08.苦学生な田中さんはいろんなところでアルバイトに勤しんでいます①
ぼんやりしているにしても、さすがに四時間は長過ぎる。仕方ないからどこかで適当に時間を潰そうと思ったところで、駅前に新しくできた本屋を思い出した。最近拡大中のチェーン店で、テナントをビル一棟丸ごと占有するという剛毅な書店だ。あそこなら、ざっと新刊を眺めて歩くだけでも十分に時間を潰せるだろう。
駅前のパーキングエリアに車を止めて(当然のごとく有料なのだけれど、これは経費で落ちたり、しないよねえ)、ぶらぶらと歩き出す。何も急ぎの用事ではないから、のんびりしたものだ。と、周囲を見回しながら歩いているところでいい匂いに気が付いた。見れば歩行者天国の道端に屋台が出ていて、たい焼きを売っている。小腹も空いていたのでひとついただこうかなと寄って行ったところで、屋台の中に立つ田中さんを見つけた。
「おや不審者かと思えばユーヤさん。こんなところで奇遇ですね」
「不審者って」ちょっと傷ついたよ。
「これは失礼。きょろきょろしながら歩いているユーヤさんが見えたので、あの挙動不審なユーヤさんはもしかして私の知るユーヤさんかと」
「もしかしなくてもユーヤさんだよ」ていうかそれはもう、決め打ちだよね。「田中さん、ここでバイト?」
僕の問いに、田中さんは軽く頷いた。
「ええ。たい焼きです。ひとつ二百円、いかがです? ちょうど出来立てですよ」
それはいい。甘いものは好きだし。ひとつ買った。受け取っただけで中まで熱々だとわかる。
僕がはふはふとかぶりついていると、どこからかふと妙な音が聞こえた。きゅう、と。はて、何だろう。
「ユーヤさんは、たい焼きは尻尾から食べるのですね」
僕の食べる様を眺めていた田中さんは、ぽつりと言った。言われて改めて見ると、確かに尻尾からかじっている。
「そうだね。あんこは尻尾まで詰まってないからかな」最後まであんこを楽しみたい。
「成程。確かに大多数のたい焼きは尻尾まであんこが詰まっていません。しかしながらそれは、あんこの方が生地よりも高温を保ちやすいため、尻尾を持つことで手を火傷しないようにとの配慮というお話もありますが」
「え、そうなの?」それは、なんだか作ってくれた人への配慮を無視してしまっているようでやや気が咎めてきた。けれど田中さんは首を傾げる。
「さあ、確証はありません。割と適当です。それに仮にそういう考えがあったとしても、やはり大多数は気遣いからではなく経費から尻尾にあんこを詰めていないことでしょう。ソフトクリームがコーンの底まで詰まっていないようなものです」
「そ、そうなのかな……」
さすがにちょっと偏見があるような気もするけど。なんだろう、過去に何かあったのかな。
そんなことを思ったところで、またあの音が聞こえた。今度は少し長く。きゅうぅ、と。
「…………」
田中さんを見る。田中さんは全く表情を変えていない。しかしまた、音は聞こえた。
お腹の音だ。
「田中さん……ひとつ、食べます?」
「いいんですか?」
「ええ。これ、代金です」たい焼きもう一個分のお金を置く。では遠慮なく、と田中さんはショーケースからたい焼きを一匹取り出すと、躊躇なくかぶりついた。
終始一貫して無表情なのだけれど、食べる勢いが早い早い。例によって苦学生の田中さん、バイトで稼いでも食費を切り詰めているのだろう。
熱くないのかな。
「それで、ユーヤさんはどうしてこんなところに? 見たところ暇そうですが」
あっと言う間に食べ終えた田中さんは、何事もなかったかのようにけろっとした顔で問うてくる。
「ああ、うん」まあ、今は暇かな。「実は今度、ゆうやけ荘に新しく引っ越してくる人がいてね。その人を迎えに来てるんだけど、ここまで到着するのが十七時なんだ」
「それは」田中さんは屋台の壁につってある時計を一瞥し、「早く来すぎたのでは?」
「まあ、そうなんだけどねー……」置いていかれたり当てにされてなかったり、ね。「とにかく来ちゃったものはしょうがないかな、って。で、暇だからそこに新しくできた本屋さんに行こうかと」
「ああ、成程」
田中さんは屋台からやや身を乗り出して、その本屋の入ったビルを見上げる。
「私も一度、あそこには行ってみたことがあります」
「あ、そうなんだ。どうだった?」
ええ、と田中さんはひとつ頷き、
「どれも高価で、とても買えたものではありませんね。やはり古本屋が一番です」
そりゃあ、新刊は高いよねえ……。
「雰囲気はなかなかよいところで、座るところも多かったので、買わずに読むには最適ですよ」
「お、それはいいね」
都合がいい。立ち読みを勧めているみたいで、書店側の意図はわからないけれど、そこで時間を潰させてもらうこととしよう。
と、立ち去りかけたところで、ああ、と不意に田中さんに呼び止められた。
「たい焼きの御礼と言ってはなんですが、ひとつ御忠告です」
「え、はい、何でしょう」
実はこのたい焼き、ただのたい焼きじゃない、だとか……? けれど田中さんの御忠告はそんなものではなくて、というかふざけたものですらなかった。
「駅に向かって右に少し行ったところ、公園があるのを御存知ですか」
「あ、うん、知ってるよ」公園というよりは広場かな。遊具の類は一切なくて、ベンチがいくつかあるだけの、犬の散歩コースになってる場所。「それがどうかした?」
「午後五時。その時間には、公園には近寄らない方がいいです」
きっぱりと、田中さんは言った。まあ、田中さんが何かを曖昧に言うことって滅多にないんだけど。
え、でも、何で? しかも時間指定までして。
目で問うけれども、田中さんはそれについては軽く肩をすくめた。
「何となく、ですよ。たい焼きの御礼ですから。それに……恐らく、どう転んでもユーヤさんはそこへ向かわなければならないのですから、いっそ無意味な御忠告です。お気を付けて、と言った方がいいのでしょうね」
「はあ……まあ、うん。わかりました」決定事項のように話しているけれども、正直何の話なんだかさっぱりなわけですが。他ならぬ田中さんの御忠告だ。「肝に銘じておきましょう。それじゃあ、僕はもう行きます。バイト頑張って」
「ええ、たい焼き御馳走様でした。それではまた、大学で」