ホットミルク
夜
郊外
ログハウス調の小ぢんまりとした喫茶店
ドアには『本日閉店』の掛け札
店内の白熱灯がカウンターを照らしている
そこには三十代と覚しき男性客一人
カウンターの奥で同年代の女性が男に向き合って話をしている
「こんな話、知ってます?」
「ん、何」
「事故で夫と子供を失った女性の話」
「いや、聞いた事ないよ」
「事故で夫と子供を失った女性が自分を責め続け、それ以上生きていることが出来なくなって死のうと思った。
季節はちょうど今、秋から冬。
誰にも見つかりたくなくて車を走らせ、夕暮れ時に見知らぬ山の中に一人入っていった。
山々の紅葉はすでに散っていて、風が彼女に吹きつけた。
でも体温を奪っていく冷たさも、彼女には心地よかった。
彼女は山道を離れ、道なき道を深く、深く入っていった。
山の夜は早く、すぐに闇夜が訪れた。
彼女にとっては、それこそが慰めだった。
木につまづき、落ち葉に足を取られているうちに体力はなくなり、いつしか幸せな孤独の中、倒れ込み目を閉じてた」
「幸せな孤独か。口に出来ないくらい辛かったんだな」
「でもほのかな甘い匂いに目を覚ますと、彼女は知らない粗末な部屋の簡易ベッドに寝かされていた。
吊りランプの明かりが、そこを山小屋だと分からせた。
見ると近くに年を取った男が鍋を温めている。
その男は彼女が目を覚ましたことに気がつくと、それをコップに注いだ。
無言で、でもとっても優しい目で語りかけながらそれを差し出してくれた。
死ぬことばかり考えてたのにそれを渡された時、彼女の一人だった心の中にその年を取った男の人が入ってきてくれた気持ちになった。
そしてコップを受け取り、温かいそれを口にした。
ホットミルクだった。
ホットミルクは喉を通り体の中、そして心の奥までも温めてくれた。
彼女は訳もなく涙をこぼした。
嬉しかった。悲しかった。苦しかった。悔しかった。ありがたかった。もうだめだと思っていた。まだ生きていけると思った。
彼女の中ですべてが崩れ、新しく命が生まれた。
ホットミルク一杯で、人が生まれ変われることがあるって不思議な話。
私、そんなこと出来ないかも知れないけど、そんなホットミルクを出したいって思って、この店を始めたの」
「そうなんだ」
「あなたもいつもコーヒーばかり飲んでないで、たまには私のホットミルク飲んでよ」
「ふふ。そうだな。君にならそんなミルクがいつか出せるかもしれないな」
「いつかなんて、冷たいのね」
「嘘はつきたくないからね。それにさっきの話、好きじゃないな」
「何よ」
「俺、ミルクアレルギーなんだよ」
「えっ!? ふふふ。バカ」