


「もしも生まれ変われるというのならば、私は彼らの様になりたい。すればこの寂しさも忘れられるのだろう。力と富があれば大概はどうとでもなるという。私にはそれがなかったから確かめようもないが、少なくともここから見える彼ら、そして蔑む視線にはそういった意味を感じている」


彼は欲望について考えたことがあった。それは最終的に他人への羨ましさであった。他人の喜ぶ姿に自身を近づけたいというそれだった。

多くの人間はそう言った思いの中で夢を追うか、あるいはそれを諦め、諦めきれずに憧れに対して憎しみを浮かべる。その果てに生まれ変わりたいと望むのだろう。

ただやはり滑稽なのは生まれ変わるというのもやはり夢ではなく、憧れでもない。そうであれば決心して自殺するはずだ。ある種の尊厳死である。しかしながら生まれ変わりを望む多くは憧れと自信を憎みながらも自害することはない。



「もしも私がこのビルをよじ登れば死ぬのだろうか。仮に彼らがそこから飛び降りるのと同じように、それとも生を得られるのか。ならば何故彼らはそこから飛び降りる」


つまらない冗談を呟き、彼はまた空が過ぎるのを待つ。何もしていないというのに擦り減る食欲と意志に僅か乍らの不快感を抱きながら。


――――窓の向こう、休憩所で休んでいた髭の足らない肌男が湿っぽい外へ出てくると、にこやかな顔して髭男へ近づいてくる。


「今日は天気がいいですね」


髭男はその不審者の挨拶に警戒しながらもその場を離れることなく、無視して空を眺めていた。

肌男はその不審者の挨拶に期待することなくその場を離れることなく、無視して髭男を眺めていた。


「僕はあなたが羨ましいです。様々なしがらみを気にすることなく、まるでそこに生える木のように風に揺られるままにそこへ居られるのですから」


都会の風に流れたままの言葉に髭男はぎょっとしてその顔面を見る。それこそ嘘も侮蔑もない言葉のようだと、髭男はもう一度驚いた。

肌男のその有様はむしろ自身よりも空のように自然であり、流る雲のようだった。


「雲はその中にあったのか。だから見えなかったのか」

「何を言ってるのか理解しかねますが、雲というのが私の着ているこのシャツというのなら、それほど白くはないと思いますよ」


それは嘘だろう。髭男は鏡と間違えるほどの白いシャツに疑念の目も潰されそうなほどである。

しかしながら肌男の曇った表情だけが暗がって目立っていた。


「忙しい毎日です。特に温かくなってからはすぐに汗に身体が汚れるもので、その度に家にいるべきなのだと太陽に叱られているようで。ただ家に帰っても妻に痛い目をされて、ならまだ太陽のほうがマジですよ」

「仲が良くないのか?」

「そうですね。ただ、仲が良くなりたかったわけではないのです。元々こんな感じだったのでそう言う意味では普通なのですが、今になってどこか、昔決めたことが心に引っかかってしまって」


髭男は肌男のその身なりの内、明らかに良い服、そこから住まいも良いように見えるし、人柄も悪いようではない。けれどもやはり苦悩を抱えているようだと、その礼節ある言葉のゆえに疑うところはない。


「ならば私にお金を恵んでくれるか、、と言ったらどうするつもりだ」

「別にいいですよ。欲しがっているようには見えませんが」

「そうか。ただそれはそちらも同じ様だ」

「ええ、そうですね」


その二人との会話の間に数字は出てこない。互いにそれに意味を感じていないと、もはや言語にならないとわかっていたのだろう。

またそれは互いに欲望が無いことを示していた。


「お金があれば出来ることが増える。そうとはわかっていたのですが、実際のところは使い道もなければ時間もないのです。使い道があれば、本当に欲しいのなら時間を作れるはずなのに、僕はそうとはどうも思わなくて、面倒なのです。だからといって妻にお金を渡すというのも、どこか苛立つものがありまして、けれどもあなたに渡すのならそれはいいのかもしれないです。何故かはわかりませんが」

「それはきっと知っているのだろう。自身の妻がなにを買うのか、どう使うのか。そしてそうとなれば、また自身の苦労が増えるのだと。とはいえ大金を貰いながらも使わないというのは勿体ないと」

「そうですね。確かに勿体ないですし、妻のこともそうですけれど、捨てるためにあなたにお金を渡してもいいというわけではないです。このお金は確かに私の物ですが、他の人の苦労の上に成り立ってますから、そういった礼節もあって」

「では私を憂いているのか。そのようには見えないが」

「ええ、憂いてはいません。実のところ私があなたをそう許せるのは、好奇心だと。私と同じく欲のない人間が仮にその可能性だけ与えられたのなら変わるのかと」


大方、人間は自分と真逆の立場にいる人間を憎んでしまうものだろう。髭男にとっては肌男は裕福であり、社会的立場で言えば大いに真逆である。

だというのに髭男も肌男もそういった様子はないようだ。ましてや髭男に至っては実験台とみなされ、馬鹿にしているともとれるというのに。

そのような扱いは人間ならば眉間に皴を寄せ、怒りをあらわにするものだろう。というのに髭男はどうやら微笑んでいた。


「失礼ながらその本質は半分正解だろう。私がお金を得て変貌するかを知りたいように、自身もお金を失って変貌するのを知りたいのではないか」


髭男がそう語りかけると肌男はビルの屋上を見上げ、溜息をついた。

ただその目がやや霞んでいるところを見ると、髭男はその意味を理解した。その上で黙って肌男を観察していた。


「あなたは私のことが羨ましいかもしれない。ただここも社内もどちらも靴を脱ぐことはない。私にとってこのビルも外と何ら変わることはないのです。さらに言えば私の家は、先程も言った通り、居心地がよくなく、私は逃げるように外へ居るだけなのです。こうなってみると私とあなたは同じ様なものでしょう。ただ縛られているものが違う、そちらは何にも縛られず自由だ。自由に葛藤してらっしゃる。ただ私はむしろその逆だ、怠惰ゆえに放せない関係性に疲れている。そしてそれを知りながらも変える気になれないのは、やはり怠惰ゆえ、欲望もないのです」


ビルに雲は隠れる。また夕焼けも早く訪れるようだ。ただ空の色はビルに変わることはない。

とはいっても隠された雲はそれに気づくことはないだろう。

肌男はやはり暇のないようだ。髭男が次に口を開く前にビルへ戻っていってしまった。それはまたビルに隠されることのない、腕時計の針であった。

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