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明日の天気はきっと晴れ  作者: FRIDAY
第三話 花笑ちゃんの参観日
24/38

24.花笑ちゃんが夏休みの宿題に苦戦しています。

 やり残した夏休みの宿題の提出期限をほんのわずかではあるが延長する手段として、提出期限日に「持ってくるのを忘れてきました!」と宣言することで少なくとも一日、最長で一週間の時間を稼ぐ、という方策がある。もっとも、決して確実な方法ではなく、厳しい先生が相手だと「じゃあ放課後すぐに取って来い」と言われて困っちゃうのだが、僕も生徒時代多用した手ではある。学生にジョブチェンジしてからはそもそも宿題が出ないのだけれど。


 さて現役女子高生である花笑ちゃんは、大方の予想通り宿題は夏休み最終日まで放置するタイプだったようで、それを見越したまつげさんによる「まつげさん式宿題始末計画」にのっと粛々しゅくしゅくと効率よく(花笑ちゃん自身は半泣きだったけれど)消化していっていた。その完璧な計画書により最終日には夏休みの宿題を完遂するに至っていたのだけれど、ここで思わぬどんでん返しに見舞われる。一教科分の宿題を、花笑ちゃんがそもそもその存在から忘れていて、ゆえにまつげさんの計画書にも組み込まれず、結果まるっと終わっていないという事態に陥ったのである。しかも、花笑ちゃんは登校していざ提出する段階になるまで全く思い出してはいなかったらしい。朝には「生まれて初めて宿題を全部終わらせましたよ!」と意気揚々学校へ向かって行った花笑ちゃんが、今度は意気消沈して帰って来たのだから皆で何があったのかとちょっとした騒ぎになったのだが、聞いてみればそんな次第だった。


 そこで例の「持ってくるのを忘れたのです」作戦を展開すれば心証の悪化を抑えつつ取り繕えたところを、よくも悪くも素直な花笑ちゃんはそんな作戦は思いもよらず、先生へ向けて威風堂々「やってません!」と明朗に言ってしまい、その結果もとの一・五倍相当の補修課題をお土産として持たされたということだった。


「というか、『やったんだけど持ってくるのを忘れた』とか、発想がもうセコいよな。コスいというか。貧相だよな。そんなのが許されるのは小学生までだよな」

「まー、口では強く言わなくてもー、先生の方でも実はわかってたりしそうですよねー」

「……あの、すいませんでした。だからもういじめないで」


 存在から忘却していた宿題、および補修課題は化学だった。物質量がどうとか、化学反応式云々……僕も高校一年生のときにだけ必修だったから受けているけれど、あの当時からわけがわからなかった。初歩からつまずいた僕にできたのは原子番号二十番までを暗記することまでで、今ではそれすらも忘れている。というか理系科目は全部酷い成績だった。大学の一次試験選択科目は生物選択。


 というわけで、補修課題の先生は加賀さん。何せ理学部で、化学は加賀さんのホームグラウンドだ。「大学生になると意外とそういう基礎的なことはあまりやりませんよー」とは加賀さんの談だけれど、それでもできるものはできる。花笑ちゃんに定められた期限は一週間、その間は加賀さんが花笑ちゃんにつきっきりだ。今日で三日目。

 椅子に座る段階から花笑ちゃんは既に半泣きだ。


「ふえぇ……モルが、イオンが、周期表が」

「では昨日の続きからやりますよー」


 花笑ちゃんは虚ろな目で何やらぶつぶつ言っているが、加賀さんは全く取り合わない。大変だなあ、と僕はその様子を横目に眺めるも、飛び火されたら敵わないのでレポートの課題図書越しに内心から声援を送るにとどめておく。

 頑張れー。


「今日は水戸さんが早く帰って来ますからねー、ちゃんと終わっていれば水戸さんがおやつを作ってくれますよー」

「おやつ! それは早く終わらねばなりませんね!」

 おやつと聞いた途端に奮起する花笑ちゃん。けれどまた五分もすればすっかり目が死んでしまう。やはり化学は苦手なようだ。

 しかし……なんだな、こうして加賀さんの授業風景を見ていると。

 小学生が高校生に勉強を教えているようにしか見えない……科目が化学というのもまたシュールだ。


「ただいまー、ねえ、花笑ちゃんいる?」

 おや、まつげさんだ。珍しく早い時間に帰宅したらしい、ひょいっと居間を覗き込み、呆けた顔で手を動かす花笑ちゃんを見つけるとそのまま入ってきた。


「加賀ちゃんも、御免ねえ、手伝ってもらっちゃって。大学始まったらすぐに忙しくなっちゃって」

「いいですよー、まだ今週は暇ですからねー」

 そう、大学といえども夏休み終了早々に授業があるというわけではなく、初めの一週間は履修登録期間になっていて、大体の授業は教授が講義計画をざっと説明して終わることが多い。稀に一発目から課題を出す教授もいて辟易へきえきすることもあるけれど。例えば今の僕がそう。


「ありがとう、助かるわ……で、勉強中悪いんだけど、花笑ちゃん。ちょっと訊きたいことがあってね」

 まつげさんの話となれば、勉強は中断する他ない。完全に幻想入りしていた目がきゅるっと焦点を結び、こけていた頬が一瞬でつややかに復活した。凄い変わりの速さだ。


「はいはい、なんですかー?」

「うん、あのね。花笑ちゃん、学校からいろいろと、保護者宛てのプリントをもらったりしてない? 思い出したんだけど、そういうの一回も受け取ったことないんだよね」

 保護者宛て。例えばPTAの書類とか、修学旅行の積立金とか、そういうものだろう。名義上の保護者は実の両親だけれど、実質の保護者はここではまつげさんだ。ゆうやけ荘の住人は基本的に大学生以上だからそういう役回りはあんまりないけれども、高校生である花笑ちゃんともなるとなかなかそうもいかないわけだ。


「え、あー、プリント、ですかー……」

 一時的に復活した花笑ちゃんは、しかし急に歯切れが悪くなる。明らかに視線が泳いでいる。本当に素直な子だ……その反応からおおよそを察したまつげさんは、え、と眉根を寄せる。

「まさか、全部見ないで捨ててたりしないよね? 今まで気が付かなかった私も悪いけど、かなり大事な書類もあるはずなんだよ?」

「いや、捨ててはいないですよ! 捨てては……」

 顔の前でぶんぶんと手を振る花笑ちゃんだけれど、やはり含みのある言い方だ。それなら、とまつげさんは小首を傾げ、

「学校に置いてきた、とか?」

「いやー、持ってきてはいるんです、ねー……」

「じゃあ、部屋にある?」

「あるー……かなー……」

 声とともに花笑ちゃんが小さくなっていく。心なしか顔色も悪い。その様子を見て、まさか、とつぶやくなりまつげさんは居間を飛び出し、二階へ駆け上がっていった。数秒。


 ゆうやけ荘にまつげさんの悲鳴が響き渡った。


 悲鳴と言うよりは絶叫に近い。「ぎゃああああぁぁああぁぁぁぁああああ!」とか尾を引く、お化けも裾をまくって逃げ出しそうな大音だ。まつげさんのそんな悲鳴、誰も聞いたことがないものだから驚いて花笑ちゃんを見ると、花笑ちゃんはあらぬ方向へ視線を彷徨さまよわせてぷるぷる小刻みに震えている。一体どうすれば、あのまつげさんをあんなに驚かせられるというのだろう。肝っ玉母さんまつげさんは、この世に雷以外に恐ろしいものの何もない人なのに。いつだったか世間を騒がせていた路上不審者を、長雨上がりで濁流渦巻く信濃川へ橋の上から片手で叩き込んだ猛者なのだ。そのまつげさんをこれほど動揺させられるとは、まさか花笑ちゃん、恐るべき逸材。


 何だ何だと思う間に、ズドドドドと転げ落ちるような勢いでまつげさんが階段を駆け降りる音が聞こえ、その勢いのまま居間へ飛び込んできたまつげさんは開口一番「花笑ちゃん! あの部屋は一体何!?」

「へ、部屋は部屋ですよぅ……」


 かなり苦しい表情だけれど花笑ちゃん、全く言い逃れできていない。それよりも僕は血相を変えたまつげさんが珍しくて、「何があったんですか、Gゴキブリでも出ましたか」と訊いてみる。

「いや、Gではないの。そんなもんじゃないわ……でも、いつか出るかも」一体何があったんだろう。まつげさんは青い顔をして額を押さえて何やらぶつぶつ言っている。んー、と僕と同じように首を傾げていた加賀さんが、ふと思い至ったようにぽんと手を打つと、

「さては、部屋が散らかってたんですねー」

 う、と花笑ちゃんが呻く。どうやら当たりのようだ。まつげさんも青い顔のまま口元だけで笑った。


「あれは散らかってるっていうレベルじゃないわ……地震と強盗が一ダースずつ来た後でゴキゲンな大宴会を七日七晩ぶっ通した感じ……」

 そんなにか。例えが行き過ぎていてちょっと想像できないけれど、要するに大惨事らしい。普段あまり冗談を言わないまつげさんにそこまで言わせるのだから、これは相当なものと予想する他ない。潔癖症ではないけれど几帳面なまつげさんだ、そんな惨事を目にしてショックを受けたのだろう。保護者として監督不行き責任も感じているのかもしれない。


「それじゃあ、プリントどころじゃないですよね……部屋の片付けからですか」

「いやー、多分男の人が見ちゃいけないものとかも散乱してますからー、ユーヤさんは外で待機でしょうねー」

「それもそうですねー」でも家の中には入れてください。


 余程ショックだったらしく額を押さえてうんうん唸っていたまつげさんだったが、僕と加賀さんの会話を聞いてはたと顔を上げ、「そうだプリント……まさかっ」とまた今度は勢いよく花笑ちゃんの横に置いてあった学生鞄をひったくるように取り上げる。あ、と花笑ちゃんが手を伸ばすももう遅い、がばっとまつげさんは鞄の口を開いて覗き込むなり「ォウッ」と仰け反った。


「ど、どうしましたか、鞄の中にオットセイでも入ってましたか」

 何だかそんな声を上げるものだから。対してまつげさんは、もはや無言で鞄の中に手を突っ込み、中身をひとつずつテーブルの上に置いていく。

 教科書、ノート、辞典……普通だな。弁当箱、丸められたジャージ一式……ちょっと怪しくなってきたぞ。

 と、一通り出したまつげさんは手を抜くと、鞄の口を両手で持ち、やおら逆さに返した。


 ハラハラパサパサバサバサワサワサカサカサ――――ドサッ。


 と、いろんな音を立てて出るわ出るわ、プリント。

 よくもまあこれだけ詰め込まれていたもの、というかこれの上にどうやって教科書やら何やらが入っていたのかと不思議に思うほどのプリントが見るも無残な様相で無表情なまつげさんの前に積み上がる。


「うわあ……これは」

 試みに、最後の方に吐き出されてきた一枚を拾ってみる。丹念に広げてみると、右肩に記載されている日付は一年前のもので、

「中学生の頃のプリントだ!」

「ちゅ、中学生の頃からこの鞄を使ってたので! 花笑ちゃんったら物持ちいい!」

 無理が見え見えに明るく振る舞って見せる花笑ちゃんだが、無表情に立つまつげさんには通用しない。


「花笑ちゃん」


 ぼそっとまつげさんが花笑ちゃんを呼ぶ。「はひぃっ」と喉以外の場所から出たんじゃないかという返事をする花笑ちゃんは、目に見えてだらだらと冷や汗をかいている。そんな危機感マックスの花笑ちゃんに、まつげさんは淡々と、

「ちょっと、部屋に行こうか」


 言って背を向け、まつげさんは居間を出ていってしまう。花笑ちゃんは売られていく子牛のような顔で僕と加賀さんを見るけれど、できることはない。そうしている間に戸口から顔だけ出したまつげさんが「花笑ちゃん」と手招きするに至って観念し、がっくりと肩を落として、とぼとぼと自室へ向かっていった。憐れ花笑ちゃん、当分は帰ってこないだろう。僕と加賀さんは顔を見合わせて、どちらともなく頷く。

 合掌。


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