七十三話 乙女と真の力
≪ヴァーミリオン・リブラ≫に取り込まれて一体どれほどの時間が経ったのだろう。
美李奈の意識はまだ完全には覚醒していなかった。微睡の海の中、自分が死んでいるのか、生きているのか、それすらわからない。
『可愛い美李奈……とても辛い目に合ってきたのね……けどもういいのよ。美李奈はもう何も心配しなくても……』
優しい声は今も続いている。その暖かな響きは美李奈の心を包み込み、そして癒していく。
『何もしなくてもいいのよ。これからはもう……何も』
囁く声のなんと甘美な響きか……
「……」
美李奈はその声を黙って聞いていた。
『だからゆっくりと、お休み……美李奈』
「……で、話しはそれだけかしら?」
深い微睡の中にいた美李奈は、しかし、はっきりと目を覚ました。
すると今まで聞こえていた心地よい声は耳障りな金切り声へと変化していく。不愉快であった。
「こちらが気を失っている間に、よくも好き勝手してくれたものですこと。乙女の心の中を無断で踏みにじるとは、やはりヴァーミリオンは不敬な存在だという証拠ね」
きっぱりと言い張る美李奈へと何かが膨大に流れ込んでくる。それは怒りや憎しみの感情に近いものだ。
いや、もっと幼稚なものかもしれない。
「フン、アストレアの操縦に制限がかかっている。どのような手段を講じたのかわかりませんが、それはつまりあなたたちが私を恐れているということですわね。だからこうして私を取り込んで、懐柔しようとした……あえて言いましょう。私をあまり舐めないでちょうだい」
憎悪の何かがこちらに訴えかけてくるが何を言っているのかはさっぱりわからない。美李奈としても理解してやるつもりは一切なかった。
人であれ、異生物であれ、無機物であれ、人のプライバシーを踏みにじる輩は下劣だと思うからだ。そんな相手には平手の一つでもお見舞いしてやる権利が乙女にはある。
「それにしても、この状況は流石になんともしがたい状況ですこと……フム、啖呵を切った手前、大人しくしているのもしゃくですわね」
ガチガチとアームレバーやパネルを操作するが、全て弾かれてしまう。通信も死んでいるし、そう思うとかなりの徹底ぶりだ。完全に外界とシャットアウトするのだから。
しかし美李奈に恐れはない。≪ヴァーミリオン≫は姑息にも知恵を働かせてこちらに揺さぶりをかけようとしていたようだが、そのような幼稚な手がわかった瞬間に美李奈の中から≪ヴァーミリオン≫に対する恐れは消え、むしろ、哀れな存在であると認識した。
「アストレア、お前はヴァーミリオンに対抗する為に作られた存在。そんなお前がこのまま言い様にされるのを許すのですか? あなたも真道の名の下に生まれたのであれば、意地を見せなさい」
そんな美李奈の言葉に呼応するように、≪アストレア≫のメインモニターにノイズ交じりの映像が映し出された。
「また勝手に動く」
こんな時でも≪アストレア≫は相変わらずだ。マシーンゆえに何も言葉を話さないが、なんらかの手段で一応こちらに何かを伝えようとしてくる。大抵、それが自立稼働による戦闘行動なのが厄介な所ではあるのだが。
とにかく、流れる映像はシステムとしては独立しているのか、はたまたアナログな記録媒体でも再生しているのかは定かではないが、稼働していた。
『戻れ!』
老人の叫び声が聞こえた。泣き叫ぶような、怒り狂うような声。美李奈はその声が祖父である一矢のものだとすぐに分かった。
けれども、祖父は声を荒げることのない穏やかな人だった。美李奈自身も怒られたことはあっても、怒鳴られることはなかった。祖父はいつも諭すように話してくれたから。
そんな祖父が怒声を上げている。
『戻れませんよ、お父さん。こいつをこのまま放っておいたら地球はめちゃくちゃにされてしまう』
祖父に応じるように聞こえてきたのは知らない声だった。
『お父さん、親不孝だと叱ってください。ですが、僕は、こんな化け物を地球に降ろすことなんてできない。生まれたばかりの美李奈を危険にさらすことになる』
男が自分の名前を呼んだ。記憶を探っても美李奈にはとんと聞き覚えのない声だった。
『美李奈だけじゃない。地球に住む人々全てが傷つく。それを見過ごすなんて、真道の男としては許せないことなんです!』
男は力強く訴えた。すると別の声も聞こえてくる。
『私も飛鳥さんと同じ考えです。我が子を捨てるような真似は許されないことだと思います。ですが、もう私たちは戻れません。推進剤の残り少ないですし、むこうも私たちを逃がすつもりはないようですから』
女性の声だった。優しく、透き通るような声。その声は先ほどの幻聴に似ていたが、それとはまるっきり別、本当の温かみがあった。
「これは……」
美李奈は理解していた。
あぁ、この声が……この二人が私の両親なのだ。
顔が見たい。もし、この声が両親のものだとすれば、もう朧げにしか覚えていない二人の顔をもう一度みたい。
だがそれはもう敵わないことを美李奈は理解していた。
『こいつは必ずここで食い止めます。ですから、お父さん。お願いします。この脅威を打ち払う術を、美李奈の未来を守る為の力を!』
『今はたとえ力が及ばなくても、必ず……!』
直後に聞こえたのは耳をつんざくような轟音と、祖父の叫び声だった。
一体両親はどうなったのか? いや、そもそも両親は何をしていたのだろうか?
幼い頃、祖父に聞いた話では両親は事故で死んだと聞かされた。当時の美李奈はそういうものなのだと理解した。
だが、それは違うと思った。事故ではない。両親の死は事故なんかじゃない!
『愛している。美李奈』
『頼りない母さんたちを許してね……強く、美しく生きて頂戴……あなたの未来を私たちは……』
その声を最後に二人の声は聞こえなくなった。
『やらねば……やらねばならない……』
再び祖父の声が聞こえる。嗚咽交じりで、震えた声だ。
『奴らを倒す力を……ヴァーミリオンどもを倒す力を! 私は作り上げなければならない!』
ヴァーミリオン。赤い悪魔。暴力と理不尽を形にした醜悪な化け物。
それに対抗するべく作りだされた鋼鉄の巨人、アストレア。
『アストレアだけではダメだ! もっと、もっと力を! 悪魔を打ち倒す神の如き力を!』
祖父の鬼気迫る声はどこか恐ろしく聞こえる。あれほど優しかった祖父が、怒り狂う声……
『私は作り出して見せる! 奴らを滅ぼす力を!』
フラッシュバック。
見たことなどない光景なのに、美李奈の視界には祖父の影、そしてその背後に映り込む巨人の影が見えた。
それは、まるで……
『いい加減目を覚ましなさぁぁぁぁい!』
それら重要な何かを全てぶち壊すような甲高い声が聞こえてきた。
あぁ、こんな無粋なことをするのは一人しかいない。
閉ざされた暗闇の中で、美李奈は目に痛い真紅と金色の光を見た。その光は真っすぐに自分に突き刺さってくる。痛いぐらいの鋭さをもったそれに、美李奈は手を伸ばした。
『お待たせしました。エラーコードの排出、コントロールの奪還、これで終了でございます』
右モニターに汗まみれの執事の顔が映った。
左モニターには麗美の顔がアップで映っていた。そして今も何事かを叫んでいる。
「あらごきげんよう麗美さん」
『マッ! 起きてたのならさっさと出てきてくださいまし! こっちは死にかけたのですからね!』
「フフフ、ごめんなさい。でも、こっちからじゃどうすることもできなかったの。だけど、麗美さんを信用していたから」
『ふ、フン! 私は常に完璧を目指すのですから当然でしょう! ほらさっさとこっちに来なさい。そう長くはもたないので』
美李奈はアームレバーを握りしめた。
動く。≪アストレア≫は間違いなく動く。各部に異常はない。出力も安定している。いや、今まで以上の何かを感じる。
『――脅威度レベル……』
無機質な音声だけをかき鳴らすそのサブモニターを叩き割った美李奈は不敵な笑みを浮かべた。
「そろそろうるさいですわ。いいからさっさと、目覚めなさい……アストレア・テリオス!」
そして叫ぶ。
父と母が託し、祖父が残した、真なる力を。
その名を。




