ヴァンパイアと出会ったのは森の中
「完成だ…… これで今日こそヴァンパイアを召喚してやる」
電気も付いていない暗い部屋の中で、いつもの黒一色の服装にマントを羽織り、約1m四方の紙に描き終えた六芒星に円を足しただけの魔法陣を見下ろして、そう呟いた。
俺はヴァンパイアに強い憧れを持っている。数多く設定された弱点を物ともしない、圧倒的強さ。眷属達を従えるカリスマ性。暗い城内でワイングラスに入った処女の生き血を啜る様は、俺の中の厨二心をくすぐってくれる。
ヴァンパイアになりたいと願ったこともある。だが、俺は純日本人だ。短い黒髪に、薄い顔立ち。黒い瞳が、それを物語っている。
だが、諦めきれず24歳になった今は、せめて眷属になりたいと願い、夜な夜な儀式を行っている。
「さて、始めるか」
真っ暗な環境に慣れた目でテーブルの上のナイフを探し、手に取り、指先に刃を当て、力を入れる。じわじわと滲み出る血がある程度溜まったところで、魔法陣に垂らす。
「我が主よ、その御霊を現世へと現し、我が血肉を、我が魂を、闇へと誘え!」
仕事中に考えた口上を読み上げ、目を瞑る。
この後は、魔法陣が光りだし、怪しげな音が聞こえ、コウモリの鳴き声が響くのだろう。
と、妄想が膨らむのと同時に、心臓が強く動くのを感じる。この感覚が病みつきになる。確実にヴァンパイアに近づいている感覚が堪らない。期待を胸に、目をゆっくりと開き、目の前で起こっていることを確認する。そこにあったのは……
静寂……そりゃそうだ、何も起こるわけがない。俺はただの日本人、ただの社会人だった。ぼーっと魔法陣を眺め、切った指先の痛みを感じ落胆する。
分かってはいる。この世にヴァンパイアなど存在しない。だが、もしもこの魔法陣の先にヴァンパイアがいたら……会ってみたい……
「片付けよう…… 明日も早いしな……」
ため息混じりに溢した独り言は、力なく真っ暗な部屋に溶けていった。
今日のところはこの辺にしよう。魔法陣を描いた紙を丸めて捨てようと、手を伸ばしたその時、ある異変に気付いた。
先程垂らしたはずの血が、どこにも見当たらない。俺の血は確実に流れていた。それは指先が少し赤くなっている事が証明している。
なら、俺の血はどこへ消えたのか。ヴァンパイアに飲まれた?いやいや、まさかあのヴァンパイアが魔法陣から頭だけひょいと出して、俺の血を一滴だけ飲んで帰ったってか?俺の憧れるヴァンパイアはそんなセコイ奴じゃない。
でも、もしも、その『まさか』が当たっていたら?そう考えると試さずにはいられない。俺は片付けようと伸ばした手を一度引っ込めた。
もしかしたら長年待ち続けた瞬間が訪れるかもしれないのだ。この魔法陣の先に、本当にヴァンパイアがいるかもしれない。
一つ仮説を立てた。そもそも俺が呼び出そうとしたのが間違いだった。相手は闇の王だ。わざわざ俺の方へ呼び出すなんて失礼極まりない。
だとしたら、俺の方から出向くべきだ。俺の血が無くなっていたのは、血だけがヴァンパイアの所へ出向いてしまったのかもしれない。
自分もこの魔法陣に乗ればヴァンパイアのいる世界に行ける。会ったら何を話そう。まずは眷属にしてもらおう。ワクワクが止まらない。
いつもの厨二ごっこの時の胸の高鳴りとは違う。もう間近に迫っているのだ。夢が叶う時が近づいている。震える足を無理やり動かし、魔法陣に足を伸ばす。
が、その足がぴたっと止まる。
人は夢の直前に立たされた時、後一歩で夢に届くという時、何を思うのか。歓喜する者、今までの苦労が報われる事に涙する者、安堵し肩をなでおろす者、様々だろう。
俺は、恐怖だった。この先にあるのは俺の思い描いた通りの夢なのか。俺の理想のヴァンパイアがそこに居るのか。居たとして俺を眷属にしてくれるのか。その後の生活はどうなるのか。
期待と共に、そんな不安が頭の中をぐるぐる回る。
そして、俺は一度足を引いた。部屋の空気は今までに感じたことの無い程、冷たく、重くなり、足の震えは全身まで迫っていた。
だが、ここで諦めたら確実に後悔する。これはチャンスだ。夢への第一歩なのだと自分に言い聞かせ、部屋に充満する空気を搔き消すように大きく息を吸い、大きく吐き出した。
そのまま勢いに任せ、この空気を壊すトドメだと言わんばかりに叫んだ。
「連れて行け!!! 我が主の元へ!!!」
震えていた足に力を込め、魔法陣の上に立った。
次の瞬間、足下の魔法陣が光り出し、怪しげな音が耳に届き、黒い影が俺の体を覆う。体が喰われている。痛みは無いが、闇に喰われている。
そんな不思議な感覚に包まれた直後、俺の体は現世から引き剥がされ、意識が途切れた。
◆◆◆
次に意識が戻った時、俺は再び暗闇にいた。さっきまでと違うのは、閉塞感と、体が仰向けに倒れている事だ。
俺は、一先ず状況を確認しようと、手を伝い、周りの閉塞感の原因を調べる。これは、箱か?いや、あの状況からこの箱の中に入ったのだとしたら、これはただの箱では無いだろう。
魔法陣に入る前の心臓の高鳴りが再び戻ってくる。だが、ここまできたらもう迷ってはいられない。この箱の蓋を開けようと、上面を強く押してみた。すると、ガコン……という音と共に閉塞感から解放された。
期待、喜び、不安、戸惑い、様々な感情が頭に浮かぶ中、それら全てを吹き飛ばす声が前方から飛んできた。
「いらっしゃい! 君を私の眷属にします!」
俺は体を起こし、その声の正体を確認した。
『ヴァンパイア』だ。一目見た瞬間分かった。ニコリと笑った口元から覗く鋭い牙。日本にいた時には見たこともない、端正な顔立ち。月明かりに照らされ輝く金色の髪は、少し短いが、彼女の顔を美しく照らしている。そして、その奥にある真紅の瞳が、俺の全身を貫く。
様々な創作のヴァンパイアを見てきたが、こんなに綺麗なヴァンパイアは見たことがない。まさに、俺の理想のヴァンパイアが、漆黒のドレスに身を包み、目の前に立っていた。
しかし……しかし、だ……
「どうしたの? まだ暗いの慣れてないのかな?」
そうじゃない……
「ここで一緒に暮らそう? みんな家族だよ!」
違うんだよ……
見た目は申し分ない程の理想だ。だが、その話し方はなんだ。そうじゃない。違うだろ。
ヴァンパイアは、未だに真紅の瞳をこちらに向け、俺に話しかけている。その話し方は、やはり理想とは程遠い、『普通』の話し言葉だった。
しかし、このまま黙っているわけにもいかない。俺の我慢も限界だ。意を決してヴァンパイアに向かって言った。
「違う!『ようこそ、我が城へ! 汝を我が眷属にしてくれよう!』だろ!」
「えっ……どうして……?」
その「どうして……?」は「どうしてそんな恥ずかしいことを言わなければならないの?」ってことか……?
まさか、念願のヴァンパイアとの初会話が、こんな形になるとは思わなかった。ヴァンパイアは、目を丸くしている。そりゃそうだ。眷属にしようとした人間の第一声が、生意気にも否定から入るものだったら驚くのも無理はない。
だが、ここは折れるわけにはいかない。続けて否定する。
「『時期にこの闇にも慣れる。付いて来い! 歓迎するぞ! 新たなる同胞よ!』だ!」
ヴァンパイアは、威厳を持っていなければならない。気品に溢れていなければならない。鉄則だ。それがないヴァンパイアに眷属にされるなんてごめんだ。殺された方がまだマシだ。
とは言いつつ、ビビっている自覚もある。伝説のヴァンパイアの前で生意気を言ったのだ。本当に殺されても文句は言えない。
せっかく出会えたのだからもっと話したかった。コウモリとか見たかった。
後悔は残るが仕方ない。俺は、恐る恐るヴァンパイアの方へと視線を向けた。
「うぅ……うぐっ……」
そこには、予想とは違う反応をするヴァンパイアの姿があった。先程まで丸くしていた目に浮かぶ涙が溢れないよう、下唇を噛み、堪えている。言い過ぎたか? いや、そこまで怒った口調で言ったわけじゃない。悔しかったとか?
予想外の反応に困惑していると、涙を見せない為にか、後ろを向き、涙声で叫んできた。
「ようこそ! 我が家へ! うぅ……っ」
俺の否定、もといアドバイスを少しは受け入れてくれたようだ。
だが、最後には、堪え切れなくなったのか、奥へ逃げ出した。
家じゃなくて、城な。と、突っ込もうと口を開きかけたが、ヴァンパイアの足音に違和感を覚え、その口を閉じた。足音は、俺の想像していた、大理石を踏み、響くような音ではなかった。ゴン……ゴン……と低く重い音。その正体を確認しようと、辺りを見渡した。今まで暗闇に隠れて見えていなかったものが、月の灯りに照らされて見えてきた。
そこに映ったものは、木目の入った床、木で出来た机、本の詰まった木棚。俺が出てきた箱はやはり棺桶だったが、それも木で出来ているようだった。月の灯りが入ってくる窓から見える景色は、木々が整然と並ぶだけだ。
木々に囲まれた木造の建物。俺がヴァンパイアと出会ったのは森の中にある小さなロッジの一室だった。
「城じゃなくて家だな……」
そう一言溢し、俺は一人部屋に取り残された。