第5章 閃光
1.
神谷隼人は、緊張の極みにいた。
ここは彼がバイトをしている学習塾『東堂塾』の講師控室。彼の手には、愛用の携帯電話が握り締められている。時々むやみに震えるのは、理佐からのメールが着信するからだろう。きっとそうだ、とは言い切れない悩みが彼にはあった。
横浜支部に現れて、下剤入りのシュークリームを配達したツインテールの女。『10代後半から20代前半くらいの、きれいな顔立ちの女だったよ』という。訛りの無い標準語をしゃべる、160センチメートル前後の身長の女。
一応向こうの警察でも捜査はしているようで、支部でその女と応対したサポートスタッフが警察に呼ばれて、モンタージュの作成に協力してきたようだ。それが見たい。でも、いくら会長が警察に伝手があると言ったって、捜査資料が別の支部の人間に提供されるはずもない。
『なら、西東京支部で、そちらに来たツインテールの子の似顔絵でも書いて送ってくれよ』
横浜支部長の提案にフロントもサポートも集まって鳩首談合し、結局沙良の顔を一番見知っている隼人が似顔絵を描くことになった。
いや、なってしまった、というほうが隼人的には正しい。だって――
『……ごめん』
『『ほんま、ごめん』』
『るいも大概だけど、隼人君はあの画伯クラスだね!』
『あなたって人は……』
描く前から分かっていたツインテール・エイリアンがA4再生紙上に出現し、改めて自分の絵心の無さを痛感した隼人であった。
そこから話は進んで、じゃあ写真を撮ってきたらという話になった。もちろん、隼人は断った。個人情報的にも塾講師的にもNGだと。
『でも、その子を疑ってるんでしょ?』
『疑ってはいないけど……』
るいの問いに、強く言い返せない自分が悲しい。
『なら、写真を撮って横浜支部に送れば、はっきりするじゃん?』
まあ努力してみてよと諭されて、昨日の今日で悶々としているというわけだ。
(できないよやっぱ、そんなこと……)
塾の規則で、ちゃんと定められているのだ。『塾生の写真を撮ってはならない。ただし、塾長が特別に認めた場合と、塾の卒業式の際を除く。』と。
無料の自由参加ではあるが、塾長の『塾側としても生徒にとっても、きっちりと区切りを』という方針により、簡素ながら卒業式が毎年開催されている。それ以外の写真撮影は、即解雇処分だ。実例もある厳罰に、隼人の意気込みは萎える。
ならばいっそ問いただすか。『坂本さん、どうして果物屋のバイトしてるって嘘ついてるの?』と。
だがこれもまた、難題である。わざわざ呼び出して二人きり、そんなことできるはずがない。理佐に釘も刺されてるし。
「隼人君、そろそろ時間だよ」
正社員の講師が親切にも教えてくれた。授業に行かなければならない。隼人は頭を一つ振ると重い腰を上げて、教室へと向かった。
隼人が入ると、教室の喧騒がぴたりと――已まない。なんだかザワザワしている。珍しい事態だ。
「どうかしたのか?」
「センセー」と手を挙げたのは、木造みやびだった。
「坂本さんが来てません」
珍しい、というより初めてではないか。隼人は名簿の欠席連絡欄を改めて確認し、授業を始めた。ずる休みをするような子ではないし、何か理由があるのだろう。
(いや、あるか……)
果物屋でのバイトが嘘とばれたことに気付いたのかもしれない。そんなことで休むかという気もするし、写真のことがひとまず遠のいて安堵もしている。隼人はそんな複雑な気分のまま、授業を進めた。
授業を始めてから30分後、教室のドアがそっと開き、沙良が申しわけなさそうに顔をのぞかせた。生徒たちの視線が集中する中、ぺこりと頭を下げる。
「遅刻してすみませんでした」
「うん、その話は後で。取りあえず、席に着いて」
隼人は優しく声を掛けた。内心の鼓動が早まるのを必死に抑えながら。
もちろん、ここで沙良を隠し撮りするなんて度胸もテクも準備も無い。だが、そうしろと促されている被写体が現れたのだ。
そして、隼人はこの手の隠し事が顔に出る。
「隼人先生、なに赤くなってるんですか?」
生徒の一人が気付いて声を上げたのを契機に、ほかの生徒もざわざわし始めた。
「まーた分かりやすいなぁ先生」
「このあいだの美人さんとはもう別れたんですか?」
「別れてないから」
と言わなくてもいいことを言ってしまって、火に油を注いでしまった。この騒動のあいだにそそくさと自席に座った沙良をできるだけ見ないようにして、隼人はしばらく生徒にしゃべらせておいた。代わりに、できるだけ真顔で生徒の顔を見渡す。
やがて、隼人の視線に気付いた生徒から黙り始め、事態は収束に向かった。
「んじゃ、再開するぞ。テキストの35ページからだったな」
授業はどうにか今日の予定していたところまで終えることができた。努めて平静さを装って、生徒と教室掃除を行う。
「隼人先生、焼けてますね」
男子生徒の一人が床を掃きながら話しかけてきた。
「まぁな。海水浴場の監視員してたし、工事現場の交通誘導とか屋外のバイトもいっぱいやってたしな」
とどめにこのあいだのゼミ旅行である。
「いいなー、オレもバイトしたいっす」
「お前小遣いいっぱいもらってんじゃん」とほかの男子生徒が絡んできた。
「スマホ代とゲーム代で消えちまうんだよ!」
控室でるいやサポートの子たちがスマホでゲームをしていたのを隼人は思い出した。それなりにお金がかかるらしいことも。
隼人はどんなゲームをしているのかと生徒に訊かれたので、簡潔に応えた。
「そんな金と時間が無いよ」と。援護射撃がなぜか女子生徒から飛んで来た。
「そうだよ! せんせーはね、もう大変なんだから!」
(……俺の事情をなぜ知ってる?)
隼人の胸に疑念が渦巻く。なぜならその発言の主は、ついさっきまで黙々と机を拭いていた沙良だったから。やはり何か『あおぞら』に関する情報を仕入れているのだろうか。
意外な方向から飛んできた言葉に驚く男子たちを前に、沙良は言った。
「あの彼女さん見たでしょ? お金かかるんだから。ああいう人」
「いや待て」
そっちかよというツッコミも空しく、生徒たちはよりおいしそうな餌に群がった。
「うちの兄ちゃんがそうだな。なにかと金掛かって大変だっつってた」
「そーだよねーすっごい美人だもんねーあの人」
「隼人センセーも、どうせならもう少し溜めといて、沙良ちゃんに使えばいいのに」
「な、なに言ってんのよみやびちゃん!?」
ブーメランが返ってきて真っ赤になった沙良は、うつむいてしまった。
「さ、掃除掃除!」
隼人はこのタイミングを逃さず、手を叩いて生徒を作業に戻らせた。隼人自身も箒を使いながら考える。
(てっきり事情を知ってると思ったら、全然見当違いだったな……それとも俺が思わず見ちゃったから、話を変えたのか? 分からん……)
10分ほどで掃除は終わって、隼人は生徒と別れると講師控室に戻った。自分の席に座って、大きく息を吐き出す。
「お疲れ。なんか騒がしかったね、今日の授業」
同僚の講師が笑いながら話しかけてくる。謝って事情を話すと、あっさり理解してくれた。
「それできっちり授業進めれちゃうんだから、すごいよな、お前」
「いやもう大変でしたよ。その代わり、次回冒頭小テストだって言ってあります」
などと会話をしながら、隼人の眼はしっかりと控室に入ってくる生徒を捉えていた。先の授業や参考書の内容が分からない生徒がこうやって控室に来るのだ。その中に、沙良もいる。
沙良が小走りで近づいてきて、今日の遅刻を謝ってきた。電車に乗り遅れてしまったらしい。気が動転したあまり、連絡の電話をかければよかったと気付いたのは、塾が入居するビルにたどり着いてからだったとのこと。
本人も反省しているようだし、今後は気を付けるようにと穏やかに言って、この話を終わりにした。
そのあいだに、生徒は自分を受け持っている担任のところへ分かれて、質問を始めている。隼人のもとへは、今日は3人。
「椅子があったかな……」
「大丈夫ですよ、せんせー」と女子生徒の一人がにやりとした。
「沙良ちゃんがせんせーと同じ椅子に座りますから」
「そんなわけないじゃん!」
毎度ながら真っ赤になって、からかわれている沙良。写真は……近すぎて撮れないな。
(――いやだから、撮れないっつーの俺!)
「ほら沙良ちゃん、せんせーも見つめてるよ?」
「見つめてないよ」と隼人は言いわけをした。
「早く座ってくれないと、解説始められないからさ。悪いけど、あの辺のパイプ椅子を取ってきてくれないかな?」
沙良の赤面をあえて無視して、隼人は全員着席を待った。実際のところ無理してでも見ないようにしないと、いろいろな意味でヤバい。
(俺ってほんとこーいうのに向いてないな……)
右の生徒から順番に分からないところを聞き、解説してやる。もちろんこちらも資料集や解説書の助けを借りてだが、それを見せすぎないように丁寧に解説してゆく。
「うう、難しい……」と男子生徒が音を上げ始めた。
「ごめんな、分かるまで付き合いたいけど……」
自宅でもう一度整理してみてとけりを一応つけて、次の生徒に取り掛かる。そんな調子で最後の生徒、沙良にたどり着いた。
「これなんですけど……」
おずおずと差し出されたのは、旧帝大受験レベルの参考書だった。
「あれ? 坂本さん、もうワンランク下を受けるって言ってなかったっけ?」
沙良はうなずくと、ゆっくりと切り出した。
「このあいだの模試、成績良かったじゃないですか。あれで欲が出て……受けてみようかな、と」
そういえば、全国レベルでも結構上位の成績だったな。
「なるほど。それ、親御さんは承知してるのかな?」
力強くうなずかれて思わず笑ったら、にらまれた。慌てて沙良に質問したい箇所を示してもらい、解説してゆく。
「あのー、センセー?」
「ああ、ごめんごめん、もう終わるから」
「いやあの――」とみやびが首を振る。
「口挟んでごめんなさい。でも――」
みやびは本当に申しわけなさそうに、隼人のバッグを指差した。
「さっきから携帯がずっと鳴ってるんですけど」
まさか、奴が現れたのか? 沙良に断ってバッグの携帯を取り出す。画面をちらりと見て、すぐに隼人はバッグの中に放り込んだ。
「? 大丈夫だったんですか?」
と沙良に聞かれたが、苦笑い気味に首を振る。『彼女からの電話』とは言いづらいし、まだバイト中だ。
沙良たちの意識を参考書に戻して5分後、解説は終わった。声をそろえてお礼と別れの挨拶をする生徒たちがかわいい。野郎込みでも。
「じゃ、気をつけて」
笑顔に笑顔で返してビルの出口まで送っていくと、隼人はぐっと伸びをし――写真を撮れなかったことを思い出してがっくりした。
理佐ちゃんに電話しなきゃ。その前に片付け片付け、と。
2.
『あおぞら』西東京支部の支部長・可奈は、事務処理を終えて肩を回した。北東京支部の支部長であった故聡美が遺していた大量の未決裁書類を、ようやく処理し終えたのだ。
思えば、事務仕事というか文筆関連全般が苦手かつ嫌いな人だった。大学生時分にレポートの作成を良く手伝ってやったことを思い出し、可奈はうつむいて涙をこらえた。
毎度ずうずうしくも可奈に頼み込む彼女の声。いじわるをしてやったときの困り顔。こっちが一生懸命やっているのに、コーヒーにお菓子とかいがいしく給仕をしてくれて、つまり自分でレポートをやる気はさらさらない立ち居振る舞い。それらが、急に脳裏に浮かんだのだ。
だが、案の定、目の前の応接セットで彼女の手伝いをしていたサポートスタッフの横田と永田に不審の念を抱かせてしまった。
「支部長? お疲れですか?」
「横田さん、奥さんにニブイって怒られません?」
永田が呆れる声がする。目頭をハンカチで押さえて顔を上げると、そこにはようやく気付いてすまなそうな顔をしている横田と、立ち上がってコーヒーポットのほうへ向かう永田の姿があった。
永田が供してくれたコーヒーは、煮詰まって苦かった。それを黙ってすする。こういう時に沈黙に耐え切れなくなるのは、いつも永田だ。
「……北東京支部長さんて、お子さんがいたんですよね?」
「ええ……今年大学受験の子……」
聡美はシングルマザーとして10年、一人息子を育てていた。節目節目には同期で――22年前に対伯爵戦を共に戦った仲間たちでお祝いを渡してはいたが、確か慰謝料も雀の涙程度で、生活は楽ではなかったはずだ。
「会長が、その子が就職するまでは支援するって言ってたけど、お金だけじゃないのよ、問題は……」
「そうですよね」と横田が腕を組んで考え込む。
「生活していかなきゃいけませんもんね、その子が……」
「聡美がこういう仕事だったから、ある程度家事はできるみたいだったけどね」
可奈が言い終えてコーヒーを一口すすると、永田が何かひらめいたように手をパチンと合わせた。
「そうだ! 会長さんとこで預かってもらえばいいんじゃないですか? 独身ですよね確か」
「永田さん、独身の人に預かってもらったら、誰が普段の面倒見るの?」
横田の呆れ顔に永田は反論する。
「えーでも可奈さんとこは娘さんがいるし……あたしに面倒を見ろと?」
「言ってない言ってない」
横田と2人して首を振る。軽く溜息をついた可奈はついでに付け足した。
「会長のところは無理よ。あの人、全国回ってるから。今はレーヌ対策で忙しいし」
本当は別の理由があるのだが、彼らにそれを告げるのは禁じられている。
永田がコーヒーを勢いよく飲み干すと、苦い顔をしながら言った。
「なるほど、こーゆー時に男子がいると便利――あ! 隼人君は――」
「理佐ちゃんに刺されるわよ?」
「なんで最近、理佐ちゃんイコール刺されるになってるんですかね……」
横田が苦笑いながらもめずらしくおどけ、永田が笑い始めた。
「まあ、最近ちょっと、ね……」
可奈も困り顔をした時、デスクの電話が鳴った。今9時30分を少し過ぎたところ。微妙な時間だ。いつも『あおぞら』を利用している老人が寂しさを紛らわすために電話をかけてきたり、家族からの急な依頼の場合もある。西東京支部管内でオーガやバルディオールが出現した時の警察からの通報はメールであるため、それ系の電話ではないはず。
電話は金沢支部からだった。バルディオール・レーヌが現れたのだ。
"狐"出現の際は、フロントスタッフで食い止めているうちにサポートスタッフは本部に集まらず各自でとにかく逃げること(仙台支部の人的被害は、サポートスタッフたちが車に分乗して逃げようと本部に集まったところを狙い打たれたのが原因である)、サポートスタッフの撤収が済んだら諸機材は(車も)全て放棄してフロントスタッフと支部長も逃げること。
レーヌ対策の要諦は先日の仙台支部における損害を省みて、新しいバージョンのものが会長名で全支部にメールされていた。
急いで会長にメールを打つ。会長の居場所を秘匿するため、メールアドレス等は可奈しか知らされていないのだ。
打ち終えて、可奈はデスクに両肘を突いて考える。
これだけ広域の出現と攻撃を単独で行うバルディオールは、今までいなかった。なぜ、こんなことをするのだろう。
そしてなぜ、あれ以来この西東京支部管内に出張ってこないのだろう。内通者がいるのなら、それこそリアルタイムでこちらの戦力と戦術の情報を手に入れることも可能だろうに。
相談したい。隼人やミキマキと。だがそれは、BAD ENDへと続く道。
可奈には見える。部屋に飾られているという噂の短槍を手に、悪鬼羅刹のごとき面貌の理佐が西東京支部に討ち入りしてくる姿を。その大立ち回りの結果は――
「スプラッタだわ……」
横田と永田の不審な視線を浴びながら、可奈は内通者への対応を考え続けていた。
3.
路地裏に逃げ込んで、バルディオール・レーヌはじっと息を潜めた。しばらくそのまま聞き耳を立てて、追っ手がいないかを確認する。暗がりから顔を出して確認したいという衝動を抑えるのは、いつまで経っても慣れない。
今回の戦闘は、最初からサポートスタッフに的を絞った作戦を取った。自分の護衛には2体しか付けなかったオーガの残り10体を、戦場とした住宅街周辺に配置されたサポートスタッフ襲撃のために繰り出したのだ。結果、2名に重傷を負わせ、3名に軽傷を与えることに成功していた。
しかし、レーヌ本人はこれまでにない危機を迎えることとなった。金沢支部長がサポートスタッフの逃走を援護せず、エンデュミオールたち6人全員をレーヌ打倒に振り向けたのだ。おかげで護衛役としたオーガの治癒すらままならず、きりきり舞いする羽目になってしまった。
右肩に、手をやる。水系エンデュミオールが放った水弾に貫かれて、バルディオールとして初の被弾をしていた。既に治癒を済ませてあるそこに、知らず知らずのうちに手をやってしまう。
(ちくしょう! ちくしょう! よくもあたしに傷をぉ!)
思い出すだに腹が立つ。いっそ支部を襲撃して、ひと仕事終えてまったりしているところを皆殺しにしてやろうか。だがそれは、伯爵家総司令官代理のニコラ・ド・ヴァイユーによって禁止されている。レーヌは舌打ちをしかけて、まだ潜伏中であることを思い出した。
『あおぞら』のスタッフに不安と動揺を与えるため、戦闘では容赦しない。その点については、一定の成果を挙げている。レーヌがこれまでに襲撃した5つの支部において、サポートスタッフの離職が増えているのだ。さすがにフロントスタッフはまだないようだが。
いや、いまだに1人も離職が無い支部がある。西東京支部だ。その士気の高さを思い出して、レーヌはまた舌打ちをしかけた。
気に入らない。
なんとしてもあの支部を再襲撃せねば。それも、ただ損害を与えるだけでなく、完全に叩き潰さねばならない。レーヌ自身のために。
そのためには、完璧な襲撃プランを練らねばならない。レーヌは変身を解除すると、路地裏の暗闇から滑り出た。宿に戻ってシャワーを浴びて、ゆっくり考えよう。
憎い、憎んでも憎みきれないあのエンデュミオールたち、白と黒を殺す策を。
4.
夕方の涼しさ。それは、駅のプラットフォームでは人いきれですっかり温められてしまい、隼人をがっかりさせた。思わず手扇であおいだところを、委員長に笑われる。
「そんなに暑い?」
「いやつい……俺も委員長みたいに涼しい恰好してくりゃよかったぜ」
白く小さい麦わら帽子に、ノースリーブのワンピースも白。ミュールのオレンジを差し色にして、ゼミ旅行の時とは全く違うベクトルの小ざっぱりしたいでたちをしている。このあと塾講師のバイトに直行する隼人はボタンダウンのカッターシャツにスラックスで、サマースタイルとはいえまだまだ暑苦しいのだ。
「なに?」
「いや、大学に行くくらいで随分おめかししてくんだな、と」
「そりゃあもう――」とふふんと笑う委員長。
「デートだもん。ここは女子アピールしとかないと、ね?」
「いやいや、デートじゃないから」
隼人はゼミ旅行の帰り道、二階堂先生に卒論の内容について聞かれ、読んでおいたほうがよい論文を指示された。大学の図書館で探したが見つからず、先生に相談したところ、近在の大学の研究室にあることを調べてくれた。
そして現地にたどり着いた隼人は、見慣れぬ場所に見慣れた人とバッタリ出くわすことになる。そういえば、そこの教官の1人は委員長の指導教官であった。というわけで、隼人としては不本意ながら楽しい帰り道二人旅となったわけだが――
「はぁ、やっぱいいわぁ。専門が一緒の人とおしゃべりできるって」
委員長は向こうの考古学専攻の学生と話し合えて、大満足のようだ。
「楽しいよな、そういうのって」
出口へ向かおうとした隼人は、視界の端に映った人影に驚き、思わず顔を背けた。長谷川が反対側のホームにいた。同じく出口へと向かっているのだが、
(今、こっちにスマホを向けてたような――)
「隼人君? どうかしたの?」
わけを委員長に話して、ちょっと離れて改札を出てもらう。長谷川の姿が見当たらなかったのは幸いだった。
「ごめんな、無理言っちゃって」
委員長は軽く含み笑いで許してくれた。
「なんか、秘密交際みたいでちょっと面白い」
「まぁな」と隼人も笑う。
「これでカノジョがいなきゃ、心から楽しめるんだけどな」
また含み笑いが返ってきた。
「その本、いずれ返しに行くんでしょ? その時は声かけてよ」
「今度は入念な変装でもするの?」
まさか、と今度はにっこり。
「隼人君を"秘密の交際相手"って紹介してあげるわ。向こうにいる、カレシに」
「マヂ勘弁してください」
お互いに笑って、反対方向に別れる。ちょっと勘違いした自分が恥ずかしい隼人であった。
下宿には帰らず、塾へと向かう。歩きながら電話をするのはよくないことだと分かってはいても、時間が無い。相手の理佐には余裕が無い。
「このあいだ行った食堂って名前何だっけ?」
『食堂……って、横浜で行ったとこ?』
「そうそう」
横断歩道を急いで渡る。教えてもらった名前を繰り返しつぶやいていると、道行く人に変な目で見られているが、気にしている時間の余裕が無い。
知りたいわけを聞かれて千早の名前を出したらまた雲行きが怪しくなってきた。慌てて週末のデートのことに話を切り替えた。
「昨日送ったプランでいい?」
『うん……』
なんだろう、テンションが低い。
「どうしたの?」
『もっと遠くに、長く行きたいな』
「そうだね……」
来月のバイトのシフトをいろいろ調整しているから、1泊2日なら行けそうだ。そう告げると、やっと跳ねるような声色に変わった。
『今日はできそう?』
「何が?」
『例の写真よ。今日も来るんでしょ? あのガ……子」
「ガコって何?」
と聞いても答えが返ってこなかった。やっぱり写真は撮れないと正直に伝えると、呆れたような安心したような声がスピーカー越しに伝わってきた。
『あなたって、そういうところだけ妙に馬鹿正直なんだから。分かったわよ。じゃあね』
なにが分かったのか聞く前に、通話は切られてしまった。でも珍しく機嫌よく電話が終わったから、良しとする。
千早に店の名前をメールして、塾に着いた時には、微妙に汗をかいていた。トイレで顔を洗って出て行ったら、すれ違いざまに挨拶をされた。
「あ……隼人せんせー! こんにちわ!」
さっそくのターゲット――いや、沙良の登場に声を上げてびくついてしまった。途端に傷ついた表情になった沙良に謝ると、苦笑気味に女子トイレへ駆け込んでいった。
「はぁ、いかんいかん……ってこれ、もしかして……」
そっと、できるだけさりげなく辺りを見回す。誰もいない。
「どうするどうするどうする……」
「隼人くーん」
野太い声に、今度は文字どおり飛び上がった。
「トイレの前で何やってるんだ?」
控室の戸を少しだけ開けて、塾長が不思議そうな眼で隼人を見ているではないか。
(うわぁぁ、ヤバい!)
トイレの前で女子生徒を待ち構えています。写真を撮りたくて――いやいやいや、バイトうんぬん以前に事案発生じゃん!
「ちょっと考え事してて……さて今日の授業は化学と数学――」
「隼人君」
言いわけでごまかして控室に入ろうとしたが、そうは問屋がおろさないようだ。隼人の背中を、冷たい汗が流れる。その肩に、塾長の分厚い手が置かれた。
「気持ちは分かる」
「……えっと、なにがですか?」
「しかし、それは茨の道。早まっちゃダメだ」
深く溜息をつきながら、訓戒をする塾長の手に力がこもる。既に犯罪者予備軍扱いされていると感じた隼人は抗弁した。
「いや、ほんとに考えごとしてたんですけど……」
「気持ちは分かる」
ループしたよ、おい。
「早まっちゃダメだ。彼女は高校3年生。もう7ヶ月待てば、花の女子大生だ」
あれ? 別ルートに分岐した?
「いいか、隼人君。大学の新歓コンパが始まるまでが勝負だぞ」
青少年健全育成条例違反ルートでした。ほっとして、力強く断言する。
「気を遣ってもらってすみません。でも、あの子のこと別になんとも思ってませんから」
隼人の言葉を聞いた塾長が、曖昧な表情のまま固まる。その目線を恐る恐るたどると、トイレの前でふるふるしているツインテールがいた。
うつむいて、教室のほうに急ぎ足で去っていく未成年を見送って、2人の成人は『やっちまった』という溜息をついた。
「まああれだ、隼人君」
「はあ……」
「刺されないように、身辺警護をしっかりな」
なんでこう、俺は刺されるイメージなんだろう。既視感に悩まされながら、隼人は授業の準備を始めた。
授業開始とともに配った小テストは、予告してあったにも関わらず、生徒たちを悩ませていた。その誰を見るともなく、隼人の思考は彼方に飛んでいた。
昨夜の金沢支部は、初めてレーヌに傷を負わせることに成功した。その事実が、彼を焦らせる。このままでは、楓たちの仇をほかの人に取られてしまう。
一方で、そのことに安堵している自分がいるのもまた事実である。優菜からも、美紀からも、心配そうな潤み目を向けられた。それほど自分は危うい顔をしているのかもしれない。他人がレーヌを倒せば、それももう終わる。
そういえば、るいや真紀は元々けしかけてくるほうだとして、理佐はどうなんだろう。
(理佐ちゃんとそういう話、したことないな)
彼女との会話は楽しい。ほかの女子のことになると途端に角を立てるのが難点だが、それもまた可愛いと隼人には思える。だが連続でやられるとついため息が出て、それを聞いた彼女が悲しげな顔になる。それが、隼人にはやるせない。
(俺、理佐ちゃんをないがしろにしてるつもりはないんだけどな)
学生として生活をしていくのに、他人と交わらないわけにはいかない。ミキマキやるいのように明らかに理佐をからかってる場合は別にしても、一緒の講義を受けたりみんなで人文棟からイッショクに向かうだけで、まるで裏切り者のように難詰されるのはなんとかならないのだろうか。
隼人は理佐と付き合い始めてから二、三度、その話をしてみたことがある。答えはいつも、
『どうして分かってくれないの? あなたはわたしを見ていてくれるだけでいいのに……』
ふと気が付くと、沙良がこちらを見ていた。制限時間が過ぎたのかと腕時計を見たが、まだ3分ほど残っている。
じっとこちらを見つめる沙良の眼は、18歳とは思えないほど大人びた、どこか哀しげな色を湛えていた。いや、眼だけではない。かもし出す雰囲気が隼人にそう思わせるのか。
眼を逸らさなきゃ。俺には彼女がいるし、それ以前に高校生は色恋の対象外なんだ。そう心中弁解した隼人はしかし、沙良の瞳に惹きつけられてまばたきすらできなかった。
だが、腕時計のアラームが二人の時を終わらせた。救われたように号令をかけて答案を集めさせ始めた隼人を沙良はもう見つめず、いつもの元気な女子高生に戻って教室のざわめきに溶け込んでいく。
「んじゃ、次回の授業冒頭に返すから」
生徒たちに告げて、隼人はテキストを広げた。
そこから終了まで、授業と掃除は波乱無く終わり、隼人は今講師控室で生徒の持ち込んだ参考書を解説している。なかなかに難しい問題で、別の講師にも助言を仰がなければならないくらいのレベルである。
「で、ここにさっき出した答えを代入して――」
さすが理学部数学科卒業の正職員講師、見る見るうちに数式が白紙を埋めてゆく。生徒と同様に感嘆の声を小さく上げながらそれを見守っていた隼人の爪先が、ぎゅっと踏まれた。加害者は見なくとも分かる。彼の対面に座る、沙良だ。一心不乱に回答を見つめているようで、その実口元は厳しく引き結ばれているのがチラ見だけでもよく分かる。
踏まれ続けること5分ほどで、難問は見事解決された。賞賛を一身に浴びながら手を上げて自席に戻る講師を見送って、時間外の質問タイムはこれにて終了。隼人も机上を手早く片付けると理佐にバイトが終わった旨のメールを打ち、生徒たちに少し遅れて講師控室を出た。
ビルの玄関までの階段にて、背後に人の気配を感じる。
「隼人せんせー――」
沙良の低く小さく、それでいてしっかりとした声が隼人の耳朶を打つ。
「わたし、あきらめませんから」
振り向くことなく小声で返答しようとしたが階段が尽き、2人は生徒たちの待つ玄関に到着した。
「あ! 来た来た! ねぇねぇ沙良ちゃん!」とみやびが早速ニヤニヤし始める。
「なぁに?」
「沙良ちゃん、ついに念願の告白ができたんだね!」
「いやいや、あのいかにも他人のそぶりなお二人だもの、接吻よセップン!」
他の友達までからかい始めて、沙良は真っ赤になった。
「んなわけないじゃない!」
「されてないし、してないから」
こちらは白々しくも真顔で事実だけを述べた隼人の顔が、閃光に白く染まった。いや、隼人だけではない。その場にいる女生徒たちも同様だ。
「! 理佐ちゃん……?」
閃光の主は、片手にコンパクトデジカメを構えた理佐だった。カメラを下ろしてにっこり笑うと、
「さ、帰ろうよ」
女生徒たちが発する黄色い喚声を背に、車――先日採石場に行った時に使った、理佐の友人から借りたのと同じもの――の助手席に乗り込んだ隼人は、多分わざとゆっくり発進した理佐とともに、彼女の部屋へ至る道をたどったのであった。
沙良が写り込んだ写真を横浜支部に送信するために。そしてなにより、理佐と夜を共にするために。