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塀の彼岸  作者: 炉瓶
3/11

腐臭

 アニシチェの儀式の日から三日が経った。王宮から白銀皇子の様態についての知らせはまだ入っていない。薄紫ノ僧たちには日常が戻り、澄史もいつも通り二十人ほどの青ノ僧に講義をしに廊下を歩いているところだった。今日は朝からとても良い天気で、抜けるような青空を見ていると何だか気持ちまでも明るくなる。と、ふと渡り廊下の先にある南側の学舎に目がいった。障子が空いているので、中の様子が丸見えになっている。

(あれは『経稽古』の時間だな…)

経稽古というのは、経を暗記してすらすらと唱えることを練習する修行のことだ。先輩僧が教師の役をし、後輩僧がきちんと経を暗記できているかどうか確認する。先輩僧にとってはすでに学んだ経なので、彼らにとってもよい復習となるというしくみだ。

 澄史の場所から見える教室では、白ノ僧(最下位薄墨ノ僧の三つ上の位)が薄墨ノ僧を教えているらしい。体格のよい先輩僧とみられる少年が部屋の東側で仁王立ちをしており、その左右にほかの先輩僧らが座っている。後輩僧たちは、彼らと少し距離を置いて向かい合うように並び、緊張した面持ちで正座している。と、真ん中にいた先輩僧が、左端、一番縁側に近いところに座っていた後輩僧を指さし、何か言った。その少年が立ち上がる。彼は細い足を真っ直ぐ揃えて前を見据えると、人差し指だけを立てた状態で両手を合わせ、何かを唱え始めた。音は澄史まで届かなかったが、指のしぐさから何となくどの経を唱えているのか分かる。

 と、その少年の口の動きが止まった。おそらく、経の文言を途中で忘れてしまったのだろう。遠くからでも、その瞬間部屋中に氷ついたような空気が流れたのが分かる。少し間をおいて、真ん中で仁王立ちしている白ノ僧の少年が険しい表情で何か言い放った。後輩の少年がうつむく。両者が黙り込み、恐ろしいほどの緊張感がその場に漂っていた。すると突然、その沈黙を破って仁王立ちの先輩僧がうつむいている少年に向かって怒鳴りはじめた。一言一言は聞き取れなかったが、その音は澄史の耳にも届いてくるほどだ。怒鳴られている少年は泣きそうな顔になって畳を見つめている。と、その先輩僧は怒鳴り散らしながらずんずん歩いて泣きそうな少年の前に立つと、いきなり頭を掴んで畳にぐいと引き下げた。か細い少年の体が畳みに打ち付けられる。侮蔑的なまなざしを向けたあと、彼は後ろにいる他の白ノ僧に顎で合図をした。応えるように彼らはさっと立ち上がり、倒れている少年を取り囲んだ。

 そこで、澄史は目を背けた。次の瞬間何が起こるか容易に予想がついたからだ。倒れている少年は、彼を取り囲んだ先輩僧らに血を吐くまで蹴られ、血を吐いたら中庭へと連れ出され、「清め」と題して窒息しそうになるまで池に顔を浸されることになるだろう。

 澄史自身も、このような現場に幾度も居合わせた。級友が読経を言いよどんだときの凍りつくような空気感を思うと今でも腹の底が締め付けられるような恐怖を感じる。あの張り詰めた空気も先輩僧の怒鳴り声も暴力も、すべてが澄史には死ぬほど恐ろしかった。だから、どれほど難しい経でも完璧に唱えられるようになるまで何日も寝ずに練習した。そのおかげで澄史自身は経稽古中に先輩僧から殴られたことはなかったが、稽古中の暴力はこの寺では日常茶飯事だ。経稽古だけではない。山での修行でも、舞の練習でも、先輩僧や和尚たちは「忠清寺の名誉と若い僧の質向上」のためと称した拳を振りかざす。穢れを祓い清めるための数珠も、修行中はその本当の役割より、拳にまきつけてより強く拳打するために使われている。

 (経も舞も数珠も、そもそもこの寺の教えのすべては、人間を闇から救うためにあるんじゃなかったのか。いくら修行の身であっても、同じ人間をあんな恐怖と痛みに陥れることは、それこそ教えに背いているんじゃないのか…。)

このような場面に出くわす度に、憤りの混じった問いが自分の中に浮かび上がってくる。しかし澄史は、異を唱えるほどの勇気も無鉄砲さも持ち合わせてはいなかった。ただひとつできたのは、毎日狂ったように修行に打ち込み、誰からも距離を置かれるほどの優秀な僧になって、このような腐った正義に関わらなくてよいようにすることだった。実際、『第二の神童』と呼ばれるまでになった澄史は、先輩僧や和尚から暴力を受けるほどの失敗をしたことは一度もなかった。また、自分が先輩僧になってからも、周りが後輩を殴っているからといって自分もそれに参加せねばならないという圧力を受けたこともなかった。

 (俺は、ただの弱虫なのかもしれない。)

自分の身だけを守り、周りで起きていることにはずっと見てみぬふりをしてきた。そんな自分に対する情けなさと憤りはいつも心の奥底に巣食っていて、先の少年のような場面を見る度に胸がじりじりと疼く。それでも、その疼きのために寺の慣習に逆らって、今まで必死で築き上げてきた地位と名声を犠牲にするような行動に出たいとも思わなかった。

 ふと、この寺中で焚いている強いにおいのする香は本当は魔除けなどではなく、ここに染みついた腐臭を隠すためものなのではないかなどと考えながら、澄史は学舎へと道を急いだ。


 遠く後方から、年若い少年たちの蛮声と、まだ幼い少年のかすかな泣き声が聞こえてきた。



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