『学校 : 壱 冬』
窓の外の鳥の囀り。
それに加え、若干の肌寒さによって少女は目を覚ました。
――…朝か。
今は何時だろうか。
彼女が半分ほどしか開かない眼を時計にやると、時刻は7時35分を示していた。
今日はどうしようかと、宮代灯は薄汚れた天井を眺めながら考える。
彼女は気分屋なところがあった。
今は仕事も入っておらず、特に予定も無い状態である。
となると高校生の身分としては学校へ行くのが当然の行動であろう。
しかし、彼女の出席率は高くはなかった。
週に3、4日顔を出す程度である。
仕事など其程頻繁に入るわけではない。つまりその出席数は単に彼女がサボっている為だ。
通常の生徒なら進級に必要な出席日数を満たしていないので、留年は避けられないだろうが――
組織という後ろ盾があるからこそ、彼女の自由奔放な高校生活は許されている。
恐らく一日も出なくとも進級は出来るだろう。
少し悩んだ末、今日は出てみるかと彼女は思い立った。
どうして今日は登校しようと思ったのか。理由はわからない。
そもそも理由があったのかすら、定かではない。
肌寒いから今日は行かない。
お腹の調子が良い気がするから今日は行く。
仮に彼女の中に基準があったとしても、その程度だろう。
それ程、彼女は気ままに学校へ通っていた。
人という生き物は、強制力が無ければ進んで面倒な事をするようには出来ていないのだ。
反動をつけてベッドから起き上がり、やたら殺風景な部屋を出て洗面所へ向かう。
彼女の住んでいるアパートは1DK。ユニットバスの洗面所は寝室のすぐ隣にある。
このアパートに住むように指示したのは組織であり、逆らうことはできない。
だがそもそも彼女に、この物件への不満はあまりなかった。
友人を招く機会もないし、不自由なく生活はできるからだ。
立地も悪くなく、近辺にはスーパーやコンビニ等、日常で必要なものはいつでも調達することができる。
しかし、組織が金に困ることもないのだから、もう少しマシな部屋を用意してくれても良かったのではないか。
アカリは密かにそう思っているが、勿論口にした事はない。
冷たい水道水で顔を洗い流し、鏡を見る。
彼女は身体強化の為に定期的に薬物を摂取しているが、ステロイドの様に顔や体型に大きな変化があるわけではない。
外観は至って平常。血色も良く、寧ろ健康的な印象を受ける。
何も変わっていない。いつも見ている顔だ。問題無し。
スキンケアの類いは一切していないが、彼女は特に肌が荒れたこともなかった。
洗面所に置いてあるのは石鹸と歯磨き粉のみである。年頃の少女にしてはあまりにも物が少ない。
アカリはタオルでざっと顔を拭い、洗面所を出た。
取り敢えず、外出の前に朝食を取るべきであろう。
寝起きの割にしっかりとした足取りで台所へと向かう。
彼女が台所として使えるスペースは非常に狭かった。
食材を切る場所がまともになく、シンクも小さいので洗い物も儘ならない。
およそ料理をする人間のことを考慮しているとは思えない設計である。
そんな台所があってたまるものかと言いたくなるが、安物のアパートなどその程度だ。
しかしアカリにとって、それも特に不都合ではなかった。
彼女はそもそも料理らしき料理をしない。
主な選択肢といえば、カップ麺にレトルトカレー、冷凍チャーハンぐらいだろうか。
相棒のト―カに以前その話をしたことがある。
彼女は即座に「男か!」と突っ込んだ後、
「女の子なんだから、もっと手料理して栄養しっかり取らないと美容にも悪いし、結婚した時にご飯が作れないお嫁さんになっちゃうよ!
それでもいいの?ううん、絶対ダメ!ちゃんと自分で料理するんだよ!」
と猛烈に説教されたのだった。
だが、そんなことにアカリが耳を傾けるわけもなく――
現在も食器棚には、即席食品のストックが山のように積んであるのだった。
アカリは転がっている皿等をシンクの中へ避けて作業スペースを確保し、電気ケトルでお湯を沸かした。
暫く経って湧いたお湯を100円ショップで適当に買ってきたマグカップに注ぎ、インスタントコーヒーの粉を目分量でブチ込む。
洗っているのか怪しいスプーンで混ぜながら、棚から取り出した食パンを咥えて部屋へ戻る。
コーヒーにクリープと砂糖は入れない。彼女の好みはブラックだった。
テーブルにカップを置き、腰を下ろす。
「……」
彼女の部屋には殆ど物が無い。
パイプのシングルベッド、木目のテーブル、小さめの衣装ダンスとテレビぐらいである。
必要最低限の生活用品だった。
いつでも居場所を移すことができるよう、という仕事上の都合である。
だが、彼女のプライベートな住居であってもこのような部屋になる可能性は十分にあるだろう。
彼女自身の性格がストイックであり、質素な生活を好みそうなところがあった。
なんとなく、転がっていたリモコンでテレビを点ける。
早朝ということで子供番組が映る。頭から花が生える少年が主人公の謎のアニメだった。
テレビは情報収集に必要だろうと言うことで一応用意した物だが、あまり活用はしていない。
偶に点けていてもあまり内容は頭に入ってこず、BGMとしての役割しか果たしていない事のほうが多かった。
――このアニメ、タイトル何だったかな。
コーヒーを啜りながらボーッとテレビを眺めていたが、ふと我に返る。
学校はすぐ近所だが、流石にそろそろ支度をしなければいけない。
パジャマを脱いでベッドの脇に畳んでおいてあったセーラー服に着替える。
最近はこれだけ着ているのでは、とてもじゃないが寒くて外に出る気にはならない。
冬用に組織に用意させていた黒のダッフルコートをタンスから取り出す。暖かそうだった。
綺麗に保管してあったので、埃一つ被っていない。
その他の防寒具も身に付け、通学用のカバンを持ち外出の為の準備は完了した。
カバンを持って、とはいっても中身は携帯電話とハンカチくらいしか入っていないのだが。
当然ながら、登校するだけなのに銃などは持っていく必要がない。
それならカバンは必要ないじゃないか、という話になる。だがそれは、流石に見栄えに問題があるだろう。
彼女にとって学生鞄は、一般的な女子高生を演出する為の小道具に過ぎないのだった。
支度が整ったところで時計を確認する。丁度良い時間だ。
気が変わらないうちに出よう。靴に足を通しながら、彼女はそう思った。
玄関を出て階段を降りると、女性がゴミを捨てているところだった。
おそらくここの住人だろう。
彼女に同じアパートの住人を覚える気など全くない。毛ほども興味がないのだ。
「おはようさん、今日も学校かい?毎日大変だね」
「……」
気が向いた時だけ行ってます。そんなことは言えない。
「た、楽しいですから」
「そうかい、そりゃいいことだよ。気をつけてね」
アカリは精一杯の笑顔を浮かべ、足早に立ち去った。
興味がないとはいっても、最低限の受け答えはするようにしている。
自分の立ち振る舞いで悪い印象を与えないほうが良い。
殺し屋として歩んできた彼女なりの処世術だ。
通学路を歩きながら、彼女は自然と周囲に気を巡らしていた。
葉の枯れた木、優雅に歩く野良猫。散歩中と思われる老紳士。
街全体に落ち着いた柔らかな雰囲気が漂っている。
気温は低いが、日差しが心地よい。よく晴れた日である。
――やっぱり外に出てきて良かったな。家に居るより全然マシだ。
学校はアパートのすぐ近くにあり、徒歩で通うことができる距離だった。
アパートがある通りから一度だけ角を曲がると、もう学校の前の通りだ。
ちらほらと生徒が登校してきている、無難な登校時間。
彼女としては、定時ギリギリに着くようにしたい。
だが、目立つような振る舞いは避けるべきである。
彼女は既に満席の教室に悠然とドアを開けて入っていく自分の姿を想像し、微笑んだ。
注目を浴びてしまうのは間違いないだろう。
「……ねえ、あの人先輩かな?」
「ん、誰?」
「ほら、あの黒くて長い髪の人」
「……うーん……学年はわからないけど……すっごい綺麗な人だね!」
「だよねだよね!モテるんだろうなあ……」
ただでさえ目立ってしまう容姿である。
影を生きるべき暗殺者にとっては好ましい事ではない。気を付けなければいけないだろう。
「でもちょっと近寄り難いかな~高嶺の花って感じで」
「わかる。『私、馴れ合いは嫌いなの……』、みたいな!それがまたクールで良いんだけど!」
――大きな声だな。全部聴こえてるよ。
教室に入ると、ほとんどの生徒は登校してきているように見えた。
HRまではまだ少し時間がある。
特にすることもなかったので、アカリは大人しく自分の席に着いた。
しかしそうしていると――
「あ!灯ちゃん!」
誰かが話しかけて来た。
面倒だな。という表情を極力隠しながら声の主へと顔を向ける。
「おはよう!今日もやっぱり可愛いね!」
「……まぁね」
「うんうん、ごめん。わざわざ言う事でもなかったよ!」
「勘弁してよね」
クラスメイトであろう女子生徒が、楽しそうに話しかけてくる。
アカリが登校してくる度に、積極的に接してくる子である。
最初に話しかけられた時は無視しようかとも思ったが、適当に話を合わせるのがいいのではないかという考えに至った。
教室でいつも一人でいるよりは、誰かと喋っているほうが目立たないと判断したのだ。
この女子生徒にも友達らしい友達はいなさそうなので微妙なところなのだが。
「灯ちゃん、学校に来てくれない時があるから、朝居ると安心するんだよね!」
「来てくれないというか、来れないんだけどね」
「持病……なんだっけ?」
「そう。決して治らないと医者に言われてる」
「え……!そう……なの」
「そうなの」
適当にでまかせを言ってあしらう。
アカリが不定期に学校を欠席するのは、公では病気のせいということになっている。
何人の生徒が疑わずに信じているのかわからないが、少なくともこの女子生徒は信じ込んでいるようだった。
――そういえば、こいつの名前なんだったかな。
アカリにとっては彼女の名前が木村でも鈴木でも何でもいいのだが、ふと聞かれた時に答えられないのはまずい。
この少女の友達という設定を守るために、把握しておきたかった。
「あのさ、貴女の名ま……」
「ん?なあに?」
「……ちょっと、自己紹介してくれないかな?」
「え!何?記憶無くなっちゃったの?それも病気のせいなの……?」
「い、いや、改めて知りたくなったの!貴女の事が!」
「えっ……や、やだ灯ちゃん……もうぅ、仕方がないなぁ!」
照れてるように見えるが、何か勘違いしているのだろうか。
しかし、とにかく誤魔化せたので良かった。
「私の名前は……さすがに知ってるよね。得意な科目は家庭科で、得意料理は――」
「いや、ちょっと」
アカリにとって一番重要なところを飛ばされた。何の為に自己紹介をさせたと思っているんだろう。
「やっぱり、形式って大事だから。……名前からお願い」
「そっか、確かにその通りだね!では改めて、私の名前は……」
彼女の名前は、小坂英梨だそうだ。
言われてみればそんな名前だったような気がしなくもなかった。
呼び捨てで、下の名前で呼んでとのことだ。
基本的に学校にいる人間の名前は覚えないが、彼女の名前だけは頭に入れておく。
エリ、エリ、エリ。
アカリが頭にインプットし終えても、エリはまだ自己紹介を続けていた。
誇らしげな顔が微笑ましい。
アカリにとって彼女をやり過ごすのはそこまで苦ではないが、これはこれで良かった。
受け答えに疲れた時は、自己紹介をさせようかなとアカリは密かに思うのだった。
エリならきっと、快諾してくれるだろう。
「ほら、そろそろHR始まるよ」
「あ、だね。じゃあまた後でね!」
彼女は少し、トーカに似ているかもしれない。
……トーカと比べればかなり性格は良いけど。
てけてけと自分の席に戻っていくエリの後ろ姿を見て、アカリはなんとなくそう思った。
いつもと変わりないHRが終わり、いつもと変わりない一日が始まる。
進んでいく授業を、アカリは退屈そうな顔で受けていた。
既にアカリの学力は、高校で行われる授業のレベルには充分達している。
組織によって小~高校、大学入試級の勉学は叩き込まれていたのだ。
年齢を考えればかなりの無茶であるが、彼女の頭脳にとってはそこまでの難題では無かったようだ。
おかげで、高校の授業で分からないことは無い。
余裕を持って仕事と息抜きに時間を割くことができた。
「灯ちゃんって、勉強得意だよね」
エリがいつだか言っていた台詞だ。
『もう3年分予習済みだから』とは言わなかった。
こればっかりは生まれ持っての才能だから、とか何とか誤魔化したような記憶がある。
それを聞いたエリはショックを受けたような顔をしていた。
「ああ、でも、全教科得意って訳じゃなくて」
家庭科の実技は全くできないんだ、と言って慰めておいた。
実際、アカリは料理は苦手だった。
半面エリは家庭科の成績が良好で、料理も卒なくこなすことが出来た。
純粋な子なのだろう、褒められたエリが真っ赤な顔で照れていたのを思い出す。
時間は進み、いつの間にか数学の授業が始まろうとしていた。
今日も退屈だった。登校したものの、何も新しい発見がないのだ。
クラス対抗バトルロワイヤルでも始まらないかな、と非現実的な妄想に一瞬耽る。
彼女なら、間違いなくこのクラスを優勝へと導くことができるだろう。
「お願いしま~す!」
エリの明るい声が響いている。
なんであいつ友達いないんだろう?アカリは疑問に思った。
なんとか午前中の授業を終え、昼休みに入る。
この時間もなかなか長い。
「灯ちゃん、食堂行こう。今日お弁当忘れちゃった」
「ああ……うん」
「あれ?食堂嫌いだっけ?」
「いや、そういう訳じゃないよ。行こう」
正直、食堂は喧しくて好きではない。だが断るほどでもなかった。
教室で一人、本を読むよりは退屈しないだろう。
食堂へ行くと、やはり生徒たちで賑わっていた。
この学校の食堂は、在籍している生徒の数の割にかなり広い。
故に知らない者と相席したりする心配は無かった。
伸び伸びとテーブルを使えるのである。
「あれ?灯ちゃん今日は食べるんだね」
「折角だからね」
普段、アカリは学校で昼食を取らない。
彼女の肉体は消費が激しく、定期的に大量の栄養補給が必要である。
出来れば食べた方が良いのは間違い無いのだが――
しかし、以前食堂でいつもの量の食事を1人で摂った時、「凄まじい大食いの女が居る」と結構な騒ぎになってしまったのだ。
それ以来、家に帰ってからまとめて食べることにしていた。
幸い彼女は、その気になれば3日食べなくとも平気であった。
単に100%の能力が発揮できなくなるというだけだ。
薬物投与、大量の食事、筋力トレーニング。
随分メンテナンスの大変な身体だと、アカリは思う。
少し努力を怠るだけで、直ぐに普通の女子高生へと逆戻りだ。
「灯ちゃんはさ……」
エリが急に真面目なトーンで話し出した。
「……何」
「……好きな人とか、いないの?」
ふっ、と頬が緩んだ。
若干声を落としたから、何を言うかと思えば。
年頃の女の子らしい会話だった。
「期待に応えられなくてごめん、誰もいないよ」
「嘘~、一人ぐらい気になる男子いるよ~!」
これは長引くパターンだなとアカリは悟った。
強行突破するしかないようだ。
「あの、驚かないでねエリ。実は私……」
「う、うん……!」
「女の子が好きなの」
「えっ……」
………。
「……」
「……!」
エリは固まったままだった。とても気まずい空気が流れている。
純粋なエリには少しショックが強過ぎたかもしれない。
というか、真に受けてどうするんだろう。
「……というのはさすがに冗談なんだけど」
「な……なんだ~!これから灯ちゃんと、どうやって付き合っていこうか考えちゃったよぉ!」
素直な奴だなぁ。アカリは改めてそう思った。
自分が殺し屋だと言ってもすんなり信じるかもしれない。
からかい甲斐がありそうだ。
「……そういうエリはどうなの?」
「え?ど、どうって……?」
「気になる人、いるの?」
「い、いいないよ!何言ってるの、いるわけないよ!」
そう答えると同時に、物凄い勢いでラーメンを啜り始めた。
アカリもそれ以上は聞かないことにしてやる。
「……はぁ。それにしても、午後の授業寝ちゃいそうだなぁ」
「次の教科はなんだっけ?」
「社会」
「まぁ確かに、あの先生の授業は起きてる人のほうが少数だね」
「私、多数派!」
手を挙げてにっこりと笑っているが、何の自慢にもならないことはわかっているのだろうか。
「それだけで評価下がっちゃうよ」
「いい方法ないかなぁ、灯ちゃん」
「うーん……」
「灯ちゃんは急に眠くなること、ない?」
「そりゃああるよ」
「えっ、じゃあそういう時、どうしてるの?」
仕事上でも、疲労が溜まっていても意識を研ぎ澄ませていなければならない場面は多々ある。
だが、流石にそれと授業中とでは話が違う。
それでも少し、彼女の反応が見てみたい気もした。
「あのね、まずナイフの切っ先を」
「ナ、ナイ、え?なんて!?」
悪くない反応だった。
だが、真面目に答えてやらないと可哀想である。
「ふふ、そういうときは珈琲のブラックを飲むよ」
「あ~!定番だけど効きそうだね!私、珈琲苦手だけど頑張って慣れようかなぁ」
「うん、慣れれば美味しいから」
最もアカリの場合は、普段からブラックなのだが。
「今度からそうしてみるね!ありがとう灯ちゃん」
「いいよ。良いけど、今日は大丈夫……?」
「ううん、寝ちゃうと思う!」
「……」
「よーし、どうせならぐっすり寝るぞー!灯ちゃん、机で快適に寝る方法を一緒に考えて!ほらほら!」
エリは既に、如何に効率よく睡眠を取るかへと思考を切り替えたようだ。
アカリは自然と微笑みながら、自分も食事に手を付けた。
彼女といると、自身の中に居座っている暗雲が晴れていくような気がした。
「エリと一緒にいると退屈しないよ」
聞こえるか、聞こえないか程度の微妙な声量で呟く。
予想通りその声は、彼女のラーメンの汁を啜る音に完全に掻き消されてしまった。
その後の社会の授業中、エリはいつも以上に気持ちよく睡眠へ没入している様に見えた。
そして、ようやく全ての授業が終わり下校時間になる。
「それじゃあね!灯ちゃん、また明日」
「……身体がなんともなければね」
「うん、待ってるよ~!」
彼女は部活動に所属しているので、一緒に帰ることはない。
だが、アカリが帰るときは律義に見送ってくれるのだった。
バイバイ~、と後ろから声がしたので、左手を挙げてそれに応える。
アカリはふと、自然に笑顔を浮かべている自分に気付き頭を振った。
――ふふっ。今の私、完全に唯の女子高生だなぁ。
悲しげな苦笑。
……自分が、暗殺者だって事を忘れそうになる。
アカリは先程とは打って変わって、陰鬱とした気分になってしまった。
――そう、自分はエリとは違う世界の人間なのだ。それを決して、忘れてはいけないのだ。
自然と使命感のようなものが湧いてくる。
組織に属する暗殺者であるという事実のみが、『宮代 灯』にとって唯一のアイデンティティなのだ。
それは自分でも不思議であったが、脳の奥から発せられるような強烈な確信であった。
自分は組織の中で命令を受け、人を殺すことでしか生きられないのだ。
やはり、学校にはあまり行かないほうが良いのかもしれなかった。
一時柔らかくなっていた筈の雰囲気は消え、彼女は再び元の冷たい空気を纏っていた。
街の景色も朝とは違い、猥雑な人混みで溢れかえっている。空も曇っており日は差していない。
「……」
暗い方向へしか向かわない思考を止め、アカリは黙々と帰路に着く。
家へ帰って1人で過ごしていても気分は晴れないだろうが、神経を擦り減らす人混みの中よりはマシである。
だが後少しで自宅に着くという時、不意に彼女の鞄の携帯電話が鳴った。
アカリに連絡を送ってくるのはトーカと組織だけだ。素早く取り出して確認する。
見ると、やはり仕事のメールだった。
文面は当然暗号化されているが、解析ソフトを通すまでもなくアカリの頭脳は元の文章を読み取った。
――仕事内容は………『殺し』、か………
携帯電話を仕舞い、再び歩き出す。
アカリはふと、自分が今、今日一番の安らぎを感じている事に気付き、怖気を覚えた。