0-1 千変万化の蒼き炎
少年は夢を見ていた。
時の流れを遮断する巨大な氷の中で、『自分が歩んできた人生』という長い夢を。
《黒枯れの殲滅戦》
あらゆる生命が枯れ果てた暗い大地が広がっていた。
まばらに立つ木々はもはや墨の様に黒くなり、木葉の一枚もついていない。
足元に転がるのは硬い砂と角ばった石のみ。
生命を感じられるものは見当たらなかった。
【黒枯れの地平】。
魔族が住まう【魔性大陸】の中でも黒く死の情景が広がったこの場所は、人々にそう呼ばれている。
鬼や悪魔等に似た身体的特徴を持つ魔族。
人族・獣人族・魔族の三種族で構成されるこの世界において、魔族は最も疎まれる存在だった。
――そして、現在。
魔族は人族からの一方的な宣戦布告を受け、圧倒的戦力の前に滅亡の危機に直面していた。
「……、」
戦争の渦中となった【黒枯れの地平】に、一つの人影が佇んでいた。
十代半ばの幼さが残る少年は、目に掛かった前髪越しに薄暗い曇天を見上げて言う。
「エスト」
《……ん。なーに、ディア》
愛称を呼ぶ少年に応じる声がどこからともなく聞こえてくる。
青白く輝く光が彼の周囲を舞った。
眩いばかりの光はその量を増やしていき、やがて一つの人型を形成する。
ゆったりとした動作で着地したのは、蒼色の髪と瞳が特徴的な美少女だった。
「もうすぐここを人族の部隊が押し寄せる。力を貸してくれ」
最後の一言だけで言葉の真意を全て理解したエスト――【大精霊エストリカ】は頷きながら答える。
「勿論分かってるよー。任せて」
「本当、頼りになる。悪いね、こんな危険な場所にまで付き合わせちゃってさ」
「気にしてないわよそんな事。それがディアの性分で、あたしが止めても一人で勝手に突っ走っちゃう事は前から知ってるから」
「……それ絶対気にしているよね」
いつもの様な軽口の応酬を交わしながらも、ディアと呼ばれた少年――セルディア=レイアサルトの顔色は優れない。
思いつめた表情の裏に浮かぶのは、凄惨な死体の群れの記憶だ。
地面を覆い尽くさんばかりの血と屍に、鼻を突き刺す鋭い死臭。
目を覆いたくなるほど壮絶で、どこまでも残酷なあの光景は、瞼の裏に泥のようにこびり付いたままだ。
無意識の内に苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべていたセルディアは、その記憶を頭の片隅に追いやってから言う。
「前線にいるのはもう俺達だけか」
「そうね」
落ち込んだ声音で告げられた言葉に、エストリカは一言で応じる。
――彼等は今、攻め込んできた人族の一部隊を向かい打つ為、この場所に立っていた。
「向かってくるのは【断濁の宝剣】の人ではない。どうやらあの人は別ルートを行ったみたいだ」
「宝剣に選ばれし者。人族に現れた勇者、ね。アイツさえ現れなければ、人族は魔族を滅ぼそうなんてふざけた事を考えなかったかもしれないのに。馬鹿みたいな王に『魔族は悪だ』って洗脳されちゃって。迷惑な奴」
【断濁の宝剣】。
この世界に存在する【七つの神器】の一つである、魔族殺しの聖剣だ。
「その思想は昔からあったんだろうさ。魔族の起源が悪魔とか鬼――『不浄な生命』であるってだけで、存在を忌避する。というか、『不浄の生命』とか言われている時点で色々と物申したいところではあるけど。結果的に勇者様は、昔から邪魔だった魔族を滅ぼす為の戦争の引き金として十分に貢献したって訳だ」
「直接的な原因だったのか、ただのきっかけだったのかなんて関係ない。どっちにしても、気に食わない」
セルディアはそう吐き捨てたエストリカに困ったような表情を向けつつ、
「多分、魔王さんは勇者の対応も怠っていないはずだよ。そう簡単に城に近づけさせるとは思えない。きっと、側近の誰かを向かわせてる」
「で、ディアはこれからかち合う相手を倒した後、その誰かさんの加勢に向かう訳だ」
「……、」
彼女が――大精霊五人が使える『憑依』の権能は、対象の思考を読み取る事が出来る。
先程までセルディアに憑依していたエストリカには、彼の考えが筒抜けだった。
言葉を返せず黙り込んでしまう相方に、彼女は微笑みながら告げる。
「そんな申し訳なさそうな顔しなくていいってば。大丈夫。あたしはどこまででも、ディアについて行くって決めてるんだから。向かう先が危険だらけの死地だったとしても、あたしはディアと一緒に戦うよ」
「……まったく、敵わないなぁ、エストには」
「あははー。いつから一緒にいると思ってるの?」
エストリカは優しい手つきでセルディアの頭を撫でる。
二人の間には、家族以上の関係が築き上げられていた。
「見えてきたね」
「ああ」
セルディアは前を見据えたまま短く頷く。
「かなりの数だよ。大丈夫なの?」
「問題ないさ」
「……あたしも戦おうか?」
「ダメだ」
彼女の提案を否定するセルディアの語気は強い。
事情を知らない人が聞いても、決して譲れない何かがあると分かるくらい、彼の声音は真剣だった。
「エストは戦わなくていい。俺一人で、十分だ」
前方からは薄暗い魔性大陸を更に黒く染め上げる様な大群が迫ってきている。
その数およそ一〇〇。
規律によって統制された部隊でない事は、それぞれが身に纏う装備の不整合さを見れば分かった。
後方支援型に思える魔術師然とした者や、如何にも前衛で武器を振るう剣士の格好をした者。
装備の面において均一性の欠片もない集団は、しかし一つに纏まっている。
先頭を歩く男。
おそらく彼が、彼の存在が、あの集団をまとめ上げているのだろう。
どう考えても、一人で相手をするような数ではない。
それでもセルディアは、頑なに大精霊を戦いに繰り出そうとしなかった。
「そ。それならあたしはディアの事を信じるよ」
「ああ。――任せろ」
【大精霊エストリカ】は再び青白い光の粒子を撒き散らし、その姿を消し去った。
いわゆる憑依の状態に移ったのだ。
肌を突き刺すような攻撃性を持つ魔力反応を覚え、向かい来る軍勢を睨みつける。
「エスト」
《分かってるよん》
直後、前方から無数の術式が飛んできた。
パッと見ただけで二〇を越える火の槍や氷の礫。
魔力を用いて発現する『魔術』という名の超常現象。
中でも、"魔術的戦闘性能"を持つそれらの汎用術式は『術法』と呼ばれていた。
灰色の空に点された眩い色彩を見据え、セルディアは術韻を紡ぐ。
「千変万化――フレイヴェルグ」
声は、続けて巻き起こされた爆発音によって掻き消された。
数多の術法が黒い大地を抉り、土煙を舞い上がらせる。
削り取られた岩石の破片が四方八方に飛び散り、乾いた音が鳴り響く。
自分の部隊に、正面に立つ"障害"目掛けて術法を放つよう命令した男は、その光景を眺めて目を細めた。
「……あァ? なんだアレはふざけてんのか? なァんであんな奴がまだこんな所に居やがるんだ?」
心底疑問を浮かべた様子で言う。
「ま、クソみてェにどうでもいいし、さっさと――」
言葉は最後まで発せられなかった。
爆発による土煙の中から銀色の何かが飛来する。
投擲用短刀。
刃渡り一〇センチメートルも無い凶器が狙うのは、先頭の男、その心臓。
男の不意を突けた攻撃だったが、明確な殺意は感じ取れない。
あくまで牽制。
故に男は、巨剣を振るって容易く投擲用短刀を叩き落しながら、ニヤリと笑い、
「へえ……あの術法の嵐の中で生き延びるって事は、ただの雑魚だったって訳じゃァねえ様だな」
爆発が収まったその先には、多くの術法に襲われたはずの少年が立っていた。
青みがかった黒色の長い髪に透き通るような青の瞳。
額からは一本の角が生え、彼がただの人族ではない事を如意に示している。
黒を基調とし、ライトな青色のラインが描かれたコートには、傷一つ付いていない。
両肘に当たる部分には丸型の穴が施されており、そこから額のものと似た角が突出していた。
半魔。
少年――セルディア=レイアサルトは、魔族の一門【青鬼種】の父と、人族である母との間から生まれた忌み子の一人だった。
彼の両手に握られるのは二本の短剣。
銀色に輝くその刀身には、【大精霊エストリカ】が持つ権能、千変万化の蒼き炎が輝いていた。
静寂が場を包み込む。
瞑目したまま立つセルディアは、やがてその瞼を開いて男を見据えた。
心を殺したハイライトの薄い視線を受け、男は何かが背筋を這う感覚を覚える。
「ここから先に、貴方を通す訳にはいかない」
どうして戦争なんて悲しみしか生まない無益な事をしてしまうのか。
どうして平和に暮らす事が出来ないのか。
そんな疑問はもう浮かべない。
認められない。納得はしたくない。
それでも答えはもう出てしまっているから。
「貴方のように、喜々として命を殺す様な人を放っておく事は出来ない」
「なんだテメェ。バカじゃねえのか? これは戦争で、人が死ぬのは当たり前なんだよ」
男は手に握る巨剣を肩に担ぎながら、
「それなら、どうせ殺すなら存分に楽しんだ方が得じゃねェか。」
狂っている。
人を殺すことに――命を壊す事にそのような感情を抱ける時点で、男はどこかがおかしかった。
狂者。
人々にそう呼ばれる一流の冒険者は笑う。
「つーかこっちはこの数だぞ? テメェ一人で勝てるとでも思ってんの?」
嘲笑交じりで言う男に対し、セルディアの表情は変わらない。
「何より、この俺が誰だか知ってりゃあそんなバカみたいな考え――」
「貴方が誰であろうと、人数差が大きかろうと、そんなことは関係ない」
「……あん?」
「出来なければここで死ぬ。それだけだ」
分かりやすい開戦の合図なんてものはない。
一〇〇対一の戦いが、幕を上げる。
次話21時。次々話22時。