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塀の彼岸  作者: 炉瓶
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出発

 「大変なことになったな…。」

自分の部屋へ向かって廊下を歩きながら澄史はつぶやいた。

(アニシチェと?白海部に?いやいや冗談だろ…。まだ信じられない。)

だいたい、青ノ僧の講義も、自分の研究も、澄史にとっては大切な人生の一部だ。確かに毎日やる事ばかりで大変ではあるし、寺の慣習や出世競争ですべてが嫌になることもある。けれど、一生懸命に学ぼうとしている学僧たちの姿や、研究している経に新たな解釈を見出したときの喜びは、そのすべてを打ち消してくれるほど大きくもある。

(そもそも、俺が教えている僧たちを見捨てろっていうのかよ。青ノ僧の蓮翡(れんひ)なんてこのところ舞の上達が目覚ましいのに。本人も熱心に質問してくれるし。あんなに頑張ってる学僧たちを置いていけるかってんだ。研究にしたって、まだまだ追求したい部分がたくさんあるのに…。)

そこまで吐き出してみて、澄史は首を振った。

(いや、違うな。…本当は俺が怖いんだ。ここから出るのが。)

忠清寺は、澄史が物心ついてからずっと暮らしてきた場所だ。彼の人生がすべてここに詰まっていると言っても過言ではない。

(帝や紫ノ僧全員からこんな任務を任されるなんてすごく光栄だし、自分でもそれだけ頑張ってきたと思う。ただ、この寺を出たあと何が待っているのか、まったく分からないのが…怖い。)

 でも、心の底では、ここから出たいとずっと願ってきたんじゃなかったのか。

 この寺のあり方に対する疑問を胸に秘めたまま、ひたすら(こうべ)を垂れて修行に打ち込んできた。時折噴き出しそうになるその思いを「寺に忠実な、誰よりも優秀な僧」という名声で押さえつけてきた。その名声を羨んで、冷たい視線を向けてくる同胞にも耐えてきた。

 『息苦しい。生き苦しい。』

そんな思いが溢れて、眠れない夜を何度も過ごした。なのに、一時的とはいえいざ外の世界へ出る機会を手にすれば、こんなにも足がすくんでしまう。

(そうだ、緑雨の部屋に少しだけ寄ってみよう。別れの挨拶くらい、しておきたいしな。)

澄史はくるりと向きを変えると、緑雨の部屋がある棟へ向かった。

 薄紫ノ僧が住まう一郭はかなり広い。最下位の薄墨ノ僧には大きめの棟が二つしか与えられていないのに対し、薄紫ノ僧は基本的に二人で一棟を分け合うという割り当てになっている。緑雨は部屋割りに関してかなり当たりがよく、一番端の棟を一人で使っている。この部屋は端に位置していることもあり、緑雨自身の他にはほとんど誰も通ることがない。要は静かな部屋を独り占めしているというわけだ。日中人通りの多い廊下の近くに部屋を割り当てられた澄史としては羨ましい限りである。

(俺の部屋、移動はしやすいんだが昼間うるさいのが嫌なんだよな。その点、緑雨は引きがいいよなぁ。あいつ、今何してるだろ?研究の続きとかしてたら邪魔するの悪いな…。)

まずは様子を伺ってみようと思い、そっと部屋に近づくと、中から誰かの荒い息づかいが聞こえてきた。

(ん?)

まさか具合でも悪くなったのかと思い、澄史が襖を開けようとした瞬間、

「あっ」

どこかで聞いたことのある声が、短く叫ぶのが聞こえてきた。緑雨ではない。澄史は直観的に自分の部屋へ戻ったほうがよいと感じたが、今身動きを取れば気づかれてしまいそうで、結局襖の前で立ち尽くしてしまった。

「澄史さん、く、るんじゃ、ないんですか…。」

(!)

その瞬間、澄史はどきりとした。声の主が、自分が舞を教えている青ノ僧の蓮翡(れんひ)だったからだ。心臓が早鐘のように鳴っている。自分の鼓動に混じって、部屋の中から微かな衣擦れの音が聞こえてくる。

「さっきまで待ってたけど来なかったんだから、今日は来ないんじゃないか。」

荒い息交じりの声で緑雨が答える。

「それに、蓮翡が来てくれたんじゃ、ね…。」

「んっ…」

ぞわり、とうなじの毛が逆立つような感じがして、澄史は一歩後ずさりすると、くるりと踵を返して駆け出した。ぎゅっと目をつむって、足が向かう方向へがむしゃらに走る。そのせいで柱にぶつかろうが縁側から落ちようが、今の澄史にはどうでもよかった。

(噓だ嘘だ噓だうそだ…!)

 この寺で、戒律があるにも関わらずああいったことが横行しているのは知っていた。同じ位の少年僧どうし、先輩僧と後輩僧、あるいは和尚とその受け持ちの僧。「第二の神童」の澄史に手を出そうとする強者(つわもの)はいなかったので、実際に自分が経験したことはなかった。しかし、寺の生活の中でそういった話を耳にしたり、今のように偶然その場面に出くわしたりしたことは何度かあった。中にはお互いの同意がなく行われる場合があることも知っていた。特に、見目のよい少年僧は年長の僧や和尚に目を付けられやすい。

(蓮翡は…?)

 と、走りながら目の端に見覚えのある襖が映った。澄史はそれを勢いよく開けると、倒れるように自分の部屋の畳に体を投げ出す。

 蓮翡はとても愛らしい少年だ。蓮の花のように淡く色づいた滑らかな頬と、小鳥のようにつぶらな瞳、透き通った声。彼の同級の僧にも先輩僧の中にも、彼を狙う者は多いだろうと思ってはいた。しかし、まさか緑雨もその一人で、しかも既にそんな事になっているなんて…。

 ちゃんと蓮翡の同意はあったのだろうか?二人とも、いかなる契りも結んではならないというこの寺の重要な戒を知らないのだろうか?意思に反して()(ぐわ)わされ、心に深い傷を負った少年僧をお前たちは今まで何人見てきたと思ってる?そんな忌むべき行為を、まさかあの緑雨が…。それに、蓮翡も。あの純粋無垢な蓮翡も…。

(舞の練習で、はじめは目も当てられない舞い方だったのに、毎回真剣に俺の話を聞いてた。練習が終わればすぐに駆け寄ってきて、曇りのない真っ直ぐな瞳で俺を見上げて、熱心に質問しにきた…。今では青ノ僧で一番の舞手になったし、蓮翡のおかげで、俺は教えることの喜びだって味わえたのに…。)

 今まで救いを見出してきたすべてから裏切られた気がした。

(もう、いい。)

澄史はゆっくりと体を起こすと、必要最低限のものだけを風呂敷に包み、重い足取りで正門へ向かった。

 日付は変わっていたが、外はまだ真っ暗だ。正門についてみると、紫色の衣をまとったすらりとした人物と、二頭の馬が(かがり)()にぼんやりと照らし出されている。その人物がこちらに気づいて声をかけてきた。

「澄史殿でしょうか。」

とてもよく通る不思議な声だ。老獪な翁のようにも、利発な少年のようにも聞こえる。

「はい。アニシチェ殿とお見受けしますが、この度、帝ならびに紫ノ僧より命を承りました、薄紫ノ僧・澄史と申します。どうぞよろしくお願い致します。」

丁寧な挨拶などする気分ではなかったが、最低限の礼儀を守ることは忠清寺の一員としての義務でもある。無理やりにでも態度を取り繕ってこの場をやり過ごさなければ。

 澄史と向かい合って立っているアニシチェは、一瞬澄史の目をじっと見ると、

「どうされましたか。」

と言い、そっと澄史の肩に手をのせた。その瞬間、じわりと目の端に熱いものがこみ上げてきて、澄史は驚いて目を逸らした。

 辛さが幾重にも積み重なって、極限に達したとき、今まで俺はこんな風に他人(ひと)から心配されたことがあっただろうか。下心も嘲笑もない、何気ない純粋な気づかい。その優しい声を聴いた瞬間、心の奥にずっと溜めてきたものが急に溢れそうになり、澄史は戸惑った。

 空を仰ぐふりをして涙を押しとどめる。何か返事をしたかったが、今声を出せば裏返った声しか出てこない気がして、ぎゅっと口の端を結ぶしかなかった。

 と、ぐいと澄史の右腕が引っ張られた。

「行きましょう。」

まるですべてを察したかのようなアニシチェの目が、真っ直ぐに澄史を見据えてくる。返事をする間もなく、アニシチェはそのまま澄史を引っ張ってずんずん進み、門をくぐった。

(あ…)

滲んだ視界の中に、門前に建つ「忠清寺」の石碑が見える。

寺を出てしまった。こんなにも簡単に。

 何も、身構えることはなかったのだ。ただ片足を上げて、地面に埋まった木の柱をひょいと跨ぐだけでよかった。そのことに気づいた瞬間、何とも言えない不思議な解放感が澄史を包んだ。

(これだけだったんだ…)

最初の感動が過ぎると、澄史はふと我に返った。慌てて袖で涙を拭い、アニシチェに声をかける。

「あ、あの!もう大丈夫なので、手、離してもらっても…。」

「そうですか、ならよかったです。」

アニシチェはこちらを振り返ってにこりと微笑み、優しく手を離した。

「あの、馬は…?」

「ああ、大丈夫ですよ。ちゃんと少し後からついてきています。この辺りはかなり急な下りですから、もう少し平坦な道に出るまで歩いたほうがいいと思うんです。」

「ああ…それもそうですね。…え?っあの、手綱を引いていないのに、どうして馬がついてくるのですか?」

「ああ、それは。澄史殿を待っている間にあの二頭とは親しくなりましたからね。ついて来てくれるようお願いしておいたのです。」

「⁇」

当然のことのようにアニシチェは答えたが、馬とそんな風に意思疎通するなど澄史には考えられない。これも、ムアースキの技か何かだろうか…?

(そうだ、俺は情報を集めなきゃいけないんだ。)

ついさっき自分を気づかってくれた人間を情報取集の対象として見るのは後ろめたかったが、やはり命令を受けた者としての責任も果たさねばならない。

 澄史は何げない風を装って尋ねた。

「馬と友人に?桐和宗ではそのような教え、聞いたことがないです。」

澄史の問いにアニシチェは一瞬戸惑ったような顔をしたが、すぐにくすくすと笑って答えた。

「宗派とか教えとかは関係ありませんよ。私があの馬たちと親しくなりたいと思ってしただけです。だってほら、私たちはあの馬たちにこれからかなりお世話になるでしょう?お互いを知っていた方が、きっと双方にとって気持ちのよい旅になりますよ。」

その言葉に、澄史ははっとした。いかに自分が普段、「桐和宗の教え」や「忠清寺の戒律」ありきで物事と向き合っているかに気づかされたからだ。

(…こいつには、そんなものないんだろうな。)

きっと、アニシチェにとって宗教の教えとは、白銀皇子の儀式で使っていた笛や蠟燭のように、自分の目的に近づくための補助に過ぎないのだろうと澄史は思った。常に心の向く方へ、身に付けた技を駆使して進んでいく。

「どうやら道も平坦になってきたようですね。もう馬にも乗れるでしょう。」

そう言ってアニシチェは二人について来ていた栗毛の馬に近寄ると、鼻先を軽く撫で、ひょいと飛び乗った。澄史も続いてもう一頭の黒い馬に跨る。

 ふと向こうの山を見ると、朝日がわずかに顔をのぞかせていた。

「急ぎましょう、澄史殿。」

 真新しい陽の光を背にしたアニシチェのその姿が、とても軽やかに見えた。


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