いざ、俗世へ
辺りがかなり明るくなったころ、二人は忠清寺のある紫水山の麓にたどり着いていた。
「澄史殿、お腹は空いていますか?」
「いえ、まだそれほど。」
「よかった。源奥部の住人が起き出す前に流間部に入っておきたいですからね。」
白川ノ国は紫水山を最高峰とする紫水山脈と白海に挟まれた、細長い形の国だ。山脈側から海側にかけてなだらかな下りになっており、源奥部・流間部・白海部と名前がついている。源奥部には王宮があり、皇族や名家の貴族が暮らしている。流間部には小貴族や大商人、白海部には上記以外の常民や異国人が暮らす。源奥部の住人どうしにはそれほど身分の差はないが、流間部・白海部に暮らす者たちの地位は幅広く、源奥部に近い場所に住んでいるほど裕福な者という傾向がある。
「どうして、早く源奥部を抜けておきたいのですか?」
「ここに暮らしておられるのは、白川ノ国の国史に出てくるほど名のある古い家の方々ばかりでしょう?私のように見るからに異国の人間がこのような所を闊歩していたら、かなり目立ってしまいます。」
そう言ってアニシチェは苦笑した。
「それに、流間部から先は、日が高く昇る頃にはものすごく混み合うんですよ。ああいった道で馬に乗るのは、野山で馬に乗るのとはまた違った技術がいりますからね。」
アニシチェが、今まで寺の敷地内でしか乗馬の訓練をしたことのない澄史のことを気づかってくれていることにはっとし、澄史は赤面した。その気づかいは有難かったが、寺の中では「どんな事でも完璧にできる」という名声を保持していた澄史としては、少し恥ずかしいような、誇りを傷つけられたような気もする。
源奥部と流間部の間には大きな鉄の門があり、緊急時にはそこを封鎖して王宮を守るようになっている。その門の近くに来た頃には、がらんとしていた通りに少しずつ人の姿が見えはじめた。
(これが、寺の外での暮らしか…。)
こざっぱりした着物をまとった小間使いのような人が数人、忙しそうに門を出たり入ったりしている。俗世では当たり前の風景なのだろうが、澄史にはそれがたまらなく珍しい。怪しまれないだろうかとどきどきしつつも、何度も興味津々な視線を向けてしまう。
「澄史殿。」
急に名前を呼ばれて、澄史は馬の上でびくっと小さく飛び上がった。
「すみません、驚かせるつもりはなかったのですが。」
苦笑するアニシチェに、澄史は平静を装って答える。
「いいえ、私のほうこそ、少し考え事をしていたもので。どうされましたか?」
「お気づきでしょうが、先ほどの門から流間部に入りました。この辺りは下町に何軒も店を構えている大商人が住む地区ですから、まだ静かですが、もう少し下ればすぐに目抜き通りに出ます。そうなれば物売りも、私のような異国人もたくさんいますし、中には隙を見て盗みをはたらく者もいます。あまり『考え事』にお気を取られ過ぎないようにしてくださいね。」
優しく諭すような言い方の中に、寺から初めて出て興奮していた自分を見透かされていたことが分かり、澄史はかっと頬が熱くなるのを感じた。
(こいつ…。)
聡くて、優しくて、掴みどころがない。
今のところこのアニシチェという人物について分かったのはこれくらいだ、と澄史は彼の背中をきっと睨みながら思った。