36.佐々木さんの歴史。
僕は梯子を上り切った。
屋根の上だ。
僕がこのゆうやけ荘に住み始めてから半年近く経つけれど、屋根の上に登るのはこれが初めてのことだ。というか、大学生だった頃から十年近く住んでいるまつげさんですら一度も登ったことがないという話で、もしかすると僕が初登頂。雪も滅多に降らない地域だから、雪下ろしとかも必要ないわけで、むしろそれにも関わらず屋根に届く梯子があったということが驚くべきことですらある。
そんな、ゆうやけ荘最上域。そこに、
「――佐々木さん」
佐々木さんは、いた。
いてくれた。
時刻は夕刻、黄昏時。
誰そ彼時である。
斜陽に向かって膝を抱えて座る人影は、淡い茜に縁取られて、誰彼の輪郭は曖昧だ。
けれど、そこにいるのは、佐々木さん以外にありえない。
「佐々木さん――」
呼びかけて、僕はおっかなびっくり屋根の上に立つ。屋根の上と言っても、ゆうやけ荘には屋上があるわけではない。鉄筋コンクリートではありながら、その屋根は瓦葺の入母屋屋根だ。足を滑らせればころころとあえなく転がり、十メートル下へ真っ逆さま。
そろそろと傾斜を登り、大棟を跨いで立つ。佐々木さんが座っているのは、この大棟の端点だ。
その丸められた小さな背へ、僕が一歩を踏み出そうとしたとき、
「――のう、ユーヤ」
佐々木さんの声が聞こえた。
こちらには背を向けていて、それほど張った声ではなく、むしろ弱々しい声だったけれど、僕にははっきりと聞き取れた。だから僕は、出そうとした足を、戻す。
「はい」
僕は田中さんじゃない。田中さんみたいに上手に話を引き出すことも、有用なアドバイスもできない。
だけど、聞くことだけなら、できる。
「何でしょう」
だから、聞く。
果たして、佐々木さんは。
「わっちは、どうしてここにいるんじゃろうなあ……」
そう、話し始めた。
ここにいる、というのは決して、屋根の上にいるという意味ではないだろう。
どうして、ゆうやけ荘にいるのか。
「わっちが初めて気が付いたときのことは、今でもよぅく覚えておるよ。もう千年も前のことらしいのじゃが、別にそんな気はしない――前島と同じ力をもった奴がおってな。そいつが、わっちを目覚めさせたのじゃ」
それは、佐々木さんの始まり。
神様として生まれた頃の記憶――思い出。
「あれは男じゃったが、前島と同じで万事テキトーな奴じゃった。そやつが、わっちをこのゆうやけ荘に神として据え、代々祀るようにと言い残して、どこぞへ去って行った。もともと放浪生活をしているものじゃったらしい。とにかくそういうわけで、わっちはその家で暮らし始めた。神として――人の姿で」
農家じゃったよ、と佐々木さんは言った。
「このゆうやけ荘のある土地に、初めにあったのはとある農家じゃった。とある一族の本家が住んでおっての。どれくらいじゃったかな……二百年くらいは続いておったが、とうとう途絶えてしまった」
嫡子が生まれなかったのか、あるいは戦乱や、他の原因か……その一族は、いなくなってしまった。
「農家の一族がいなくなった後は、しばらく誰もいない時間が続いて、土地は荒れ果てていった。屋敷なんかも全て朽ち果てたよ。わっちには、それを見ていることしかできなかった。笑えるじゃろう、一族の祖霊神だの、屋敷の守り神だのと言っておきながら、わっちにはそのどちらも守ることはできなかった」
ただ、見ていただけだった、と佐々木さんは言った。
「わっちはずっと、この土地から出られんからの。ここで、周りの風景が変わっていくのを見ておった。あるときは寺院の指導で開墾されて、田になった。畑にもなった。また荒れ果てて、今度は武士が屋敷を作った。戦乱でそこが燃えると、再び百姓がやってきて――しかしなあ、不思議なことに、誰がここに住んでもわっちを祀ってくれたし、誰がいようがいなくなろうが、必ず専門家がやってくるのじゃ」
毎回知らない奴なんじゃが、と佐々木さんは笑った。だから、寂しくはなかった、と。
佐々木さんの昔語り。しかし、時間の流れは不明確だ。入れ替わりのスパンにどれだけの時間があるのかはわからない。けれど、つまりはそれが佐々木さんの時間間隔なのだろう。
いつだって、あっという間じゃ、と佐々木さんは言う。
「その時々、その一瞬その一瞬は、楽しかったり、腹が立ったり、いろんなことがある。その一々を、わっちはどれもよぅく覚えておるよ。どいつもこいつも、もう生きちゃあおらんのだが……仕方ない、とはわかっておる」
そうそう、と佐々木さんは思い出したように膝を打った。
「前島が初めて来たときのことも、よく覚えておる。先代の専門家に、どこからか連れられてきての。こーこーせいというのじゃったか、花笑とはちと違うが、似たような服を着ておった。目つきが悪くてのう、何かにつけては先代に噛み付いて、大喧嘩しておった。そのたびに嵐になったり地震が起きたりするから、大変じゃったな……わっちに対しては愛想こそよくないんだが、遊びにはよく付き合ってくれた」
師弟の喧嘩で天変地異を起こすのか……思わぬところで前島さんの昔話だ。これ、聞いても大丈夫なんだろうか。後で前島さんに張っ倒されたりしたら嫌なんだけど。むしろ張っ倒される程度で済むことを願うべきなのかな。不可抗力ですよね?
「このゆうやけ荘が、今みたいに下宿になったのは、大体その頃じゃな。先代がぼろい日本屋敷だったここを、そういう風に使い始めた。十年、くらいじゃろうか。先代が死んで、前島がわっちの管理を継いだ。それからしばらくして、前島はゆうやけ荘を建て替えた。それが今のゆうやけ荘じゃ。そのときだって、いろんな奴が出たり入ったりしておったよ。奇天烈な奴もいれば、わけのわからん奴もいたし、冗談みたいな奴も、変わった奴もおって、面白かった」
……それだけ聞いていると、代々のゆうやけ荘には奇人変人しかいなかったような印象になるんだけれども。そんなことはないよね。今だって、変な人なんてひとりもいないし。
「今いる中で同じくらい変なのは、ユーヤだけじゃな」
あれー?
「ここに来たときのまつげは、お前と同じくらいの年の頃じゃったぞ。わっちが屋敷神だと知ったら、大興奮しておった。いろいろと、前島に話を聞いたりして嬉しそうじゃったな。何年かすると慣れてしまって、そういうこともなくなったがの」
初々しいまつげさんか……大学入学当初から民俗学が大好きだったんだな。
「水戸と加賀が来たのは、ユーヤの少し前じゃったな。水戸の料理は美味い。まつげより美味いからの、大好きじゃ。加賀にはいつか絶対にオセロで勝つぞ」
いつぞや惨敗したことをまだ根に持っているらしい。
あれ、木鈴さんと最上さんは?
「あのふたりは、いつの間にかおったような感じじゃな」
それはちょっと寂しい……。
なあ、と佐々木さんは吐息した。
「わっちは、皆が大好きじゃ」
そう、ささやくように言う。
「わっちが目覚めたときから出会ってきた、誰も彼もが大好きじゃ。今はもういない奴も、今いる皆も……ここから出られないわっちが出会えた、掛け替えのない連中じゃ」
わかっておる、と佐々木さんは落とすように言った。
「ここから出たいと言っても、それが無理なことじゃということは……それでもわっちは、皆と少しでも長く、楽しくありたい」
だって、
「皆、いつかわっちの前からいなくなってしまうんじゃから」
それは、決して変えられないこと。
「死なずとも、いつかここからは出ていくことじゃろう。まつげも、加賀も、水戸も、花笑も――ユーヤだって、そうじゃ。ここにいる時間は、短い」
けれど、と続く。
「短いからこそ、わっちは精一杯楽しくいたい――大切にしたい。家族じゃから」
家族だから。
「同じ土地に住み、同じ釜の飯を食って、昼と夜と時間を共にした仲じゃから……いつか別れてしまうそのときまで、のう」
ええ、と僕は頷いた。
一期一会、なのだ。佐々木さんにとって、全ての出会いは。
確かに、思い違いだったのだ。田中さんの言う通り、僕の心配は、全く的外れだった。
佐々木さんが家出をしたのは、決して、外に出られなかったからではない。間接的な理由ではあるけれども、直接的なものではない。千年もの間外に出られないということは、佐々木さんにとっては大きく苦にするようなことではなかった。それは僕の、人間の物差しで測ってしまっていたのだ。
そうじゃない。
どんな出会いにも、必ず別れが来てしまうこと。
そのことを、佐々木さんはとうに受け入れている。
袖振り合うも他生の御縁。
だからせめて、一度振れ合った袖の御縁を、大切にしていきたい。
それは、
「――同じですよ」
僕は言った。
これだけは、はっきりと、満腔の自信をもって言えるから。
「皆が家族だからっていう思いは、皆、同じです」
だから、祝い事があれば皆で喜ぶ。花笑ちゃんの歓迎会がそうだ。皆で迎え入れ、言祝いだ。
何かあれば、協力する。前島さんのバイトのとき、最後の締めに皆がそろっていたのは、そういうことだった。
そして誰かに危機が訪れたときには、皆で立ち向かう。
花笑ちゃんの参観日がそうだったし――そして今、家出した佐々木さんを探し続けてきたことも、そう。
「皆、佐々木さんが大事な家族だから、諦めないで一生懸命に探し続けてきたんです」
思いの形は、違うだろう。佐々木さんが抱いている感情と、僕や、皆が抱いている感情は、きっと違う姿をしている。
けれど、描き出す絵は、一緒だ。
家族。
「帰りましょう、佐々木さん。皆が待ってます――美味しい御飯も待ってますよ」
小さく、佐々木さんの方が震えた。その背に、僕はそっと言う。
「家族のところへ帰りましょう。ひとりでも欠けたら、ダメなんです」
佐々木さんがいなくっちゃ、ダメなんだ。佐々木さんだけじゃない、他の誰が欠けても。
掛け替えのない、家族だから。
「ゆうやけ荘一家、皆そろってパーティです。――こんなに時間がかかっちゃいましたけど、やっと見つけましたから」
探し出せたから。
佐々木さんを。
僕らの大切な家族を。
く、と佐々木さんが振り返った。その表情は、逆光でよく見えない。赤い紅い斜陽を背に、佐々木さんは手をついて、立ち上がる勢いのままこちらへ走る。
表情は、見えない。けれど、声は聞こえる。伸ばした手は、確かに届く。
バカ者、と罵る声は、濡れていた。
「遅いのじゃ、腹が減ったわバカ者め!」
そんな言葉は、正直な本音と、幾許かの照れ隠し。
泣きじゃくる佐々木さんの軽い体を受け止めながら、ああ、と僕は思わず微笑む。
よかった、帰って来てくれた。
そして、決して忘れてはいけない。
今、僕たちがどこにいるのかということを。
確かめるまでもなく、ゆうやけ荘の屋根の上である。地上から十数メートル。
僕は梯子を登り切って立った場所からほとんど動いておらず、佐々木さんは対極点にいて、そこから全力のダッシュで僕のもとへ飛びついてきた。
いくら佐々木さんが軽いといっても、運動力はバカにならない。
平たく言って全力タックルを食らった僕は、お約束通り、ぐら、とバランスを崩した。
後ろに。
下がった先に、足場はない。
ふわ、という一瞬の浮遊感。
うわお。
これはもう、どうしようもないぜ。
せめて佐々木さんが下敷きになったりしないよう、しっかりと抱き包んで――そうすることで見えた向こう側、いよいよ稜線に沈もうとしている夕日が見えた。
赤々と、鮮やかな半円。
ああ、と僕は嘆息する。迫りくる一瞬から逃避するように。
これだけ夕日が綺麗なんだ。
明日はきっと晴れるだろう。
そんなことをぼんやり思って――これぞまさしく急転直下。
――ごふう。




