『回想 : 壱 東京支部にて』
「会議は2時間後に変更だ。……色々と、情報に不手際があったようでな。今確認作業中なのだ」
「わかりました」
「悪いがそれまで、先に会議室で待機していてくれ」
「……諒解しました」
アカリはとある任務についての説明を受ける為、<組織>の東京支部とやらに足を運んでいた。
実に珍しい事である。いつもはトーカや組織からのメールなどで簡潔に任務内容が伝えられるのであるが、今回は余程大きな仕事なのだろう。
考えながら、支部内をうろうろと歩き回る。
てっきりトーカも一緒に来てくれるものだと思っていたが、サポート要員達はまた別らしい。
彼女は1人でやってきたのだった。
――あれっ、さっきここ通った気が……ぜ、全部似たような作りだから見分けがつかない……
此処に来るのは初めてなので何処にどの部屋があるのか全くわからない。それにしても、広い建物である。
――案内板くらい出しといて欲しいな、全く……
都内のド真ん中のビル。平凡なオフィスビルに偽装されたその地下に、このような巨大な空間があるとは――アカリは今まで思いもよらなかった。
なんと大胆なアジトであろうか。この堂々たる隠蔽法で問題が起きていないという事実が、そのまま組織の強大さを示しているようである。
だが、そんな組織も完璧ではないのだろう。アカリは先程の上司の言葉を思い出す。
情報に不手際――不穏な話であった。
トーカが以前、情報処理班の人員が足りていないとボヤいていた。それが関係しているのだろうか?
実際に情報に誤りがあった時、困るのは現場に居るアカリ達なのだ。それだけは勘弁して欲しいものである。
考えつつも彷徨っていると、奇跡的にと云うべきか、ようやくアカリの目の前に指定された会議室が現れた。
ドアを開け、いつもの如く滑るように中に入る。
室内にはまだ誰も居なかった。
「来ているのはまだ私だけか……」
今回の仕事は何人かとの共同だと聞いていたが、他の者はまだ来ていないのだろうか。
取り敢えず端の椅子に座る。
壁に掛かる時計を眺めながら、椅子の背に凭れた。
それにしても2時間とは、えらく待たせるものだとアカリは思う。
――歩き回ったから、喉乾いたな。
お茶などは用意されていないのだろうか?
普通の会社の会議であればありそうなものだが。
そう思って部屋を見回すと、隅の小さなテーブルにポットと紙コップが置いてあるのに気付いた。
横には大量のチョコレートやクッキーまでもが置いてある。
アカリはそれを視認するや否や、素早い動きで立ち上がり部屋隅へと疾走した。
――この香りは、高級珈琲『パナマ ゲイシャ』!横のチョコレートからも高級品の気配が!
2時間待機という命令に不機嫌さを隠しきれていなかったアカリであるが、瞬く間に許す気になってしまった。
――……いや、でも……勝手に食べちゃって良いのかな?
アカリは一瞬だけ逡巡したが、結局欲には勝てなかった。
全部食べなければ問題はないだろう。
社会人として相応しい行為でないのは間違いない。
しかし自分は暗殺者である。反社会的な人間の見本のような立場ではないか。
そもそもここにおいてあるということは、会議を受ける者が食べる為の物であると云う事は自明であり、今己が食べたとしても順番が前後するだけで何も変わりはしないのである。
責められる謂れなど無いのだ。
結局半分以上のチョコレートを掻っ攫い、波々と注いだコーヒー片手にアカリは自分の席へと戻った。
完全に腰を下ろす前に、もう待ちきれなかったのだろうか、香りを楽しみながらコーヒーに口を着ける。
作ってから殆ど時間が経っていないのだろうまだ熱い液体が、口腔内に侵入した瞬間――アカリの脳内は瞬時に喜びで満たされた。
「う……美味いっ……!こっ、これが……本物の味なのか…!?」
天井を仰ぎながら歓喜の声を上げる。
「いつも飲んでいるインスタントとは格が違う――!豆自体の風味の素晴らしさは勿論、計算され尽くした完璧な焙煎度合い……!この珈琲を入れた人間は―――『理解っている』!」
言いながら更にチョコレートにも手を伸ばす。
個別包装された中の1つを開け、ロクに見もせずに口へと放り込む。
そしてゆっくりと咀嚼した、次の瞬間。
アカリはニルヴァーナへと誘われていた。
「……お”っ!……美味しいっ”!甘い!甘過ぎる!しかしその強烈な甘さの中にも何処か上品さを思わせる確かな気品が感じられる!」
一切気品の感じられない声でアカリは叫んだ。
「こっちのクッキーも、信じられないくらい美味しい……!も、持って帰ろ……!」
チョコレートは溶けてしまうが、クッキーならば大丈夫だろう。
震えながらポケットへねじ込んでいく。
鞄を持ってこなかった事が悔やまれた。いや、クーラーボックスがあればチョコも持って帰れたな――
「くくくっ……」
ふと、室内に堪えるような笑い声が聴こえ、アカリはピタリと動きを止めた。
周囲を見回すが、誰の姿もない。だが、確かに声は聞こえた。
「だ、誰か居るの!?」
反射的に声を上げる。
すると、目の前の空間が蜃気楼の如く揺らいだ。
「い、いや、隠れていたつもりは無かったんだが、済まない……くっくっくっ……!」
次の瞬間、アカリの向かいに黒衣の男が突如として姿を現していた。
まるで何処かから瞬間移動してきたかのような、不自然な現れ方であった。
声は男の物だったようだ。今も必死で笑いを堪えている。
「……今回、共同で任務に当たることになったカジワラだ。……宜しくな」
なんとかポーカーフェイスを取り戻すと、男は自己紹介をした。
カジワラ――アカリも知っている名前であった。
【不可視の死神】など様々な異名がついている、世界一とまで評される事もある有名な暗殺者である。
彼は自身の存在を100%隠匿出来る、人知を超えた隠形能力を持つという。
今まさに、アカリはそれを体感したのだ。
「……」
「……」
しかし、今現在アカリの胸中は1つの思いで占められておりそれどころではなかった。
――き、聴かれてたぁ~!
自分の顔が赤面していくのがわかる。
カジワラは既になんでもないような顔で座っているが、気を遣って真顔を維持しているのは明らかだった。
彼は優しい男であった。
――き、きっと、いつもこんなテンションの高い女だと思われているのだろう……
違うのだ……高級珈琲とチョコレートに、少しはしゃいでしまっただけなのだ!私は普段はクール系なんだ!
アカリは弁明をしたくて堪らなかったが、言い訳をしても恥の上塗りをするだけである。
敢えて何も言わず、いつも通りの優雅な仕草でコーヒーを一口飲んだ。
――ここは冷静に行動するべきだ。大丈夫。まだ取り返せる……!
一切何も気にしていませんよという表情で、アカリは悠然と挨拶を返した。
「貴方の事は勿論知っている。世界一の暗殺者『梶原 省吾』。私は宮代 灯。此方こそ宜しく」
「……ああ。………ぷっ……くくっ……」
――笑われた。
もう、終わりだ。
アカリは全てを諦めた死んだ眼で、残り1時間55分をどうやり過ごすかについて考えていた。
「す、済まない。笑うつもりは……俺も、君の事は聞いている」
「……それは、光栄だ」
――しかし、コーヒーとチョコレートで嬌声を上げるような人間とは聞いていなかっただろうな。
「……予想より親しみやすい子のようで、安心した」
「……そう」
――必死のフォローが逆に傷つくからやめてほしい。
「日本に帰ってきたのは久しぶりだが、海外でも君の名前は有名だよ」
それは初耳だった。
「……どうして?」
「君も、特殊な能力を持っているからだろう」
自分の未来予知能力はそんなに有名だったのか?アカリは驚いた。
しかし、別段隠している訳ではなかったので当然かもしれない。
「同じく、西崎麗華も有名だな」
「……そう」
あまり聞きたくない名前が出たので、アカリは話題を逸した。
「海外に居たっていうのは、組織の仕事で?」
「……勿論だ。俺が、好き好んで海外旅行に行く人間に見えるのか?」
そう言われ、アカリは改めて目の前の男を眺めた。
慌てていたので、まだハッキリと顔も見ていなかったのだ。
カジワラは全身を黒い服装で統一している、地味な雰囲気の男だった。
言われなければ誰も、この男が世界一の暗殺者だとは思わないだろう。
顔は不細工という訳ではないが、素晴らしく整っているという程でもない。
アジア系にも見えるし、白人にもヒスパニック系にも見える。
明らかに男だとはわかるのだが、角度によっては中性的な印象を受ける、不思議な顔立ち。
地球上の全人類の顔の平均を取ればこんな感じになるのではないかと、アカリは思った。
表情や声の調子から察するに、普段はあまり喋る方ではないのだろう。
恐らく彼女に気を遣って、色々と話してくれているのだ。
それを悟ったアカリは、少し申し訳ない気分になった。
「……組織の連中は人使いが荒くて困るよ。出来れば、日本でゆっくり過ごしたいんだがな……」
「そう……大変だね」
誰にも気付かれずにどんな場所へも潜入出来るとなれば、組織が彼を酷使するのも当然である。
暗殺、諜報活動、危険地帯からの脱出。隠形能力が役に立つ場面は数え切れない程あるだろう。
疲れたカジワラの顔を見れば、アカリとは比べ物にならない量の仕事をこなしているのは想像に難くない。
「今も本当なら休暇の予定だった。それで久々に日本に帰国してきたんだが……着いて3日で、仕事の呼び出しだ」
言いながら大きな溜息をつく。
「……貴方程組織に貢献してる人間なら、多少は意見も通らないの?休暇ぐらい……」
「……所詮、俺も下っ端だ。強く物を言える立場ではない。一般企業と違って、叩き上げで上に上がれる訳じゃないからな。どれだけ成果を挙げようと立場なんて変わらない」
「……それもそうか」
組織の上部の人間は、恐らく元々幹部として採用された人間なのだろう。
確かに暗殺者が格上げされて待遇が良くなったという話は聞いたことがない。
「有能過ぎるのも、考えものだね」
労いを込めた調子でアカリが言う。
カジワラもそれに笑みで答えた。
「全くだ。昔は誰も彼もが俺を無視し、必要とされる事などなかったが……こう極端ではな」
「その……気配を断つ能力は、制御出来ないの?」
「昔はムラがあったが、今は意識して完璧な気配隠匿が可能だ。しかし、逆に自身の存在感を高めるのは、どう頑張っても無理だった。そういう意味では、制御出来ないと言っていい。
俺は常に、幻のような存在だ。……悪いが、能力についてはあまり聞かないでくれるか」
「あ、ああ。ごめん。……不躾だった。済まない」
いくら同じ組織に属する仲間とはいえ、あまり詮索するものではない。
特に職業柄、自分の情報を隠すのは当然と言えるだろう。
アカリも自分の事について、進んで人に話すつもりはない。
「別に良い、気にしていない。……ところで、コーヒー、冷めるぞ。飲まないのか」
「……!」
せっかく忘れかけていたのに、先程の己の醜態をまた思い出してしまった。
誤魔化すように紙コップを手に取ると、中身を一気に飲み干す。
さっきはあんなに美味しかったのに、今は単に苦いだけとしか感じない。
「……まだ笑った事を気にしているのか?本当に悪かった。君が部屋に入ってきた時に此方から声を掛けるべきだったな」
自分が悪い訳はないのに謝るカジワラに、アカリは慌てて答えた。
「い、いや。謝らなくても良いよ。貴方は何も悪くない。私が勝手に騒いでただけなんだし……」
「そう言ってくれるとありがたい。……まぁ大丈夫だ。俺は人に認識されづらいだけでなく、記憶にも残りづらいらしい。……この事は、君も直ぐに忘れるだろう」
「……そうなの?」
「ああ、意識していれば残るようだがな。しばらく会わなければ、殆どの人間は俺と話した事すらも忘れてしまう」
カジワラは微笑を浮かべながら話していたが、何とも悲しい事だとアカリは思った。
誰の思い出にも残らない人生。友人も、恋人も、みんな自分の事を忘れていってしまう。
その知名度の割に、カジワラと会ったという人間の話を聞かない理由が、初めて解った。
「……それなら組織から逃げるのも簡単じゃない?こき使われるのが嫌なら、いっそ逃げてしまえば?」
アカリは敢えて明るい口調で話した。
「……フッ、そうだな。それも、悪くない。……だが」
言葉を途中で切ると、カジワラはふと寂しげな表情を見せた。
アカリは先程から話している筈の彼の素顔を、その時初めて見た気がした。
「ここを抜ければ、俺の事を憶えていてくれる人間は誰も居なくなってしまう。普通の仕事は、当然出来ないしな。
……君は気付いていないだろうが、俺の事をハッキリと認識した上で、こんなに長時間話せる人間は珍しいんだよ。大抵は見えたとしても、いつの間にか意識外に追いやって俺の存在を認識できなくなる」
確かに、気を抜けば彼の身体は再び陽炎に包まれてしまう。
常に意識を集中していなければ、カジワラを認識することさえ出来ないのだ。
強化されたアカリの感覚でさえこうなのだから、一般人には彼とマトモなコミュニケーションを取るのは難しいに違いない。
アカリが部屋に入った時も本人が言うように隠れていた訳ではなく、どうせ話しかけても無駄だからと黙っていたのだろう。
「俺の居場所は、ここにしかないんだよ。だからどれだけこき使われようと、辞めるつもりはない。複雑な心境ではあるがな」
疲れ果てた笑み。
先程からカジワラがよく喋るのはアカリに気を遣っていたのではなく、単純に、自分を認識してくれる事が嬉しかったからかもしれない。
会ってまだ数分ではあるが、彼の今までの人生を想像すると、アカリは胸が締め付けられるようであった。
「……でも、さっきの件は強烈だったから、当分忘れそうにない」
これは同情ではなく本心だった。
あのような醜態を二度と晒さないためにも、教訓として憶えておくべきなのである。
「…そうか」
「……仮に貴方が組織を抜けても、多分忘れないよ」
「……フッ、君は……いい娘だな」
しかし言いながら、アカリは集中力の限界を感じていた。
カジワラの姿は既にぼやけ始めている。
カジワラもそれに気付いているようだった。
「……無理はしなくていい。気持ちだけ、受け取っておく。……ありがとう」
「……!」
その言葉を最後に、カジワラの姿は掻き消えた。
もう声も聞こえない。
彼はアカリの負担を考え、自ら隠形を高めて姿を隠したのだった。
アカリは感覚を集中させ再びカジワラを捉えようと努力を続けたが、しばらくして辞めた。
彼が意識して隠形を行っていることを悟ったのだ。
諦めて、テーブルの上にある、溶けかかったチョコレートを口へ入れる。
ビターな味がした。
2時間後、会議は予定通り始まったがその後もカジワラが姿を現すことはなかった。
アカリはせめて彼との会話だけは憶えていようと努力を続けていたが、一週間後には、やはり殆どを忘れてしまっていた。