笛吹男は仕事しない。
「笛吹男に仕事させない。」とほぼ同じです。
笛の音が響く。ひゅるり、ひゅるりと、重なる空気を無視するような軽快な響きを持って。初めてこの笛を持ったのは齢一桁前半だから、人生の七割五分はこいつと一緒にいる。故に、大切な相棒だ。まぁ、まさかその相棒に、こんなことの手助けをさせるとは思ってもみなかったけれど。
指も脚も休むことないまま、街から見えていた少し小高い丘を越える。ほんの数刻前には、長い後ろ後列を追うように、大人たちの泣き喚く声や怒号が溢れかえっていた。だけど今では歩く我が子に縋る親も少なくなったし、子供は皆魔法にかかって黙りのまま。さっきまでの騒がしさは、この奇妙な長蛇の列から逃げ去っていった。
もう日が傾き始めていた。白い空の下側が橙に霞んで、今にも純白は飲み込まれてしまいそうな、そんな汚らわしい夜が来そうだ。そんな空に当てる視線もなく、どこか居心地が悪いような気がして――というか、今になって少しだけ良心が痛むのだが――使い古したサイケな帽子を、足元しか見えないくらいに深く被り直した。もちろん指は音を生み出し続けているから、一瞬だけ離れた左手で勢いよくつばを引いたのだけれど。
先の曲がった奇形の靴に重なって出来た影を、ぼんやりと眺めながら、どうしようかなと思考を巡らす。行き先なんて考えていない。ただ気の向くままに、思うままに歩を進めている。だけどそろそろ、寝泊りする場所を考えなければならない。
幸い、奏でながらだと疲労を感じないで済む。それはある意味、この笛の魔力と言っても良いかもしれないけれど、今はこの相棒の力に頼ろう。適当に歩いていれば宿場替わりになる場所も見つかるかもしれないし。
目星い場所を探し始めて数十分、辺りが本格的に暗くなり始めた。雑な憶測も外れた上に笛の魔力も切れ始めてきたし、子供たちの微かに親を呼ぶ幼い声がちらほらと聞こえる。
冷たい風の走る高原に出た所で、岩肌に沿ってそこそこ大きい洞窟が見えた。逃げ出さないように、そして朝日の出で起きるようにとしっかり催眠をかけて、奥へ誘導する。
残りの人数も僅かになった頃、服の裾が引っ張られ、
「笛吹さん」
という女の子の声が聞こえた。
振り向くと、齢十代前半くらいの少女がいた。
少しだけ焼けた肌は子供ゆえの満ちた希望を思わせるが、細い輪郭は繊細な硝子細工のように柔さを感じさせる。肩くらいまでの長さの深碧色の髪が夕映えしていて、鳶色の瞳に映る空の色も加わって、不思議な色のコントラストが生み出されている。美少女といっても良いかもしれない。それ程までの美しさを持っているように見えたのだ。
少し顎を引いて見上げながら、少女が髪を耳の後ろへ掻き上げ、清潔感のある芳香が漂ってきた。
「笛吹さん」
黙っている所為で聞こえていないと思ったのか、確かめるような口調で、再び声をかけてきた。
勿論、聞こえていなかったわけじゃない。下心故に、黙っていたのだ。
「ねぇ、笛吹さん」
訝しげな表情を浮かべながら、もう一度少女が声をかけてくる。
その、氷を削ぐような冷たさと悪戯を企む無邪気さを混ぜた、不協和音のようにも聞こえる違和感のある声。なのにずっと聞いていたくなる、魅惑的な音。幼い頃から音の魔力にとり憑かれるいる身からすると、学者がこの世の全てを解明したい衝動に駆られるように、画家がこの世の全てを描きたい使命を想うように、この不確定曖昧な音色を追い求めたく思ってしまったのだ。
だが流石にこのまま答えないのは可哀想なので、空気を求めたがらない心臓へ息を送り込み、吐き出してから答えた。
「ここ、何処?」
何を尋ねるのかと少しはらはらしていたが、案外普通のことを聞いてきた。こんなにも惑わすような音の持ち主なのだからさぞ変わった異色な娘なのだろうと思っていたから、少しだけ拍子抜けした。
「なに?」
不思議そうに顔を覗き込んでくる少女。何故か心のどこかで焦りながら、なんでもない、と応える。
「で、ここは何処なの? おうちは?」
催眠が効いているのか、足元をふらつかせながらもう一度尋ねてきた。次々に子供たちが洞窟の中へ入っていく奇妙な光景を気にすることもせず、答えた地名に、少女はやや眉根を寄せた。
いよいよ最後の一人になり、少女の背中を軽く押す。眠たそうな目つきで、魔声の少女は洞窟の奥へ消えていった。
よろよろと闇に融ける小さな背丈を眺め、洞窟の入口に座り込む。流石に疲れたのか、どっと肩が重くなった。笛を持つ右腕もだらんと下がり、立ち上がることも考えたくなくなるくらいだから、想像以上に精神を蝕まれていたらしい。
溜息を吐き、草の上に置かれた鈍色の笛に触れる。遠くから見れば真新しくも見えそうだが、こうして近くでまじまじと見ると、使い古されて年期が入っているのがわかる。この笛こそ木製だが、漆やら様々な染料で染められている所為で、見た目は奇抜……もとい、カラフルだ。生まれた時から音に囲まれ、音と共に育ってきたが、興味というものは底なしのようで、今でも理想を追い求めている。
最近になって行き着いた一つのヒントは、「子供が生み出す音」だということだ。大人はどこか疲れていて、寂びた風情を匂わせる。油を注さないと枯れてしまいそうな、高貴だけど汚れきってしまった花なのだ。その反面子供は、世間の煩わしさを知らないのか、純粋な楽しさと嬉しさで、空気を振動させてくれる。そうして耳に届く幸せな音を求めて旅をしてきたが、まさかここで新たな興味を抱かせられるとは思ってなかった。
笛を再び手に取り、そっと唇を付ける。ひゅるり、と秘愛じみた音が出る。そっと目を閉じると、ひたひたと後ろから巌を優しく踏む音がした。
振り向いた先には、あの魔声の少女が居た。
どうしたの、眠れないの、と尋ねると、
「……呼ばれた気がしたの」
と意味有り気な微笑を浮かべた。茶色い長袖のボレロと、その下に着た橙のワンピースが揺れている。
「座ってもいい?」
吸い込まれそうなくらいに黒い夜空を見上げながら、少女がそう尋ねた。
いいよ、と了承し、腰を少し浮かせて横にずれる。すぐ隣で岩壁に寄りかかる彼女からは、やはり良い薫りがした。
少しだけ脈が早いのを感じながら、気を逸らすように目を強く瞑り、笛に口を付ける。最初だけ息が強くて音が外れたが、それからはいつも通りを装って吹くことができた。途中で薄目を開けて少女の横顔を見たが、視線は秋空に向けられたままで、たなびく紫の雲とその隙間から存在を誇張する星たちを眺めていた。二度目に彼女を見たときは視線がばっちり合ってしまい、顔が熱くなるのを感じた。口元に力を入れてしまいまた音が外れたが、何事もなかったかのように吹き続けようとする。だが、彼女の笑いを堪えた上品な息遣いと妖しげな微笑みが頭から離れなくて、彼女と逆方向に顔を向けたが、火照りは一向に冷めなかった。
「素敵な音」
吹き終わった後に、少女は小さく手を叩きながら笑った。
名前は、と尋ねると、少女は髪を指先で弄りながら、
「わたし、死ぬんでしょう? そんなこと聞いたって意味ないわ」
草に乗った頭の影を見ながらそう言った。
そういえば、子供たちをたくさん連れ出したが、このあとどうするかなど特に考えていなかった。鼠の大群を引き連れたときは、確か川に溺れさせて駆除したが。いっそのこと一緒に洞窟に入って出てこないというのもありだが、それだとどことなく心持ちが悪い。
……今からでも催眠を解いて、朝には逃がしてしまおうか。その方が面倒事は少なくて済むだろうか。街の大人たちがしっかり報酬を払わなかったのが問題とは言え、元よりこの子供達に罪はないのだから。怒りも一過性のものだし、今では気はだいぶ落ち着いている。
「どうしたの」
草を掴み、身を乗り出すように少女が近づいてきた。大きく心臓が動いたのがわかったが、悟られまいと彼女から視線を逸らす。
相手はまだ年端もいかない子供だ。この状況でそんな女の子に手を出すなど、道理的に如何なものであろうか。ストックホルム症候群か、そうなのか。いや冷静に考えても見れば逆だろ、普通に。というか、立場的に。
笛を草の上に投げ、頭をがしがしと?く。あぁぁと呻いていると、少女に手首を掴まれた。
半分恥ずかしさと嬉しさ、残り半分は驚きながら、彼女を見やる。
「わたし、貴方の手が好きです。その細くて綺麗な手で、こんなにも美しい世界が創り上げられるなんて、すごい」
少女はそう言って僕の手を下ろさせると、もう一つの空いていた手で僕の手を包み込んだ。
「笛吹さん」
引き寄せられるように、自然とおでこをくっつけると、じわっと温い、だけど心地良いような人肌の感覚がした。少しだけ上目で彼女を見ると、長いまつげ少しだけ濡れていた。悪魔みたいな優しさを秘めた艶やかさが、脳裏を刺激する。それからじっと目を凝らして彼女を見ると、ぶつぶつした若い子特有の赤い面皰が見えた。よく見ると唇もかさかさだし、確かに可愛いけど、美少女ってカテゴリに押し込んでしまうには何かが違った。
堕ちるって、こういうことなのだろうか。
そんなことを考えながら、彼女の背中に手を回して、壊さないように抱きしめた。しばらくすると、戸惑ったように強ばりながら、彼女の小さな手のぬくもりが背中に触れた。