美衣
昔から僕は人付き合いが苦手だった。グループの中にいても、わかる人にはわかる、僕はいつもひとりだった。その日も何人かで話をしながら歩いていた。確か、学校からの下校途中だったと思う。あいかわらず僕はなかなか会話に入れず、みんなの少し後ろをくっついて歩いていた。そこは舗装された狭い道路で、両側には民家の塀が並び、電柱が道路と並行してずっと続いていた。猫が塀の上で寝ていた。漫画みたいだ。
「新しく出たあのゲームやったか?あーあれやりてぇよなぁ。でもなんか結構難しいらしいよ。オンラインでやると、リアルタイムでダンジョンが変化していくんだってさ。」とか、会話はどんどん進んでいく。そんな話を展開されても、ゲームなんてスーパーファミコンのマリオカート以来何もやっていない僕にはもう何の事やらさっぱりわからないので、相槌すら打てなかった。まぁ、もしそれがどんなに自分が得意とする話題であっても、率先して話を始めるなんて事はまずないのだが。聞きなれない横文字の単語が飛び交う会話を完璧にスルーしながら、これから自分はどうなるんだろうと、家に着くまでの暇つぶしになるかもしれないので、少し考えてみることにした。
まず、僕はこのまま、大人になっても、いつまでも人とはうまく話せないままで、休日も家から一歩も出ず、ただじっとしているだけで一日を終えてしまう、そんな生活を送るようになってしまうのだろうか。もちろんそんな生き方はしたくない。でも、ひとりでいるよりも誰かといるほうが楽しいなんて思える日がそうたやすく訪れるとは思えない。やっぱり僕はこの暗く湿ったヒキコモリエスカレーターに乗っかったまま、ずるずると底のない泥沼に沈んでいってしまうのだろうか。そしてやがて誰もいない部屋の中で、窓を閉め切って黙々と練炭を燃やして、誰にも影響を与える事のなかった僕の人生は、このまま静かに幕を閉じてしまうのだろうか。きっとリアルに大体当たっているんだろうなこれはとか思った。あぁ、嫌だ。はぁぁ、と前の人たちに気づかれないように声を出さずにため息を付いた。
目の前で繰り広げられている話は、もうさっきまでのゲームのそれではないようだったが、僕に話が振られることはまずないだろうと思ったので、このまま、飛び交う会話のスルーを続けた。僕は下を向いてただ歩いていた。金魚の糞。そのとき。
「寂しくない?」後ろから声が聞こえた。驚いて振り向くと、僕のすぐ後ろに女の人が立っていた。全然気が付かなかった。いつからいたんだろう。
「え?」なんて答えたらいいかわからなかった。
「寂しくない?」もう一度聞いてきた。
「寂しいって?」立ち止まって、聞き返した。
「寂しいでしょ。私だったら寂しいよ、すごく。ほら。」ゆっくりとそう言って、女の人は前を指差した。振り向くと、一緒に歩いていたみんなはもうだいぶ遠くに行ってしまっていた。立ち止まった僕に気づかなかったのだろうか。それとも。
黙っている僕に、女の人は静かに口を開いた。「ずっと見てたょ。たぶん、あなたはきっと優しすぎるのね。相手の気持ちを深く考えすぎちゃうから、だから、自分も疲れるし、相手だってもしかしたらそこに温度差を感じちゃうかもしれない。でも、それはみんなには分かってもらえないかもしれないけど、どこかにあなたの気持ちをしっかり理解してくれる人はきっといるから。ね。ゆっくりでいいから、少しずつ進むしかないんだよ今は。」
なんだこいつ初めて会ったばかりなのになれなれしいな、とは思わなかった。冷め切った心に何かが流れ込んでいくように、そう、それだけ、そのときの僕の奥底に、その声は深く浸透していった。
それが、美衣と始めて会ったときのことだった
何回か会うようになって、いくつかの不思議な事に気づいた。まず、美衣と話をするときは、なぜかほとんど気を使わずに会話ができるということ。つぎに、美衣といろんな事を話すようになってから、自然に周りの人との会話が少しずつ増えてきたということ。そして、美衣が僕と話すとき、すごく楽しそうな表情をするということ。これはいままで僕と話をした相手が決して見せない表情なので、とても不思議だった。そんな感じで、要するに、まぁ、そういうことである。
次第に二人で過ごす時間が多くなった。ご飯を作って一緒に食べたり、テレビを見て笑ったり、そんなとこがすごく楽しかった。やがて一緒に生活するようになった。狭い部屋だったけど、それでも十分に幸せだった。
そんな、
「なんかこのご飯いつもより硬くない?」
ある日。
「あらぁ、水が足りなかったのかなぁ、ごめんね。」
美衣の表情がどうもさえない。
「味噌汁もちょっと味が薄い気がするし、何かあったの?」
どうしたんだろう。
「あの、ちょっと考え事してたの。作り直そっか?」
「いやいや、それは別にいいんだけどさ、もし何かあるんなら、その、いつでも言ってくれな。」
「うん、わかった。」やっと少し笑ってくれた。
でも、それが僕の見た美衣の最後の笑顔だった。
次の日、いつもの朝だった。目を開けたその先はいつもの天井だった。いつものように横を向いて、美衣の寝顔を覗きこもうとした。いつもと同じ一日が始まるはずだった。でも、美衣の姿はなかった。僕は驚いた。こんな事は初めてだ。先に起きたのかもしれないと慌てて寝室を出て家中を探したが、どこにも見当たらない。途方にくれて、寝室に戻ってきたとき、部屋の隅のほうに紙切れが一枚落ちているのに気づいた。それは美衣からの一行だけの置手紙だった。「もうあなたの隣では眠ることはできません。幸せだったよ。さようなら。」その一言ですべてを知った僕は、美衣を探しに家を飛び出した。
家の周りを探し回った。どうか、間に合ってくれ。そう願いながら。
いつか訪れると思っていたけど、こんなに早いなんて思わなかった。
いくら呼んでも返事は返ってこない。なかなか見つけることができなかった。
あっという間に時間が過ぎて、今はもう、日が暮れようとしていた。暗くなったら、探せなくなる。早く見つけないと。焦って息も切れてそれでも走り回った。
「うわーきもちわりぃなぁ。なんか臭いしぃ」
遠くのほうで大きな声で喋っている子供たちがいた。みんな黒いランドセルをしょっていて、同じところに向かって何かを投げていた。そこは舗装された狭い道路で、両側には民家の塀が並び、電柱が道路と並行してずっと続いていた。そう、そこは初めて美衣と会った場所だった。まさか。
「やめてくれー」言いながら子供たちのところへ向かった。怒られると思ったのだろう。子供たちは手に持っていたいくつもの石を放り捨てて一斉に逃げ出していった。息を切らして辿り着くとそこに美衣は倒れていた。急いで抱き起こしたが、もう、すでに冷たかった。身体にはたくさんの傷跡、地面には投げられた石がたくさん転がっていた。
人と話すのがほんとに駄目な僕を、暗闇から引きずり出してくれた。もう一生ないと思っていたいろいろなことを、この短い間に、僕に与えてくれた。美衣。
舗装された狭い道路の隅、民家の塀に寄りかかるようにして、ひとりの男が大事そうに動かない傷だらけの猫を抱いて、泣いていた。
終わり。