見据える未来。
始業式を無事に終え、私はまっすぐマーカス教授の研究室へ向かう。
研究室はいつもと違い、物が散乱していた。
「やぁ、リディア。早速だが頼まれてほしい」
「はい、なんでしょう」
「そこのクロゼットに入っている白いローブにブラシをかけて虫干ししてくれないか」
「かしこまりました!」
私は言われたまま、クロゼットの扉を開ける。
中にはずらりと服が掛けられ、ローブだけでも十着はあった。
「いろんな色がありますねぇ」
「教授職は行事ごとに纏うローブを変えるからね。演出協力も大変だ」
おどけて笑うマーカス教授は、きらきら光る勲章にはぁ~と息を吐き掛けて布で磨く。
「白ということは明後日の入学式用ですか」
「そうだよ。歓迎の気持ちの白。これからどんな色にもなれる無限の可能性を持つ白。新入生にふさわしい色だ」
「はい。私も入学式の日は感動しました」
うっとりと六年前を思い起こす。
知らない人たちと並ばされ、誰もが緊張したまま講堂に入った途端、頭上から白い花吹雪が降ってきた。眼前には白いローブや服を着た教授たちと在校生。
万雷の拍手。先輩たちの歌。教授たちの笑顔。
期待よりも緊張と不安が強かった気持ちを一気に押し流す清冽な白の洪水。
これからの学園生活にぱっと光が差したような気持になったのを今でも覚えている。
「あの時は本当に幸せでした!」
「私も覚えているよ。リディアの花を」
マーカス教授は勲章を磨く手を止め、私に柔らかな目を向ける。
私の花とは、入学式後に行った魔力テストで出したものだろう。
自分の気持ちを現した花をと言われ、まず頭に浮かんだのは入学式の会場を彩っていた白。
白い花を出そう、と思って手のひらに魔力を集め具現の呪文を唱えたら、ポンという音の後にカスミ草が現れた。
枝のような茎の先端に散らばる小さな花たち。
ブーケに色どりを添えるカスミ草だが、単体で見るとめちゃくちゃ地味。その地味な花が一本、手のひらにパサリと落ちる。
出した後、自分でもこれじゃないと思った。
恐る恐る学園長や教授たちを見れば、みんなぽかんとしている。
貧相すぎたのだろう。きっとほかの人はバラとかユリとか見栄えのする花を出したに違いない。
焦った私は、カスミ草を握りしめ立ち尽くす。
すると次の瞬間、部屋中にカスミ草が降った。
パサリ、パサリと現れては床に落ちていく大量のカスミ草。
私の魔力が気持ちに引きずられ、暴走したんだと思う。その時のことはよく覚えていない。
おそらく私は部屋中をカスミ草で埋めたはずだ。
誰かになだめられて退室したときに、部屋はカスミ草で足の踏み場がなかったから。
「あれは失敗しました」
「カスミ草の大洪水だったね」
「カスミ草一輪って、地味で貧相すぎたかもしれないと、パニックだったんです」
「見ていた私たちは愉快だったよ。あと、こんなにぽんぽん花を出せるなんて、なかなかの能力だと感心したな」
話しながらローブにブラシをかけ終え、風通しのよい場所にかける。
「終わりました。勲章磨くのを手伝いましょうか?」
「それもお願いしたいけど、先にお茶が飲みたいな」
「はい!」
私はいそいそとお茶の用意を始める。
お茶の後はちょっと片付けもしないと。
マーカス教授が心地よく研究できるように環境を整えるのが私の仕事なんだから。
決意も新たに今日もおいしくなぁれと唱えてお茶を淹れる。
「うん、やさしい味だ。ありがとう、おいしいよ」
にこりと笑顔をもらい、胸をなでおろす。
小間使いをするようになって知ったが、マーカス教授の理知的なはしばみ色の瞳は、紅茶が口に合った時、少し赤みを帯びる。
それがきれいで、もっと見たくて、私はお茶の勉強も始めた。
「リディアも座って。カップケーキがあるよ」
「わぁ! 遠慮なくいただきます!」
お茶請けにとマーカス教授が出してくれたのは、使い込んだ風合いが美しいバスケット。
研究に没頭すると飲食を忘れる夫に、片手でも食べられるおやつをと毎日奥様が用意している。
マーカス教授は大切そうにバスケットを開けて私に中身を見せた。
こんがりきつね色の表面に雪のような粉砂糖、そして天辺に赤い実。
「イチゴが乗ってる!」
「ずいぶんかわいくデコレートされてるなぁ。以前はもっとシンプルだったのに」
「そうなんですか?」
「これは完全にリディアのためだな。さ、好きなのをどうぞ」
「いただきます!」
奥様の心遣いに感謝し、ころんと丸く愛らしいイチゴが乗ったものをお皿に乗せた。
一口味わえば、粉砂糖のふんわりとした甘みにイチゴの酸っぱさが合わさって、とってもおいしい。
カップケーキもしっとりしていて、砂糖とは違う甘みがある。
「うん、イチゴの酸味がいいね」
マーカス教授は、大きな手でカップケーキをつかみ、リスのようにもぐもぐしている。
柔らかそうな銀髪を後ろに撫で付け、銀縁眼鏡をかけている、いかにも教授って感じの男性が小さなカップケーキに目を細めている姿は妙にかわいい。
マーカス教授は偉い人なんだけど、堅苦しい印象はなく、若い頃はさぞかしモテたであろう、やさしい風貌。
そんな人に愛される奥様、どんな女性なんだろう。
私もいつか、誰かのそういう女性になれるかな。
「そうだ、また図書館で本を借りてきてくれるかい?」
「はい、すぐ行きます!」
「お茶が終わってからでいいよ。タイトルはこれ」
今にも図書館へ飛んでいきそうな私に苦笑し、教授はメモ用紙をテーブルの上に滑らせた。
そこには「ワルイまぞくをやっつけろ!」と書いてある。
「これは児童書ですか?」
「絵本らしい。人から勧められた」
専門書や論文を出している大人に絵本を進めるなんて、どんな人だろう。
不思議そうな私に教授は紅茶のカップを静かにソーサーに戻し、背筋を伸ばした。
「リディアは魔族についてどう思う?」
「……実在しないおとぎ話上の生物かと」
「世間一般にはそう認識されているよね」
マーカス教授は含みのある笑みを浮かべた。
「教授は実在を信じているんですか?」
「信じるというか、否定する材料がないんだ」
「否定する材料」
おうむ返しに答えつつ首を傾げる。
「現在、魔族の発見や存在報告はないと思います。それではダメですか?」
「ダメじゃないよ。だけど、見えないから無いと言い切るのも極論じゃないかと私は思っている」
教授の言わんとしているところは、なんとなく分かる。
個人的な視点で言うと、世界にはまだ私の知らない生物が多数存在しているだろう。
本で読んで知った気になっても、実物を目にしたことがなければ、本当の意味で実在しているとは言えないのではないか。
反対に実在しないと言われている生物はまだ発見されていないだけではないか。
マーカス教授はそう言いたいのだろう。
私はこくりと頷いて、今度は反対側に首を傾げた。
「もし実在するとして、魔族はどこにいるんでしょうねぇ」
「君のすぐ近くにいるかもしれないよ」
「えっ?」
「私はね、リディア。桁違いの魔力を持つ人間が、魔族と呼ばれたのではと考えたことがある」
「人間が魔族?」
「おとぎ話の中の魔物は異形だ。だけど魔族は人に近い形で描写されている。だから、人、もしくは同族である可能性を感じた」
「同族ですか」
「そう。強い魔力を持った人が周囲に異端扱いされることはままあると思う」
教授の言葉に私は頷いた。
魔法が使える者はおそらくみんな経験しているだろう。魔力のない人からの差別を。
それは表立って出さない感情だけど、人間同士ふと気づくときもある。
「昔のようにほとんどの人間が魔力を持っていたとしても、大きすぎる力はやはり忌避されただろう。『普通』の人間から外れていると」
「はい……」
「魔族が人と種を同じくしていると仮定して、世界中の記述をまとめたら何か分かりそうな気もする。だけど今は他の論文があるから、とりあえず絵本でも読んでみようかなと」
マーカス教授の言葉たちは聞いているうちに私の頭に染みわたった。
「私も……知りたいです」
「ん?」
「魔族が人間なら、児童書に出てくるような悪者ではないかもしれません。違うのなら会話はできるのか、意思疎通はどうかなんて考え始めたら、どきどきします!」
「そうだねぇ、わくわくもするだろう?」
「します!」
私たちは二人で何度も頷きあった。
「その上で私は考えるんだよ、リディア。人間だけが知能と魔力を持っていると思うのは暴論だと」
「暴論……」
「知能の高い動物に魔力があり、自在に駆使できるとしたら……それは魔物だろうか。魔力差で動物ではなく、魔物と呼び方が変わるのか。それともそもそも魔物だから魔力が強いのか」
「種が同じか、違うかの定義付けからですね」
「そう。それでも実在を証明できなければ机上の空論だ」
「でも可能性は世に問えます」
「あぁ。だけどね、私が問いたいのは未来の人間に対してだ」
「未来の人間?」
「このままいくと、今以上に魔力を持たない者が大多数を占める世界になる」
マーカス教授の姿勢は崩れない。
私は全身で次の言葉を待つ。
「そうすると、君やクリフのような人間が異端と呼ばれるようになる」
マーカス教授の言葉に頷きかけ、その意味に気づき、私は自分の目が大きく見開いたのを感じる。
「私が、異端?」
「クリフと君の潜在魔力は大きい。その魔力で人を傷つけないと本人たちは思っていても、何かの拍子に暴走したら、それは排除の理由にされる」
私は真剣な表情のマーカス教授を呆然と見つめ返した。
「時代によって、多数が正義になるのは仕方がない。今はまだ違う。だが将来君たちのような子が異端扱いを受けないような世にしたい」
「……はい」
「まとまって本になったら、後世で問題解決の一助になればいいと願う」
私の心が打ち震えた。
マーカス教授が優秀なのは世界中の人が知っている。
彼が見据える世界の先、その思考の一端に触れて、ただただ尊敬の念しか浮かばなかった。