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第7章 有翼の断層

1.


 突く。薙ぐ。叩き斬る。その全てを、繰り返し繰り返し行う。

 アンヌ・ド・ヴァイユーはそれを、倦まず続けていた。ようやく一息ついて、ともに汗を流していたソフィーに確認すると、1時間も経っているではないか。

 額で汗を吸って張り付くバンドを煩わしげに外す。この国特有のじっとりと不快な熱気もここ数日は消えて、時折爽やかな風が頬をなぶるようになった。

 今まさに吹いてきたその風を胸一杯に吸い込む。新鮮な空気と入れ替えに肺から空気を搾り出して、アンヌはその空気の根源を思い出した。

 高級マンションゆえに落ち着いた内装と照明が災いして、そこに巣食うあのいけ好かない連中から醸し出される雰囲気は暗い。いや、暗いだけでは済まず、じめじめとした攻撃となってアンヌやソフィーを蝕もうとしてくるのだ。

 あんな奴ばらではなかったのに。祖国にいた時は、気質の差こそあれこのようないがみあいなどなかったのに。それは父の、伯爵の威徳があればこそなのだろうか。翻って嫡女たるアンヌの不徳の致すところという事実に、アンヌの心中に苦いものが沸く。

『アンヌ様、お飲み物をお持ちしました』

 ソフィーがかいがいしくスポーツドリンクを持って来てくれた。素直に礼を言って受け取り飲むと、ソフィーが愕然とした声を上げた。

『お嬢様、コップがそこにございますが……』

『ん? ああ、そうか……』

 お盆の上に伏せ置かれたコップを、ぼんやりと眺める。ふいにアンヌはうつむいた。

『お嬢様?』

『――違う』

 アンヌは顔を上げて、大きく息を吐いた。

『やはり、勝たねばならないのだ』

 そのためには、鍛錬の場でスポーツドリンクをコップに注いで飲むなどという有様を変えねば。

『ソフィー――』

 名を呼ぶと飛んで来て、片膝を突いてかしこまる配下。一瞬『それがもうだめなんだ!』と叫ぼうとして、思いとどまる。生き方を変えるのは、まず私だ。

『食事にしよう』

『はい。今日は確か――』

『いや、悪いがそこはキャンセルしてくれ』

 きょとんとするソフィーに一瞥をくれると、アンヌは言った。

『まず、この汗を流しに行こう』



『あ、あの、お嬢様?』

『どうした? ソフィー』

 アンヌが選んだ飲食店への途上。振り返ると、家臣はぐったりしていた。具合が悪いのだろうか。

『風呂に浸かり過ぎたのか?』

『……ある意味、そうです』

『持って回った言い方をするな。どうしたのだ』

 アンヌとソフィーは鍛錬の汗を流すため、極秘の鍛錬場からほど近いスーパー銭湯に入ってきたところだった。

『まさか、お嬢様があのような庶民の交流施設をご存じだとは……しかもそこに、いきなり飛び込んで……』

『そんなに不意を突いたのか? お前の』

 アンヌは手に持っていたアイスの棒をレジ袋に捨て、別のアイスを取り出した。アメリゴ資本のブランドなのが気に入らないが、製造は日本だから味は確かだ。

『はい……おまけに、あのようなあられもないお姿に……』

『仕方あるまい。水着を持ってこなかったのだから』

 さすがに赤面して、アンヌは悟った。

『ああ、それで疲れたのか』

『はい……あの日本人たちの突き刺さるような視線……遠慮というものを知らない大きな声での噂話……指まで指されて……』

『なるほど。私はアキバで経験済みだから、さほどでもなかったのかな』

『! アキバ! そこでも脱がれたのですか?!』

『たわけ! ガイジン扱いされたという意味だ!』

 アンヌはソフィーをからかう。

『ま、お前のほうに視線が集まっていたがな』

『そ、そうでしょうか?』

『うむ。お前は私よりいい身体をしているからな』

 ソフィーは真っ赤になった。アンヌより15歳年下の彼女はまだまだ精神的に擦れていない。

『お、お戯れを……ところで――』とソフィーは強引に話題を変えてきた。

『我々が向かっているのは、あの店でしょうか?』

『えーと……そうだな』

 アンヌのスマホに表示された地図と、周囲の地形が一致している。そのラーメン店は客が5人、店の前に並んでいた。仕方なく、ソフィーとともに並ぶ。ふと見ると、ソフィーの視線が自分に突き刺さっていることに気付く。前に並んでいる日本人や道往く人々の視線よりもそれは鋭い。

『お嬢様……前々から不審だったのですが』

『なにがだ?』

『ベルゾーイと、こういう庶民の飲食店に行っていたのですね?』

 悪びれもせず、アンヌはうなずいた。

『この国の高級と付くリストランテは、量が少なすぎるからな』

『本国でだって2人前ご注文されていたような……』

『この国でそれをすると食費がすごいことになるから止めてくれ、とベルゾーイに言われているのだ』

『おいたわしや……このような汚い店に……』

 フランク語でしゃべってなかったら、この店員にお断りされかねんな。アンヌはそう考えながら、近寄ってきた男性店員に2人であることを告げた。誇らしい母国語ではなく、日本語がすっと出てくる自分に少し驚きながら。

「あーすいません、相席ならすぐいけるんすけど……」

 俺の日本語通じたかな? と顔に書いてある日本人にちょっと断って、ソフィーに確認する。ちょっと嫌そうに眉根を寄せたが、アンヌがそれでいいのならお供しますと言ってくれた。

「2名様、相席入りまーす!」

 イラッシャイマセーの声も威勢よく、アンヌたちはスープの匂いが充満する店内へ招き入れられた。狭い店内にぎっしりと座って麺をすする男女のあいだを、鍛えた足取りでスイスイと進んでいく。そして店員に指し示された、そこには――

「あ、パツキンねーちゃんじゃん」「ほんまやな」

「き、貴様らは――!」

 見慣れぬ変身前の見慣れた敵が二人いた。



 気まずい。

 相手が気を利かせて、横並びになるように席を譲ってくれた――ことではなく、

「ねーねーアンヌさん、何食べる? るいはね――」

 とメニューを差し出して話しかけてくるベリーショートの小娘と、

「先日は、えらい難儀やったね。もう怪我はええの?」

 とソフィーをまごつかせているショートヘアの小娘の気安げな態度だった。

『お、お嬢様』

『なんだ、ソフィー』

 家臣の顔は、真剣そのものである。

『出ましょう。いくらなんでも、敵と同じテーブルで食事などできません』

『しかし、今さら店を探すのも億劫だしな』

 そう話すアンヌの眼の端に、すっと差し出されたものがある。奇襲かと素早く向き直り、その勢いのままその物体――スマホを払い落とそうと手を上げる……スマホ?

 その画面には、翻訳サイトが表示されていた。

『フランク語で話さないで!』とアンヌたちの母国語で。

「せっかく楽しくご飯一緒に食べてるんだからさ~、日本語でしゃべろうよ」

「アンヌさん、店員さんが困ってるで」

 先ほどの店員が注文を取りに来ていた。満員の状況ゆえ早く注文を取りたいが、何やら揉めてるのを見てとったのだろう。

 アンヌは腹を決めると、メニュー表の一点を指さした。

「餃子チャーシューメンセットを大盛りで、煮卵を3つトッピングしてくれ。それから、高菜チャーハンも大盛りで1つ」

 店員がちょっとあっけに取られた後、注文を復唱して去ろうとしたのを止める。

「待て」

「はい?」

「ソフィーは?」

「あ、えと、私はトンコツネギラーメンで」

「あのー……先ほどの注文は2人分じゃ……?」

 店員に不審顔をされるのは、いつものこと。

「私1人分だ」

 なおも困惑顔の店員を手を振って追い払うと、アンヌはソフィーを見やった。

「お前、私に意見をしたくせに、随分慣れているようだが」

「わ、私は臣下です! 高貴な血筋であらせられるお嬢様がこのような、と申し上げたのです!」

(なーなーるいちゃん)

(なに?)

(この人、確かアキバで恵方巻きみたいなクレープ食ってたって優菜ちゃんが言ってたよね?)

(うん、どうやら事実みたいだね……)

 "優菜ちゃん"という言葉が耳に届いて、アンヌは心臓が跳ねた。

「お前たち……えーと……」

「るい。光明寺るい」

「なんでフルネームを名乗るかな敵に……真紀でええよ」

 ソフィーは"敵"という単語に反応したようだ。目の前の日本人たちをにらみつけた。

「貴様ら……本気でお嬢様と会食などできると思っているのか?……なんだその眼は?」

 ああ、これはあれだ、姪のメアリに送ったフィギュアがしていた眼つき……ジトメとかいう……

「ほんまにお嬢様と家臣なんやね、自分ら」

「ねーねー、そんなことしてて、疲れない?」

「ソフィー、ここは戦地じゃない」と左隣に座る臣下をなだめる。

 そう言ってみたものの、いざとなると話題が無い。だが、そもそもアンヌは話題を振られる身分であるため、黙って待つことには慣れている。案の定、焦れたのは日本人のほうだった。

「なーなーアンヌさん」

 気安く、とにらみ始めたソフィーをまたなだめて、次の言葉にアンヌは色を失った。

「わざわざここに来たっちゅうことは、尾行を撒いたん?」

「! 貴様、なぜそれを……」

 アンヌの声は、真紀と名乗る小娘のした『静かに』のサインで低めざるを得なかった。そして続いてその指が差した方向を見て、完全に途絶える。

 ガラス窓から見える道路向かいを、ニコラの家臣・ミシェルの手下が2人できょろきょろしながら通り過ぎていくではないか。

「あいつら……」とソフィーが横目で見つめながら、自然に机に伏せる。

「ふーん――」

 と今度はるいと名乗る小娘がつぶやいた。手にしたグラスの水を少し飲む。

「ほんとに仲悪いんだね、叔父さんと」

(やはり、情報が漏れている……!)

 まさかこの状況で否定しても白々しいし、迫ったところで情報源を吐いたりはしないだろう。溜息をついたアンヌのテーブルに、ラーメンが2つ運ばれてきた。先に注文した日本人たちの料理だ。

「あ、お先にいただきます」

 ぺこりとされて、つい返礼でぺこりとして。アンヌの顔がにやついているのに気付いたのだろう、ソフィーがそっぽを向いてしまった。


2.


『撒かれただと? 捜せ! 見つけるまで帰ってくるな!』

 ミシェルは受話器に向かってどなると通話を切り、ソファに思い切り投げつけた。

『役に立たない奴らだ……』

 怯えているリシャールを部屋の隅に立たせたまま、窓辺に立って外を見やる。

(鷹取沙耶が復帰したか……)

 先日の親族寄合の席上、沙耶が赦免されたことは書面で通知が来ていた。

 戦闘にほとんど出たことがないため、その実力はつまびらかではない。だが、剥奪されたとはいえ御剣鬼の巫女の銘を襲っていた女性である。少なくとも血の力だけはあるだろう。

 昨晩かかってきた電話の内容を思い出して、ミシェルの渋面はますます濃くなる。

 主人たるニコラ・ド・ヴァイユーから、督促の通達であった。

『鷹取家が介入してくる前に、西東京支部を壊滅させろ。そのために不幸な事態が訪れたとしても、だ』

『不幸な事態、か』

 さすがに身内のこととなると、直截的な表現は慎むのだな。ミシェルはそう独りごちる。

 アンヌをもう一度西東京支部にぶつけて、共倒れをさせる。共倒れがかなわぬならば、敵を撃滅した直後にアンヌを排除する。物理的に。速やかに。

 既にアンヌの家臣は日本にソフィーしかおらず、残余の臣は祖国でそれぞれの職務に忙殺されている。アンヌの直臣が先のディアーブルの大攻勢で斃れたり、西東京支部との戦闘で捕虜となったため、人手不足なのだ。それに加えて、ニコラがミレーヌを介して意図的に仕事を回すことにより、職務に縛り付けてもいる。

 だが、アンヌに果たして西東京支部を撃滅するだけの力があるか。ニコラの家臣という立場抜きで推し測っても、ミシェルにはとてもそうは思われない。

『ふん、それでいて対策を練るでもなく、毎日剣の鍛錬しかしないとは。まったく、剣一筋も大概にしてもらわないと』

 だからといって、策を立ててやる義理は無いがな。

 ミシェルは鼻で笑うと、リシャールにバルディオール・レーヌに連絡をつけるよう命じた。

 自分のほうは、別の女性へいそいそと電話をかける。日本に赴任したばかりで右も左も分からないフランク人を演じて見事ハンティングに成功したその女性は、このマンションに住ませることもかなわず、3、4日に一度会うことで我慢している。彼の俸禄では別宅に囲うことなどとてもかなわないからだが、それも彼の中で限界が来つつある。

 逢瀬の約束を取り付けて、彼女との素晴らしいひと時を追憶していると、視界の隅でリシャールがおずおずと受話器を差し出した。鷹揚に頷いて受け取る。

『なぁに? バイト中なのよ。手短にお願い』

 いきなり不機嫌な声が聞こえてきた。怒鳴りつけたいのをぐっと我慢して、フランク語の不自由なレーヌに日本語で尋ねる。

「ミラーの居場所はつかめたか?」と。

 黒水晶が砕かれたはずのバルディオール・ミラーが生きていて、『あおぞら』側の協力者になっている。レーヌからもたらされた内部情報の一つがそれだった。折り返し、潜伏場所を探るよう指示してあったのだ。

『全然だめよ』とそっけない返答。ミシェルはまたいらだちを思えた。

『支部長しか知らないみたいだし。そのことになると――』

「もういい」

 言い訳は聞きたくない。

「ならば、西東京支部への再侵攻を早めろ」と命令する。

『なに? 予定を変更するの?』

 レーヌには、日本人であることを最大限に生かすため、機動的な作戦を命じてある。『あおぞら』各支部の管轄に神出鬼没に出現し、主にサポートスタッフを狙うというものだ。

 ただし、と釘を刺すことも忘れない。一般人や各種施設にはくれぐれも損害を与えぬこと。そして、『あおぞら』相手にもやり過ぎぬこと。鷹取家の介入を恐れるがゆえの、ニコラの指示であった。

 レーヌには、そこらへんの事情は話していない。黄色い駒に余計な知識は必要無いのだから。

 相手のぞんざいな口調に苛立ちを覚えながら、ミシェルは改めて命じた。

「黒いエンデュミオールを殺せ。どんな手を使っても、だ。そのためのお前なのだぞ」

『簡単に言ってくれるわね』

 電話の向こうで身じろぎし、髪を揺らすような音がする。

「もう一度言うぞ。西東京支部への再侵攻を早くしろ。どんな手を使っても黒いエンデュミオールを殺せ。色仕掛けでも何でも使ってな」

『お生憎様。カノジョに刺されるわよ。速攻で』

 黙って言うことを聞けばいいものを、一々反駁してくるのが実に癪に障る。怒鳴りつけようとしたミシェルの雰囲気を察したのか、少し怯えた様子の声が返ってきた。

『分かったわよ……ネタはあるから、揺さぶってみるわ。じゃね』

 ネタとは何だと聞くこともできず、通話は一方的に切られた。悪態をついて、また考え込む。

 日本人の裏組織から、必要経費を差し引いた依頼金が返送されてきたのは、つい先日のことであった。『過去も現在も未来も、そちらとは関わりあい無しということで頼む』と書かれたメモ付きで。

 改めて、鷹取家の持つ力の大きさに蒼白になった。このうえは一刻も早くニコラに来日してもらい、可及的速やかさでもって地脈を、それも最大の“龍脈”を押さえてもらわねばならない。

 そのための地ならしに来ている。しかし、日本人は思っていた以上に外国人に対して警戒感が無かったとはいっても、うろつけばそれなりに注目を浴びる。警察関係者に会いに行くのも一苦労な状況では、なかなか事が進展しない。そして、鷹取による監視の目も潜らなければならない。実にままならないのだ。

 頭一つ振って、部屋の隅で控えるリシャールに命じる。

「剣の鍛錬に行くぞ。それから、西東京支部討伐の作戦会議だ」

 この気鬱を晴らすには、体を動かすに限る。


3.


 掬う。啜る。つまんで口に放り込む。その全てを、繰り返し繰り返し行う。

 隣に座るソフィーは、なぜか身をすくめ気味にもそもそとラーメンを食べている。トンコツは外れだったのだろうか。そのことを素直に口にしてみたら、赤面の臣下が立ち現われた。

(お嬢様――)

(なんだ?)

 肩を寄せてひそひそ話は、よもや眼前の敵に聞かれたくないからだろうか。

(気付いておいでですか?)

(なにがだ?)

(衆目を一身に浴びておいでですが……)

 シュウモク? なんだそれは?

「周りの人たちの視線だよ、お嬢様」

 と自身の麺をすする手を休めて、るいが笑う。

 睥睨してみれば、なるほどアンヌは店中の日本人たちに注目されていた。カウンターの奥にいる主人と思しき年配の男など、腕組みをしてこちらを見つめているではないか。

「るいとやら」

「なぁに?」

 さすがに声を低めて、店主の機嫌が悪いのかと聞いてみたら、

「? ああ、腕組みって、海外だと怒ってるジェスチャーなんだっけ?」

「あれは違うと思いますよ、アンヌさん」

 真紀が横から口を挟んできた。

「あんさんの食いっぷりに感心してるんやと思います、はい」

「そうか。ならばよい」

「よくありません……」

 とソフィーが頭痛のような顔のしかめ方でつぶやいている。

 餃子を口に放り込みながら、アンヌは考える。

 このるいという小娘が、前回の戦闘では指揮官役をしていた。その前の戦闘では、遅れてきたせいもあるだろうが、精彩を欠いていた。この差は一体なぜ生じたのか。

 こちらの視線に気づいたらしく、るいが小首をかしげている。麺をすすりながらという器用な有様にくすりと笑いながら、アンヌは今の問いをぶつけてみた。隣でソフィーが水を吹き出している。気管支に入ったようだ。

「前々回はね、お嬢様の情報が無かったからだよ。ああいう集団戦闘って、あんまりしたことがなかったから」

 るいは水をこくりと飲むと、にっと笑った。

「すごいよねぇ、ああやってズバーッと斬って回るのって。楽しいだろうなぁ」

「……恨んでいないのか?」

 また小首をかしげている。

「私はそなたの脚を刺したのだぞ?」

 気のせいか、隣の席の日本人が驚いているような気配がした。ソフィーがワタワタしだしたが無視する。

「うん! だって、あんときはすっごい痛かったけど、もう終わったことだし」

「あっさりしているな……」

 アンヌの心に少しばかりの安堵をもたらした笑みは、次に賢しげな、しっかりとしたものに変わった。

「でも、忘れない」

 るいの瞳に映るアンヌの表情は驚愕に染まっている。

「もうあんな痛い目、見たくないから。だから一生懸命対策を練ったんだよ。夜も寝ないで」

「あんたが寝ぇへんのは、男と逢引してるからやろ」

 また分からない単語だ。ソフィーも同じらしく、ポケットからスマホを出して検索し――真っ赤になった。

「私にも見せてくれ」

「なりません! 眼が穢れます!」

 周りの日本人がくすくす笑い出し、ソフィーににらまれてさっと顔をそらす。

「自分ら、ほんまにフランク人なん? 逢引なんて星の数ほどしてるイメージなんやけど」

「えと、愛ってなんて言うんだっけ……ア、アム……」

「 aimer だ」

「そうそう、アムール人じゃないの?」

「妙な単語を作るな!」

 今日のソフィーは良くしゃべる。それとも、私の前では畏まっているだけなのだろうか。アンヌは考えながら店員を呼んだ。

「この店は、替え玉ができるのか?」

「へ?! は、はい」

「ならば替え玉を頼む」

「まだ食べるんだ……」

「くそ、負けるか! 俺も替え玉だ!」「俺も!」

 客の何人かが、何かに挑むように替え玉を頼み始めた。その注文に追われる店員を呼びとめる。

「それから、チャーシューと煮卵を追加でトッピングしてくれ。なかなかに旨い」

 店内が、先ほどとは打って変わって静まり返ってしまった。

(ソフィー?)

(……恐れながら申し上げます)

(まだ何も聞いていないが)

 目の前で、るいと真紀が笑いを必死でこらえているのが気になる。

(食べ過ぎです、お嬢様。周りが呆れてるんです! お察しくださいお願いします……)


4.


 ところは変わって、フランク本国の伯爵家。そこでは床に臥せる伯爵が、弟のニコラから状況報告を受けていた。

 戦況は、どうにも芳しくない。エンデュミオールどもに自慢の配下が、それだけでなく長女まで押されているのだ。

 加えて、先の"ディアーブル"による大攻勢のこともある。ニコラが口を滑らせたのを聞き咎めて語らせた詳細は、伯爵の弱った精神を昏倒させるに十分であった。

 再び伯爵の意識が戻ったのは2時間後。すまなそうに書類の決裁を願う弟に抗うことができず、震える指で万年筆を取り、その震えを必死に抑えながらサインを描いた。

「兄上、今日はここまでにいたしましょう。また明日参ります。ゆっくりとお休みください」

 慇懃に労わられるこの身が呪わしい。だが衰えだけはいかんともしがたく、伯爵は黙ってゆっくりと手を振ることで弟の言葉を受け入れた印とした。

 退出する弟を視界の端に捉えながら、伯爵は考える。

 日本にある地脈の噴出孔の位置は、ある程度絞られてきている。事前の推測どおり、22年前と位置はずれているが。

 あとは、最も効果的なポイントを選ぶだけ。そしてそこに行くための体力を維持しておかねばならない。

 眼を閉じて眠りに落ちようと努力しながら、伯爵はまぶたの裏に様々な景色が蘇るのを感じた。

 父である先代伯爵の、厳しくも頼もしい横顔。

 剣の手ほどきをしてくれた大叔父の、激痛で転げまわる自分を見下ろして嗤う顔。

 病弱な母が最期に遺してくれたのに、父の手で屑籠に捨てられていたペンダント。

 最初の妻の、柔らかな笑顔。自分を有翼族と知りながらもその白い手を自分に与えてくれた時の歓喜。

 勇躍出撃したものの、ディアーブル多数に嬲られて帰ってきた、長男の遺骸。それに取りすがって哭く妻はやがて、優良な子を産めぬと陰口に侵されて、自死に果てた。

 後妻の勝ち誇った顔。前妻の娘をエンゲランドの狼人公爵に娶わせることで、両家の絆の再確認と厄介払いを果たしたのだから、さもありなん。

 その娘も事故で死に、後妻もまた有翼一族の分厚い壁を突破できず、姿を消した。

 そして今、かの極東の地でアンヌまでもが自分の意に染まぬ動きをしている――

 極東というキーワードに続いて、伯爵は一人の女性を思い出した。

 最初は日本人ながら実に流暢なフランク語を話すことに驚き、次にその正体に言葉を失った。どう見ても成人前の少女の姿をしていながら、自分より600歳近く年上であったのだ。

 その見事なまでのアンマッチに惹かれて、忍ぶ恋が始まった。快活にして温厚な彼女ならば、因循姑息をもってなる一族の澱みを澄ましてくれるのでは。

 いや、自分も立ち上がろう。彼女とともに。そう思い描いていたのだ。

 彼女が持つ"石"を見るまでは。



 ニコラは部屋に戻ると、今しがた兄伯に署名させた文書を眺めた。

(衰えたな、兄上も……)

 この文書がどんな意味を持つのか、それすら読み取れないとは。

 それは、白紙委任状。伯爵家総指揮官代理として軍権を統べる弟に家政をも任せるという、名実ともに隠居となる重要な文書に兄はあっさりと署名してしまったのだ。

 ニコラの入室とともに起立した男に、その文書を掲げる。男――彼の相談役を自任する日本人貿易商――の恭しい一礼に鼻を鳴らしながら、ニコラは召使に命じてワインを用意させた。

 これも恭しく差し出されたグラスに一度口をつけて、ニコラは腹から声を出した。

「これで、本腰を入れられる」

「ようやくでございますな。おめでとうございます」

「さて、問題はいつこれを公表するか、だ」

 存念を述べよとのニコラの問いに、男は婉曲的表現でもって答えた。

「不幸な事態が訪れなかった場合の、残念な結末を突きつける時に」

 ニコラはにやりと笑うと、ワイングラスの中にたゆたう芳醇な芳香をひとしきり楽しんだ。軽口が自然と口をついて出る。

「日本に行ったら、土産には何がいいかな?」

「どなたにお買い求められるのですか?」

「むろん、兄にだよ」

 一口飲んで、舌に油ならぬワインを供給する。

「もはや伯位すら捨てたご隠居に、どんな物がよいかと思ってね。もっとも、帰って来た時には何を見せても分からなくなっているかもしれんが」

「はたしてそうでしょうか?」

 男は訝しげに首を傾げる。ニコラはこの鈍い男がなにを言いたいのか分からない。

「存外、意識ははっきりしているのかもしれませんぞ?」

「栄光ある伯位の役目を白紙委任するような男がかね?」

「あるいは、隠居の身となっても生き延びたかったのかもしれません」

 ふん、とニコラは鼻で笑ってこの説に対する答えとした。地脈のエネルギーをこの身に取り込んで不死の身となり、強壮となる実利を、生ける屍に与えるわけがないではないか。

 仏頂面となった日本人をよそ目に、ニコラは第2次侵攻隊の招集令を出すべく召使に電話をかけさせた。

 

5.


「えー、行かないの?」

 るいが実に残念そうだが、アンヌはけじめをつけることにしたようだ。

「先ほども言ったはずだ。私とソフィーはお前たちを倒すための鍛錬で空腹になったから、あれだけの量を食べたのだと……なんだその眼は?」

「ソフィーさんの顔に『お願いだから大食い自慢はもう止めてくれ』って書いてあるんですけど」

 ぐぬぬとなって、アンヌは一転険しい顔になった。

「次は必ず倒す。全員をな」

「ねーねー、和平交渉は?」

 るいと知り合って5カ月ほど経つが、真紀にはいまだに彼女の思考の飛び方が理解できない。

 それよりも。真紀が周囲に感じた気配を、この主従に教えてやったほうがいいのかどうか迷う。そして迷っているあいだに、会話は進む。

「無意味だな。我らは勝つ。そのために鍛錬を積み続けているのだから」

「ふーん……」

 るいのにやつきに、ソフィーが激した。

「待っていろ。今度は必ずや勝つ!」

「あ、うん! じゃあね~」

 るいのとびっきりの笑顔に送られて、フランク人主従は首をかしげながら郊外のほうへと歩み去った。

「なるほど、このへんにアジトがあるんやね」

「だねぇ」

 隙の多い人たちだな、と真紀は思う。彼女が感じていた気配も、あの二人の退場と同時に消えてしまったのだから。

「1つ、分かったね」

 何がと問うと、るいは大して面白くもなさそうな顔で、アンヌたちとは逆の方向へ歩き始めた。

「レーヌはやっぱり、あのパツキンさんの所属じゃないってこと」

「なんでそう思うん?」

「配下だったら、連携の訓練しない? 夜にさ」

 確かに、あの光線系バルディオールを戦力として考慮に入れるなら、こんな真昼間に鍛錬はしないだろう。

「ま、実は夜の部があるのかもしれないけどさ」

「それはどうやろな?」と真紀は思い至って反論する。

「自分で言うといてなんやけど、アジトなんて大層なもんじゃないのかもしれん」

 アンヌ・ド・ヴァイユーは伯爵家の嫡女である。自ら食事のために出歩くというのが、どうにもそぐわない身分に思えてならないのだ。

「そっか、お嬢様なら、もっと家臣がいるなら、そいつらが食事の用意くらいできるよね」

 ラーメンがどうしても食べたいなら、出前を取ればいい。お嬢様本人はともかく、臣下ならフランク本国でなんらかのケータリングを利用したことがあるだろう。

「そう。だから、長時間滞在できるような施設じゃない気がするんよ」

 そう付け加えながら、真紀の心に後悔の念が湧き始めた。

 尾行したほうがよかっただろうか。だが、相棒がるいでは心もとない。美紀を連れてくればよかったと真紀はほぞを噛み、鼻歌を歌い始めたるいを見やる。

「そういえば、なんでヴィオレットに連れて行こうとしたん?」

「んー、本場おフランクのお嬢様がどんな評価するかな、って思ってさ」

 本心は、もう少し交流を深めて和平交渉に持っていきたかったのだろうと真紀は推察する。

 すると突然、るいが素っ頓狂な声を上げた。

「あ! しまった!」

 何事かと問う真紀の視線に帰ってきたのは。

「なんで髪をショートカットにしたのか聞き忘れちゃった」

 長生きするな、この女は。

 真紀は呆れながら、妹に報告メールを書き始めた。

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