遠方の黒雲
ぱちり、と目を開けると、そこには見知らぬ天井があった。
「気が付かれましたか。よかった…。」
声のする方に首を動かすと、心配そうな表情のアニシチェが目に入った。
「ここは…?」
「霽月ノ宿です、私たちの泊る予定だった。澄史殿、先ほど馬の上でご気分が悪くなられたようで、落馬しかけたのですよ。馬の首の方向に倒れこまれたのでうまいこと体が引っかかってくれましたが、あれは本当に危なかった。やはり道があれほど混み合う前に宿に着くべきでした。あの速度で進めば十分間に合うと思っていたのですが…私の誤断です。誠に申し訳ない。」
「い、いえ!アニシチェ殿は何も悪くありませんよ…。私が不甲斐ないだけで。」
そう言って、澄史は一度言葉を切った。
「寺を出るときから情けない振る舞いばかりしていて、全くお恥ずかしい限りです…。帝直々にご命令を受けた者としてここに来ているのに、何という醜態をさらしていることか。」
澄史はうつむいた。寺を出るときには泣きそうな顔を見られ、源奥部では子どものようにはしゃいでいるのを見透かされ、極めつけは失神したところを助けられた。
(俺もここまで自分を辱めることができるとは。)
澄史が黙っていると、アニシチェが静かな声で言った。
「醜態、ですか…。人によってどう出来事を解釈するのかがいつも異なるのは、非常に興味深いことです。」
唐突なその発言に、澄史は訝しげに眉を上げた。
「どういうことですか?」
アニシチェはふっと微笑むと、
「澄史殿は、目の前に現れてくる出来事に、あなたのしかたで応じただけでしょう?それを恥ずかしいだの、命を受けた者としてあるべき姿でないだのと決めているのは澄史殿ご自身です。私は、何か悲しいことがあって涙を浮かべていたあなたも、初めて見るものに心ときめかせていたあなたも、人混みに戸惑っていたあなたも、自分の心の動きに素直で敏感で、とても美しいと思いましたよ。」
思わぬ言葉はっとしたと同時に、何と返答してよいか分からず、澄史は目を逸らした。
「ええと、それはそうと、ずっと不思議に思っていたのですが、どうしてアニシチェ殿は町のことをよくご存知なのですか?いつ頃に道が混み合うなど、地図には書いていないはずですが。」
「私は以前、白銀皇子の件で王宮へ行くまでこの辺りで暮らしていたのですよ。ちょうど、流間部と白海部の間の地区になりますね。」
「そうなのですか?てっきりあなたは別の国から来られたのかと…。」
「ええ、たしかに私はこの国の者ではありません。こちらへ来てからの話です。」
澄史は、会話の流れから今がアニシチェについて聞き出す良い機会だ、と思った。
「へぇ…ではアニシチェ殿のご出身は?」
「一番最近までいたのはサエア王国です。修行で様々な国に滞在していますからね、一つに絞ってどこ出身、というのは私の場合なかなか難しいのですよ。」
サエア王国というのは、白川ノ国の東方にある島国だ。人口も少なく、美しい海に囲まれたのどかな国だと書物で読んだことがある。
「サエア…かなり遠いですね。では、どんな国に行かれたことがおありなのですか?」
これは、任務ももちろんあるが、澄史自身も知りたかったことだ。生まれてこのかた白川ノ国の山の中しか知らない澄史にとって、書物で読んだ国々が実際にはどんなところなのか、非常に興味があった。
「数えだすときりがありませんね。思い出せる限りでは、サエア、ナーガ、テュブラ、レーヒラ、青遠、靄紅、零呉…あ、バマスフも行ったな。えぇ…もう分からなくなってきますね。」
アニシチェは軽く微笑んだ。澄史はすかさず、
「これから暫くあなたと一緒に過ごすことになりますし、一度お互いについて腰を据えてお話してもよいですね。」
「そうですね。ちょうど夕餉の時刻ですし、澄史殿がもうお加減よろしいなら、食事をしながらというのはいかがでしょう?朝から何も食べていないので、さすがに腹が減ってきました。」
そういえば朝から何も食べていない。初めてのことに驚いてばかりいたせいで気づかなかったが、アニシチェの一言で急に空腹感が襲ってきた。
と、外から少年の声がした。
「失礼いたします。夕餉をお持ちしました。」
「ちょうど良かった。食事を持ってきてもらうよう頼んでおいたのです。」
運び入れられた食事は、澄史が初めて見るものばかりだった。いや正確には、書物で知ってはいたが、実際に目にするのは初めてだった。串刺しになった親指ほどの大きさの肉。よく見ると赤い粉がかかっている。鼻を近づけると、嗅いだことのないつんとした独特の香りが漂ってくる。横に添えられた汁の少ない粥のようなものは茶色をしており、立ち昇る湯気から辛そうなにおいがしてくる。
「バビムとリチ…ですか。」
澄史が呟くと、アニシチェはへぇと関心したような声をあげた。
「澄史殿、このような料理をご存知なのですか?」
「ええ、まぁ…書物で読んだだけなので、お目にかかるのは初めてですが。串刺しになっているのがバビムで、粥がリチですよね。白川ノ国の南方の大陸にある国、テンラの料理だったと記憶していますが。」
「さすがは澄史殿。桐和宗に関する書物だけではなく異国に関する書物まで読まれておられるとは。」
「いえ…ただ寺の塀の向こうがどうなっているのか知りたかっただけですよ。」
澄史は苦笑して肩をすくめた。
「これがどのような料理かご存知なのでしたら心配する必要はないかもしれませんが、桐和宗で食べてはいけないものが入っていませんか?」
「いえ、大丈夫です。桐和宗で禁じられている食べ物はないので。桐和宗ではごく僅かな人間しか門外へ出ることができませんから、食べ物はすべて寺の敷地内の畑で採れたものなんです。なのでそもそも食材が非常に限られていて、禁を設ける必要がないんですよ。多くの僧は寺の中で一生を終えますし。」
澄史の目に一瞬冷たい光が宿ったがすぐに消え、言葉をつづけた。
「バビムは羊の肉で、この赤い粉は香辛料の一種ですね。確か保存期間を延ばし、肉を柔らかくするギヤの実の粉末がよく使われるんだったかと。リチは地域や家庭によって使う材料や香辛料が異なりますが…」
そう言って澄史はくんくんと自分のリチから立ち昇る湯気のにおいを嗅ぐと、
「これには牛肉とタマティム(甘酸っぱい汁を含む赤い野菜)、キトゥング(煮ると甘くなる半透明の根菜)、ムバジ豆、それにギヤや同科の香辛料が使われているようですね。」
アニシチェは軽く眉をあげて言った。
「全くあなたの知識には感服です。それに、においを嗅いだだけでよく食材が分かりましたね。」
「桐和宗の儀式でも、何百という香を使うんです。その香も、自分たちで作ることがほとんどですから、それぞれのにおいや性質、効果を記憶しておくのも修行のひとつなんです。」
アニシチェは納得したように頷くと、匙を手に取り、リチをすくった。
(ん?そういえばアニシチェ、面布を取っていない…。口元まで覆われているのに、どうやって食べるんだろう?)
澄史は非常に気になったが、じろじろ見るのも気が引けるので、バビムを口に運ぶのに合わせてさりげなくアニシチェのほうに目をやった。するとアニシチェは、顎と面布の隙間から上手に匙を入れみ、一滴もこぼすことなくぺろりとリチを食べてしまった。
(!かなりこの食べ方に慣れているようだな…。ムアースキの人間は食事中も面布を取らないのが普通なのか…?)
あれほど狭い隙間しかないのに、一切面布を汚すことなく食事をしている。澄史にはそれが摩訶不思議な奥義のように思え、アニシチェを盗み見るのについ夢中になってしまう。寺を出て初めての食事なのに、それを味わうことなどすっかり忘れていた。
「ところで澄史殿、白銀皇子も罹られたこの病というのを患っている方のお名前ご存知ですか?」
「え?あ、いえ…私は何も聞いていませんが。」
「そうなのですか?私はてっきり、あなたがご存知なものとばかり思っていました。」
「いえ…藤月様――私たち薄紫ノ僧の長のような方ですが――からは白海部で同じ病を患っている者が出ているという話があるから調べてこいと仰せつかっただけで、特定の人物の名前などは一切聞いていません。」
「そうですか…。」
アニシチェは一瞬考え込むように目線を落とした後、
「ではまずは情報収集からですね。以前ここに暮らしていたころのつてで、『運び屋』をしている知り合いがいるんです。明日はその人のところへ行って、何か知っていることがないか尋ねにいってみませんか。」
『運び屋』と聞いて一瞬表情を曇らせた澄史に、アニシチェは苦笑して言った。
「『運び屋』もご存知なのですね。」
「ええまあ。町の商人たちについての物語を何冊か読みましたから。」
「大丈夫ですよ。確かに『運び屋』は何でも運びます。文も、人も、物も――良いものも悪いものも――それが運べるものである限り何でも運びますが、彼女は信頼できる人です。それにこの辺りのことは何でも知っている。いち早く新しい情報を仕入れてくるのも大抵彼女ですしね。」
「わかりました。行ってみましょう。」
アニシチェが自分よりこの辺りに詳しいのは明らかだ。それなら、迅速な任務の遂行のためにも、今は彼の言うことに従うのが最善だろう。たとえ、不道徳な生業に手を染めているかもしれない人間と関わるとしても。
澄史は最後のバビムにかぶりつきながら考えた。
(しかし何かおかしい気がするのは気のせいか…。この病が流行りの病である可能性もある以上、帝や紫ノ僧正様たちはできるだけ早くこの問題を解決したいはず。それならなぜ、帝の臣下をつかってもっと情報収集しなかったのだろう?病にかかった人間の特定するなど訓練された彼らにとっては容易いはず…。俺たちを使うよりよっぽど早いだろう。帝の臣下を動かして事を大きくしたくなかった?いや、彼らだってお忍びでいくらでも行動できる…。ではこの病に罹った人々というのは、帝の権力をもってしても近づけないような者たちなのか?そんな者など…)
そこまで考えて、バビムの最後の肉片を飲み込むのと同時にある考えが澄史の頭に閃いた。
「沼地の(ン)民…」
アニシチェがはっとして澄史を見た。
「実は私も同じことを考えていました。病に罹った人間を調べていないなんて、帝直々の命にしては詰めが甘すぎる。」
白海部の西側はルナプマという木で覆われた森になっている。ルナプマは血管のように枝分かれした巨大な根をもつ木で、海岸に密集して育つ。ちょうど干潮と満潮で水位が変化する場所にかけてルナプマの森が広がっており、そこには沼地の(ン)民と呼ばれる人々が住んでいる。彼らは白川ノ国の先住民と言われているが、ほとんど森の外に出ることがないため、その姿を見たことのある人も、彼らがどのような生活をしているのかもほとんど知られていない。しかし海の向こう国々とはつながりが深く、海外からの密輸品を国内に運び込む役割を担っているのが彼らだと言われている。密輸品は高値で売買されるため彼らは非常に豊かで、また、彼らは沼地の(ン)民しか使うことのできない不思議な「技」を持っているとも信じられている。したがって白川ノ国の人々は彼らを恐れ、ルナプマの森にはほとんど近づくことはない。帝の権威も沼地の(ン)民にまでは届かず、ルナプマの森は公式には白川ノ国の一部だが、実質は独立した一地域だ。患者が出たのがあの地域なのだとしたら、帝が自分の臣下を送り込めなかったのも無理はない。
「ですが、今はまだ確実なことは何も言えません。とにかく、明日『運び屋』の彼女に会ってみましょう。」
アニシチェの言葉に、澄史は頷いた。
と、外から女中の声がした。
「お客様、お風呂の準備ができました。お客様のお風呂は廊下を出て右になります。どうぞごゆっくり。」
アニシチェは澄史を見ると、
「澄史殿、お疲れでしょう。お先にどうぞ。」
「いや、それはアニシチェ殿もでしょう。私に構わず…」
遠慮する澄史をアニシチェは遮った。
「私は旅に慣れていますから。さ、澄史殿、ごゆっくりどうぞ。」
「…では、遠慮なく。」
澄史はこれ以上遠慮するものかえって失礼だと思ったため、先に入ることにした。
沼地の(ン)民が相手なら、病を治すも何も、情報を手に入れることでさえ難しいだろう。たとえ情報を入手して近づくことができたとしても、よそ者に病人を診させるような民ではない。
そこまで考えて、澄史は頭を振った。今は何を心配しても意味はない。とにかく、目の前のできることに集中しよう。
つまり、風呂だ。
(そういえばあいつ、風呂では面布を取るんだろうか…?)
アニシチェの素顔を見る機会は風呂くらいしかないかもしれないな、などとぼんやり思いながら、澄史は廊下に出た。