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塀の彼岸  作者: 炉瓶
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奇異な出会い

 翌朝、澄史たち薄紫ノ僧は、まだ暗いうちから紫ノ僧らの後ろで整列し、白銀皇子の部屋の外で待機していた。皇族にお目通りするような正式な場では、整列の順も決められており、皇族に近い前列に並ぶ者ほど優秀な者とされている。薄紫ノ僧の中で首席の澄史は、紫ノ僧のすぐ後ろに控えていた。今いる廊下と違って白銀皇子の部屋は横に広いので、中に入れば澄史は紫ノ僧と並んで最前列に座ることになるだろう。

 と、音もなく襖があき、儀式の開始を告げる鐘の高く澄んだ音が響き渡った。控えていた僧たちはしずしずと部屋の奥へ進み、位置についた。澄史が座った位置は予想通り最前列で、ちょうど部屋の真ん中あたりだった。顔をあげると、目の前に鮮やかな紫色の衣を纏った男の背中が見えた。

(この人がアニシチェか…?)

異国の教えを継ぐ流れ者だというから、もっと怪しげな姿を想像していたのだが、目の前のすらりと背筋を伸ばした人物からは微塵の胡散臭さも感じられなかった。目だけを除いて全身を覆う紫の薄い衣には、蔓のような模様の美しい金色の刺繡が施されている。白川ノ国では見たこともない艶のある軽そうな布だ。その(しわ)の具合から、この人物がまるで踊り子のように細く引き締まった体つきをしているのが分かる。彼の方から、うっすらと不思議な甘い香りも漂ってくる。

(この香りは…松?)

松の葉のような、微かにつんとする甘い香りだ。

 と、先ほどの鐘がまた二回鳴った。いよいよアニシチェの儀式がはじまることを意味する。彼の容姿があまりに予想外だったので一瞬気をとられたが、ここからは澄史たちの出番でもある。気を引き締めてこの男をしっかりと見張っていなければ。

 アニシチェが深く息を吸い込むのが聞こえ、次の瞬間、手にしていた木の横笛を吹きはじめた。その音は湧き水のように澄み切っていて、乾いた土を潤すかのごとく深く、深く、聞く者の中に沁み込んでくる。聞きなれない旋律だったが、その透明な響きは、心も、体をも浄化してくれるように思えた。

(酔いしれる、とはこういう事を言うんだろうな。)

よい夢を見ているような心地よさに浸りながら、澄史はぼんやりと心の中で呟いた。ふと目をやると、アニシチェが笛から片手を離し、隣に用意してあった蝋燭に火をつけたのが見えた。するとすぐに、その蝋燭から何とも言えない芳しい香りが漂ってきた。さっきの松の葉のにおいとは違う、もっと甘く優しい、それでいて胸がすっとするような爽やかなにおい。

(果実のような香り…。こんな旋律も香りも、初めてだ。)

 笛を吹き続けながら、アニシチェはすっと立ち上がり白銀皇子の伏す部屋の奥とこちら側を隔てている御簾まで進み出た。一旦笛を脇に置くと、何やら腕を高く低く上げ、舞いはじめた。完全な静けさの中、衣擦れの音だけが響く。足を前後左右に動かしながら腕や指を組み合わせ、複雑な形を作っていく。流れるようなその動きに吸い寄せられるかのごとく、一同の目線がアニシチェの体に集中する。アニシチェは蝶のようにひらひらと手を動かしながらしなやかに膝をつき、笛を手に取ると、今度は笛の演奏とともに舞いはじめた。美しい音色が部屋中を、そして聞いている者の心を満たしていく。旋律に合わせて動くアニシチェの体は、今は女のように見えた。香の香り、笛の音、優美な舞のすべてが、五感をえもいわれぬ快楽で溢れさせていく。澄史はぼうっとする頭で、すべてをこれに任せてしまいと思った。

 と、アニシチェはくるりと踵を返し、舞ながらもとの場所へと静かに向かいはじめた。澄史はやっと彼を正面から見ることができたが、灯りが蝋燭しかないのと、衣が彼の目以外のすべて覆っているのとで、どんな顔をしているのかほとんど分からない。アニシチェは歩を進めるとともに笛の音を弱めていき、もとの場所へ戻ってくると演奏を止めた。それはまるでそよ風が吹き止んだようで、不思議な満足感が澄史を満たしていった。アニシチェはそのまま、金属の丸い板のようなもので一つひとつ蝋燭を消していき、すべての蝋燭を消したあと、儀式の終わりを告げた。



 白銀皇子の部屋を出た薄紫ノ僧たちは、藤菖ノ間につくやいなや堰を切ったように話し出した。

「おい、いったい何だったんだあの儀式は?!」

「あの笛、俺、あんな美しい音初めて聞いたよ。何という曲かはさっぱりだったが。」

「それにあいつはいったいどんな香をつかったんだ?嗅いだことのない香りだったぞ。」

「儀式のとき、なんだか夢を見ているような気がしなかったか?なんだかこう、身も心も快い何かに包まれているような…」

皆口々に感想を言い合っていたが、澄史はまだぼうっとしていて、思いを言葉にできるほどの状態ではなかった。

 と、鋭く低い声が響いた。

「皆、今日は朝早くからご苦労だった。見慣れない儀式で、見張りをするにはかなりの集中が必要だったことだろう。皆の働きをしっかりと労いたいところだが、私はすぐに白銀皇子のお部屋に戻って祈祷の手伝いをせねばならない。して、さっそく本題に入りたい。アニシチェの儀式に魔を見た者はおるか。」

和尚の冷静な言葉にしん、と部屋が静まり返る。そうだ、俺はあいつを見張らなければならない立場だったのに…

「恐れながら申し上げます。私の見た限りでは、確かに奇異な儀式ではありましたが、魔の気配は感じられなかったように思います。」

一人が答え、何人かの僧がうんうんと頷くのがわかった。

「うむ。他の者たちはどう感じたか。」

返答を促すように、藤月和尚はしばらく黙っていた。

「この部屋にいる全員、魔を感じなかったということでよいか。」

和尚の静かな問いかけに、同意を意味する沈黙が流れる。

「よろしい。私も、あの儀式に魔を見出す瞬間は一度もなかった。桐和宗の教えでは考えられない奇異な点はいくつもあったがな。では、これから我々がすべきことは、白銀皇子が回復されるために出来る限りの手を尽くすことだ。現状では紫ノ僧正殿らと私で祈祷を行っているが、皆に力を借りるときが出てくるかもしれぬ。その時は皆の者、頼んだぞ。さて、これで自分たちの仕事に戻ってよい。が、もしもあの儀式で何か少しでも解せぬことがある者は、気がついたら直ちに私に言いに来るように。よいな。では解散。」

 部屋を出ていく僧たちの流れに押されながら、澄史はぼんやり歩いていた。

「おい、大丈夫か?」

緑雨の声ではっとする。

「え?あ、ああ。ちょっとぼうっとしていた。」

緑雨が澄史の目をじっとのぞき込む。

「お前、顔色悪いぞ。あの香、結構きついにおいだったもんな、具合でも悪くなったんじゃないか?俺は今から青ノ僧に講義しないといけないから部屋までついていけないけど、終わったらそっち様子見に行くよ。」

「あ、ああ、うん。ありがとう、緑雨。」

緑雨に背中を一押しされて、澄史は自分の部屋に向かって歩きはじめた。

 しばらく歩いて、はっとした。ここは自分の部屋がある薄紫ノ僧の棟ではない。ここは…薄墨ノ僧の棟だ。

(俺、どんだけぼんやり歩いてたんだ。またやってしまった…。風龍ふうりゅうノ間で左だっての。あーもう。まだ昔の癖が抜けないなんてなぁ。)

薄紫ノ僧になって一年たつというのに、幼かった頃に慣れ親しんだ道順がまだ体に染みついているらしい。はあ、と溜息をついていると、目の端に何かが映った。向こうに見える縁側に、鮮やかな紫の衣をまとった人がしずしずと歩いている。アニシチェだ。

(こんな端に泊まってるのか?ってまあ、それもそうか…いくら紅蕾様から呼ばれたといっても、まだここで功績も上げていないよそ者を、高僧が住まう奥の棟に迎え入れるような柔軟な寺ではないな、うちは。あれだけ素晴らしい笛の演奏ができても、所詮よそ者は最下位の僧と同じ扱いなのか…)

と、ふわりと風が吹いて、アニシチェの顔を覆っている布がはだけ、一瞬彼の顔がのぞいた。

(!)

澄史はそこに、見覚えのある顔を見た。艶やかなとび色の瞳と髪、長い睫毛、少しとがった顎。ただ、ちらりと見えた瞳には、見違えるほどの輝きと逞しさが宿っていた。どきん、と心臓が鳴る。

(まさか…)

その姿を追いかけそうになる自分をすんでの所で抑える。

(いやいやいや…そもそも俺、あいつの顔もうぼんやりとしか覚えてないし。十年も前だからたぶん俺の想像とかもまじってるだろうし。それにさっきの顔、どことなく空隆に似てるってだけで、別人みたいに生き生きしてたし…何馬鹿なこと考えてんだ、俺。そんなわけないのに。さっきの香でやられすぎだろ…)

今思いついたことの馬鹿馬鹿しさに自分でも呆れかえって、ぼりぼりと頭を掻いた。

(さっさと部屋に戻ろう。)

鮮やかな紫色の後ろ姿が向こうの廊下の奥に吸い込まれていくのを目の端で見送りながら、澄史は部屋へと早足に向かっていった。


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