10.なかなか衝撃的な出会いで初めまして、花笑ちゃん。
田中さんが忠告し、前島さんに指示された公園に、僕は注意深く――というとちょっと格好いいけれど、実際はかなりおっかなびっくりの逃げ腰で――入っていった。既に前島さんに言われた通り、ブレスレットと眼鏡は装着している。
眼鏡、と言っても度の入ったレンズではない。僕は両目とも二・〇を保っているし、乱視などもないから、言ってみればこれは、その意味では伊達眼鏡である――けれど実際は、これは全く伊達ではない。
何せ、これがなければ確かに、僕には全く見えないのだから。
霊感の類を一切持ち合わせない僕には。
「――うわあ」
公園に入るなり、すぐにそれは見つかった。いや、これはむしろ見つけられない方がおかしい。
そして確かに、見るからに危険だった。
その『危険』を、言葉で明瞭に表現することは難しい――それでもあえて述べるのならば、それは『闇の塊』とでも表そうか。
『闇』というよりは、『真っ黒』。
どす黒い、どす暗い『何だかよくわからないもの』たちが、恐らくはある一点を中心に、渦巻いている。
音はない。気配もない。けれど『それ』は確かにそこで渦巻いていて、周囲の空間を圧迫している。サイズは僕が見上げてしまうくらいにまで膨れ上がっていて、向こう側を見通すことはとてもできない。
けれど、これだけの存在感を放っている『それ』に、気が付く者はひとりとしていない。
誰にも、見えないのだ。
感覚できない――知覚できない。
これは、そういう次元の存在だから。
そして、誰も『これ』へ接近してくることはない。
認識されないのだ。存在していないものとして、うっかり通ってしまうことは大いにあり得るはず。しかしこの場では、あり得ない。
知覚できずとも、誰もが無意識に避けて通っている。少し観察すればわかるはずのことだ。この公園を通行する誰もが、不自然に、『これ』を遠巻きに迂回するようにして歩いている。だがそのことに気付く人は、ない。
この場では、僕だけだ。
僕がこれを知覚し得ているのは、ひとえに前島さんからもらった眼鏡のお陰に他ならない。これがなければ、僕もまた彼らと同じように、無意識に接触を回避しているだろう。
なぜ回避するのか。
危険だからだ。
科学という技術が世界から闇を駆逐したかのように思える現代にあっても、いや未来においてどれほどの技術が開発されたとしても、決して消え失せることのないもの。
その名は、人により国によりさまざまだ。精霊、妖精、マナ、霊、チ、空気。
この場では、いやこの国では、あえてこう呼ぼう。
『神』。
この国ではこのような不可視の、そして無形の『何か』を、古来そう呼んだ。
そして『神』には、ふたつの顔がある。
古く呼べば、『和』と『荒』。
平たく言うなら、『恵』と『祟』だ。
両者は簡単に反転する。なにがきっかけになるのかはわからない――『神』というものは、気まぐれだからだ。
そして、今僕が目にしているものは。
触ったら、障られる。
有り体に言えば、祟られる。
これは、そういう類のものだ。しかもこれほど高濃度に集まってしまっていれば……こういうものを見るのは初めてではないけれど、ここまでのものを見るのは初めてかも。
これが、田中さんの御忠告、その核心か。
「正直、これは……近づきたくないなあ」
しかし僕は、この中へ向かわなければいけない――この中心に、きっといるはずなのだから。そのために前島さんは、僕にこのペンダントを渡し、眼鏡とブレスレットを念押ししたのだろう。正直に言えばこれは前島さん自身に対処してほしかったところだけれど、今それを言っても仕方がない。
いつものことだ。
眼鏡は僕が『見えるため』、ブレスレットは僕を『守るため』。いつだったか、初めて僕が前島さんにアルバイトと称して強引に駆り出されたときに渡されたものだ。その効力は既に身をもって知っている。
そして、新たに渡されたペンダント。これの用途と霊験は、恐らく。
僕は生唾を呑んで、腹を括った。怖いものは怖いもの。
妖物の坩堝に進んで飛び込みたい人はいないでしょう?
しかしながら、僕に与えられた役目は新人さんのお迎えですから。しっかりとお出迎えしなくてはなりませんよね。
僕はペンダントを右手に固く握りしめる。一応、先端に下がる銀鳥居が正面に見えるようにして、それを眼前の『真っ黒』に向けて突き出した。
近づいてみれば、それが決して固体ではなく、個体でもないことがよくわかった。渦巻いている。ざわざわと、ぎゅるぎゅると、『何だかよくわからないもの』が一瞬の静止もなく蠢いている。
まさしく、混沌。
そしてそれらが、僕の掲げたペンダントに反応して、ざわめいた。
声なんて聴こえない。そもそも何の音もしていない。けれどそれらは確かに、絶叫した。
絶対に触れてはならないと、恐怖し、おののき、のたうち回る。少しでも遠ざかろうと、奥へ奥へと潜り込もうとする。
ぽっかりと、空間が開いた。
「……成程」
要領を心得た僕は、同様にして一歩、また一歩と中へ分け入っていく。
僕が通り過ぎた後は、間隙を埋めるようにしてまたあの『何だかよくわからないもの』が塞いでしまった。東西南北天地中、四方八方『真っ黒』になってしまったけれど、僕がペンダントを持っている間は大丈夫と信じて、方向を変えることなく、前進する。
見られている。そんな気がした。なにに、かはわからない。
なにかに。
『それ』は、こちらを窺っている。一瞬でも隙があれば、取り憑いてやろうと手ぐすねを引いている。
濃密な、悪意の気配。
悪意だ。
しかしそれは、誰かの発したものではない。
誰もの発した、悪意である。
程度の差こそあれ、誰もが抱く黒感情。
妬。
恨。
憎。
厄。
羨。
嫉。
辛。
苦。
恐。
怖。
邪。
悪。
うねり、渦巻き、密集している。万が一これに取り込まれてしまえば、僕の精神なんて簡単に蹂躙されてしまうだろう。その果てにどうなってしまうかなんて、想像したくもない。
ごくり、と生唾を呑む音がした。まるで他人の音のようだが、他ならない僕の音だった。ペンダントをかざす手に汗が滲み、背を冷たいものが伝う。
僕のできることと言えば、努めて無心に、歩くだけだ。
だからそうする。
歩にして八歩。距離にして、せいぜい五メートルほどか。随分長かったような気もするけれど多分、それくらいだ。
中心にたどり着いた。
そこにあったのは、一基のベンチ。そして、そこにひとり腰掛けている、少女。
小さな可愛らしいハンドバッグを傍らに置いて、ベンチの背もたれに身を預け、すやすやと、少女は眠っていた。
眠れる森の美女。
そんな単語が思い出された。同時に全身を安堵がどっと襲う。けれど、まだだ。まだ安心してはいけない。まだ僕にはやらなければならないことがあるのだ。
というわけで、とんだ魔物に守られていたわけだけれど……いや、多分魔物たちは魔物たちで、この子を喰ってやろうというくらいの気概だったのだろうけれど。
とにかく。
僕は先にこの子を起こしてみるものかどうかちょっと迷ったけれど、それよりもまずペンダントをあげることにした。
こうして僕が持っている分には、僕自身を守ってくれているわけだけれど、手放したときにこの濃度の『何だかよくわからないもの』からブレスレットが身ひとつで守ってくれるものかどうか、前島さんには悪いが、正直ちょっと心許ない。
だから先に、前島さんに事前に指示されていた通り、この子にこれを渡す。
そっと、穏やかな寝息を立てる女の子の首に手を回し、首裏でペンダントの金具を留める。傍から見たらどう見られるんだろうとちょっと心配しつつ、ちゃんと首にかかっていることを確認して――離れた。
そして、消える。
ぶわっ、と音がしたわけでもない。
けれどそんな音を伴いそうな勢いで、一斉に、一瞬で、霧散した。
『何だかよくわからないもの』たちは、まるで中核を見失ったかのように雲散し、霧消した。
再び見えるようになった赤みのかかりつつある青空と、平和な公園の景色、そして怪訝そうにこちらを見ている通行人を目にして、ようやく僕は深い安堵の息をついた。背中を滂沱に伝う冷たい汗を感じて、自分が思っていた以上に緊張していたことを自覚する。全く、初めてではないけれど、とても慣れるものではないね。疲労感も半端ない。
さっきの一連の行動が見えていたのだろうかという仄かな心配を抱きつつ、こちらを見ている通行人へ愛想笑いを向けてから、改めて眠れるベンチの少女を見る。
こちらの音もない攻防にまるで関係のないように、実に穏やかな寝顔だった。
「……いや、平和なのはいいことですよ」
いつまでも寝顔を眺めているわけにはいかない。ゆうやけ荘へ連れて帰らなきゃいけないし、このままでは通報されてしまうそうな気もしてきたので、僕は早々に寝顔の鑑賞をやめてそっと彼女の肩を揺すった。
「もしもーし、起きてくださーい」
お目覚めの時間ですよ。
キスは勘弁して下さいね。まだしたことがないので。
女の子は僕の声と振動にむずかるように顔をしかめたが、やがて瞼を震わせるとゆっくり目を開いた。
半覚醒でまだ焦点の合わさっていない視線を、僕に向ける。そのまどろみへ、僕は言葉を差し込む。
「初めまして。僕はゆうやけ荘のユーヤです。お迎えに来ましたよ」
僕の言葉に初めは女の子は無反応で、あれ、聞こえなかったかなーもう一度言おうかと口を開きかけたところで、半開きだった目をぶぁっと見開いた。そして間髪なくぐおっと「うおぅっ」鼻を砕かんという勢いで迫る頭突きをすんでのところで回避する。そうして思わず一歩下がった僕へ向けて、立ち上がった女の子はぴょこんと片手を大きく上げ、笑った。
「初めまして! 今日から引っ越すことになった花笑ちゃんです! よろしくお願いします!」
いやはや、天真爛漫な笑顔が眩しいです。
とにかくこれで、ミッションコンプリート。大事なく済んでよかったと思いつつ、携帯電話を取り出して前島さんにかける。
コールは一回、も鳴らずに出た。
「あ、もしもし前島さん、」『おう、上首尾に済んだな。重畳重畳。んじゃあ、そのまま車で帰ってこい。あたしらの方は今もう買い物済ませて帰ってる途中だから。んじゃ』ツー、ツー、ツー。
……いや、まあ、いいんですけどね。
置いていかれてたよ。




