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第4章

 午前六時半、肌寒い風が吹く中をいつも通り絵津子は自転車で出勤し、丁寧に手洗いとうがいを済ませてから作業着を身につける。秋の気配を感じるその季節になると、絵津子は自分が病に伏していたときのことを思い出す。あの時、家族や看護師、そしてその他の病院関係者たちの優しさに、どれだけ救われたか、そんな大切なことをひと時も忘れたくないという思いから、絵津子は病院で働いているのかもしれない。

 前日、絵津子が休みの日に、入院患者が多く入ってきており、満床に近い状態となっていた。中には他の科で病床が不足していたため、肝移植科のベッドを使っている患者もいた。お茶をいつもより多めに準備して、朝食の三十分前、午前七時三十分に、絵津子は各部屋を回り始めた。

 いつも通りの笑顔で、ひとりひとりに声をかけると、笑顔と声が返って来る。気分が優れなかったり、辛かったりして、笑顔も声も返って来ないこともよくある。絵津子はそれも全て受け入れ、自分の中に取り込む。するとその人達はいつの間にか、少し楽になった自分に気づき、絵津子を心待ちにするようになる。絵津子は自分の中に取り込んだ『思い』を週に一度、父と母が納められている納骨堂で浄化させる。それらは自然な、あくまで気持ちに沿って行われる行動であって、絵津子に特別なことをしている気は全く無い。

 最後の一部屋は男用の四人部屋だった。その部屋だけはベッドは埋まっておらず、入院患者は一人だけだった。ドアを開け「お茶をお持ちしました」と言いながら部屋に入る。そして目の前まで来て微笑んだところで、絵津子はその患者の顔を凝視したまま固まってしまった。患者はヘッドフォンを耳にあてており、絵津子に気づいたところで、すみません、と言って外した。絵津子が固まってしまっているので、「あの」と声をかけると、絵津子はやっと我に帰り、「あ、あの、すみません、お茶をお持ちしました」と言った。

「お願いします」そう言って湯呑を手渡され、そこにお茶を入れながらも絵津子はドキドキしていた。お茶が入った湯呑をテーブルに戻し、改めてその患者の顔を見た。歳の頃にして二十歳くらいだろうか、その若者の顔は遠い記憶のしかし鮮明なイメージの中にあるバーテンダーの純平にそっくりだったのだ。絵津子は実のところ完膚無きまでに緊張しており、しかしそれを悟られないように話し掛けた。

「昨日、入院されたんですか?」

「あ、はいそうです」

「ドナーさん?」

「うん、そう、ドナーです。母親に移植するんです」

「そう、がんばってね。実はね、私も何年か前に息子の肝臓をもらったの。今は二人とも元気にやっていますよ」

「へぇ、そうだったんですね。そっか、ありがとうございます。何だか希望が湧いてきました」

「そう言っていただけると嬉しいわ」

 六十歳の絵津子の年齢はどんどん巻き戻されていき、鼓膜には微かに、純平と過ごした日の夜明けの雨音まで感じていた。絵津子は思わず「あれからどうだったの?幸せになれた?」と聞いてしまいそうだった。

 その時、後ろでドアが開く音が聞こえ、純平の顔をした若者が「父さん」と言った。絵津子は息が止まりそうだった。何とか呼吸を整え、ゆっくりと振り返り、「こんにちは」と口にしながら父親の顔を見た。

 かなり若く見えるその父親の顔は、純平とは全く異なっていた。純平の要素が全く含まれていないとも言い切れないが、明らかに違う人物だった。絵津子はホッとして、少しだけがっかりして、そして微笑んだ。

「何年か前に息子さんから肝移植手術受けたんだって」

「そうなんですか。いやぁお元気そうで」

 親子といくつか言葉を交わし、絵津子は病室を後にした。純平はきっと幸せになれたんだ、そう思うことができた。何か、長い間、心の片隅に引っかかっていたシコリのようなものがフッと消えたような気がした。


 翌々日、いつもと同じように純平の顔をした若者の部屋に行くと、その姿は無かった。部屋に入ってきた看護師に聞くと、今日が手術で、ついさっき手術室に向かったとのことだった。荷物は整頓されていたが、一枚だけ、おそらくバッグに入れ忘れたCDがベッド上にあった。そのCDには“Jimi Hendrix”と書かれていた。純平がウッドストックの話をしてくれたときに教えてくれたギタリストの名前。絵津子も一枚レコードを持っており、夫に「ジミヘンなんて聴くの?」と驚かれたこともあった。「たまたまフリーマーケットか何かで買ったの」とめったにつくことの無い嘘をついた。


 秋らしからぬ陽気の中、敷地内にある公園で絵津子は弁当を広げた。水筒からお茶を注ぐとほんのり湯気が立つ。時刻はもうすぐ十二時三十分になろうとしている。絵津子は手術室にいる純平の顔をした若者と、その母親のことを思った。昨日まで若者の中にあった肝臓が、今夜には母親の中で母親の臓器として働き始める。絵津子は、その移植された肝臓が大量の血液を受け入れ、送り出すところを想像した。若者の肝臓はきっと母親の体を救うだろう。そして限りなく純粋な絆が二人と、二人を包む人々を繋ぐだろう。絵津子はそう思い、そっと両手を合わせた。秋色の公園に優しい風が吹き、絵津子の膝の上に銀杏の葉が一枚、そっと舞い降りた。

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