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明日の天気はきっと晴れ  作者: FRIDAY
第三話 花笑ちゃんの参観日
26/38

26.悩むようなことはなかったということですよね、田中さん。

「……うーむ」

 翌日、僕は大学の一教室で腕を組んで唸っていた。

 もっとも、別に哲学的思索にふけっているということは全くなく、これでいいのかな、という自分の判断への迷いだ。


 昨日、プリントの墓場から参観日の通知を発掘してから、さらに他にもあれこれと仕分けをして、続々と他の皆も帰って来て、水戸さんが夕食を作りに台所に立ち、裏庭で遊んでいたらしい佐々木さんが泥まみれになって戻ってきたために加賀さんと前島さんにお風呂に叩き込まれ、ようやく上がってきたところでまつげさんと花笑ちゃんが帰ってきた。


「そういえば静かだと思ってたら、佐々木さんがいなかったんですね」

「勉強となると佐々木さんは逃げちゃうんですよねー、最近は裏庭に野良猫が出るようになったらしくてー、外で遊んでるんですよねー」

「成程、それで泥だらけに……」佐々木さんはゆうやけ荘の敷地から出られないけれど、結構広いですからね。ちょっとした林とかあるし。


 ざっと五時間ほどみっちりと絞られた花笑ちゃんは、真っ白に燃え尽きていた。戸を数枚に床を隔ててもわんわん響いてくるまつげさんの御説教を至近距離で聞いていたのだから仕方ないが、頬を伝う涙の跡がとても痛々しい。それでも食欲は旺盛で、凹んでいるであろう花笑ちゃんを気遣った水戸さんによる花笑ちゃんの好きなミートローフ、エビチリ、コーンスープを見るや否や、げっそりとやつれていた頬が嘘みたいに復活して料理に食らいついていた。


 その花笑ちゃんと、無意味な対抗意識を燃やして料理を貪る佐々木さんを入れつつ、先頃見つけた参観日の書類について、どうしたものかと協議してみたのだ。

「本来であれば、やっぱり花笑ちゃんの御両親が参加してくれるのが望ましいんだけれど……」

 まつげさんの言葉に、ですよね、と皆で花笑ちゃんを見る。注目に気が付いた花笑ちゃんは、ん、と口の中のものを飲み込んでから、ソース塗れの口をかぱっと開いて至って朗らかに、

「花笑ちゃんのパパとママは、多分出られませんよ。御仕事が忙しいんだったかなー、小学校の頃から運動会とか学芸会とか、観に来たことは一度もないのです」

 ……全く邪気なく、明朗に言ってくれているものだから、こちらとしては「へえ、そうなんだ」程度にしか受け取れないのだけれども。

 それは普通に考えて、やっぱり、ダメだろう。いくら仕事が忙しくても。割と放任気味だった僕の両親だって、小学生の頃はさすがに参加していた。

 ひとつも、だなんて。

 それを、ひとかけらの恨みもなく受け入れている花笑ちゃんが、大きなお世話かもしれないけれど、とても痛々しかった。


 それなら、と皆で協議してみる。誰かが花笑ちゃんの御両親の代わりに参観日に行ってくるか? しかし如何せん、話が急過ぎた。さすがにその翌日ともなると、皆も予定が入ってしまっている。だから普段からプリントを出す習慣がついていればとまたまつげさんが御説教モードに入りかけたけれど、さすがに花笑ちゃんがかわいそうなので全員で止めた。


「わ、私は、必修の授業があって」と水戸さん。

「わたしもー、ちょっと大きな実験が入ってますねー」と加賀さん。

「仕事入ってるなあ」と前島さん。

「ああ、もう、こんなときに限って発表があるわ……」とまつげさん。

 僕も僕で試験があったし、木鈴さんと最上さんも同様だ。「わっち! わっちは暇じゃ! いくらでも行けるぞ!」佐々木さんはゆうやけ荘から出られないのでこれも無理。

 結果、誰も花笑ちゃんの参観日には行けそうになく。

 ……うーん。


「おや、どうしましたかユーヤさん、哲学的な顔をして。河原で破廉恥な本でも見つけましたか」

 けったいな濡れ衣を着せながら僕の隣に座ったのは田中さんだ。

「……あの、何なの、僕が難しい顔をしているときって破廉恥なときなの? 僕って桃色本を手にして哲学にふけるキャラなの?」嫌だよそんなキャラ。

「いえ、ほら、賢者モードというではありませんか」

「え」

「つまり世の知者賢者哲学者という人々は天啓を得る瞬間、すべからく賢者モードにあったのですよ。奮い立つリビドーを解き放ち到達した絶対の解放感の中で、彼らは閃きを得たのです。というわけでユーヤさんも」

「ちょっと待って絶対違うよ! 一見隠しているようでいてド直球のド下ネタだったよ! 賢者モードって!」そんな中年男性向けの官能小説みたいな!

「そうですか……? 私は、某愛と怒りの超戦士的な意味で言っているのですが。怒りが頂点に達したときに目覚めるオラオラ的な意味で」

「え」

「もしかしてユーヤさん、何か勘違いしてます? 本当に破廉恥なことを考えてます?」

「しまった、罠か! 何という策士っ」

「しかしながら、ネット媒体で世界中のありとあらゆる助平メディアが誰でも手にすることのできるようになった昨今、紙媒体で売られている青年誌の存在意義って何なんでしょうね。最も血気盛んなお年頃の未成年がデジタルで用を済ませ、いよいよ紙媒体を必要としなくなったところで、一体どこに需要があるというのでしょう。もはや河原で捨てられしっとりと濡れそぼっている桃色本などという存在は都市伝説なのかもしれません」

「やめて、桃色本談義はもうやめて」そして僕にかけられた濡れ衣をうやむやのままに確定しないで。


「それで、何を難しい顔をしていたのです?」

「えっと……」と僕は迷う。田中さんはゆうやけ荘の住人ではない。部外者だから、というのは疎外する意味ではなくて、詳細な事情、根本の事情――花笑ちゃんの家庭事情、そして花笑ちゃんの体質事情を、田中さんは知らない。先の夏休み、前島さんの仕事先に偶然居合わせた田中さんは、いや、思えば花笑ちゃんを迎えに行った春先にも、田中さんは妙な鋭さのようなものを垣間見せていたけれど、でもさすがに知らないものは知らないこと。そもそも会ったこともない花笑ちゃんの事情を、田中さんに説明することはできない――いや。


 そうじゃ、ないのか。

 目の前にある問題は、決して花笑ちゃんの家庭や、体質の事情じゃない。

 僕の問題だ。


「……この春に、ゆうやけ荘に女子高生が引っ越してきてね」

「成程、女子高生。では警察に電話する準備を」やめてください、僕を犯罪者にする準備をしないで。「では保健所に」「殺処分の準備もやめて」

 誰も彼も僕を何だと思ってるんだろう。以前にも誰かにそんなあらぬ疑いをかけられたな。


「その子の学校で参観日があるんだけど……それが今日だってわかったのが、昨日のことでね」

「ほう」

「その子、まあ家の方でも事情があって、両親とも行けないみたいなんだ。それで、どうしても行ってあげたいんだけれど、ゆうやけ荘の誰かで予定の空いている人がいなくて……」

「成程」


 ふんふんと頷いていた田中さんは、それで? と先を促してくるけれども、話はこれでお終いだ。そうですか、と相槌を打って、しかし田中さんは首を傾げる。

「それで、どうして悩んでいるんです? 何か悩むことがありましたか」

「え」それは、だって。「どうにかならないかなって。その子、今までそういう行事に誰かが来たことが一度もないそうだから」

「でも、行ける人は誰もいないのでしょう?」

「それは、そうだけど」

「でも悩ましい、と。成程」


 そうですか、と言った田中さんは、ふと時計と、教室の前方へ視線を送り、「教授はまだ来ないみたいですね」とつぶやく。つられて確認すれば確かに、もう講義時間が始まってから五分ほど過ぎているが、教授のやって来る気配はない。そうみたいだね、と返す僕の方へ向き直った田中さんは、ええ、と無表情に言った。


「行ってきなさい」

 単刀直入だった。


「え、でも」

「悩んでいるくらいなら行きなさい。そもそも悩んでいるということは、内心で行きたいという思いが強いということです。これで行かなければ、ユーヤさんはさぞかし後悔するでしょう――心配しなくとも、人間は基本的に後悔するようにできているんです。どうしたって後悔するのなら、より納得と満足のいく方向で後悔しましょう」

「…………」

「立ち止まっているよりは、歩いていた方が何かが変わる。失敗したところで死ぬわけではないのです。思うようにやりなさい。……一度くらいサボったところで、大学生活に支障はきたしませんよ。義に尽くしても罰は当たりませんから。その子のことが、大切なのでしょう? 家族ですものね」

「……家族」

 反芻はんすうする僕に、ええ、と田中さんは頷いた。


「ユーヤさんから聞くゆうやけ荘の皆さんのお話は、どれも温かく縁取られています。それがユーヤさんの心象でしょう。よく振り回されることが多いようですが、夏には私もその一端を垣間見ましたが、あなたはそれを決してしく思ってはいない。羨ましいくらいですよ。家賃も安いんですものね」

 ……今、さりげなく現実的な話が。


「ユーヤさんがその子のためを思うのは、決してその子への憐みや同情ではなく、ユーヤさんの優しさです。きっと、他の人たちも。その子を大切に、家族のように思うから、無理だと思っていてもどうにかしたいと悩む。――そうとなれば、どうしますかユーヤさん」

 じっと僕の目をまっすぐに見据えて、田中さんが問う。


「行って義を尽くしますか、行かずにここで悔いますか」


 淡々と言う田中さんの目は、しかし強い。――そんなもの。

 答えは、悩むまでもないじゃないですか。


「行きます。試験はサボタージュします。僕は花笑ちゃんの参観日に行く」

 田中さんに、そして自分自身に、僕は宣言して立ち上がる。突然の行動に周囲の視線が集まるも、知ったことじゃない。

 ええ、と僕の決断を見上げた田中さんは、目を細めて頷く。


「それでこそ、私の好ましく思うユーヤさんです。心配せずとも、この講義の出席及び本日の試験は私が代筆しましょう。筆跡、成績ともに完璧にユーヤさんをトレースしますから、後顧の憂いなく行ってください」

「うん、ありがとう」

 何だかいろいろと凄いことを言われている気がするけれど、決断した今はとにかく急がなければ。何より教授が来て気まずい思いをすることになる前に。


「なんでしたらユーヤさんの受講態度もトレースしますよ」

「え、受講態度? そんなに変わった態度はしてないと思うけど……」

 荷物をまとめて半身既に立ち去りかけている僕に、いえいえ、と軽く手を振って返した田中さんは、おもむろに襟元を緩め、腕を組み、長い脚を机の上で高々と組み上げた。

 この上なく尊大な態度だ……が。

「……うん」

 先にも言っていた通り、今は決して悠長にしていられる状況ではなく、少なくとも教授に鉢合わせないよう一刻も早く跳び出さなければならない状況なのだけれど、ひとつだけ言わせてほしい。


「僕、そんな態度で授業を受けたことなんて一度もないからね!」


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