月と桜、夢ひと夜
夢と幻。
それは、ほんのすこしだけちがった双子の姉妹が、おたがいに記憶を共有している世界なのかもしれない。
大学からの帰り道で、足もとを見ると蛇を踏んでいた。
蛇を踏むのは気持ちの良いものではない。太い頭が黄金色に輝き、ぬるぬるした感触が悪夢を見そうでおぞましい。
あれはただの蛇ではない。頭から胴体にかけて赤いまだら模様。残りが青黒い縞模様の、そんな蛇などいるものか。あれはきっと、なにかのお告げとかいまわしい出来事の予兆にちがいない。
昨夜の、うっとうしいほどの雨が残していった水溜りに、気がつけば片足をつっこんでいた。自分のことを、なんと間抜けなのだろうと呆れてしまう。まるで瞬間接着剤で一瞬に固められたプラモデルのように、どんなにもがいてもびくともしない。
靴に染みこんだ水のつめたさが、あたかも邪悪な蛇が体をねじらせながら這い上がるように、じわじわと足もとに絡みついてくる。何度か抜こうとしているうちに、なにやら青白い煙がゆらゆらと立ち昇ってきた。
――なに?
みるみる引きつるわたしの顔が悲鳴を上げようとしていたのに、くちびるが震えて言葉にならない。
――なっ、なにこれ!
目が覚めると、ベッドの横で逆さになっている自分の姿に呆れて開いた口が塞がらない。嫌な夢を見たものだと思い直し、気分転換に冷蔵庫の中から缶ビールを三本とりだしてテレビをつけた。
花の女子高生とおじさんたちからもて囃されたのが、すでにむかし話のような気がする。喉を通るつめたいビールが、無重力の宇宙を遊泳していたような頭をひやしてくれた。
ビールを飲みながらドラマの俳優の台詞にいちいち難癖をつけては、
「へっ、どうせわたしはアンタとちがって美人じゃあないわよ。背も低いしウエストだって……」とつぶやきながら脇腹をやさしくつまみ、片足をテーブルの上に投げだして二本目の缶ビールをグイグイ飲みほした。
「そうよ。わたしだってむかしは男のひとりやふたり、五人や八人くらいはいたわよ。
あんたは女優。わたしはただの女子大生。なにがちがうっていうのよ」
べつに酒乱でもなければ酒癖が悪いわけでもない。ただ、男からよく飲みに行こうと誘われるけれど、それ以上進展したことが一度もない。いつもわたしだけが酔っぱらっていて、気がつくと自分のアパートのまえで目が覚める。おなじ男から二度誘われたことはないが、こちらから誘って断られたことなら幾度もある。まわりの男たちが、わたしの良さに気づかないのが不思議でならない。
――こんなイイ女なのに……。
長谷川 桜子。二十一歳。彼氏いない歴、二十一年と二ヶ月。東京の大学へ入学して三年。いままではひとり暮らしをしていたけれど、今年は実家から大学へ通うことにした。通学費用を稼ぐために、どこかでアルバイトをしようと思っていた矢先だった。
ある日、駅前のハローワークをのぞいていると一枚の募集広告が目に止まった。
《イイ女募集。フロント。時給千円。ホテル“時の花束”》
――《イイ女》 これって、わたしのこと?
その場で応募し面接を受けることにした。面接にはかなりの自信がある。面接担当者が男性ならば上目使いと流し目。たいがいの男性ならばこれでいけることが多い。一度、ものは試しとAⅤ女優のオーディションを受けたことがあるが、部屋のドアを開け椅子に腰かけるとひとこと。
「結果は追ってお知らせします」
たった三秒の面接など、あり得ない! ウルトラマンでも三分はいられるはずなのに。
一体、わたしのどこが不満だと言うの……?
ホテルの面接は午後からで担当者は男性だった。
――やったわ! 女好きなタイプみたいだし、これはもらったわ。
採用が決まり今日から出勤することになった。なにごとも初日が大事で、しばらくは猫を被るにかぎる。
フロントにはいると、髪を肩まで伸ばした、かわいいがちょっと小太りな女性とスーツに身をつつんだ、一見イケメンに見間ちがえそうな男性が座っていた。
――イイ男……に見える。惚れてしまいそう。
「紹介します。今日から来てくれることになりました長谷川さんです。大学に通いながらですが、しばらくうちで働いてもらうことになりました」
カマキリ体形の支配人に紹介され、
「長谷川です。よろしくお願いします」と、かるく会釈したとき、支配人の履いている靴下の色が左右ちがっているのがチラリと見えた。
――ファッション?
「こちらが河東さんで、そちらが藤田さんです」
支配人に紹介され河東と呼ばれた男性が立ち上がった。歳は三十歳くらいだろうか。紺のスーツに身をつつんだ姿も凛々しく、立ち上がり方もなかなかセクシーだし背も高い。
「河東です。こんどお茶しましょう。それともお酒がいいかな。いいお店を知っていますから、どうです?」
――こいつはイタリー系か?
「ええ、そのうち」と軽く微笑むと、支配人の左の眉だけがピクリと動いた。
「しばらくは藤田さんに教わってください。あと、昼間のスタッフの人が何人かいますが、会ったときに紹介します。ナイトさんもふたりいますので後日紹介しましょう」
支配人が席を外し部屋の外へでると、藤田と呼ばれた女性スタッフがそっと耳打ちをしてきた。
「大川さんはね、ちょっと癖のある人だけど根はいい人よ。癖のほうが強いタイプだけれど」
耳打ちされるのはいいが、喋るまえにフッと息を吹きかけるのは止めてもらいたかった。
癖の強い男ならば、付き合ったことはないがいくらでも知っている。あしらい方も友だちから聞いてすこしは心得ている。ただ、実を結ぶことがなかっただけだ。
眉間に皺を寄せながら壁に貼られた業務リストを見ていると、
「これを見ると大変そうに思えるけれど、実際には簡単な流れなのよ」と言いながら、藤田さんがわたしの耳もとにフッと息を吹きかけてきた。真っ赤になって身体をクネクネさせていると、
「かわいいのね。じゃあ、これやってみましょうか」
――ちがう意味で先々の不安をおぼえてしまいそう……。
アルバイトをはじめて一ヶ月が過ぎようとしていた。業務やスタッフにも慣れはじめたころだった。
「桜子ちゃん。これ、お客さんの忘れ物。変わったお皿よね」
毎朝、チェックアウトした客室の清掃にくるおばちゃんが、宿泊客の忘れ物をフロントまで届けてくれることになっていた。
小振りで、淵になにかの模様があるのがわかるが、古いものらしく皿の表面が盛り上がっていてデコボコしている。真ん中には丸い突起があり、全体的に錆びついた緑色でやたらと重い。まるで緑青が吹いているようにも見えるが、とても銅製品の重さでないのはわたしにでもわかる。
「へえぇ。これってお皿じゃあないかも」
いきなり横から伸びてきた手が緑の皿をつかみ上げた。ゴツゴツした手の甲に毛が渦を巻いていた。
――だれ? この人。
「こんなものを持っている人がいるのですね。あとで問い合わせがあるかもしれないですから預かっておきましょう」
そう言って皿を受けとると、まるで考古学者にでもなったつもりで表面を舐めまわすように触っていた。中指を鉤型に立てコンコンと叩くと、時折「ふうむ」と溜息に似た声でうなずいた。そうかと思えば、こんどはなにか大変なことでも発見したかのように小さな目を極限まで見開いていた。
――いきなり現れて……だれなの。太い眉毛に鰓の張った顔。若くは見えるけれど、こういう男はすぐ歳をごまかすのよね。それに、わたしの一番嫌いな剛毛だし。
「あの、あなた……」
こころの中で非難していると、
「ああ、これね。これって、お皿に見えるけれど、僕の記憶が正しければ、これは鏡かもしれないな。すこし小さいけど、弥生時代の三角縁神獣鏡の模様によく似ているし」
――鏡? そうじゃあなくて、あなた一体だれなの?
「あの、わたし、アルバイトの長谷川……」
「あ、きみね。新しくはいったアンモナイトの子って」
――アンモナイト? こういう男と付き合うとろくなことはない。デートしていても、人の話を聞いているようで、こころはどこか別のところをさまよっている。それでいて自分の意見をオブラートでつつみこむように覆い被せてくる。自分がまちがっているくせに、いつのまにかわたしのほうがまちがっていると思わせる話術をしてくる。強引ではないが、話し方に棘がない分相手のペースに振りまわされてしまうのだ。
「これが本物だとしたなら、ちょっとすごいな。でも、部屋に忘れていく程度のものだから、きっと紛い物だろうけどね。ほら、ここ触ってごらん。色の剥げ落ち具合や表面のザラつき加減が、いかにも本物ですと言っているみたいだろう」
「そうかしら?」
どう見てもただの古いガラクタにしか思えなかった。もし、鑑定してみて高額の評価がでるものならば、剛毛の鑑識眼をすこしは信じてやってもいいけれど……。
わたしが皿の表面を触りながら言うと、
「大概はそう言うね。僕だって本物を触ったことなどないし、本物だという確証もないさ。けどね、これがあることで遥かな過去への想いが浪漫のように広がるだろう?」
「そうかしら」
――やはりこの人とは付き合わないほうがよさそう。
「そうさ」
人がいくら過去の歴史を研究し遺跡を発掘しても、最終的に決めるのは現代人の想像力に委ねるものだと、わたしはそう思っている。ほんとうのところは、実際にその時代に立ち会わなければわからないことなのだし。この人の気持もわかるけど、わたしはどのメーカーのビールの喉越しが一番いいのか、むしろそちらのほうを検証したいと思う。
「僕は古代のことが好きなのでつい話してしまうけど、こういう話って、好き?」
――好きって。普通、嫌いって訊きませんか。
「特に興味はないですけど」
「よかった。『嫌い』って言われたら止めようと思っていたんだ」
――なら止めなさいよ。
相変わらず皿、彼が言うには鏡だということだが、皿をこねくりまわすように見ながら、
「あ、僕はみまき御真木です。ナイトなのでよろしく。きみ、大学生なんだって? どこ?」
「上智です」
「優秀なんだね」
「そうですか?」
「そうさ。僕は落ちた」
「……」
学生にとっては短い春休みの真最中だった。去年の春は、京都の親戚の家に世話になり東山花灯路の行なわれている路を歩いていた。祇園から清水へむかいながら途中、ねねの道から一年坂、二年坂を踏みしめ、産寧坂から清水へと辿る。路の両脇に置かれた灯籠の幽玄なゆらめきと祇園をよぎる桜月夜に、まだ肌さむいはずの京の町も、こころなしか微笑んでいるようだ。
おはようございますと言いながらフロントへはいると、数人のスタッフがひそひそ話をしていた。別に興味はなかったけど、なにかあったのかと訊いてみた。
「それがね、大川支配人。なぜかひとりで地下の浴場跡へよく行くのよ。あそこ、以前は大浴場だったけどいまは閉鎖しているし、なにしに行くのかって話していたのよ。変よね。いつもコソコソしながら行くし、あそこ、絶対なにかあるわよ」
「そんなところがあるのですか?」
「桜子さんは知らないですよね。そうだ、これから見に行きませんか?」
河東さんの提案で、山岡さんとわたしの三人で地下の浴場跡を見に行くことになった。
いまは営業していないが、地下一階にあるレストランの、その下が大浴場になっていた。そこへ行くには、一旦建物の外にでなければならない。
「あれ、おかしいな」
階段の降り口のドアを開け、照明のスイッチをカチカチ押しながら河東さんがつぶやいた。
「この階の電源が切れているみたいだな。以前は点いたのに接触不良かな。とりあえずフロントから懐中電灯を持ってきますからここにいてください」と言ってフロントへ戻っていった。中をのぞくと真っ暗で何も見えない。ドアを開けているのに日のひかりさえ吸いこまれていた。
「なんか嫌な感じね。気のせいかしら。中から風が吹いてくる気がするけど……」
恐る恐る中をのぞきこんだ山岡さん、通称楓さんがわたしにしがみついた。
「大丈夫よ。ただの空き部屋と思えば」
フロントへ懐中電灯を取りにいったはずの河東さんがなかなか戻ってこないので、わたしは携帯電話で中を照らしながら、
「河東さん、なかなか来ないから先に行きましょう」
「えっ! 行くの? ふたりで?」
――ふたり以外だれがいるというのよ。
嫌がる彼女の手を引き階段を降りると、脱衣場の奥にガラスの開き戸があった。使われていない地下のせいか、ひんやりとした空気に全身を舐めまわされているようだ。
「なんか、さむすぎない?」
――たしかにさむすぎるわ。ここは地下二階となっているけれど、外の道路からみれば地下一階になるはずだし。こんなにさむいわけはないでしょうに……。
冷えきった手をさすりながら開き戸に触れると、いきなり激しい轟音とともに強風が吹き上がった。瞬間的に台風の中へ放りだされたようにつめたい風が身体を吹き抜けていった。
「楓さん!」
「さ、桜子! どこっ?」
荒れ狂う強風の中で、部屋の壁に押し付けられながら青白くひかる丸い模様を見つめていた。
そのままふたりは意識を失った。
「大丈夫ですか!」
気がつくと、剛毛の腕がわたしを抱き起こしていた。
――いやっ!
剛毛と河東さんが心配顔で見つめている。
わたしは、乱れた髪を手櫛で梳かしながらここであったことをふたりに話した。
きっと信じてはくれないだろうと、内心、自分の言っていることを頭ごなしに否定しながらも、ともかくなにが起きたのかをありのままに話し続けた。ただ、気を失う寸前に見た青白いひかりのことは、なぜか話してはいけない気がしていた。
――あれは、なんだったのかしら……。
なに一つ考えがまとまらないままフロントへ戻った。
「ふたりとも、地下の浴場跡には行かないようにしてください。来月には改修工事がはじまります。他の人も行かないように」
支配人の言葉に膨らみはじめたわたしの好奇心は、もう一度地下へ行きなさいと言っていた。支配人から早退するように言われたので、素直に自分の好奇心に従い地下の浴場へ続く階段を降りていた。
ひんやりとした空気が、またしても全身にまとわりついてきた。携帯電話の明かりを頼りに脱衣室へはいると、浴室の入り口のまえで立ち止まった。徐々に暗闇に目が慣れてきたのか、周囲の壁やガラス戸の輪郭がおぼろげにわかってきた。部屋の中にはなにも置かれてはいない。ただ、つめたい空間だけがわたしを見つめていた。
――あのとき、青白くひかっていたのは……たしか、このあたり……。
壁に手を当て右から左へと動かしてゆく。
――あった、これだわ。
ガラス戸の右上、ちょうど自分の目の高さあたりに直径一五センチくらいの丸型パネルがついていた。縁のまわりを金色の蛇が二匹、お互いにむき合うように彫られている。よく見ると、いつか夢にでてきた蛇に似ていた。黄金色した大蛇が音もなく這い上がってくるような、ぞっとするおぞましさを感じさせる模様だ。
気持ち悪かったが、照明のスイッチにしては変わっているなと思いながら触ってみた。
「えっ、なに、ちょっと」
パネルに触れた指がみるみると中へ吸いこまれていく。まるで、ゼリー状の筒の中に引きこまれるように、指の表面をぬるぬるしたものにつつみこまれた。
全身が総毛だった。
「いやっ、なにこれ。だれか助けて」
手首まで吸いこまれたとき、パネルのむこうでだれかの手がわたしの手に絡み合わせてきた。
「ちょっと待って!」
必死に手を抜こうとしても、絡まれた手はどんどん中へと引きこまれていく。
「もうだめ!」そう叫んだとき、だれかがわたしの腕をぎゅっとつかんだ。その腕がわたしの手をパネルの中から無理やり引き抜こうとした。それに逆らうようにパネルのむこうの手がぐいと引き戻した。
「だめっ! 指が、指が千切れるわ」
泣きそうな声で叫ぶと、別の腕がパネルを突き破るように中へはいりこみ、わたしの手に絡んだ手を強引に引き離した。
「抜けた……わ」
ようやく恐怖の淵から救い上げられた思いで、ありがとうと言おうとして横を見ると、わたしの腕をつかんだ剛毛が立っていた。一瞬、渦を巻いた太くて長い産毛で全身を覆われた彼の姿が脳裏に浮かんだ。わたしは気を失いそうになりへたへたとその場にしゃがみこんだ。
「抜けたよ」
ひとことそう言っただけで彼は絶句していた。暗闇の中で絶句するほどなのだから、髪を振り乱したわたしの姿がよほど艶めかしく見えたのだろう。
「ありがとう」
「無茶をする人だな、きみは。支配人がここには来ないように言っていただろう。けがでもしたらどうするの。それに、壁に手をつっこんで一体なにをしていたの」
――別に手を入れて遊んでいたわけじゃないのは見ていてわかるでしょう。入れていたわけじゃなくて、引っ張られたのよ。それより、なぜあなたがここにいるの。
「別に。ただ、ちょっと気になることがあったからここへ来てみただけです」
彼には何度も助けられたことだし、あのひかりのことを話そうと立ち上がりかけると、彼の腕がわたしを支えてくれた。ふたたび全身が総毛だった。
懐中電灯の明かりを近づけながら、
「このパネルの模様。たしか……これ、あの鏡の模様に似てないかな」
あまり見たくはなかったけど、恐る恐る顔を近づけてみた。よく見ると、たしかに忘れ物の鏡の模様に似ていた。わたしが見ていると、彼はガラス戸を開けようとしていた。何度か試していたが、「鍵でもかかっているんじゃないかしら」と言うと、
「……鍵。そうか、もしかして」
いきなり、きみはここにいてと言い置くと、一気に階段を駆け上がり部屋の外へでて行った。わたしを置き去りにして……。
しばらくすると、彼は河東さんと楓さんを連れて戻ってきた。ふたりにどうしたのと訊かれたので、わたしがここでの出来事を話すと、
「やはりなにかあるのよ。だって、有り得ないわよ、そんなことって。これ以上近づかないほうが」と楓さんが言うや否や剛毛が叫んだ。
「やはりこれだ! これは皿でも鏡でもない。鍵なんだよ」
みんなの目が一斉に彼の手にむけられた。彼は、持ってきた緑色の鏡を丸いパネルに近づけると、それはすっと中へ吸いこまれていった。いきなりガラス戸の枠が青くひかりはじめ、それに呼応するかのようにパネルがオレンジ色に点滅をはじめた。わたしたちが固唾を呑んで見ていると、彼は青白いひかりの中で異様な微笑を浮かべていた。
――剛毛……?
突然、パネルの点滅が激しくなりガラス戸が開きはじめた。
「……開く……わ」
楓さんがわたしにしがみついた。
「開いたぞ!」
河東さんが叫んだ。
懐中電灯の明かりが室内を照らしていく。中はごく普通の浴室で、タイル張りの壁と浴槽を中心に左右に五台ずつハンドシャワーが取りつけられていた。
「これはなんだろう」
御真木さんが浴槽の中を照らす。中に溜まった水が反射して藻が生えたように青緑色に見える。こんどはわたしがのぞいてみた。ただの水でしょうと思ったが、彼らはおたがいの顔を見合わせていた。
「御真木さん。これは、一体」
「河東さんもおかしいと思うでしょう。こんなの、マジックでもできやしない」
――一体、なにがおかしいというの。
わたしはもう一度浴槽の中をのぞきこんだ。
――なんなの、これ。
よく見ると、浴槽の上面から十センチほどは水があるのに、それから下は空間になっている。 さらに驚くことに、浴槽の栓がされていない。
――うそでしょう。……あり得ないわ。
得体の知れない不安が顔をのぞかせる。じっと見つめていると、白い模様が水の中でぐるぐると渦を巻きはじめた。徐々に大きくなっていく渦の中で、ばらばらになった身体が元の姿に戻ろうとしているようだ。
――なに?
その姿に、血の気がさっとひいていった。
§
「大川君、なにをぐずぐずしている。早く地下の入り口を閉めるように言ったはずだ。このまま放って置くわけにはいかないからな」
「はい。来月には改修工事を装って扉を壊すつもりです。それまではだれも近づかないようにスタッフには言っておきました」
「大丈夫だろうな。くれぐれも気づかれないように。こちらももうじき終わる」
「わかりました。社長も気をつけて」
大川は携帯電話を切ると、ぶつぶつつぶやきながらフロントへはいってきた。パソコンのまえに座りながら、いつものように仕事をはじめた。
――早くなんとかしないと……。
仕事の手を休め、壁に貼られたカレンダーを見つめながらあの日のことを思いだしていた。
去年の暮れ、今年もあと数時間もすれば終わりだなと思いながら館内を巡回していた。
普段は行くことなどないが、最後に地下の浴場を見まわろうと階段を降りドアを開けた。
「だれかいるのですか」
脱衣室の奥から明かりが洩れている。近づいて懐中電灯の明かりをむけると、男が浴槽の中をじっと見つめていた。
「……だれですか」
男の背中を照らす手が震えた。喉が焼きつくように乾く。もう一度背中にむかって声をかけた。
「どうかしたのですか」
背筋につめたいものが流れていった。大川は全身の毛が逆立つのを感じて、無意識に拳に力をこめた。
「しゃ、社長。ここでなにを……」
安堵したせいか、全身からつめたい汗が噴きでてきた。
「大川君か。ちょうどいい。これを見てくれ」
社長が浴槽の中を照らすと、大川は驚いて言葉を失った。
「……!」
思わず社長を見ると、
「これは何だと思う? 人の胎児だよ。それも、臍の緒がつながったままこの胎児は生きている」
――そんな、ばかな。
大川は、自分の見ているものが信じられなかった。あり得ることではない。捨てられた胎児ならともかく、臍の緒がつながったまま呼吸をしているのだ。
「社長。こ、これは……」と言うのがやっとだった。
「そうだ。これはあり得ることではない。だが、問題はそこではない。これを見ていてくれ」
そう言うと、両手を浴槽の中へ入れそっと左右に揺らしていった。浴槽の中に小さな波が起きる。その波が、彼の手を追うように揺れていく。彼の手が胎児をつかみ上げようとした。しかし、彼がつかみ上げたのはつめたい水だけだった。
「あっ!」
「見たかね。そうなんだ。この水は、母親の胎内で生きている胎児の姿を映しだしているんだよ」
あれが夢であってほしいと、いまでも思っていた。取りかえしのつかないことをしているのではないかと、大川は後悔しはじめていた。
一方、地下室では桜子の悲鳴に河東が駆けよってきた。
「これっ、この、白い……」
顔を背け浴槽の中を指差しながら、胃液が逆流してくるのを必死にこらえていた。
「御真木さん、これって、もしかして……」河東が問いかけた。
わたしは、逆流する胃液を両手で押さえながら、そのすっぱさを嫌というほど味わっていた。そのままふらふらっと立ち上がると、何かにつまずいたように足もとがよろけた。
瞬間にシャワーのハンドルを握っていた。
一瞬の出来事だった。
桜子がハンドルを握った途端、浴槽の水が渦を巻きはじめたかと思うと、すさまじい轟音とともに一気に天井まで吹き上がった。あまりの激しさに驚く間もなく、今度は吹き上がった水が豪雨のように降り注いできた。まるで天井から竜巻が起きたようで、その渦に巻きこまれた桜子たちは、そのまま浴槽の中へと吸いこまれていった。
§
「な、何者じゃあ!」
突然、部屋の壁の中から現れたわたしたちに、悲鳴ともいえる声が飛んできた。うつ伏せになった剛毛の背中で、重なり合いながら逆さになっている自分に、恐怖と敵意の眼差しが交互に襲ってきた。
「ここは、どこ?」
身体を起こしてあたりを見まわすと、足もとで「重たいんだけど」と言いながら剛毛がむっくりと起き上がった。粗い板張りの床と壁。高い天井に太い梁が流してある。奥には一段高い床があり、ひとりの女性がこちらを睨みつけながら立っていた。白い肌に赤い口紅と目張りをさしている。
――楓さんと河東さんは……?
不安な顔で彼に訊ねた。
「ここ、どこなの? 楓さんたちは……」
「わからない。あのとき、激しい雨に呑みこまれたような気がして」
再び甲高い声がふたりを引き裂いた。
「おまえたちは何者じゃあ。どうやってここへはいった。曲者じゃあ! ミルカ、曲者じゃあ!」
こちらを睨んだその目は充血し、怒りに満ちた声で叫んだ。
部屋の中へ槍を持った数人の男たちがどかどかとはいってきた。
わたしは震えながら剛毛の腕にしがみついた。
「卑弥呼さま、この者たちは!」
殺気立った男たちの中からミルカと呼ばれた男が近づいてきた。
「おまえたちは何者だ。卑弥呼さまの部屋でなにをしていた」
――卑弥呼って。あの人、卑弥呼なの? これって、どこかの映画のロケでしょう?
「わたしたちは、怪しい者ではありません。決してこの方に危害を加えようとしたわけではありません」
「ならば、なぜここにはいった」
男は、彼の言葉をはねのけた。
「それは……」
言い淀んだ剛毛の顔に剣をむけた。わたしは思わずその剣を払いのけ、
「ちょっと、危ないでしょ。やりすぎよ。監督さんはどこなの?」
「女は黙っていろ」
「なんですって!」
ほかの男がわたしの胸に槍を突きつけた。
「あなたもわからない人ね。わたしたちはただのホテルの従業員で、この映画に飛び入りで来たわけじゃないのよ。帰るから、そこど退いてよ」
ミルカが剣をかざして遮った。
「このふたりを逃がすな。捕えて牢に入れろ」
「いい加減にしてよ。訴えるわよ!」いきなりミルカがわたしの腕をつかみ、おおきく剣を振り上げた。
――うそっ。
「よせ、彼女に触るな!」
自分にむけられた槍を払いのけると、剛毛がミルカの腕をつかんだ。
「おやめなさい!」
遠くから、鋭い矢のような声が飛んできた。それは、直接大脳を突き破って到達すると、こころを貫くほど有無を言わさぬ強制力があった。
「ミルカ。そのふたりに危害を加えてはなりません。この部屋で血を流すことは許しません」
「卑弥呼さま……わかりました。おまえたち、ふたりを牢へ放りこんでおけ」
――うそでしょう。
両腕をつかまれ部屋の外へ引きずりだされた。外には、武器を手にした兵士たちや村人たちで溢れていた。わたしたちを奇異な目で見ている者。恐れの目で見ている者。あらわに敵意を剥きだしにしている者。そしてその中にたった一つだけ、哀れみを浮かべた目がわたしを見つめていた。
「一体、どうなっているの? いくら映画のロケだからって、ひどすぎるわよ。それに、ここはなによ。ジメジメした地べただし床板くらい敷いて欲しいわ。ほんと、暗いし……。わたし冷え性なんですからね」
わたしがブツブツ恨みがましく言っていると、剛毛がこちらを見ながら必死に笑いをこらえていた。
「桜子さんは、楽しい人だったんですね。いままで猫でも被っていたのかな」
――……! 鋭いかも。
「そうかしら。でも御真木さん、どうしてそんなに落ち着いていられるの。このままここをでられなければ……。わたしたち、これからどうなるの……」
さっきまではただの映画のロケだと思って気も張っていたけれど、そうではないのかもしれないと思うと、ひとたび萎えはじめた気力がこころの片隅から不安と恐怖を引きずりだした。
「桜子さん。僕らは、なぜかはわからないけれど、卑弥呼のいた時代に落とされたみたいだ。これは、映画のロケなんかじゃない。ここへ連れてこられるときに見た家や壺、村人たちの顔は、現代の日本人の顔とはだいぶちがっていた。ともかく、いまはこのまま様子をみるしかないよ」
――様子をみるしかない……って。もし、あの人が本物の卑弥呼だとしたなら、わたしたち「不法家宅侵入罪で死刑!」なんてことに……。
「ねえ、卑弥呼がいるってことは、ここは邪馬台国なの? 卑弥呼って、あんなおばあちゃんだったの」
「そうでもないさ。老けて見えるだけで、実際はもっと若いはずさ。食生活の問題で皮膚の角質化が早いためだと思うよ。卑弥呼は、生まれた年も死んだ年も、死因もはっきりしていない。それより、邪馬台国は南にある狗奴国との戦いが長期化して国力が低下すると、中国の魏、きみも知っているだろ? 三国志にでてくる曹操猛徳が活躍した魏の国の帝、明帝のもとへ使者を送って助けを求めるけれど、そのとき送られてきたのが張政という奴。彼が来ていれば、卑弥呼の死も近いけれどね」
「近いって、どうして」
「卑弥呼の記録は魏志倭人伝にしかなくて、その中で彼女の死について記録されているのはただ一行だけ。――『卑弥呼以て死す』。それは、張政が邪馬台国へ来てまもなくだとされているからさ」
「そうなんだ。張政って、悪者?」
「どうかな。人って、なにかのきっかけで変わってしまうことってあるからね」
――この人は不安を感じていないのかしら。まるで、この時代へ来たことを楽しんでいるみたい。きっとこの人に出会ったことが、わたしの最大の不幸ね。でも、助けてくれて、ありがとう……。ほんとに。
そうお礼を言うつもりだった。
「あの、剛、いえ、御真木さん。さっきは、ありがとう。助けてくれて。わたし、あの、とても……。その……あのときは……だから、なんて言えば……」
――なぜこんなにドキドキしているの。なぜなの。こころが、震えて……息が、くるしい。 えっ? 涙って……うそっ、わたし、泣いているの?
薄闇に、満天の星屑が降り注ぐようにふたりをつつみこんでいた。闇の中だからこそ見えるものが、きっとこの世にはあるのかもしれない……。わたしはそんな気がしていた。
闇のむこうで自分を見つめる瞳がささやいた。
「桜子さん、以前言ったよね。僕は、ナイトだって」
*
「それはたしかなのか。それで、そのふたりはいまどこにいる」
卑弥呼の館での一件。その報告を受けたナシメは胸騒ぎがしていた。沈着冷静。豊かな見識と深い洞察力を持ち、卑弥呼がもっとも信頼している男だった。以前は、卑弥呼の使者として大陸魏へ渡り、洛陽の都で明帝に謁見したこともあった。その彼が、いつになく落ち着かないでいる。
――これは、吉なのか凶なのか。
しばらく屋敷のまえで思案に暮れていたが、意を決したように顔を上げると天を睨みつけてつぶやいた。
「これは、吉としなければならん」
そう思い切ると、彼は伴の者をふたり連れ牢屋へとむかった。そこは山の中腹に掘られた土牢で、入り口は拳ほどの太さの柵で閉じられていた。門番に何事か耳打ちすると、三人は牢の中へと案内された。
「この者たちか」
門番が「そうです」と答えると、ナシメはひとりで話したいと言って彼らを遠ざけた。
わたしたちをじっと見つめてから問いかけてきた。
「私の名はナシメ。すこし話をしたいが」
――ナシメ。この人が……。
「あなたたちはどこから来たのですか。そのみなり身形、邪馬台国の人間ではないようだが。狗奴国や周辺の人たちともちがうようだ」
剛毛が牢屋の柵に顔を近づけ懇願するように言った。
「あなたがナシメ殿ですか。僕は御真木。彼女は桜子と言います。たしかに僕たちはこの国の人間ではありません。しかし、卑弥呼さまに危害を加えようとする者でもありません。ただ、些細なことでこの国へ来てしまったのです。おそらく、僕たちのことをわかってくれるのは、魏の洛陽で明帝に謁見されたことのあるあなただけだと」
一瞬、ナシメが鋭い眼光を放った。
「なぜそのことを知っている! 卑弥呼さまと数名の者しか知らぬはず。もしや、魏の使者か」
ナシメの眼光が怯んだ。
「ちがいます! 魏の人間でもありません。僕たちも、もともとこの国の人間なのです。ただ、すこし生きていた時代がちがうだけで……」
「時代がちがうとは、どういうことなのだ」
「僕らは、いまより遥かあとの時代で生きていました。それが、どういうわけだかこの時代に現れてしまったのです。僕らも、それしかわからないのです」
「その言葉がまやかしでないと言えるのか」
「決してまやかしなどではありません。いまはそれだけしか言えませんが、ナシメ殿にはわかってもらえるものと。洛陽の都を目の当たりにしてこられたナシメ殿だからこそ、わかってもらえると!」
――この男は、なにかちがう。一概に信じるわけにもいかぬが。
ナシメは迷っていた。洛陽へ行ったときにも、彼らのような身形の者はたしかにいなかった。このふたりは、自分が知る限りどこの人間ともちがっていた。彼は、その『ちがい』に賭けた。
「わかりました。しばらくこのままで待っていてください。あとで知らせを遣します」
そう言い残し牢の外へでて行った。
「ねえ、わたしたち助かるの?」
「わからない。けど、すこしは希望がでてきたよ」
しばらくすると、牢の外からささやく声が聞こえてきた。
「御真木殿。ナシメさまの使いです。どこですか」
ハッとして飛び起き、声のする方へとむかった。
「御真木です。ここです」
「門番には眠っていてもらいました。いま、開けます。お屋敷でナシメさまが待っています。私のあとについて来てください。姫さまもお早く」
――姫さまって、わたしのことよね。
ふたりは、暗闇に紛れ牢を抜けだしナシメの屋敷へと逃げこんだ。屋敷へ通されると、中には数人の男とひとりの少女が座っていた。
ナシメが手招きしながら言った。
「お待ちしておりました。こちらへ」
言われるままに中へはいり腰を降ろすと、ひとりの男がナシメにむかって言った。
「この人たちは本当に信用できるのですか。それに、あんな身形は見たことがない。なにか嫌な臭いがする」
――嫌な臭いって。 悪い? あんなところに入れられていれば、だれだって臭くなるわよ。
「それをはっきりさせるためにこの方に来てもらったのです。このふたりが信用できる者かどうか、それを見極めてもらうために」
隣に座っている少女を見ながらナシメが言うと、男たちは黙ってうなずいた。
――この子、あのときわたしをじっと見ていた、あのときの子……。
少女はナシメをちらと見てから、わたしを見据えると瞳を閉じた。唇と目じりにさした紅が、少女にかすかな艶香を与えていた。卑弥呼とおなじ、この少女も巫女なのだろうか。
少女の瞳が徐々に開いてゆく。部屋の中には、静寂を遮るものはなにもなかった。
わたしは、その瞳に引きこまれそうになるのを必死に拒もうとしたが、なにかがその力を奪い去ろうとしてゆく。拒む力がなくなると、まるであたたかい布につつまれていくように全身から力が抜けていった。
突然、わたしの意識の中へ少女の意識が飛びこんできた。
――アナタハ ダレ? ナゼ ココヘキタノ。
――わたしは、桜子。なぜここへ来てしまったのかわからないの。
――ドコカラ キタノ。
――二十一世紀の日本から。
――ドンナトコロ?
――とても平和で豊かなところ。戦争はしないし、だれもが自由に生きる権利を持っているわ。愛する人と生きていくことだって認められているのよ。
――センソウ? ジユウ?
――そう。人の命を奪う権利はだれにもないし、みんなが平等の権利を持てる社会なの。
――ソンナジダイガアルノネ。
――あるわ。まだまだたくさんの問題はあるだろうけど、いつかきっとそれらの問題も解決されて、おたがいを尊重して暮らせる社会になると、わたしは思っているの。
――ソンチョウ?
――そう。おたがいを認め合うこと。
――ソンナコト デキナイ。
――難しいけど、いつかそんな社会になればいいと思うわ。
――ヒトハ ウラミヲワスレナイ。
――そうね。だけど、それでも信じたいの。だって、おたがいにおなじ人間なんだもの。
――ニホン ソコデ ナニヲシテイタノ。
――大学生。ホテルでアルバイトをいていたわ。
――サクラコハ シアワセカ?
――わからない。でも、不幸ではないわ。しあわせって、なんだかよくわからないから……。
気がつくと少女が微笑んでいた。すると今度は剛毛を見つめはじめた。
――あれは読心術なのかしら。なぜだか少女のこころまでが伝わってきそう。問題は剛毛ね。あの人のこころの中だったら、わたしものぞいてみたいわ。
しばらくすると、少女の顔に苦悩の表情がうっすらと表れてきた。それは、徐々に深い皺を刻みこむようにはっきりと浮かんでいた。少女は耐えきれずに両手で顔を覆うと、その手の隙間から涙が零れ落ちた。
――えっ、なに。どうしたの? この子、一体なにを見たの。
少女は声もなく泣いていた。
ナシメは、この少女の泣いている姿を吉と判断することにした。そして御真木と桜子を仲間にすることを伝えると、みんなに明日の計画を話しはじめた。
じきに夜が明けることだろう。部屋の中には、わたしと剛毛だけが残っていた。
ナシメから大変な計画を聞かされただけではなく、自分たちまで仲間にされてしまったことにわたしたちは戸惑っていた。
「ねえ、あの子、なぜ泣いたのかしら。これからわたしたち、どうなるのかな」
不安に駆られ彼の顔を見た。
彼は、少女が泣いた理由は言いたくないと言ったが、
「ナシメさんが言っていた明日の計画。あれはまるでクーデターだよ。たしかに卑弥呼には弟がいてまつりごと政を分担していた。卑弥呼の言葉は彼が民に伝えていたけれど、女王になってからは身を隠すようにきょしょ居所にいたし、食事はひとりの男としていた。卑弥呼には夫がいなかったから、この男というのは弟のことだろうと思う。彼が卑弥呼の言葉を素直に告げず、自分の思いのままに民を操ろうとしているとナシメさんたちは主張しているけれど……。
ほんとうだろうか」
真剣に思案している彼の横顔が、わたしにはとても頼もしく思えた。
「ううん。いくら考えても結論はでないな。まぁ、どうにかなるんじゃないの」と言うなり床の上にゴロリとなると、あっという間に爆睡していた。
――すごい鼾。さっきは頼もしく思えたけれど、全面取り消しね。
§
「決行は明日か。よくやった。ここへはつけられていないだろうな」
「大丈夫でございます。あの者たちもナシメ殿に与してございます」
それを聞いた男は薄ら笑いをしながら剣を抜くと、
「これで目障りなナシメを捕えることができる。自分の仲間に、儂とつながっている者がいようとは、さぞかし驚くことだろう。ナシメ、今度こそおまえは終わりだ。儂あっての卑弥呼でなくてはならんのだ。だれにも邪魔はさせん」
男は、明けはじめた空を見上げてつぶやいた。
「この国は、この儂が支配し新しい国造りを行なうのだ。それがこの国の定め。一番良い道なのだ」
しらじらと夜が明けはじめると、ナシメのもとに十数人の男たちが身を隠すようにして集まってきた。だれもがみな、紅潮した顔で彼を見つめている。その中に御真木と桜子の姿があった。
「これから卑弥呼さまの居所へ行きミルカの悪行を正す。万一のことを考え武器は置いてゆく。われわれは、卑弥呼さまに直訴することが目的で攻め入ることではない。その姿を見れば、われわれの訴えもかならずや聞き入れてくださることだろう」
男たちの間から歓声が上がった。おれたちは、もうこれ以上の我慢はできないと口々に言い合った。おたがい顔を見合わせ、自分たちの正義を確認し合っていた。
「では、これより居所へむかう」
わたしたちはナシメのあとに続いた。日が昇ったばかりなのに、せいこう生口たちはすでに働いている。昨日のように、怒りや恐れの目は一つもなかった。卑弥呼の居所に近づくと、楼観の片隅からひとりの少女が姿を現した。昨夜の少女だ。
ナシメが駆けより声をかけた。
「壱与さま。あなたは来られないほうが」
少女は首を横にふるとわたしに近づき手を差しだした。わたしがその手に触れると、少女はもう一方の手を重ねてきた。てのひらがあたたかくなると、少女のぬくもりが流れこんでくるようだ。まるで、わたしを励ましてくれているようで、それでいて「死なないで」と言っているようにも思えた。
「この方は、不幸なことに幼くして言葉を失いました。その代わり、言葉の奥にあるものを見る力を授かったのです」
ナシメが悲しみに沈んだ目で御真木に言った。
――この少女が……。卑弥呼の宗女だったのか。だが、口が利けないというのはおかしい。
すっきりしないもどかしさをかかえ居所まで来ると、多くの兵たちが周囲を警護していた。ナシメが卑弥呼さまに貢物を届けに来たと言うと、そのまま中へ通してくれた。
「これはナシメ殿。こんなに早くからいかがなされました」
卑弥呼の部屋のまえでミルカが立ちはだかっていた。
「貢物にございます。卑弥呼さまにお目通り願いたい」
「貢物ですか。ならば、私がお預かりいたしましょう」
「それには及びません。これは魏の帝より賜った物。直接お渡しせねばならぬ物にございます」
「そうでございますか。では、しばらくお待ちを」
ミルカが部屋へはいりしばらくして、
「お会いになるそうです。しかし、お会いするのはナシメ殿とそちらの方だけにしていただきたい」
――えっ、わたし?
仕方なく貢物を持ち中へとはいった。板張りの床と壁、そして高い天井。昨日、時の穴から落とされた場所に戻ってきた。あのときとおなじ一段高い床に彼女は座っていたが、昨日とはまるで別人のようだ。落ち着きの中に烈しい炎を隠し持った瞳がそこにあった。
「ナシメ。魏の帝よりの貢物があるとか」
わたしから箱を受けとり彼女のまえに置きながら、ナシメは卑弥呼さまの言葉がそのまま民に伝わらず、ミルカによって民が動かされていること。それは、とりもなおさず彼がこの邪馬台国を我が物にしようとしているのだと。そのため、生口たちは苦しみ食することもままならぬ日々であると訴えた。
ナシメが語り終えると静かに訊ねた。
「その言葉がまこと真であるという証はあるのですか」と、彼の言葉の真意がどこにあるのか探る目をしながら問いかえした。
「それは、生口たちの姿をご覧になれば」
しばらく思案してから、
「私は、ナシメのことは最も信頼しています。同時に、ミルカのことも信頼しています。
どちらが真なのか、この目でたしかめよと言うのですね」
「その通りでございます」
「わかりました。それを見極めるのは生口たちの姿を見てからにします」
「ありがとうございます」
ナシメが退こうとしたとき、表から男たちの怒鳴りあう声が聞こえてきた。
わたしたちが驚いて表にでると、生口たちと門兵たちが争っていた。
居所を目指し、怒りに満ちた目で兵をなぎ倒し荒げた声で男が叫んでいた。
「卑弥呼を引きずりだせ!」
「なんてことだ。だれが生口たちに合図をだしたのだ」
見ると、仲間のひとりが剣を振り上げ生口たちを煽動していた。
「ヨンヒ、なぜおまえが」
だが、どんなに荒れ狂った生口たちでも武器を持った兵士には敵わない。あっという間に多くの兵に捕り押さえられてしまう。
「ナシメ殿。これは謀反ですぞ。生口たちを唆し、卑弥呼さまの居所を襲うとは。ついに正体を現しましたな。それっ、そこにいるナシメを捕えよ!」
ミルカの令に数人の門兵たちがナシメを羽交い絞めにした。
「ちがう。これは、ちがうのです。卑弥呼さま!」
「観念しろ、ナシメ」
いきなり門兵のひとりがわたしの髪をぎゅっとつかみ引きずり降ろそうとした。
「いやぁ!」
髪が抜けるほど引っ張るその腕をつかんで御真木が叫んだ。
「やめろっ!」
兵士のうしろから飛びこんできた御真木が、兵士の腕を抑え下腹部を蹴り上げた。
――ごっ、剛毛。
「桜子さん、大丈夫ですか!」
「……剛毛。 えっ?」
そのとき、つめたく風を切る音とともに、彼の顔がみるみる苦痛に歪んでいった。
――なに?
彼が、ゆらゆらっとわたしの胸に倒れこんできた。その背に赤い矢を刺したまま……。
「剛毛? うそでしょう。そんな……」
目のまえが一瞬にして闇に覆われ、崩れ落ちるようにその場にしゃがみこんだ。
――ねえ、なぜこの世に男と女がいると思う?
――さあね。太古の昔からそうだったからで、人間は二つの性が基本で。
――あなたって、なんでも考古学なのね。あまりしあわせになれないタイプよ。でも、気にすることはないわ。あなたのような人でも愛してくれる女性がかならずいるはずよ。
――そうかい? でも、その女性を探しているうちにおじいちゃんになってしまうかもしれないな。
――大丈夫よ。そのときは、わたしがその人の代わりになってあげるから。
――きみが? それもいいかな。もし、きみがその女性だったならかならず守ってあげるよ。かならずね。
――ありがとう。じゃあ、約束よ。ねえ、どこへ行くの? ここにいて。わたしをひとりにしないで。お願い、行かないで!
「行かないで!」
自分の声に驚いて目が覚めた。額を伝わる汗がつめたい。
「気がつかれたか」
赤い唇がわたしに問いかけてきた。
「あなたは、卑弥呼……さま。わたし、ここで。どうしてここに……。あの、御真木……御真木さんは? 彼、わたしを助けて……。風の音が、ビュンて……。そしたら彼が、彼が倒れてきて」
一瞬の悪夢がよみがえってきた。
「彼は……どこ?」
哀れむ瞳がわたしを見つめていた。
「……あの、彼は……死んだの?」
止めどない涙があふれてきた。苦痛に歪んだ彼の顔が、わたしのこころを埋め尽くした。
「桜子。悲しいときは涙を流せばいいの。こころの底から泣いていいのよ。でも、涙はいつしか涸れてしまうもの。たいせつな人を失ったときに、その人のくれた想いまで失ってはいけないのよ」
――たいせつな人だなんて……。そんなふうに思ったことなど一度もない。剛毛は、ホテルの先輩で、ちょっと変わった人だけど……。目は細いし足も短い。腕や手の甲には毛が渦を巻いているし……。まるで北海道の毛蟹みたいな奴で、わたしの理想の男性とはまるで正反対。でも、なぜかやさしくて……。彼といると、わたしは、そのままのわたしでいられた気がする。でも、なぜ彼なの。死ぬのは、彼でなければいけなかったの?
「彼の屍体は」
虚ろな目で卑弥呼に問いかけた。
「それが……ないの」
「ない……って」
「侍女たちに訊いても、あの騒ぎの中だったのでどうなったのか見ていないと言っていたし。私もそのまま部屋の奥へ入れられてしまったので……。生口たちが死んだ人たちを山へ運んでいったそうだから、彼もきっとその中に」
「……そうですか。わたし、とてもここで生きていける自信がない。ひとりで、どうしたらいいのかわからない……」
「そうね。でも、あなたがよければ私のそばにいてくれないかしら。そうしてもらえると、壱与も喜んでくれると思うわ。あなたは、どこかちがう。なんて言うのかしら。あなたって、どことなく壱与に似ているの」
「わたしが、壱与さんに?」
「そう。あなたをはじめて見たときも、まるで壱与が姿を変えて現れたのかと。そう思ったほどよ」
――それであのとき、わたしたちに危害を加えてはいけないとミルカに言ったのね。
「壱与さんは、言葉が……」
「ええ。あの子が言葉を失ったのには理由があるの。いま、この国は南の狗奴国と争いをしているけれど、壱与が七歳のときに目のまえで両親を殺されたの。その殺され方があまりに惨たらしいものだったのでしょう。それ以来、壱与はこころを閉ざしたまま……。
私は、宗女として壱与をそばに置いて巫女の修行をさせたわ。
でも、それが果たして良かったことなのかどうかは……。あの子は、私以上に強い霊気をだすことがあって、その気を操り人のこころの中にはいりこんでしまうほど。ときには、その人の行末を見てしまうことすらあるわ」
――行末を見てしまうって。もしかして、あのとき剛毛の未来を見て泣いていたの?
「南の狗奴国って……。なぜこの国と争っているのですか」
「私がこの国の王になるまでは、たくさんの国々の間で争いの絶えることはなかったのよ。
争いの起こるたびに犠牲となっていくのは名もない生口たち。そして、悲しむのはいつも女子どもたちだった。私は、この国からその悲しみを無くしたかったわ。そのために戦ってきたの。そして、やっと二十九もの国々からいがみ合いや争いを無くすことができたけれど、いま、強国、狗奴国が攻めてきているの。私は領土を増やそうとか奪い取ろうとか、そんな考えなんか持ったこともないわ。
はじめは些細ないざこざだったけど、いつの間にかこんな大きな戦になってしまった。
それがまたつらくて……。
だからといって、この国は負けるわけにはいかない。二度とおなじ悲しみを繰りかえさないためにもね」
――わたしにはよくわからないけど、戦をして犠牲になるのはどこの国でも弱い立場の人間だし、悲しむのが女子どもなのは皆おなじ。ただ、負けた国は悲しみだけで済むことはないし、恨みは根強く残ってしまう。
国を奪われ家族をうばわれ、愛する人を亡くしてゆく……だから勝たなければならない。
ほんとうにそうなのかしら。でも、たとえ涙が涸れて悲しみが薄れていっても、あの苦痛に歪んだ彼の顔だけは決して忘れはしない。わたしを守ってくれた彼のためにも……。
わたしは、過ぎゆく時すら忘れるほど彼女と語り合った。自分の思いが彼女の思いにすこしずつ交わっていった。
「いつまでになるかわかりませんが、しばらくここにいさせてくれますか」
「……桜子。ありがとう」
わたしは、虚ろだったこころを振り払うようにすっと立ち上がると、部屋の扉に手をかけ、そっと開けてみた。暮れようとする稜線に、下弦の月が悲しげに浮かんでいた。
わたしには、おぼろな月が自分の変わりに涙を流しているように見える。
その涙が、しずくとなって零れ落ちた。
§
御真木の生死がわからぬまま月日が流れていった。
わたしは、居所の北面にあるなだらかな丘を上がっていた。剛毛の魂が眠っているかもしれないこの丘が、いまではただ一つの『泣きにこられる場所』だった。
みんなから捨て山といわれているこの山が、わたしにとっては現在と未来をつなぐ架け橋に思える。丘の頂にはたくさんの花が咲いていた。季節が変われば、この丘を染める花たちも衣替えをしてわたしを出迎えてくれることだろう。
木々のあいだから小鳥たちのさえずりが聴こえてくる。
――サクラコ。
すこしは慣れたつもりなのに、突然こころに話しかけられると、やはり身構えてしまう。
「壱与さん」
――卑弥呼のあとを継いでこの国を治める女性が、こんなにあどけない人だなんて。
――サクラコ。 アナタノ イタ クニノコト モット シリタイ。
この子は、きっとわたしのつらい気持ちをなぐさめようとしてくれているのだろう。
その気持ちがうれしかった。
「そうね。どう言えばいいのかしら。わたしのいた国は日本と言うの。この国とおなじところにあるけれど、着るものも食べるものもだいぶちがうわ。日本のまわりにはたくさんの国があって、おたがい貿易をしているの。貿易ってね、自分たちの国で作ったものを売ったり買ったりすることなの。よその国へは、大きな船や飛行機で行けるのよ。飛行機ってね、空を飛ぶための乗り物よ。あの、わかる?」
――ニホン? ヒコウキ? ソラヲ トベルノ?
「そうよ。たくさんの人を乗せて鳥よりも速く飛べる乗り物よ」
――ステキナ クニ。 デモ……イクサヲ スルノ?
――戦? そうだった。この子は、両親が戦で惨い殺され方をしたんだわ。それも目のまえで。
そのことが、この子から言葉を奪い取ってしまった……。
「戦はしないわ。していたときもあったけれど、戦をすれば、一瞬で多くの人の命を奪ってしまうことがわかったから、みんな大きな戦はしないようにしているの。でも、犠牲になった人の悲しみは、戦の大きさではないのだけれどね」
――わたしがどんなに言葉を尽くしても、この子の悲しみを拭い去ることはできないだろう。人が、こころを閉ざすほどの悲しみなど、わたしはまだ知らない。
彼女のとなりに寄りそうようにして腰かけた。
――ミマキガイナイト サビシイ?
そう訊かれて言葉につまったが、彼女のまえではいっさいの隠し事はできないとわっていた。
「そうね。彼が死んだと思うと、とても生きてゆけないと思ったわ。つらくてかなしくて、なぜ彼が死ななければいけなかったのか、いまでもわらない。
それが、わたしを守るためだったと思うと、たまらなくつらいわ。とてもひとりで生きてゆくなんてできない……。だから、わたしも死んでしまいたかった」
――サクラコ……
「ごめんなさい。でも、あなたや卑弥呼さまがいてくれるから、どうにか生きていられるの。
卑弥呼さまとお話しをしていると、なんだかこころがやすらいでくるの。とても気持ちの深い人に思えて、なんでも聞いてもらえる気がする」
足もとの花を見ながら作り笑顔をした。
――ヒミコサマハ ココロノツヨイヒト。 デモ ホントハ ヒトリデ クルシンデイルノ。
ジブンガ コノクニヲ オサメナクテハ ナラナイ。 イガミアイヤ イクサヲナクソウト ソレダケヲ オモッテル。 イクサデ タイセツナモノヲ ウシナッタカラ。
「たいせつなもの?」
――ソウ。 イキルタメニ ナクテハナラナイ タイセツナモノ。
――生きるために大切なもの。 そんなことなど考えたこともないわ。
――サクラコ、アノコ オカアサンガ ミツカッタッテ。
「あの子? だれのこと?」
壱与が指差すその先に、おたがいの嘴でやさしく羽をつつきあっている二羽の鳥がいた。
親子なのだろうか、それとも恋人たちなのだろうか。おたがいを庇いあう想いが伝わってくるその光景に、わたしの胸はしめつけられた。
――ズット サガシテイタト イッテイタ。デモ オカアサンガ ジブンヲ ミツケテクレテ トテモ ヨロコンデル。
「あなた、鳥たちとお話しができるの?」
――コノモリノ イキモノハ ミンナ オハナシヲ シテル。 ワタシモ シテル。
「すごいのね。わたしもお話しがしてみたいな」
――サクラコ。アナタニ アワセテアゲル。 コノモリノ セイレイ ニ。
セイレイ ハ ナンデモシッテイル。 ダカラ ミマキノコトガ ワカルカモシレナイ。
わたしは壱与さんに急き立てられるようにして立ち上がった。
いまになって気付いたが、ふたりはどことなく似ていた。背丈も同じくらいで髪も長い。
以前、卑弥呼さまに言われたことはあるけれど、いままで自分たちが似ていると思ったこともなかった。
でも、彼女といると、なぜかほんとうの自分でいられる気がする。安心できるというのだろうか。この国に落とされて、御真木と牢屋に入れられていたときに感じたあの落ち着きと似ている。不思議な子だなと思いながら彼女のあとについていった。
丘を降りてしばらく歩くと、うっそうと樹木の生い茂った森にでた。
近くを流れる清流から、ときおり小魚たちが顔をのぞかせている。この時代に落とされて、食べ物や着るものに戸惑うことも多かったが、なかなかなじめなかったのが時間の感覚だった。携帯は失くしてしまうし、どこにも時計があるわけでもない。目が覚めても、いまが何時なのかもわからないし、日が暮れても時間がわからない。なにもかもが二十一世紀の時代とちがっていることに苛立ちすら感じていた。
――ココヨ。
目のまえに、天を見上げるほど高く大きな木がそびえていた。
両手を広げた大人たちが、いったい何人集まれば囲えるのだろうか。
――コノナカニ セイレイガ スンデル。
「ここに?」
ふたりが近づくと、大木からわたしを押しかえそうとする風が吹いてきた。ほんの一瞬だったが、頬に電気が走ったように、ちくりとした痛みに思わず両手をあてた。
――サクラコ。コノキニ フレテ。
わたしは彼女の言うままにそっと木に手を添えてみた。写真で見た、屋久島の縄文杉のようだ。そのまま触れていると、次第にてのひらがあたたかくなってゆく。
――……あたたかい。なぜか、体もこころもあたたかくなってゆくみたい。
いきなりふわりと自分の体が宙に浮いた気がしたかと思うと、あっという間に雲の上まで飛び上がった。まるで雲に乗って大空を駆け巡っているようで、まったく自分の重さを感じることもなかった。
山を越え、海を渡ったかと思うと、こんどは一気に宇宙へ飛びだしていた。無重力の空間の中で思考がぼんやりとしている。うつろな目を開くと、白い顎ひげを生やした老人がわたしに語りかけてきた。
『……ひとりとり残され、不安と絶望の中で生きねばならん……なんのために自分は生きているのか……』
次第に意識が遠のいていった。
夢から覚めるように自分をとりもどしてゆく。気がつくと、大木のまえで膝をかかえて泣いていた。
ふたりが居所へ戻ったころには、すでに日が暮れはじめていた。
不安を拭い去ることもできず、こころは重かった。
――あれから幾日が過ぎ去ったことだろう。こうして太陽が昇るのを待ちながら、沈む夕日に不安とむなしさが募ってゆくのをどうすることもできず、追いかける月すらいまでは儚く見えてしまう。
わたしは、なぜここにいるの……。
*
森には静けさだけが漂っていた。小枝を揺らす風も川のせせらぎも、すべてが静寂の中につつまれていた。風のささやきや小鳥たちのさえずりを聴きながら、少女は見つめていた。
「このむこうには、一体なにがあるのかしら」
風になびいた長い髪が、白いうなじにまとわりついてゆく。小高い丘の上から見渡す世界が、自分を呼んでいるように思えた。
「サラ」
一瞬、だれかの声が聴こえた。
――なに?
だれもいるはずはなかった。ここは自分しか知らない秘密の場所だ。きっと、風がささやいたのだと思い直し丘を下りはじめた。けもの道を下ると赤松の木がある。左へ曲がれば自分の部落へ通じていた。右へ曲がると川辺にでる。少女は、右へ曲がり川辺を通って帰ることにした。しばらく行くと岩の陰から細い棒が揺らいでいるのが見えた。
なんだろうと思い近づいてみると、岩にしがみつくように下半身を川の中に沈めたまま、その背に赤い矢が刺さった男がうつ伏せになっていた。
彼女は急いで駆けより川から男をひきあげた。刺さった矢を引き抜き持っていた毒消しの薬草を傷口に塗りこむと、男を馬に乗せ村へ連れて帰った。
村の片隅で男たちが集まっている。ひとりの男が地面に転がった身体を棒で突ついていた。だれかが、捨ててしまえと吐き捨てるように言った。別の男が脇腹を蹴った。少女は蹴られた男に駆けより、
「やめなさいよ! この男はわたしが拾ってきたのよ。わたしのものだから!」
少女が転がった男の身体にしがみついて庇うと、男たちはケラケラ笑いながら帰っていった。
「サラ。その人は?」
「母さま! わたし、この人がまだ生きていたから。矢が刺さっていたけれど、まだ生きていたの。だからわたし……」
うしろを振りむき男にしがみついたまま少女が言った。
「いいのよ。あなたは良いことをしたのだから。その人を家まで運びましょう。いま、ユイを呼んでくるから、あなたはここにいて」
しばらくすると、母親がユイと男をひとり連れてきた。
「この人を家まで運んでください。まもなくヒミココが戻ってくるからそれまでに運びたいの」
「わかりました」と言うと、ユイと男が彼を持ち上げ家まで運んで行った。
「サラ。父さまは、あの人を見たらきっとあなたから遠ざけようとするでしょう。けれど、気にしてはだめよ」
「はい。母さま」
娘のうしろ姿を追いながら、自分のこころにつめたく重たいものが圧しかかってくるのを感じていた。
――戻ってきた。あの男が……。
太い杉の木を土台にした高床と、四方に丸い柱を何本も打ちこんで造られた高い天井と急勾配の屋根。この村では、若者たちが夫婦になると部落の者全員で家造りを手伝う慣わしになっていた。この村だけではなく、この地方すべてがそうなのだ。
《国造りは民のために行なうもの》
それが、狗奴国王ヒミココの政だった。卑弥呼を中心とした連合国家、邪馬台国の傘下に属することを拒み、大陸との交易により独自に国家を建設していた。両国はしばしば衝突し争いが絶えることはなかった。自国だけの力では狗奴国に勝てないと判断した卑弥呼は、以前から交易のあった魏へ支援を要請したのだった。魏の天子、明帝はこれを了承し張政らを派遣させ檄文を作り狗奴国を諭したが、ヒミココはこれに激怒し邪馬台国に決戦を挑む時期をうかがっていた。
「母さま、この人、邪馬台国の人かしら。あの国の人たちは、こんなみっともない服を身につけているの?」
「いいえ。この人は邪馬台国の人ではないわ。それに、この服は私たちの身につけているものとはちがう物。もしかして大陸から来た人かもしれないわね」
娘に言いながら、「そうではない。この男は大陸の人間ではない。では、どこから来たというの? もしや……」と自分に問いかけていた。
「母さま!」
男がことりと動いて小さな呻き声をたてた。
「気がついたようですね」
「ここは……。あなたたちは……。ここは一体、どこなのですか」
肩を庇いながら目のまえの少女に訊ねた。
「まだ動いてはだめ。塗った薬草が落ちてしまうから」
男は自分の肩に手を当てると、引きちぎられるような痛みを全身に感じた。
「あなたが傷ついて川で倒れていたところを、この子が見つけて助けたのです。肩の傷は、矢が刺さっていたので薬草をすり手当てをしておきました。血は止まっているし、毒虫がはいっていなかったので大丈夫でしょう。しばらくは痛みますが」
「ありがとうございました。あの、ここは一体」
「ここは狗奴国。私はユリア。この子はサラ。あなたは?」
「僕は……。僕は、あの……。だめだ、思いだせない」
男は記憶を失っていた。
「いいのよ。無理に思いだそうとしなくても直に思いだすわ。いまはゆっくり休むことよ」
――記憶を失っているなんて。でも、そのほうが良いのでは……。
男はそのまま床に伏すと、ふたたび闇の中へと引きこまれていった。
夜が明けようとしていた。
烈々とした巨大な塊が、漆黒に彩られた稜線を赤銅色に染め上げようとしていた。太陽がいつものように昇り、闇の世界を払拭していく。生口たちが鍬を振りながらささやき合っていた。
「このまえは失敗したが、こんどは大丈夫だ。今夜、オトの家に集まるぞ」
彼の言葉に他の生口たちもうなずき合った。
もともと農耕を主にしていた邪馬台国が周辺諸国を統括できたのも、卑弥呼の持つ巫女としての力と、その神秘性に拠るところが大きい。男王は、誇示した権力とカリスマ性で人々を従わせ、王に対しては絶対的な忠誠心と畏怖の念を強制する。しかし卑弥呼は、神の声の伝達者である巫女としての立場を最大限に活かし、弟を通して神の意思を民に伝え自らは居所に留まり、その存在自体を神に近き者としていた。いつしか周辺部族の者たちも、その存在を畏怖するようになっていった。
「卑弥呼さま、外が!」
突然、侍女たちの不安な声が飛びこんできた。わたしたちが何事かと思い扉を開けると、数十人の侍女たちが肩をよせ合いながら空を見上げていた。生口たちは鍬を振る手を止めていた。門兵たちの槍を握る手も不自然に震えている。
「外へでてはなりません」
ミルカが外へでようとする卑弥呼を制した。わたしは扉のまえまで行き外を見渡すと、生口や侍女たちのあいだで悲鳴に似たざわめきが起きていた。
「闇が、闇が襲ってきた! みんな殺されるぞ!」
見ると、すべてが闇につつまれようとしていた。突然訪れた闇に、人々が慄いていた。
――これは……。
闇の襲来が五分ほど続いたあと、太陽のひかりが甦ってきた。人々は、暗黒の闇があたたかいひかりに呑みこまれてゆくのを震えながら見ていた。ミルカが居所のまえで仁王立ちしている。
「これは日食というものでございます」
黒い顎ひげをたくわえ、どこか三国志にでてきそうな男がミルカに言った。
わたしは、なぜかその男に嫌悪を感じた。
――そう。それも、完全な皆既日食だわ。みんなが驚くのも無理ないわね。
顎ひげの男がわたしを一瞥し、鼻で嘲笑うと居所の中へはいっていった。
「卑弥呼さま。お身体の具合はいかがですかな。魏の国より取りよせた秘薬、お試しになられましたかな」
「早速いただくつもりです。いろいろこころ遣い有難く思います」
わたしが卑弥呼の横へ座ると、濁った目で卑弥呼に問いかけた。
「こちらの方は……」
「この子は桜子と申し、私が巫女として育てている者にございます。張政殿にははじめてかと」
――張政? この男、剛毛が言っていた……。もし、張政がこの国に来ていたなら卑弥呼さまの死も近いって。
「これは失礼いたしました。卑弥呼さまが直々に育てられているとは。さぞ、優れた力をお持ちかと」
――この男、嫌いだわ。
「桜子と申します。巫女として卑弥呼さまのお側にお仕えしております。張政さまは魏の明帝さまの信頼も厚く、この国へまいられたこと卑弥呼さまはとてもこころ強く思われております」
――この娘。なぜ明帝と知っている。
「この張政。この国のためにかならずや力になりましょう。しかし、さきほどの闇。あれは、この国の凶の兆。狗奴国の攻め入る兆かと思われます。しかし、残念ながらこの国の兵だけでは狗奴国に勝ることは叶いません。ならば、大陸の魏より帝の兵を呼びよせ、一気に狗奴国を攻め落とすのが最善かと」
――たしかにこの国の兵力では勝てない。それは剛毛も言っていたわ。けれど、一旦呼び寄せた魏の兵たちが、狗奴国を打ち破ったあと素直に魏へ帰るかしら。
「張政さま。さきほどの闇は日食というもの。太陽が月に隠れてしまうただの天体現象。凶の兆とは思えません。魏の兵を呼び寄せるのは早計な気がいたします」
――何者だ、この娘は。ナシメならともかく、こんな小娘が……。
「ほぉ。では、この国だけで勝てると?」
自尊心を傷つけられ、怒りをぎりぎりのところで押さえこみながら問いかえしてきた。
「それは、叶わぬかもしれません。けれど、魏の兵を呼べば戦が大きくなるだけ。戦をせずに収める策があるのではと」
さらに濁った目をギロリとさせると、わたしを睨みつけるようにして言った。
「私とて無闇に戦をしたいわけではありませぬ。先日も狗奴国のヒミココへ檄をだし、戦を収めるよう諭したところ。魏の帝も戦は好まぬ故、魏に兵を要請するのは最後の手立てと申し上げます」
「わかりました。しばらくは張政殿におまかせいたします。しかし、桜子の言う通り魏への要請はすこし時期をみます」
卑弥呼の意思がわたしと張政のあいだに割りこんだ。
「それでは、別の方策を検討することにいたします。では、私はこれにて」
頭を下げ、立ち去るうしろ姿が怒りで震えていた。そのまま居所をあとにした彼は、怒りを露にしながら唇を震わせていた。
「あの小娘、一体何者だ。とてもこの国の人間とは思えん。ナシメは、ミルカを操り幽閉させたが、あんな巫女が卑弥呼の側にいようとは……。魏から兵を呼び寄せられれば、狗奴国を制圧しこの邪馬台国も私の手中にできるものを。まあよい。いざとなれば始末すれば済むことだ」
彼の怒りで震えた肩は落ち着きを取りもどし、今度は野望で肩を震わせていた。
わたしは不安だった。御真木を失い、帰る術もないこの時代にひとりとり残され、明日のことどころか今日をどう生きれば良いのかさえ分からなかった。あの牢屋の中で彼が言ったように、近いうちに卑弥呼さまは死んでしまうのだろうか。目のまえにいる卑弥呼さままで死んでしまったならば、自分はこの先一体どうやって生きてゆけばよいのかと不安にかられていた。
「桜子……ありがとう。でも、張政殿は魏の帝より遣わされた方。この国のためを思っての進言だと信じています。あなたは、私たちと姿も言葉もおなじなのに、ちがう時代に生きていたと言う。ここへ来てしまった理由はわからなくても、きっとなにか意味のあることだと思うのです。気を落とさないで」
「ありがとうございます。卑弥呼さまのあたたかいお言葉だけで、わたしは生きる努力ができます」
「そうね。あなたは強い人よ。あなたの生きていた時代のことをもっと知りたいし、きっと戦などなく人々が平穏に暮らせる時代なのでしょうね。私も、そんな国をつくりたいと願ってきました」
「その気持ちはわたしもおなじです。でも、残念なことに、わたしの生きていた時代でも戦はなくなってはいません。大きな戦を幾度も経験して、ようやく戦の愚かさに目をむけはじめたばかりでした」
桜子の話に卑弥呼は大きくうなずいた。
「でも、いま卑弥呼さまと出会って思うのです。人のこころは時を超えてもおなじなのですね。人を愛おしむこころも、怒りや憎しみや、そしてなにより、人は戦を止められないのでしょうか……」
「悲しいわね、桜子……」
思いだしたように、わたしに見せておきたいものがあるといって立ち上がると、部屋の隅にある小さな扉を開けた。中は三畳間くらいの広さだろうか。明りもないのに、一部分だけが明るく輝いている。近づくと、床に据えつけられた台の上に、てのひらよりすこし大きめな箱がのせられていた。赤いひもで結ばれたその箱から、うっすらとしたひかりがもれていた。
「これは、私が神さまからお預かりしているたいせつなもの。私の身にもしものことがあったときには、これをあなたが預かってほしいの」
ひもを解き、卑弥呼がそっと蓋を開けた。
――これは……あのときの鏡! わたしが夢の中で見た黄金色した蛇だわ。
「そんなたいせつなものを……わたしではなく、壱与さんが。それに、もしものことがあったならなんて、そんなことは言わないでください」
――自分が生きてゆくだけでも不安なのに、卑弥呼さまが神さまから預かったものなら、この国の宝じゃないですか。
わたしは大きくかぶりを振った。
「壱与には、まだわかっていないのです。戦の残す爪痕は、いつの時代でも悲惨と恨みを人のこころに刻みこんでしまうものです。おたがいの正義のために犠牲を強いて、利害と私欲に翻弄された為政者たちのために、弱き者たちが家族とわかれ、愛する人を失うのです。
あの子は、悲惨の中にこころを閉ざしてしまう子。まだ幼いから無理もないのでしょう。
でも、あなたはちがう。悲惨や悲しみも、決して恨みに変えることはない。その、深いやさしさがたいせつなの。
桜子、あなたにはそのことがわかっているでしょう」
卑弥呼の言葉に、壱与が会わせてくれた精霊の言葉がよみがえってきた。
「そなたはこの時代に来てしまったことを嘆いておるのであろう。それも当然のことだ。
ひとりとり残され、不安と絶望の中で生きねばならんからの。この国の生口たちも、生きる糧は家族や愛しあう者のために生きておる。いまのそなたは、そのどちらも奪い去られてしまったからの」
精霊は、まるで仙人のような老人だった。白髪に、胸まで伸びた白い顎ひげをたくわえ、枯れ木のようにほそい目でわたしを見つめて言った。
「しかし、生きるということは不幸を垣間見ることでもある。不幸を識らなくては生きる意味すらわからんものだ。食がなければ生きてはゆけん。住む家もあったほうがいいだろう。だがそれは、生きながらえるための手段でしかない。人が、ほんとうに欲するものは、なんのために自分は生きているのかを悟ることだ。
そなたにも、それを知るときが来るだろう」
――わたしがこの時代に来たことにも、いま生きていることにも意味があるのだろうか。
「桜子……」
卑弥呼が不安そうに声をかけた。
「無理にとは言わないわ。いますぐということでもないし、私の思いを知ってほしかっただけだから」
「いえ、わたしはただ……」
――御真木が言っていた。張政が現れれば卑弥呼さまの死も近いと。歴史がそうならば、ここにいるこの人はじきに死んでしまう。わたしはどうすればいいの……。
§
「イリヒコ、遅い! 馬を上手に扱えないとこの国の男として認めてもらえないわよ」
「無理だ! 馬に乗るなんてはじめてなんだから。ちょっと待ってくれよ、サラ」
丘を駆け降り森を抜け、川を渡りふたたび森の中を駆け抜けていく。ふたりは風を切って走り続けた。まるで森のトンネルを疾風となって翔ける大鷲のように、どこまでも走り続けた。ふたりの背中を追いかけるように、木洩れ日がやさしく降り注いでいた。
「イリヒコ! あの丘を駆け上がるわよ」
「えっ! そんなことできっこない」
「おだまり! さあ、行くわよ。しっかりついてきて!」
僕らは一気に丘を駆け上がった。酸欠を起こしたように真っ青になり、喉がカラカラに渇いて声もだせず僕の顔は引きつっていた。
「やればできるでしょう。ここですこし休んで、そしたらイリヒコだけにわたしの秘密の場所を教えてあげるわ」
――やればできるって……。それは、できたから言えることだろう。
「サラ。秘密の場所って、どこ?」
「ばかね。行くまえに教えたら秘密にならないでしょう」
――まったくだ。
ふたりは並んで馬を走らせた。こんどはゆっくりと。そして、寄り添うようにゆっくりと走らせた。
「ここよ。ここがわたしの秘密の場所。つらいことがあったりするとここへ来るの。このまえもここへ来ていて、その帰りに川であなたを見つけたの。矢が刺さっていて血が流れていたから急いで血止めの薬草を取りだして手当てをしたわ。そのあと馬に乗せて……」
僕とサラは馬を降りて草の上に腰かけた。
「ありがとう。きみがいなければ僕はもう」
言いかけて横をむくと、サラがじっと見つめていた。その瞳に見つめられていると、山並みを染める夕日が僕のこころまで赤く、そして熱く燃え上がらせてしまいそうだ。
「あなた、覚えている? 父さまにはじめて出会ったときのこと。居所のまわりをふらふらしながら中をのぞいているあなたを見て、わたしをかどわかそうと狙っていると思ったのね。いきなり腕をつかんで殴りかかったりして。痛かったでしょう」
――あたりまえだろう。あの太い腕で本気で殴られたんだからね。
「ちょっとね。けど、ほんとうに殺されるかと思った」
「それはないわ。でも、父さまがわたしに言っていた。あの男は本当の勇気を知っている男だって。そうかしら?」
「それは、大王さまの買いかぶりさ」
「そうよね、あはははっ」と無邪気に笑うと、膝をかかえ遠くを見つめて言った。
「わたしね、捨て子なの」
「え?」
サラの長い髪を、風がやさしく撫ぜてゆく。
「父さまも、ほかの人たちもなにも言わないけれど……。いないもの、この国に。こんな赤い髪に青い瞳の人なんて。わたしだけなの。どこで拾われたのかもよくわからないし、イリヒコとおなじ。むかしのことなんて、ほとんど思い出せない。ただ、子どものころはみんなにいじめられて食べ物ももらえなかった。ようやく見つけた木の実も、男の子に取られて泣いているところを大王さまに拾われたの。大王さまは、わたしのことをほんとうの娘として見てくれたし愛してくれた。母さまもやさしかった。だからわたしは、この国で生きていけるの。自分を愛してくれる人がいて、わたしが愛する人がいるのだから」
こうしていると、なにか不思議な感覚に満たされてゆく。過去の記憶を失っているのに、以前から、いや、遥かむかしから一緒に生きていたぬくもりを感じてしまう。
こころのどこからかサラの声が聞こえた。
――『やっと、逢えたのね』
「あの、サラ。僕は、この国へ来るまえのことはまるで思いだせないけど、ときどきだれかが僕を呼び続けている夢を見ることがあって。顔も姿もおぼろげで、けれどはっきり聴こえてくる。その声が、僕を『ミマキ』って呼んでいた」
「……そう。あなたは自分のことを忘れてしまっているからと、母さまが呼び名をつけてくれたのよ。『イリヒコ』って。あなたが生まれた国がどんな国なのか知らないけれど、母さまなら知っているかもしれないわ。以前母さまから聞いたことがあるの。狗奴国よりもっとずっと先に、海を渡ると大きな国があるって。そこにはたくさんの人が住んでいて、大きな宮殿もあるって。でも、それよりもっと西へ行くと、わたしたちとはまるでちがう人たちが住んでいて、そこではみんなが石で造った家で暮らしているし、剣も、ひかる剣を使うそうよ。ねえ、そんな国へ行ってみたいと思わない?」
「そうだね。もし行けたなら、きっと楽しいだろうね。いつか行ってみたいな」
「ねえ、行きましょう! いつかふたりで行くの。約束よ!」
彼女のあどけない笑顔が、薄っすらと茜色に染まっていった。時が、しずくとなって舞い降りてきたと思えるほどゆっくりと過ぎていく。まるで、神様がふたりのためだけに時を与えてくれたかのように、静寂の帳がゆらゆらと降りてきた。
ふたりは、その静寂に身をゆだねた。
「サラ」
少女の息づかいが、彼のこころをあたたかく、そして熱く昂揚させていった。
その思いが、彼の指先から少女の身体に滑りこんでゆく。
「イリ……ヒコ」
少女の瞳から、蒼いしずくが涙となって頬を濡らしていった。
*
「困ったわ。道がちがうみたい。いつも目印にしていた杉の木がないわ」
「仕方がないよ。だいぶ暗くなってきているし。もうすこし下まで降りてみよう」
とは言ったものの、獣道すらないこの森を、このまま行ってでられるかどうかもわからない。
あてもなくさまよい続けていると、
「イリヒコ。あそこに明かりが見えるわ」
木々の先に薄明かりが灯っていた。いまはその明かりを目指すしかない。しばらく進むと急な下り坂になり、そのまま進むと遠くにたくさんの集落が見えてきた。
「イリヒコ……」
「ともかく行ってみよう。なんとかなるさ」
ふたりが集落に近づくと、柵のまえでひとりの少女がこちらを見つめて立っていた。
白い肌に薄く紅をさし、紅い目張りを入れている。月のひかりの帯が、少女をとりまくように射しこんでいた。
いきなりだれかの声が彼のこころに飛びこんできた。
――ミマキ。マチツヅケテイマス。サクラコ ガ。
「だ、だれだ!」
びくっとして叫んだ。
「イリヒコ、どうしたの」
――アナタハ ダレ。
「いやぁっ!」
「サラッ!」
突然怯えた馬が暴れだした。ふたりを振り落とし、大きく目を見開き闇の中へと逃げ去っていった。
「サラ!」
「大丈夫よ。それより、いまのは、なに? いきなりだれかの声が」
――フタリトモ オチツイテ。ワタシハ イヨ。ココロデシカ シャベレナイノ。
「あ、あなただったの?」
――オドロカセテ ゴメンナサイ。アナタハ ダレ?
「わたしは、サラ。この人と道に迷ってしまって。馬も逃げてしまったし……」
――ダイジョウブ。シンパイイラナイ。 ソレヨリ ミマキ。 ハヤク サクラコノトコロ イッテアゲテ。
「ミマキって、サクラコって、一体だれのことなのですか。僕は、イリヒコという名前で」
――アナタハ キオクヲナクシテイルダケ。ヤガ ササッタママ カワヘオトサレタトキ
キオクヲナクシタノ。
「なぜそれを知っているの。わたししか知らないことなのに」
――サラ アナタハ サクラコニハナレナイ。 コノヨニ サダメハ ヒトツシカナイノ。
「さだめって、なによ。サクラコにはなれないって、なにを言っているの」
――サラ アナタトカレハ チガウジダイデ イキテイルノ。サクラコ ト カレニハ サダメガアルノヨ。
「うそよ! だれなのよ、そのサクラコって。一体、なに勝手なこと言っているの。わたしはそんなこと認めないわよ! だってイリヒコは、イリヒコはわたしが……」
彼女の張り裂けそうなこころが伝わってきた。
「イヨさん。もうやめてください。僕とその『サクラコ』という人とは、なんの関係もない」
――ミマキ アナタトサクラコハ コノジダイノヒトデハナイノ。
ハルカサキノ ジダイカラ マヨイコンデキタノ。コノクニノ アラソイニマキコマレテ ハナレバナレニ ナッテイタダケ。アナタハ イリヒコデハナク ミマキナノ。
「そんなことってあるわけないでしょう。僕が、この時代の人間ではないなんて……。勝手なことを言わないでください」
――ミマキ。サラ。コレハ スベテ ホントウノコト。アナタタチガ ココデ ワタシトデアッタコトガ ソノ ショウコ。
「……」
――そんな……。しかし、この少女の言葉に一点の曇りもなければ悪意も感じられない。それに、『ミマキ』という名前には聞き覚えがある。あの夢の中で僕を呼んでいる人のことを、この少女は知っているのだろうか……。
僕は意を決した。
「わかりました。その、『サクラコ』という人に会わせてください」
「イリヒコ……」
――ミマキ ヨクキイテ。ココハ ヤマタイコク。コンヤ セイコウタチガ ヒミコサマノヤシキニ ヤシュウヲカケ オトウトノ ミルカヲ オソイマス。サクラコハ ミコトシテ ヒミコサマノモトニイル。
「それじゃあ、彼女も一緒に……」
――オネガイ。サクラコヲ マモッテアゲテ。
「イヨさん。彼女のところへ案内してください」
「……わたし、行かない」
「……サラ」
「ここは邪馬台国でわたしは狗奴国の人間よ。邪馬台国の人間は、みんな悪人だって。
だから卑弥呼も悪人だしその女も悪人に決まっているわ。わたしは悪人を助けたりするのは嫌よ。 行きたければ勝手に行けばいいでしょ!」
大声で喚きながら彼の脇腹に蹴りを入れると、闇の中へ走っていった。
「う、うっ。サ、サラッ!」
いきなり闇を切り裂くような声が飛んできた。
「そこだ、だれかいるぞ!」
――ミマキ イソイデ!
脇腹を押さえ闇に乗じて卑弥呼の居所へ近づいた。
――ミマキ ナニカ オカシイ。イツモイルハズノ モンペイタチガ ヒトリモイナイ。
たしかにそうだ。まるで、いつでも来いと言っているようではないか。
そのとき居所の中から悲鳴が起きた。僕は一気に土手を駆け上がると扉を開けた。
そこには、全身に返り血を浴びたひとりの男が立っていた。男の眼には、狂気のひかりは萎え、むなしさだけが映しだされていた。
「またおまえか」
――この男、僕を知っているのか。
――ミマキ。ソノオクニ ヒミコサマト サクラコガイルワ。
「こんどは止めても無駄だぞ。はじめて見たときからおまえは気に喰わなかった。あの女もな!」言った途端、いきなり持っていた剣を振り上げ斬りつけてきた。その一撃をどうにか躱せたが、脇腹が痛くてよろけてしまった。もつれた足で必死に踏ん張ると、こんどは顔面めがけて剣を突いてきた。彼の顔が阿修羅のように迫る。鬼気迫るその形相に、まるで金縛りにあったように身体が強張っていた。
「死ねっ!」
「うわぁっ!」
言葉にならない叫びをあげると、いきなりうしろから重たいものが圧しかかってきた。
「うっかりしていると、死ぬわよ」
サラがミルカの脇腹を蹴り上げていた。
「サラ。戻ってきてくれたんだね」
「わたしは邪馬台国の人間を助けたわけではないわ。たまたまあなたがそこにいたから助けただけよ」
「ともかくありがとう」
「いいのよ、べつに」
気を失ったミルカを縛り上げ床に転がすと、サラが思いだしたように言った。
「ここへ来るときに気がついたけれど、さっき狗奴国の男を何人か見たわ。わたしの知っている男たちだから、まちがいないわ」
――それは、狗奴国の間者なのか。だとすれば、この国の乱れがヒミココのもとに知らされるのは時間の問題だ。あの男ならば、この機を見逃すはずはない。
「御真木……」
「えっ?」
――僕は、いままで一度も信じたことなどなかった。この世に、さだめ運命として出会う相手がいることなど。遥か悠久の時をさまよいながら、たがいの交わる瞬間があるなど信じたことはなかった。目のまえにいるこの女性に出会うまでは……。
「……さ、桜子」
「生きて……生きていてくれたのね。……よかった……ほんとに、よかった」
それ以上の言葉は、ふたりの間には要らなかった。言葉では言い表せない思いがおたがいのこころに湧きあがった。御真木には、彼女の潤んだ瞳が、ただそれだけがすべてだった。
――ミマキ。キオクガモドッタヨウネ。
――ええ。ようやく取り戻せました。たいせつなものを。
*
「それならば、急がないといけないわ。それと、牢に入れられているナシメを救いだして。彼の力も必要だわ」
卑弥呼が侍女に指示すると、サラがぽつりと言った。
「わたし、この国の人たちのこと誤解していたのかもしれない。みんな悪人だと思っていたし、狗奴国の人たちもそう言っていた……」
うつむきながら下唇を噛んでいる彼女を見てわたしは声をかけた。
「サラさん。この世に、悪人だけの国なんてないと思う。あなたの国にもこの国にも、悪人はいるけれど善い人はもっとたくさんいるはずよ。でも、その数すくない悪人を煽りたて自分の欲望のために人の命さえ犠牲にしようとする人間が、もっとも悪人なのではないかしら。そういう人間こそ決して許してはいけない悪人だと思うわ」
――桜子……。なにか変わった……ような。
――ミマキ。サクラコ ハ カワラナイ イマモ コレカラモ。
――よかった。
サラが、こちらを見ながらぼそっとつぶやいた。
「……でも、負けない。イリヒコは、わたしの」
「ふざけるな! なにが悪人だ。生口たちを唆し卑弥呼さまを襲ったのはナシメたちだろう。それに加担したおまえたちこそ悪人だ!」
手足を縛られ、床に転がされていたミルカが突然怒鳴りだした。
「ちがう! あれは、卑弥呼さまを襲うつもりで行ったわけじゃあない。ナシメ殿は、生口たちの苦境をわかってもらおうと」
「ならば、なぜ俺に言わない! 直訴などといって、結局は生口たちを使って居所を襲ったではないか」
――そうだ。誤解を避けるために、はじめから武器は置いていった。居所を襲撃する気などはじめからなかったのに。なぜああなったのだ……。
「それは……」
「ふんっ! おまえたちこそ悪人だ。この国に、一体なにしに来たのだ。ぐわっ!」
ふたたびサラが脇腹を蹴り上げた。
「すこし黙っていなさい」
そのとき、居所の扉を開ける音とともに数人の侍女たちに隠されるようにナシメがはいってきた。
ろくな食も与えられず、土牢の中でじっと耐え忍んできたことが、その眼光に表れていた。
「卑弥呼さま。私は」
げっそりとやつれ果てた顔を卑弥呼にむけると、慈しみの眼差しが彼をつつみこんだ。
「ナシメ。さぞ、つらかったことでしょう」
「卑弥呼さま。このナシメ、土牢の闇などつらくはありません。私がつらいのは、生口たちの思いが誤解されてしまったこと。そのことが……」
「わかっています。あなたの言葉が真であることは、壱与と桜子から聞いています。民を思うあなたの進言を、素直に受け入れなかった私が悪いのです。どうか許してください」
「卑弥呼さま……」
ふたりを交互に見ながら、あのときの闇は恐ろしかったとサラが言うと、卑弥呼がそれに応えた。
「あれは、日食というものだとか。張政殿が言われていました」
――えっ! 張政が来ていたのか。日食まで起きていたなんて。
思わず身を乗りだして卑弥呼に訊いた。
「日食が起きたのですか? それはいつごろですか」
三ヶ月ほどまえだと言うと、サラが御真木に言った。
「イリヒコは、そのときはまだ眠り続けていたし、随分うなされていた。だから、わたしがずっと傍にいてあげた。汗もひどくでていたから、身体も拭いてあげたわ」
そう言うと桜子をちらと見た。彼女はなにも言わずにサラを見つめていた。サラは顔を背けると唇を噛んだ。
――すでに張政が来ていた。それに、日食まで起きていたとは……。
「あれは、皆既日食だったのよ」
その言葉に御真木が腰を浮かせた。
――ほんとうか……。この時期に皆既日食が起こるのは、西暦二四七年と翌年の二四八年だ。この異常な時期に卑弥呼は死んだとされている。しかも、一回目の皆既日食が起きた西暦二四七年に。
「卑弥呼さま。張政は、狗奴国を討つため魏に援軍を要請するように言いませんでしたか」
「たしかに言いました。でも、そのときに桜子が時期尚早として張政殿の意を退けました」
御真木は、こころの中で「よくやった」と桜子を褒めた。
「卑弥呼さま、張政の言葉を信じてはいけません。彼は、魏に援軍を要請すると偽り、魏の軍を上陸させ狗奴国を落としたあとこの国を制圧するつもりなのです。あの男は、邪馬台国と狗奴国を落とし、ここに自分の国家を造り上げようとしているのです」
――ミマキ。ホントウナノ?
――壱与さん。きみになら、僕の言っていることがほんとうなのだと分かるはずだ。
「壱与……」
――ヒミコサマ ミマキヲ シンジテアゲテ。
しばらく迷ってから御真木に言った。
「あなたを、信じます。それで、これからどうすれば良いのですか」
――そうだ。どうすればいいのだ。狗奴国が攻めて来るのは分かっているが、卑弥呼の死因を記録した文献がない。戦死したという説は聞いたことがあるが、ほんとうのところはわからないし……。この年の戦で卑弥呼の生死が分かれるのだ。ともかく、卑弥呼を守ることと狗奴国の攻めをなんとか防ぐことだ。
「ナシメ殿。卑弥呼さまの身辺警護の人間を増やしてください。侍女だけではなく、武器を持った兵士で。それと、槍をくくりつけた城柵を何重にも作り狗奴国の攻めに備えてください。あと」
「おまえたち、そんなことで狗奴国を抑えられるとでも思っているのか」
いつ気がついたのか、ミルカが口を挟んだ。
「いいか、狗奴国には馬という生き物がいて、それに乗って戦をしているんだぞ。いくら城柵を作ったところで、あの勢いを止めることはできん。俺に任せろ」
サラが顔面を蹴ろうとした。
「サラ、止めて。ミルカ、なにか良い策でもあるのですか」
卑弥呼がサラを制して問いかけた。
「ある。が、まずこの縄を解いてくれ。話はそれからだ」
「だれか、その縄を解いてあげなさい」
サラがしぶしぶ縄を解きながら言った。
「なにかしたら、蹴りだけでは済まないわよ」
*
「そういうことだ」
ミルカの策に、おたがいが顔を見合わせていた。たしかにその通りだ。正面から挑んで勝てる兵力ではないし、むこうは、いわば騎馬隊だ。いまは彼の策に賭けるしかない。しかし、それをするには……。
「嫌よ」
サラがミルカを睨みつけた。
「わたしは狗奴国の人間。ヒミココの娘よ。そんなことできるわけがないでしょう。それに、この男はイリヒコを殺そうとした。そんな男の言うこと、わたしは聞けないわ」
――そう、彼女はヒミココの娘だ。できるわけがない。
「ねえ、サラさん」
その口調はやさしかった。
「御真木は生きていたわ。わたしは、それだけで嬉しかった。彼が矢を受けたのは、わたしを守るためだったの。わたしは、彼が死んでしまったと思ったわ。そして、絶望と悲しみしかわたしには残らなかった。生きてゆくことがつらくて仕方がなかったのよ。でも、そんなわたしに卑弥呼さまは言ってくれたの。『戦は、勝っても負けても悲しみが残る。戦ほど悲惨なものはない』って。その悲惨さをなくすために女王になっているのよって。できるものならば、だれの血も流さずだれも犠牲にならずに……そんな国を造りたいって。わたしも、御真木を失って分かったの。人を犠牲にする権利なんてだれにもないのよ。だから、あなたの思うようにしていいのよ」
――桜子……。強くなったね。
御真木には、彼女がまるで別人のように思えてきた。
サラがうつむいた顔をあげて言った。
「わたしは、協力しないなんてひとことも言ってないわ。ただ、イリヒコのことが……」
「わかっているわ、サラ」
「桜子……」
――この人は、イリヒコを失って絶望と悲しみの海をさまよい続けてきた。彼女は、卑弥呼の言葉で勇気づけられたと言ったけど、そうではないわ。彼女のこころにイリヒコが生きていたから、だから強く生きてこられたのよ。
ミルカがむっくりと立ち上がった。
「話はまとまったようだな。ならば、すぐにでかけるぞ。すでに狗奴国の間者がヒミココのもとに報告を届けていることだろう。俺と御真木、そしてサラの三人で行く。ナシメ、卑弥呼さまを頼む」
彼の言葉に時が動きはじめた。それは、押し寄せる津波に立ちむかう小舟が、怒涛の大波に呑みこまれるのを覚悟した船出だった。
――御真木。かならず帰ってきて。わたしのもとに……。
闇の中へ消えてゆく背中に、桜子は祈るようにつぶやいた。
§
「真か。政をする者が乱れれば人心もまた乱れるもの。いよいよ卑弥呼と決着をつける時がきたようだな」
邪馬台国へ忍ばせていた間者から、生口たちが卑弥呼を襲撃したという報告を受けたヒミココは、ただちに隊長たちを集め軍議を開いた。邪馬台国とはちがい、早くから大陸との交易をはじめていた狗奴国は、周辺国家にはない軍事国家としての力をつけていた。
「間者からの報告は以上だ。弓隊と騎馬隊で攻める。策は李紅殿に従うこと。この一戦ですべての決着をつける。こんどこそ卑弥呼の首を天に突きだし、この地に民の国を築くのだ!」
ヒミココの令に軍師、李紅から策を授けられた者たちがそれぞれの持ち場へと散っていった。部屋に残ったヒミココに報告を届けた間者がそっと耳打ちをした。
「なにっ! サラが、サラが捕えられていると言うのか。それは、真なのか。なんと卑怯な!」
「はい。サラさまも私に気づかれたようです。卑弥呼を襲う一団におりましたが、策が失敗し囚われたものと」
「おのれ卑弥呼」
怒りに肩を震わせ声を荒げると、イシスとこうか紅香を呼び寄せるよう間者に命じた。
まもなくふたりがやってくると、ヒミココが憮然とした顔で言った。
「サラが、卑弥呼に捕えられているとの報告があった。おまえたちは邪馬台国へ忍びこみサラを救いだしてくれ」
「サラさまが……」
イシスと紅香が顔を見合わせた。
「われわれは二日後に軍をむかわせる。それまでにサラを」
「わかりました。かならずやサラさまをお救いいたします」
「頼んだぞ」
このふたりなら、かならずサラを救いだしてくれると思いながら間者の言っていたひとことが気になっていた。
――卑弥呼のもとに、壱与ではなくもうひとり優れた力を持った巫女が常に寄り添っているという。卑弥呼が側に置いて離さぬほどの巫女とは……。一体、どれほどの者なのか。
「あなた」
その声に振りむくと、ユリアが力なく立っていた。不安に押し潰されそうなこころを必死に堪えているのが、ヒミココには痛いほど伝わってきた。
「ユリア、なぜここに。大丈夫なのか」
「サラは……」
「心配はいらん。すでにイシスと紅香がむかっている。われわれもじきに軍をだす。もしサラの身になにかあれば、卑弥呼を血祭りにあげ邪馬台国を滅ぼしてくれるわ!」
ヒミココの胸は怒りの炎で燃え上がっていた。
そのころ、御真木とサラ、そしてミルカの三人は狗奴国の入り口に差しかかろうとしていた。周辺を山々に囲まれた盆地に築かれ、近くを流れる二本の川が豊富な水源を提供していた。
「あれが狗奴国よ」
サラが指差すそのむこうに、堅固な城柵を張り巡らし、各所に楼観を建て住居も整然と配置された集落が見えていた。そして、さらに奥まったところに大王ヒミココの居所が見える。その威容を目の当たりにしたミルカが眉間に皺を寄せて唸った。
「これが狗奴国なのか。まるで国造りがちがいすぎる。一体、どうすればこれだけの国を造れるというのだ……」
感心と恐れの入り混じった顔でつぶやいている彼を横目で見ながらサラが言った。
「ここから先は見張りの者がいるの。夜を待って忍びこまないと見つかってしまうわ。わたしとイリヒコが先に行くから、あなたはあとからついて来て」
「おい。暗闇の中でおまえたちのあとをついてはいけん。俺を置いて逃げないとは限らないだろうし」
「なら、ここにいればいいわ」
睨みあうふたりをよそに、御真木は狗奴国を見ながら思っていた。
――僕と桜子は、なぜこの世界に紛れこんだのだろう。歴史からいけば、卑弥呼の死は近い。彼女が死んだあと、男王を擁立しても争いが収まらず国はふたたび乱れてしまう。それを鎮めるため卑弥呼の宗女だった壱与を女王に据えると、ようやく国はまとまりを取り戻してゆく。壱与は、巫女として神の声を民に伝えるはずなのに、その彼女はなぜか言葉を失っている。おかしい。どこかで歴史が変わってしまっている……。
「イリヒコ」
サラの声に振りむくと、彼女は僕のとなりに腰掛けた。
「なにを考えていたの?」
「いや、別に。ただ、いつになったら人は戦のない国を造れるのだろうって、そう思っていただけさ」
「そうね。わたしも戦は嫌い。戦は、たくさん人を殺したほうが勝つということでしょう。人の命も、ただの道具としか思わない。死んでしまえば、その上を生きた人たちが踏み歩いていくだけ……。ねえ、人の命ってそんなに儚いものなの? なぜ、いつも犠牲になるのは弱くて貧しい人たちなの」
――サラ……。
彼女を見つめる御真木のうしろでミルカが口を挟んだ。
「なに甘いことを言っている。戦は犠牲にする人間がいるからやるものだ。戦をして領土を増やせば国が豊かになっていく。民を豊かにするためには、ときには必要な戦もあるのだ。戦で犠牲になった人間は、これから生きてゆく民のために死んでいったのだ。それは、ただの道具ではないし儚いものではない」
――そうだろうか。この世に必要な戦なんてあるのだろうか。僕にはよくわからないが、これだけは言える。戦にどれほどの正義を掲げようと、あとに残るのは悲惨だけだ。
「戦って、『正しい戦』ってあるのかしら。わたしたちがこれからしようとしていることも、きっとだれかが犠牲になるわ。その人にも家族や兄弟がいて、愛する人もいるかも知れない。
その人たちのために戦おうとして、わたしたちに剣をむけてくる。その人にとっては愛する人を護るための正しい戦なのでしょうね。戦に善いとか悪いとか、一体だれが決められるの」
「そうだね。戦は、いつになってもなくならないけど、それを止めようとする人たちもたくさんいると思う。そういう人たちが増えてゆけば、いつか戦のない世界がつくれるかもしれない」
「そうね、そんなときが来るのかしら」
あたりが暗闇につつまれると、三人はゆっくりと忍びこんだ。楼観の見張りは気づいていない。サラが馬舎に近づき柵を外した。御真木とミルカが中へはいると、いきなり馬糞の強烈な臭いが鼻をついた。夜目が利くのか、サラとミルカの行動は素早かった。ふたりは馬舎の中をくまなく歩いたあとミルカが小声でつぶやいた。
「いないぞ。どういうことだ」
「おかしいわ。ここに何十頭もの馬がいるはずなのに」
僕らは狗奴国から馬を盗みだすつもりだった。盗んだ馬を野に放ち、馬舎に火をつけ混乱に乗じて逃げだそうと。そして、火の手の上がるのを合図に、途中二手に分かれて待機している邪馬台国軍が一気に攻めこむ手筈だった。なのに、その馬が一頭もいない。
「罠か!」ミルカが言った。
「いや、ちがう。おそらく、すでにヒミココたちは邪馬台国へむかったにちがいない。でも、なぜ途中で出会わなかったのだ。僕らの来た道が一番近いはずなのに」
「きっと、山を行かないで川沿いを行ったのよ。遠まわりだけれど、馬にはそのほうがいいわ」
「おまえたちの言う通りだとしたなら卑弥呼さまがあぶない。いまは居所の門兵とわずかな兵を残しているだけだ」
「戻ろう!」
僕らは急いで馬舎をでた。一刻も早く戻って待機している兵を引きかえさせなければ、大変なことになる。
「イリヒコ、走って戻っても間に合わないわ。わたしの馬が戻っているかもしれない」
サラが居所へむかうと、御真木たちも背を屈めてあとに続いた。居所の裏手に小さな馬舎があり、その奥に二頭の馬が繋がれていた。
「いたわ。やはり父さまはでかけているわ」
二頭の馬を馬舎から連れだし、御真木とサラが一頭に、ミルカがもう一頭に乗ろうとするとサラが御真木に言った。
「わたし、母さまに言ってくる。サヨナラを」
「サラ……。行っておいで。でも、サヨナラを言うのはいまじゃあない」
そうね、と言って居所へ行こうとしたとき、闇のむこうからサラを呼び止める声がした。
「母さま!」
――ユリアさん。
闇の中に佇んだその姿が白くかすんで見える。
「サラ、無事だったのね。父さまは、あなたが卑弥呼に捕えられたものと思って邪馬台国を攻めるつもりなのよ。すでにイシスと紅香があなたを救いにむかっているわ」
「わたしを救いに、あのふたりが……大変だわ。イリヒコ、急がないと卑弥呼も桜子も殺されてしまうわ」
「殺されてしまうって」
「あのふたりは、狗奴国軍に戦い方を教えるために父さまが大陸から招いた人たちよ。
特に、紅香は女だけれど妖術使いなの。変な薬を嗅がせて人を狂わせたりするって」
――麻薬……。
急いで馬に飛び乗ると、こんどは御真木を呼び止めた。
「イリヒコ、これを持っていきなさい。これがあなたを元の時代へ戻してくれるわ。そして、お願い。この戦を止めて。サラを守って!」
――ユリアさん。なぜ、そのことを……。
「三人とも、早く行って! この戦を止められるのはあなたたちだけなのよ!」
「わかったわ、母さま! 必ず戦を止めてみせるわ。そして、ここへ戻ってくるから」
馬を駆ける三人を見つめながら、ユリアがその背中にささやいた。
「サラ、あなたは愛する人を見つけたのね。彼は、あなたを守るためにこの時代へ・・・・・戻ってきたのよ。あなたが連れてきた彼を見たとき、わたしは心臓が止まりそうだった。彼は、邪馬台国にいる壱与の兄なのよ。邪馬台国との何度目かの戦のとき、彼の家族は無残な殺され方をしたわ。首も手足も切り刻まれた両親を目の当たりにして壱与は引きつっていた。
彼女を守ろうと立ちはだかったのがイリヒコだった。その彼を殺そうとした兵を止めたのが大王だったの」
彼女は両手で顔を覆うと、なんどもかぶりを振った。
「大王は彼を狗奴国へ連れてゆき、サラといっしょに育てたの。あなたは拾われてきたばかりで、それまでつらい思いをしてきたのでしょう。そのころの記憶を失っていたわ。
でも、いつのまにかあなたはいなくなってしまった。私はそのとき思ったの。あなたは、いつか戻ってくるかもしれないって。それはね、突然居所の壁にできた穴の中へはいっていくのを見たからなのよ。私に気づくと、そっと手を振ってくれた。きっと戻ってきますと、私にはそう言っているように思えたわ」
暗闇に佇んだユリアの姿が、みるみるかすんでゆく。その姿が、いまにも消えそうになると最後の言葉をつぶやいた。
「サラ、愛は、時を越えても生き続けるわ。だから、ふたりでどこまでも駆け抜けなさい」
闇の中へ、彼女の姿が溶けこむように消えていった。同時に、居所の中で息絶えたひとりの女性の姿があった。
「紅香、あれが卑弥呼のいる居所だ。かなりの数の門兵だが、問題なのはミルカひとり。奴がいる限り卑弥呼に近づくことはできん」
「あなたが認めるほどの男がやまと倭の国にいるなんて。どれほどの男か見てみたいわ」
「油断していると、その自慢の美しい顔が地に転がることになるぞ」
「それは楽しみだわ」
「まずはサラさまが捕えられている場所を探す。無事に救いだすことが俺たちの任務だ。無闇に殺すなよ」
「あなたこそ、すこし気を押さえたほうがいいわよ」
ふたりはフッと笑うと丘を駆け降りていった。幾重にも張り巡らされた城柵のまえで二手に分かれると、周囲を窺いながらサラを探し続けた。
夕闇が迫っていた。
突然、紅香は鋭い殺気を感じた。
「ほぉ、これはまた美しい。その身形、この国の女ではないな。何者だ」
彼女のうしろに、全身から青白い闘気を揺らめかせて男が立っていた。
「愚か者。それを知ったときには、その首が飛んでいるわよ」
紅香が振りむきざま斬りかかった。男が、その一撃を打ち払う。
「その剣、まがね真鉄か。まさか大陸の女とは。ならば、なおさら訊きたいことがある」
言うや否や、剣を突いた瞬間、その剣が上下に突いてきたかと思うと、いきなり左右に斬りつけてきた。
――この男、神仙の使い手!
彼女の額にひとすじの鮮血が流れていた。
「殺してしまっては元も子もないのでな。次もうまく躱せるかな」
男の突いた剣が何本にも見えて襲ってきた。紅香は胸から子瓶を取りだすと男目がけて振りかけた。
「なにっ、香の水だと! 妖術使いか」
男の腕から焼け焦げる臭いと煙が立ちこめた。そこには、すでに紅香の姿はなかった。
――あの女、ただ者ではない。儂の知らぬ大陸の者が、この国で一体なにをしているのだ。こうなったら、無理にでも卑弥呼に魏への要請を承諾させねばならん。そのためには、あの桜子を始末するしかない。
そうつぶやくと、男はそのまま卑弥呼のいる居所へとむかった。
居所の周囲は多くの兵で囲まれ、槍を括りつけた城柵が幾重にも作られていた。直線的に進むことができないように、交互に立てられた柵の内と外に槍が取りつけられている。
居所の中では、卑弥呼と壱与、そして桜子の三人が御真木たちの帰りを待ち続けていた。
「彼らは、大丈夫かしら」と、不安に耐えきれず卑弥呼がつぶやいた。
「卑弥呼さま、信じましょう。わたしたちが彼らのためにしてあげられることは、事の成就と無事に帰ってくることを信じてあげることです」
「そうね。桜子、あなたは変わったわね。不安と悲しみにただ泣いていた娘が、いまではもう、りっぱな巫女。私などより、ずっと強いこころを持っているわ」
「卑弥呼さま……」
突然、天を切り裂くように南の楼観が鐘楼を鳴らしはじめた。
「桜子! 狗奴国軍が来たわ!」
西の鐘楼が鳴れば邪馬台国軍が、南の鐘楼ならば狗奴国軍が来たことを知らせることになっていた。そしていま、激しく鳴ったのは南の鐘楼。
「失敗したのかしら」
卑弥呼の言葉よりも早く桜子が扉を開けていた。城柵をくぐり抜けナシメが駆け上がってきた。
「卑弥呼さま、狗奴国軍が攻めて来ています。と言うことは、ミルカの策は敗れたものと。ここはなんとか食い止め、卑弥呼さまをかならずお守りいたします」
それだけ言い残し居所をあとにすると、各所に配置した兵たちに合図を送った。もしものことを考え、ナシメは随所に罠を仕掛けておいたのだ。
――ミルカが帰らぬなら、私がこの国を守るしかない。
ナシメは、ミルカを信じ切れなかった自分を恥じていた。幼いころから仲がよく、それぞれの道はちがっても友を裏切ることは決してしないと、たがいに誓い合った仲だった。それがいつしか、自らの正義を貫こうとするあまり余計な猜疑心で友を判じてしまったことを、ナシメは後悔していた。友への償いは、この命で……。彼は、こころにそう誓うと南の楼観を見上げた。
南の山が、さらに赤く染まっていた。
「イシス」
その声に、剣を抜き振りかえった。
「おまえか。紅香、どうしたその傷は」
「たいしたことではないわ。それより、この国に大陸の人間が来ているわ。それも、神仙まで使う男よ」
「おまえが引くほどの使い手とは。おそらく魏の人間だろう。そいつはあとにして、早くサラさまを見つけないと。すでに大王さまの軍がそこまで来ている。あまりとき刻がない。こうなれば直接卑弥呼に訊くしかあるまい」
紅香がうなずくとふたりは居所へと走った。
そのころ、御真木たちは途中で待機していた邪馬台国軍と合流していた。狗奴国軍が川沿いを行き邪馬台国にむかっていることを告げると、すぐに軍を引き戻させ彼らはふたたび馬を駆り立てた。
「イリヒコ、馬の扱いが上手になったわね」
背中にしがみつきながらサラが嬉しそうに言った。
「やればできるって、サラが言っただろう! しっかりつかまっていろよ!」
「わかったわ! 絶対離れない。……絶対に」
彼女は、抱きつく腕にさらに力をこめた。
――イリヒコ。あなたの背中、あたたかい……。たとえあなたが『ミマキ』でも、わたしにとっては『イリヒコ』なのよ。
そのとき、どこからかユリアの声が聴こえてきた。
――『サラ。愛は時を越えても生き続けるわ。ふたりで、どこまでも駆け抜けなさい』
――母さま……。
山を駆け上がると、眼前の光景が彼らから言葉を奪った。サラの流す涙が唯一の言葉だった。
「どうして……。なぜ、こんなにまでするの」
そこには夥しい数の死体が地を覆っていた。先の邪馬台国軍と合流するはずだった一隊の、無惨な光景が広がっていた。槍で突かれ矢で射抜かれ、手足を切り落とされ首を刎ねられた死体が、御真木のこころに語りかけてきた。
――『おれたちは犬死ではない。おまえたちさえ生きていれば……』
その声を打ち消そうと反発した。
――ちがう……ちがうだろ! 一体、だれに人の命を奪う権利があるというのだ!
自分の身体を突き上げる激情を抑え、サラに言った。
「サラ、戦の残すものは、やはり悲惨だけだった。大王は、きみを奪われた怒りに支配され、そのことを忘れてしまっている。この愚かな戦を止められるのは、きみしかいない。そのために、僕がかならずきみを守る!」
「イリヒコ……。わかったわ。わたし、かならず止めてみせるわ」
「おい、お、俺を忘れるな。戦を止めたいのは、おまえたちだけではないぞ」
ミルカが顔面蒼白になりながらようやく追いついてきた。
「なら行くわよ! ミルカ、遅れたらだめよ!」
「こ、このアマッ!」
三人は疾風となって山を駆け降りていった。
*
「こんなに早く攻めてくるとは。儂の言うように魏に援軍を要請していれば、こんなことにならなかったものを。みんな、あの小娘のために……。あの娘、殺してくれるわ!」
怒りを露にした張政が居所へはいっていった。
「イシス、あの男よ」
楼観の脇に隠れながら見ていた紅香が言った。
「たしかに。あれほど異様な気を放つ奴は、そうはいないだろう。だが、中で暴れられて卑弥呼を殺されては困るからな。紅香、俺たちも行くぞ」
ふたりは張政のあとをつけ居所の中へはいっていった。
張政が奥の間の扉に近づくと、そのまえを壱与が立ちはだかっていた。射るように壱与を睨みつける。
「これは壱与さま、桜子さまはおられるかな。と言っても言葉もでぬか。邪魔だ、そこを退け!」
――サ、サクラコッ!
壱与を跳ね飛ばし、力任せに扉をこじ開けると剣を抜いた。
「張政殿、なんの真似です」
「なんの真似と申されるか。滑稽な。この張政、狗奴国を抑えるには魏の援軍がなければと、あれほど申し上げたにも拘らず、桜子とか申す小娘の言を受け入れ、この儂を蔑ろにするとは以ての外。儂を蔑ろにするは、即ち魏の帝を蔑むもおなじ。卑弥呼さまを誑かした桜子に、帝に変わって天誅を下してやるわっ!」
一気に剣を振り上げ桜子目がけて振り下ろした。
「いやぁっ!」
桜子の悲鳴をかき消すように閃光が走る。刎ねられた首が、コロコロと床を転がり壱与のまえで顔をあげた。恐怖にひきつった顔が壱与を見据えた。
「いや、もういやっ。もういやっ!」
壱与が叫んでいた。
「しまった! 卑弥呼を」
卑弥呼は、剣が振り下ろされる直前桜子を突き飛ばしていた。
「卑弥呼さま! 壱与さん!」
駆け寄る桜子の背に張政の一太刀が襲いかかる。
その瞬間、別の剣が受け止めた。
「張政とやら、この額の傷、その命で償ってもらうわ」
紅香が払いのけると、張政の剣が脇腹を突いてきた。それを流すように斬りかえした。
すんでのところで躱した張政の片耳から血が流れだす。
「この儂に傷を負わせるとは。さっきは逃したが、今度は手加減せぬ」
剣を持ち変え手を水平に広げると、そのまま上段に構えた。阿修羅の如く仁王立ちしたその身体から、まわりの空気が震動するほど熱く烈しい闘気が放たれた。
「なるほど。かなりの使い手だな。紅香ではすこし荷が重いか。俺にやらせろ」
「イシス、あたしひとりで」
紅香が言ったときには、すでにイシスが張政に斬りかかっていた。ふたりの剣が弾けあう音が空気を切り裂いていく。おたがいに一瞬も留まることなく剣を突き合い斬り合っていた。かれらの残像だけが形を成し、まわりを幾条もの閃光が飛び交っていた。
「この男、すごい。イシスと渡り合えるなんて」
固唾を呑んで見ていると、外から悲鳴と慄きの声が聞こえてきた。
「卑弥呼さま! 外に」
叫びながらナシメが部屋の中へ駆けこんできた。それを逃さず、張政がナシメに斬りかかるとそのまま居所の外へと逃げ去っていった。
「ナシメ殿!」
駆け寄る桜子に紅香が剣を突きつけた。
「動くな! おまえに訊きたいことがある。ここにサラという……えっ、もしかして……あなた、桜子?」
「……」
「あたしよ。楓」
「……? か、楓さん!」
あまりの驚きにしばらく言葉がでなかった。
――あなた、そんなに美人になって……。
「驚いたわね。なんで桜子がここにいるのよ。それと、彼、わかる?」
振りむくと、イシスが、「やぁ、桜子さん」と言いながら微笑んでいた。
「あの、もしかして……河東さん? ふたりとも生きていたのね」
紅香が、自分たちが狗奴国にいてサラを救いだしに来たことを話すと、わたしは、御真木とサラが狗奴国へむかっていることを話した。
「本当なの? じゃあ、サラさまは……。大変だわ。ヒミココはサラさまが囚われていると思って軍を進めているのよ。このままサラさまが見つからないと、彼はこの国の人を皆殺しにするわ。それほど娘への愛情は異常なほどなの」
――御真木、お願い。サラを守って……。
「さ、桜子さま。すぐ、すぐそこまで、く、狗奴国軍が……。我ら残りの軍では、彼らを食い止めることはこれ以上出来、出来ませ……ん。なんとか、なんとかこの戦を。さ、桜子さ……」
「ナシメ、ナシメッ!」
彼を抱き起こそうと駆け寄った。
「桜子さん。この薬を傷口に塗ってあげてください。血止めと化膿止めの薬草をすり潰したものです。いまはそれしかできない」
「河東さん……」
わたしが薬を塗っていると、背中と足に矢を受け血まみれになった門兵が飛びこんできた。扉のまえに立っていた壱与が振りむいて叫んだ。
「桜子、狗奴国軍が目のまえまで来ている!」
――壱与さん。あなた言葉が……。
扉に駆け寄り外を見ると、門兵たちのほとんどが矢で射抜かれ、残りの兵たちが居所を守っていた。
「桜子さま、桜子さま! でてはなりません。ここは、なんとしても防いでお守りします!」
門兵たちが、居所からでてきたわたしを制して言った。彼らの必死の形相に、こころが締めつけられる思いだった。全身から湧き上がる怒りのあとから、身を刻まれるような悲しみが襲ってきた。
――なぜ、こんなに悲しいの……
その光景に、悲しみに震えた魂が揺さぶられ、一瞬の幻を見させた。そこには、天空から自分を見つめるもうひとりの自分の姿があった。そのとき、天空に輝く星たちが流星となってわたしの中へと流れこんできた。
――そうだったんだ。わたしがこの時代へ来たのは、この人たちを守るためだったなんて。
わたしは、自分の中で急速に目覚める衝動を感じていた。
目のまえに、赤い軍団が迫っていた。
§
「あれが卑弥呼の居所か。イシスと紅香は、まだサラを救いだしてはおらんのか」
苛立ちを押さえ李紅に言った。
「大王さま、よもやあのふたりが捕えられることはあり得ません。あと一時、軍をとどめ彼らを待っても遅くはないものと」
「しかし、すでにサラの命を奪っているとも考えられる。それ故、救いだせぬということも。もしそうであれば、卑弥呼の首一つでは絶対許さん!」
ヒミココは、邪馬台国を目のまえにしてますます怒りに震えていた。
「李紅。これ以上は待てん! 軍を進めるぞ」
「ヒミココさま、いますこしお待ちを!」
「すでに手遅れであったならば何とする。李紅、軍を進ませろ!」
――この男、大事を成すには器が小さ過ぎるか。民のための政を成す大王なれば、私事にとらわれ安易に軍を動かすものではないものを。いくら箴言しても、怒りでその本質を見失うほど娘を溺愛している。わたしが仕える男ではないかもしれん。
仕方なく李紅が城柵の手前まで軍を進ませると、居所のまえに立つ者があった。
「ヒミココさま、あれを」
見ると、門兵に守られじっとこちらを見つめる少女がひとり。
白い布を身にまとい赤い腰紐を巻き、頭にはたまかずら玉葛をつけ耳には翡翠の勾玉をさげている。
「李紅、何者だ。卑弥呼ではあるまい」
「おそらく桜子と申す巫女ではないかと」
「ほぉ、あれが桜子か。だれか、弓と矢を持て」
側にいた兵から弓矢を受けとると、少女目がけて矢を放った。
風を切る音が少女の耳もとを掠めた。
「瞬き一つせぬとは大した娘だ。李紅、ふたりで行くぞ」
ふたりは城柵を越え少女にむかって馬を進ませた。周辺には邪馬台国の兵たちが息絶えている。最後の城柵を越えると少女が言い放った。
「ふたりとも、そこで止まりなさい」
静かな声だが、大脳に突き刺さる響きがあった。
「わたしは桜子と申します。そちらは狗奴国の王ヒミココさまとお見受けいたします。この邪馬台国へは何をしに来られましたか」
「いかにも儂がヒミココだが、何をしに来たのかとは片腹痛いわ! 卑弥呼が、我が娘を捕え亡き者にしようとしているのはわかっているのだ。素直に娘をかえしてもらおう。さもなくは、我が軍が一気に攻めよせ卑弥呼の首を貰い受ける」
門兵たちが、ヒミココの気に怯んだ。桜子がその気を押しかえすように、
「卑弥呼さまが、その姫を捕えているという証があるのですか。この国に、そのような姫はおりません。なんの証もなく私情で軍を動かし国を攻めるは、我欲に囚われたただの殺戮でしかありません。わたしには、ヒミココさまがそのようなお方には見えませんが」
――この巫女、ただの巫女ではない。何気なくヒミココに民の王としての姿を諭している。
李紅は思った。
『もし、この巫女のこころがヒミココの正気を取り戻せれば、この愚かな戦を止めることができるかもしれない』と。
「戯けたことを。証となるかどうかを決めるのはこの儂だ。この国で、娘が捕えられるのを見た者がおる。それが何よりの証。早く娘をだせ」
「姫は、おりません。姫を捕えた者もいなければ、狗奴国より連れ去った者もいないのです。ヒミココさま、あなたは『政は民のために行なうもの』と言われていると聞き及んでおります。その政を行なう者にとって最も大切なものは、民の苦を我が苦とできる度量にございます。王となる者は、その度量が特に勝っていなければなりません。卑弥呼さまも、民を思う気持、戦の悲惨さをだれよりも強く感じてこの国を造り上げようとなされているのです。そのような方が、一国の姫を連れ去り他国の王を苦しめることなど決してありません」
「その証は」
「このわたしの、命にかけて」
――この娘。たしかに卑弥呼が側に置いて離さぬだけのことはある。この儂を諭すとは。
「よくぞ申した。ならば、この矢で証を立てぃ!」
ヒミココがふたたび矢を放とうとすると、李紅が彼を制した。
「なりません! あの巫女に矢をむけてはなりません」
李紅の言葉を打ち消すように、桜子目がけて空気が切り裂かれていった。
風を切る音とともに玉葛が砕け散り、桜子の額を赤く染めていた。門兵たちが身を躱し小さな悲鳴をあげると、居所の裏からイシスと紅香が走りこんできた。
「桜子! 大丈夫なの?」
「わたしは大丈夫です。あの方は、わたしを殺す気はありませんでした」
ふたりを見たヒミココが、
「イシス、なぜそこにいる。サラは、サラは見つかったのか」
ふたりは桜子を守るようにまえへでた。
「大王さま、サラさまがこの国に囚われていないというのは真にございます。サラさまは、すでに狗奴国へ」と、イシスが言いかけるや、どこからか飛んできた赤い矢がヒミココの左肩を突き刺した。
「ヒミココさま!」
李紅の声に狗奴国軍がどよめいた。ヒミココが倒れ落ちると、うしろの兵たちから怒りの声があがった。
「罠だ! 大王がやられた。奴らを殺せ!」
それを合図にしたように、狗奴国軍が一気に居所目がけて雪崩れこんだ。騎馬兵たちが城柵を薙ぎ倒し先陣を切った。
「桜子、逃げなさい! ここは、あたしたちが何とかするから、あなたは居所に戻って!」
「嫌よ! わたしは、この人たちを守るって決めたの! 逃げるわけにはいかないわ」
「馬鹿げたこと言わないで! あなたが死んでしまったなら、卑弥呼の思いはどうなるの。彼女の死を、そのときの思いを無駄にしては駄目! あなたは生きなければいけないのよ。わかるでしょ、桜子」
「楓さん……」
「そういうことだ、桜子さん。ならば、俺たちは斬りこむぞ、紅香!」
怒涛の如く押し寄せる騎馬兵たちの中へ斬りこもうとしたとき、ふたりの行く手を疾風がさえぎった。
「やめろ、やめるんだ!」
「やめて! 父さま、やめてっ!」
御真木とサラ、そしてミルカが馬上から叫んでいた。
「止まれっ、全軍止まれ! 止まれっ!」
咄嗟に李紅が軍を止めた。馬のいななきと兵士たちの怒声が渦巻く。
砂煙の中からヒミココが起き上がると、右手を上げ兵士たちを制した。
馬を降りると、サラがヒミココのもとへ走りよった。
「サラッ、無事だったのか!」
「父さま、ごめんなさい。わたし、邪馬台国の人に捕えられたりしてなどいないわ。卑弥呼さまも桜子も、みんなやさしい人たちだった。だから、お願い! 戦はやめて。悲惨を繰りかえさないで」
「サラ……おまえ」
「父さま、わたしわかったの。人が、人を殺める権利なんかないって。人を殺めて民のための国造りなんてできないわ。人を犠牲にして正義なんてないんだって。それをイリヒコが教えてくれた。どんなに正義だと言っても、憎しみや不信から起きた戦のあとに残るものは悲惨しかないんだって。だから、これ以上の悲しみを増やさないで。お願いだから」
「サラ……そうか」
ヒミココの目から怒りの炎が消えだした。傷を負った背中を庇いながら御真木のもとへゆっくりと歩きだすと、彼のまえで立ち止まり、
「サラを守ってくれたのか、礼を言う」と言うなり、いきなり太い腕で殴りつけた。
二メートルは吹っ飛んだろうか、ヒミココに殴られて空を飛ぶのはこれが二度目だ。
「イリヒコッ! 父さま、なんで。父さまのバカッ!」
気を失い白目をむいている男のもとへ、泣きながら駆け寄るうしろ姿にやさしく言った。
「しっかり介抱してやれ」
「父さま……」
兵士たちの間からは、すでに殺気は消えていた。あとは、ヒミココが帰軍の令をだすのを待つだけだ。そうすれば、みんな国へ帰れるのだ。妻や子の待つあたたかい場所へ帰れるものと、だれもがそう思っていた。李紅と桜子以外は――。
わたしは忘れもしない。あのときの苦痛に歪んだ御真木の顔を。そして、彼の背中に突き刺さった赤い矢を。その赤い矢が、こんどはヒミココを襲った。一体、だれが……。
サラが御真木を抱き起こしていた。わたしはふたりのもとへ歩きだし、サラのまえで膝を落とすとそっとささやいた。
「サラ、この人はイリヒコ。あなただけのイリヒコよ」
――桜子……。
穏やかな風の中に空気を引き裂く音が迫ってきた。
「桜子、あぶないっ!」壱与が桜子の背に覆いかぶさった。
「あそこだ!」楼観の上を指差し李紅が叫ぶと、イシスがすかさず槍を投げつけた。
「壱与さん、どうして……。なぜ、あなたまでが……。わたしのまわりで、なぜたいせつな人たちが死んでいくの。どうしてかけがえのない命を奪っていくのよ!」
桜子の泣き叫ぶ声に呼応するかのように大地が激しく揺れはじめた。兵たちは騒ぎだし、馬は慄き暴れだした。城柵は壊れ住居が崩壊してゆくと、倒れた楼観の中からひとりの男が飛びだした。男は、桜子を睨みつけ剣を振りかざした。
「張政!」
ミルカが剣を抜いた。男が彼の喉もとを目がけて剣を突くと、それを紙一重に躱し、振りむきざまに男の首を刎ねた。
「いままで俺を騙し続けてきた報いだ」
ようやく地震が収まるとヒミココが帰還の令を発した。その一言に、兵士の間から安堵の微笑が浮かびはじめた。そのとき、ふたたび大地が揺れだした。今度はさらに激しく、地鳴りが起きると居所がぐらついた。
「居所が……。中にはナシメさんが、彼はまだ生きているのよ」
わたしが居所へむかって走りだすと、そのあとをイシスと紅香が追いかけた。地揺れが激しさを増してゆく。サラが気を失ったイリヒコを必死に抱きとめた。
「サラッ! 逃げるんだ!」
ヒミココが叫んだ。居所の脇から獰猛な獣が襲いかかるように地が裂けはじめた。居所がぐらつき、いまにも倒れ落ちそうだ。大地が、ぱっくりと口を開けながらふたりを呑みこもうとしていた。咄嗟に、ヒミココがサラの身体をしっかと抱きかかえ裂け目を飛びこえた。
「いやっ、イリヒコが」
「サラッ、止めなさい! 手遅れだ!」
イリヒコの身体を暗黒の魔の手が引きずりこもうとしていた。
サラが泣きながらヒミココに訴えた。
「お願い、行かせて! イリヒコの傍にいさせて。もしもいま、死ぬというのなら彼のもとで死んでいきたいの。だから、行かせて。お願いよ、あの人のところへ!」
サラの涙にヒミココは思った。
――もし月が涙を流すとしたなら、それはきっと蒼く輝くしずく渧となって零れ落ちるのだろうか。
サラの腕をつかんだその手から、そっと力が抜けていった。
「ありがとう。父さま」
それだけ言い残すと踵をかえし走りだした。裂け目がさらに広がってゆく。サラはためらわずに一気に飛び越えると、イリヒコをぐいと引き上げた。裂け目は広がり続け、すでに飛び越えられる距離ではなかった。
「サラ……」
意識を取り戻した彼にいままでの出来事を話すと、
「居所に? なら、僕らもすぐに行こう。ナシメさんが生きていれば、この国はかならず再建できる」
地が揺れた瞬間、サラが亀裂の中へ足を踏み外した。
「イリヒコ、これを使え!」
ヒミココが渾身の力で槍を投げつけた。地に刺さった槍をつかむと、サラを抱きよせ亀裂を飛び越えた。
――ありがとうございます。サラは、かならず守ります。
――頼んだぞ、小僧。
急いで居所へむかうと、サラはこころの中でつぶやいた。
――さよなら……父さま、母さま。
*
居所の中でミルカが呆然として立ちすくんでいた。自分の足もとに、卑弥呼の首が転がっていたのだ。
「張政に殺されたの。わたしを庇って……」
その言葉を受けてイシスと紅香が言った。
「御真木さん! 気がついたのですね。僕ですよ、河東」
「あたしよ、楓。あら、もしかして、サラさま」
御真木がふたりを交互に見ていると、サラが彼の腕にすっと寄り添った。
「そういうことだったのね」楓の左の口もとがヒクヒクしていた。
とりあえずミルカがナシメを抱きかかえ、御真木と河東が卑弥呼を抱えて外へでようとしたそのとき、突然壁が唸り声をあげて揺れ動いた。また地震かと思ったが、揺れているのは壁の一部分だけで床は揺れていない。
「御真木さん、あの壁。まわりが……」
楓が口を開けたまま見つめていた。壁が、揺れているのではなく歪みだしているのだ。
それと同時に部屋の中の温度が上がりはじめた。歪んだ壁が細長い形を作りだすと、そのまわりが青白くひかりだした。いきなり、御真木の胸に架けていた丸い石がオレンジ色に点滅した。
「イリヒコ、それは」
「これは、ユリアさんが僕に持っていけって。これがあれば、もとの時代へ帰れるって」
御真木が胸の石に触れようとすると、指先に高圧の電流が流れたように弾きかえされた。
壁にできた四角い枠が、今度は赤く輝きだすと胸の石が高速に点滅をはじめた。
「わたしがやるわ」
点滅している石にサラがそっと指を近づけた。石は、指が触れた瞬間点滅を止め、サラの手に吸いこまれるように御真木の胸を離れていった。上から四角い枠が大きな口を開けて降りてきた。トンネルのようになった中をのぞいた河東が叫んだ。
「浴室だ。僕らのいたホテルの浴室が見えるぞ!」
一斉に駆け寄り中をのぞきこんだ。
まわりは真っ暗だが、奥には見覚えのある浴室が見える。
よく見ると、入り口の右上がオレンジ色に点滅していた。
「鍵だ。中へはいるには、鍵で開けるようになっているのかもしれない。鍵……。丸い形をした鍵って……」
「これ?」
サラが右手に丸い石をぶら下げていた。御真木が胸にかけていたものだ。
それを受けとると、丸く点滅している部分にそっとはめこんだ。すると、急激に中が明るくなっていった。部屋の温度がさらに上がりだすと、入り口の枠がふたたびオレンジ色に輝きはじめた。
「急ごう!」
次々と中へはいりこむ。それを待ってからミルカが言った。
「行くのは、この時代に迷いこんだおまえたちだけにしろ。俺は、ナシメと一緒にこの国を造りなおす」
サラがためらっていると、ミルカが抱き上げ中へ放りこんだ。
「サラ、おまえも行け。イリヒコと一緒にどこまでも行ってこい」
「ミルカ……」
「桜子、さあ早く!」
サラがはいりこむのを見届けると、
「わたしは……行かない」
「桜子、なにを言っているの。早くしないと壁が!」
楓が身を乗りだしながら言った。
「早く行って! サラを連れて……。お願い」
「だめだ! 桜子、きみも連れて帰る。さあ、この手につかまって!」
まわりの壁がさらに歪みはじめた。部屋の温度がどんどん上がっていく。屋根が軋みはじめ、高温の蒸気が壁の隙間から噴きだしてきた。
「桜子!」
「桜子さん!」
御真木が必死に手を伸ばした。彼女の指が触れそうになる。腕の神経が切れそうになるまで手を伸ばし、その手に彼女の指をからませた。突然、どこからか彼の腕をぎゅっとつかみ、彼女の指から強引に引き離そうとする力が襲いかかってきた。その力に指は解かれ彼女は手を戻した。
「桜子! なぜ、なぜなんだ!」
彼女は悲しく微笑んだ。その笑顔は、あたかも幼き神の子を抱きかかえた聖母のように、頬を伝わる涙さえ聖なるひかりを宿していた。
――これで、これでいいの。ねえ御真木、覚えている? この時代へ来てしまうとき、ホテルの浴槽の中で見た胎児。あれは、・・・あなただったのよ。それが、わたしにはわかったの。
浴室の扉が開くときに、なぜかあなたは微笑んでいたでしょう。きっと、自分の本当の居場所へ行けるって、無意識にそう思ったのでしょうね。だから、あなたがほんとうに守るべき人は、わたしではないの。
轟音とともに壁がねじれはじめる。
「御真木。わたしは、死んでいった卑弥呼さまと壱与さんのために、ふたりの意志を継いでいくわ。だから、あなたはサラさんを守って! いつまでもナイトでいてあげて……。みんな、ごめんなさい。……さよなら」
「桜子、桜子!」
必死に叫ぶ御真木の脇をかわし、壁の中からサラが飛び降り桜子の手をつかんだ。
「ミルカ、桜子を中へ! 早く!」
「サラッ、あぶない!」
高温の蒸気が部屋中に充満すると、すさまじい轟音とともに一気に壁が閉じられた。
§
気がつくと、ホテルの地下浴場の中で倒れていた。起き上がろうとすると身体中に痛みが走った。頭をかかえながらあたりを見わたした。
河東さんと楓さんが重なり合うようにして気を失っていた。つめたいコンクリートの壁と薄闇の中で、徐々に記憶がよみがえってくる。
「剛毛……」
呼びかけても応えはない。足もとに転がっていた懐中電灯を点けてみた。まわりを見ても倒れているふたり以外だれもいない。わたしはふたりに声をかけた。河東さんが圧し被さっていた楓さんをゴロゴロと転がし起き上がってきた。
「桜子さん、あれ? こんなところで一体……変だなあ。なぜ、こんなところにいるんだろう」
わたしが楓さんを抱き起こしながらなにも覚えてないのかと訊くと、不思議そうな顔で訊いてきた。
「なにもって、なにがあったのですか」
「卑弥呼さまや張政たちと……」
「卑弥呼って。なんですか、それ」
――覚えていないの?
消化不良な気持ちのまま、とりあえず外へでることにした。外は、穏やかな春の陽光に満ちあふれていた。ついさっきまで、あれほどの戦闘や地割れの中にいたなんてとても信じられない。
ほんとうは、ただ浴室の中で気を失っていただけで、そのときわたしだけが夢を見ていたのかもしれない。
夢を見ていたのか幻を見ていたのか、ここにいること自体疑ってしまいそうだ。
いきなり外へ飛びだしてきた楓さんが、髪を振り乱したまま地面にへばりついた。
彼女にもおなじことを訊いてみたが、やはりなにも覚えていないようだ。
――なぜふたりともなにも覚えていないのだろう。それに、剛毛はどこへ行ったのかしら。
言い知れない不安がわたしを襲っていた。このまま帰宅する気にもなれず、海岸へ行っていままでの出来事を思いかえしてみることにした。
子どものころから海を見ていると自然とこころが落ち着いてくる。この海の彼方に自分の知らない世界があって、わたしの行くのを待ってくれているにちがいないと、ずっと思い続けてきた。でも、あんなことがあったせいか、めずらしく気持ちが苛立っていた。
しばらく歩いていると、いきなり胸の鼓動が激しくなった。
――えっ、うそでしょう。この歳で。
国道を渡る横断歩道のまえで立ち止まった。胸の鼓動はいっこうに収まらない。目のまえを、風を切るように走り抜けてゆく真っ赤な車。
通り過ぎた車のむこうに、ワンピース姿の少女が立っていた。風が、彼女の長い髪をそよがせた。
信号が青に変わる。
――なに?
わたしが歩きだすと、少女もこちらにむかって歩きはじめた。鼓動の波長が徐々に短くなり、心臓の音さえ聴こえてきそうだ。おたがいの距離が縮まっていく。
鼓動の高鳴りが頂点に達しようとしたとき、目のまえに少女の姿があった。長い黒髪に深く沈んだ碧い瞳が、一瞬わたしを見つめ通り過ぎていった。
――サ、サラさん!
その瞬間に、剛毛とはじめて出会ったときからいままでのことが、走馬灯のように、ときにはコマ送りされた映画のフィルムを観ているように、わたしの脳裏を駆け抜けていった。
脳裏の片隅から、あの仙人のような精霊の声が湧きあがってきた。
「人は、生きる意味を悟ったときに、ほんとうの自分を知ることができるものだ。そなたの観てきたものは、決して夢や幻などではない。信じるがよい」
――夢でも幻でもない、生きる意味……。
それは、わたしが邪馬台国にいたときにずっと考え続けていたこと。
わけもわからず時の穴から落とされて、ずっと寂しさに耐え続けていた。剛毛が死んでしまったと思って生きてゆく自信を失ってしまったし、二度とこの世界に戻れないと思うと、生きる意味さえわからなくなっていた。そんなことを考えること自体がむなしかった。
でも、もしかしたら邪馬台国で起きたことは、生きる意味を教えてくれるためだったのじゃないかしら。もしそうならば、夢の中の自分も、いまの自分も変わらない自分なら、あのとき胸の奥からつきあげてきた思いこそがわたしが求めていたものなんだわ。
そのまま踵を返すと急いでホテルへもどった。途中、エントランスで支配人に声をかけられたが、軽く会釈をしてそのまま地下の浴場跡の階段を下りていった。
――この中に、わたしの居場所があるんだわ。行かなくちゃ。
必死になって階段を下りると、浴場の扉のまえで立ちつくした。
「鍵……。あの、蛇の模様の鍵がないと中にはいれない。だめだわ……もう、もどれないのかしら」
その場に崩れ落ちると、急に悲しみがこみあげてきた。
それから数日が過ぎていった。
どうすればいいのかわからぬまま、わたしは半ば諦めかけていた。もうすぐ地下の浴場を解体してしまうと支配人は言っていた。そうすれば、二度とふたたび邪馬台国へ戻ることはできなくなってしまう。そんな気がしていた。
気を落としてフロントへもどると、奥から聞き覚えのある声がわたしを呼んだ。
「桜子ちゃん。これ、お客さんの忘れ物。変わったお皿よね」
いつもくる清掃業者のおばちゃんが、宿泊客の忘れ物を届けにフロントへやってきた。
――このお皿、あのときの鏡!
それを受けとろうと手を伸ばすと、
「へえぇ。これってお皿じゃあないかも。こんなものを持っている人がいるのですね。
あとで問い合わせがあるかもしれないですから預かっておきましょう」
横から毛深い手が伸びてきて受けとった。
「ああ、僕はナイトの」
「あなた……」
わたしは、ふたたび時が歪みはじめるのを感じながら、胸が高鳴りだすのを抑えることができなかった。
完