03.ゆうやけ荘の愉快なみなさん①
ゆうやけ荘は、某県某国立大学近郊に展開されている俗称・学生街の一角に建つ二階建てのアパートである。佐々木さんという屋敷神が存在する通り、その由緒を紐解けば何でも鎌倉時代くらいにまで遡るらしいのだけれど、アパートの建物自体は十数年前に立て直したとのことで鉄筋コンクリート製(耐震強度承認済み)だ。
現在、このアパートの居住者は八人。
まずは、僕。
佐々木さん。
まつげさん。
木鈴さん。
加賀さん。
最上さん。
水戸さん。
そして大家さんである前島さんは、アパートの隣の離れに住んでいる――とはいえ大体、こちらにいるけれど。
アパート、とは言いつつもゆうやけ荘の構造は下宿に近い。イメージするなら、それぞれに自分の部屋を与えられた大家族、みたいな感じだ。トイレ、お風呂は各共用で男女別だけれど、居間や台所は一階にひとつだ。暇な人は大体いつも居間にいる。
午後の講義を終えて、部活にもサークルにも所属しておらず、別段のレポートも抱えていないので大学図書館に寄ることもなく、ゆうやけ荘にまっすぐに帰ると、居間で座卓を挟んで佐々木さんと水戸さんがオセロに興じていた。
「ただいま帰りましたー」
「おお! ユーヤ、帰ったか!」
「あ、ユーヤさん、お帰りなさい……」
うーん。
佐々木さんはうっさいけど、水戸さんにお帰りなさいと言われると何だか痒いな……しおらしいというか、控えめな物腰がね。
ぞくぞくする。
と、思っていると水戸さんは僕の頭の方を控えめに見上げながら、
「あ、あの、ユーヤさん、その、髪型……」
「ああ……これ。結局朝からこのままでした」
「あ、朝から……」
一応、直してみようとはしてみたんだけど、全く何も変わらなかった。整髪剤なんて持ってないしな。早々に諦めて、ふたコマほど講義を受けてきた。
と、佐々木さんが何やら僕へ手招きをしている。
「ん、何ですか」
「おお、ちょうどいいから、ちょっと代われ。わっちじゃもう勝てん」
「え、代われって言っても……」
はあ、と鞄を佐々木さんの座るソファの端に置き、水戸さんと向かい合う形で佐々木さんの横に座った。
盤上を見る。
ほぼ真っ白じゃねェか。
もう勝てない、と佐々木さんが言ったということは、佐々木さんは黒なんだろう……オセロでは、ひとつ残らず塗りつぶされない限り、必ずしも負けにはならない――むしろ、後半に相手色の方が多い方が後手に有利なはず……。
でも、ものの見事に手を塞がれている。
うん。
「佐々木さん」
「何じゃ」
「こりゃ無理ですよ」
「なにっ!」
何とかせいと佐々木さんが僕の肩を掴んでぐらんぐらん揺さぶる。けれど無理なものは無理だ。実に巧妙に、数少ない空白からどう伸ばしても黒の残兵へ届かない。救援に向かうのは不可能だ。
「強いんですね、水戸さん」
「え、い、いえ、そんなこと、ないですよ……」
自分の顔の前でぶんぶんと手を振る水戸さん。でも先を促すと結構躊躇いなく空いているところに石を打った。それで数少ない黒兵が裏返る。うわあー……容赦ねェ。
「……参りました」
「ちょ、ユーヤ、負けちまったではないか!」
「いや、ほぼ完敗のところで僕にバトン渡されても勝てませんよ」
だって真っ白なのだもの。
「水戸さん、今日は帰るの早かったんですね。学校は?」
「あ、今日は、講師が急に風邪をひいたとかで臨休に……」
「ああ、成程」
いいなあ。僕も休みたいな。ああでも、他人の不幸を願うのは不謹慎か。
「それはそうと……他の皆は、まだ帰ってないみたいだね」
玄関にも、靴がなかったしね。
「にしても、前島さんまでいないというのは、これは珍しい」
「あ、ま、前島さんは、今日は別の御仕事があるとかで、さっき……」
「成程」
別の御仕事……ね。
大学院生のまつげさんの帰りが遅いのはいつものこととして、加賀さんも何をやっているのかは知らないけれどまだ帰っておらず、木鈴さんや最上さんも言うに及ばず――
「……あ、そろそろ、お夕食の支度をしないと」
時計を見て立ち上がったのは水戸さんだ。わっちも、と立ち上がろうとする佐々木さんの着物の背を掴んでソファに戻しながら、水戸さんを見上げる。
「何か手伝うことはあります?」
「あ……いえ、その、大丈夫です。でも……その、佐々木さんと遊んでいただければ……」
ああ、成程。合点だ、と僕は頷いた。
ほっといたら佐々木さん、摘まみ食いしかしないからねえ。
ゆうやけ荘では別に、賄いが出ているというわけではない――水戸さんだって、立派に家賃を収めているゆうやけ荘の住人だ。ゆうやけ荘の食事は基本的には自給自足になっている。とはいうものの、今取り掛かってくれたように、ゆうやけ荘では食事、特に夕食は、水戸さんやまつげさんが全員分を作ってくれることが多い。水戸さんは料理の専門学校に通っていて、その練習になるから、とのことだ。かなり有り難い。水戸さん以前はまつげさんが作っていたのだそうだ。今でも水戸さんが用事でいないときなんかはまつげさんが作っている。ちなみに他の住人はと言えば、佐々木さんは食べる専門で、加賀さんは身長がキッチンに届かず、男子勢はほぼ全滅、大家である前島さんも料理はできない人らしい。
「何か、食べたいものはありますか?」
一度台所に入った水戸さんが、エプロン装備姿で顔を覗かせた。
「え? うーん……」
「はいはい! わっちは、わっちはの、あれじゃ、あれが食べたい、は、はん、はん、はんぶるぐ……?」
「ええと……ハンバーグですね。わかりました」
ハンブルグ……よくハンバーグだってわかったなあ。水戸さんは頷いて、それから僕の方を見た。え、僕も答えるの?
「なん……」何でもいい、と咄嗟に答えようとして、ふと思った。何でもいい、だなんて、それじゃあ倦怠期の夫婦みたいじゃないか。いくらエプロン姿の水戸さんが新妻風だからと言って……いや、夫婦でなくとも、要望を訊いて何でもいいと応じられるのは誰だって困るというぞ。「……ええと」
けれど、僕が何かを言いきる前に、水戸さんは「わかりました」と頷いて引っ込んでしまった。何だろう、もしかして言いかけたことがわかっちゃって、気を悪くしたのかな。そんな感じはなかったけれど、悪いことしたかな……。
軽く気落ちしながらも、詮方ないので佐々木さんと遊ぶことにする。ゲームは引き続いてオセロなんだけど……。
「……佐々木さん」
「何じゃ」
「もう佐々木さんの置くところないですよ」
くう、と佐々木さんは歯噛みする。けれど、ないものはない。あっと言う間に三戦三勝。三戦目なんかは四つ角全部初めから佐々木さんに譲った上で僕の圧勝だった。僕は別にオセロが強いということはない――オセロどころか、囲碁も将棋もチェスも全般に得意ではないので、佐々木さんが壊滅的に弱いということになるよねえ。オセロは源平碁なんて呼ばれているくらいだから、さすがに佐々木さんが生まれた(?)時代にも既にあったものだと思うのだけれど。
で、佐々木さんは何やら俯いてぷるぷると震えている。
「……佐々木さん?」
「……ぬ」
「…………?」
「のあー!!」
「おうっ」
いきなり叫び出したと思ったら佐々木さんは勢いよくオセロの盤面をひっくり返した。
必殺・盤面返し。
効果:勝負をうやむやにする。
宙を舞うモノクロのコイン。
「おあ! 佐々木さんってば、ボードゲームの禁じ手を!」
「知るかぁ!」
ばらばらと舞い落ちる駒、そして最後に、決して低くはないゆうやけ荘一階の天井すれすれまで舞い上がった盤面が、が、が、
「――ごわっ」
「おおっとー、何やら派手になってますねー、ユーヤさん、大丈夫ですかー」
僕の脳天にオセロの盤面が直撃するという劇的なタイミングで、ゆうやけ荘に帰ってきたのは加賀さんだった。小学生と見紛う低身長ではあれども、僕より一歳上の立派な幼女、もとい大学生である。やや語尾の間延びした口調で言いつつ、落下した盤面を拾い上げる。
「角に当たってませんでしたー? 瘤くらいできてませんー?」
角に当たっていたら瘤では済まないと思うのだけれど、幸いにして免れたらしく、でもやっぱり瘤くらいできてるんだろうなあ。
「……うあー、すまん、ユーヤ。ちと派手にやり過ぎた」
声も出せずに悶絶している僕を見てさすがに悪いことをした気になったようで、佐々木さんが申し訳なさそうな顔で僕の頭を、
「な、撫でないで! そこは患部! 患部だから!」
「は、昆布?」
「カンブー!」
「はいはいカンブカンブ、カンブですねー。で、佐々木さんとユーヤくんだけですかー? 他には……ああ、水戸さんはいるのですねー」
御飯は何かなー、と加賀さんはキッチンを覗こうとするも、すぐ後ろにぴったりと佐々木さんがくっついているのに気が付いて、佐々木さんごと引き返してきた。
「前島さんたちはー?」
「前島さんは他の御仕事で」というかそっちが本業なはずなんだけれど。「他の人たちはちょっとわからないですけど、まあいつもの通りなんじゃないですかね」
「そうですねー。そうでしょうね。それで、ユーヤさんと佐々木さんは、どうしてまたそんな」周囲に派手に散らばったオセロの駒を見渡して、「オセロボンバーを」
「そんな遊びは嗜んでいませんよ。……まあ、あれです。佐々木さんが、水戸さんの聖域に入っていかないように、ね」
「なるほどー。ではわたしも一枚噛みましょうかねー」
ぴん、と。足元にあった拾った一枚を指で弾き上げて、加賀さんはにっこりと笑った。