第3章
会社を辞めたことは地元の両親に言わず、絵津子はスナックのホステスの仕事に就いた。男が自分を求めて集まってくる、それを現実的に特技として認め、絵津子は純粋に、その特技を活かして金を稼ごうと考えた。男は絵津子の中で分類分けされ、その性質などに沿った対応を行うことで、多くの男たちを魅了していった。絵津子にとってその状況はシンプルかつ有効的であり、一ヶ月も経つころには、絵津子目当ての客が店の外で順番を待つほどになった。普通であれば、そんな急激な変化を起こした場合、ホステス仲間からの嫉妬で、人間関係の問題が発生してしまう。しかし絵津子には(このころになると自分でも気づいていたのだが)、対人関係における才能があり、全くそのようなことが起きなかった。人間性、接し方の技術、口の上手さ、など、そのための条件はいろいろあると思うが、やはり絵津子のそれは一言で『才能』と呼ぶべきものだった。
しかし順風満帆と言ってもいいそんな状態を、絵津子はわずか二ヶ月で放り出してしまった。店側は戸惑い、客は激怒し、落胆し、そして去っていった。絵津子はあまりに影響力が強すぎた。しかし絵津子はそうせざるを得なかった。長い時間をかけてゆっくり探そう、そう思っていた鍵が、思いがけず早々と目の前に表れたのだった。その鍵とは、『恋』という感情だった。『恋』は絵津子にとって不可解なものであり、その存在がゆえに時の流れの中で動けずにいる自分を感じていた。会社勤めの時の『彼』のことはもはや深層でさえ見つけることは難しかった。しかし自分が欺かれた『恋』という感情は、まだ絵津子の喉の奥にべっとりと貼り付いており、時折それが呼吸を苦しくさせた。絵津子が生き延びるには、あくまで自然な流れの中で、何から強制されることなく、何のためでもなく、純粋に恋をする必要があったのだ。
絵津子が恋をしたのは、純平、という名の同じ店に勤める一つ年下のバーテンダーだった。その恋は、予感も無く体の芯に突然火をつけ、それが瞬時に体中に燃え広がるようなものだった。実際絵津子は、その時が来るまで、純平の名前を知らなかったし、その顔さえろくに覚えていなかった。
純平は開店中バーテンダーとして勤め、閉店後はホステスの送り迎えをしていた。その日、いつも最後に降りるホステスが風邪で休んでいたため、絵津子が最後に降りることになった。
ラジオから、絵津子の聞いたことのない英語の音楽が流れていた。絵津子は後部座席で窓ガラスの向こうにある闇を見つめていたのだが、その音楽に合わせ、純平が指先でリズムをとっているのに気づき、「この曲好きなの?」と尋ねた。純平は、これまで話し掛けられたことのない絵津子から質問され、少し驚きながらも「はい、大好きです」と嬉しそうに答えた。「ウッドストックって知っていますか?去年アメリカで行われた大規模なコンサートなんですけど」
「知らないわ」、そう答える絵津子の顔を純平がミラー越しに見た。一瞬、目と目が合い、純平は恥ずかしそうに、視線をフロントガラスに戻した。純平はそれから、ウッドストックについて、ロックという音楽について、そして、自分もいつかアメリカでバンドをやろうと思っていることについて、表情を輝かせながら話をした。その話は、これまでに絵津子が、触れたことの無い世界の話だった。純平の言葉を、まるで何処か異なる時空の中で聞いているような気持ちになった。そして、目を輝かせながら話をする純平から感じる波長は、これまで絵津子が誰からも感じたことのないものだった。絵津子の心臓が固い音を立て始め、純平の顔から視線を外すことができなくなった。純平の声が鼓膜を震わせるたびに、体が自然と純平に近づいていった。「これなの?私はこの感情を開放してもいいの?」絵津子がそんなことを考えていたとき、大通りからマンションがある道へ折れる交差点で、信号が赤に変わった。純平の話は、絵津子が気づかないうちに終わっていて、車内には純平が好きだという音楽だけが流れていた。絵津子は前に傾いていた体を純平に気づかれないように起こし、ガラスに映る純平の顔が、右折車のヘッドライトに照らされるのを見ていた。絵津子は自分が今、甘く、不安定な場所に立っていることを認識した。そして信号が青に変わったとき、純平の好きな曲がフェイドアウトしていく中で、絵津子は恋に落ちた。
それから絵津子は、仕事中だろうが、送迎中だろうが、客が隣にいようが、いまいが、ふとしたタイミングで、誰がどう見ても結構長い時間、純平のことを凝視するようになってしまった。そのことに絵津子自身は気づいていない。絵津子がよそ見ばかりしているように見えるものだから、客からは当然のごとくクレームが起こる。視線を感じる純平は焦る。何が起きているのか分からない。絵津子は何気ない顔をしている。店側としてはいくら何でも放っておくわけにはいかない。「ねぇ、どうしたっていうのさ」、絵津子は答える、「何が、どうしたっていうんですか?」
店長は訳が分からなくなって、がっくりきてしまい、「まぁ、何にせよ、いくら何でも、こんなことが続くようなら辞めてもらわなきゃいけないから」と言った。絵津子は店長の言葉の意味を理解できなかったが、店長がそう思うなら仕方ないと、微笑みながら「分かりました」と答えた。店長はさらに泣きたくなった。
その夜、不幸にも(あくまである側面から見れば、ということだが)、送迎の順番の最後は絵津子だった。純平の緊張は、それが分かったときから始まり、送迎中も一人が降りるたびにプレッシャーが土嚢のように積み重なり、いっそのこと自分も降りてしまおうと、何度もそう思った。
「あのね」
突然の告白口調に純平はアクセルを踏み込みそうになった。
「は、はい、何でしょう?」
「前さ、こうして私を最後に送ってくれた日、音楽の話してくれたでしょ」
「音楽?えと、あ、あぁウッドストックのことですか?」
「そう、それ。私ね、あの日からあなたのことが好きなの」
車は信号無視する形になり、危うく事故を起こすところだった。
「え?へ?ぼ、僕ですか?」
「そう、あなた」
「いやぁ、でも、そんなこと言われても」
「私今夜で辞めるから」
「辞める、って店ですか・・・。そ、そんなぁ、俺、店長に何って言えばいいんですか」
「何も言わなくていいよ。あなたは何も知らない。だから車を店に返したらウチに来て」
「そ、そんな、だってそんな」
「待ってるね。きっとアナタにとっても私にとっても大事なことだから」
純平は混乱していた。混乱しながら夜の道を飛ばして青山にある店に辿り着き、通勤用の原動機付自転車で、混乱しながら絵津子の家に引き返し、理由なき罪悪感を背負いながら絵津子を抱いた。しかし抱き合っているうちに、いつしか混乱も罪悪感も何処かへ消え去り、代わりに純平は懐かしさのようなものを感じていた。その感情は純平を、母胎に帰るような深い眠りへといざなった。
夜明け前に雨が降り出した。雨音で目を覚ました純平が隣を見ると、絵津子が天井に視線を向けながら、その遥か彼方を見つめていた。「おはようございます」と純平が言い、絵津子が微笑んだ。純平は絵津子と同じように天井に視線を向けて、触れ合う肌に愛しさを感じながら、雨音に耳を澄ませた。そこには、純平と絵津子と雨音だけが存在していて、余計なものも足りないものも無かった。
純平は、絵津子を送り届けたときに、絵津子から言われた言葉を思い出していた。「アナタにとっても私にとっても大事なことだから」
それはずっと昔から決まっていて、その時が来るのをただ待っていたのだった。そしてその先は、少なくとも純平にとって、悲しむべきことであるように感じていた。その悲しみは、人生において二度訪れるかどうか分からないくらい、深いものかもしれない、そう純平は感じていた。
「あの」
「何?」
「ホントに今日からお店来ないんですか?」
「うん、行かない」
「僕らは・・・」
「私たちも今日限り」
「そう、ですか」
「ねぇ、知ってる?私は君に相当恋をしてるの。ウッドストックの話をしてくれた日から今も現在進行形で」
「でも、じゃあなんで・・・」
「私ね、あることが起こる前に初めて恋をしたの。あれを恋と呼んでいいのかどうか分からないけどね。でも、少なくともあのときの私にとって、それは恋だった。そして起こった、あることによって、私の中の何かが終わって、そしてそれから始まりのきっかけを待っていたの」
「誰かに、傷つけられたんですか?」
「そうね、傷つけられたし、傷つけたわ。私多分、異常だったから」
「全く想像できません」
「私だって、思い出すことさえ難しくなっているの。でもね」
「でも?」
「私の中にはまだ粘着質のサビみたいなものがこびりついたままなの。今、ここから先へ行くと、私は君を傷つけてしまう。回復できないくらいひどくね。私にはそれが分かる。そして君に恋をして、こうなることは、私がリスタートするために必要なことだったの。そう、私は君を利用したのかもしれない」
「分かってる、気がします。遊んだ、ということじゃないんですよね」
「勿論。SEXをするの、君が二人目だもの」
「意外です。失礼かもしれないけど」
「そうね、失礼ね」
「ごめんなさい」
「冗談よ」
しばらく沈黙が続き、雨の音だけが響いた。外は少しずつ明るみを増してきている。
「納得いかないかもしれないけど、納得してほしいの。身勝手だけど、本当に大事なことなの。ごめんね、私は自分を守らなければいけない。恋をしている私は君とこのまま、いつまでも一緒にいたいと思ってる。けれど、そうしてしまうと私は近い将来、君を『存在しないもの』として扱うことになる」
純平は深い溜息をついて答えた。どうにもならない、ということは純平にもなんとなく分かっていた。
「よく分からないけど、納得します。僕はどうすればいいですか?」
「服を来て、このまま出て行くの。振り返らずに」
純平は言われるがまま、服を着て振り返らずにドアを開けた。部屋の中に雨の匂いと音が広がった。絵津子は、湧き上がって自分を飲み込んでしまいそうな感情を、胸の中で握り締めながら言った。
「アメリカ、行けるといいね」
その言葉に純平は一瞬立ち止まった。思いが交錯し、でもそれは断ち切られ、後ろ手にドアはしめられた。絵津子の耳に原動機付自転車のエンジンの音が届き、やがてそれは雨音の中フェイドアウトしていった。そしてそこにはただ、絵津子と雨の音だけが残った。握り締めていた感情を手放し、絵津子は自らを抱きしめて泣いた。
三日後、絵津子はその部屋を引き払った。それからいろんな職と場所を転々とし、何人かの男と付き合った。その中には絵津子にマンションを買い与えてくれるような男もいた。絵津子は計画も無く動いたが金に困ることは無かった。計画の無い反面、目的はあった。それは、擬似(あくまで絵津子にとっては、ということだが)恋愛を繰り返すことによって平静な自分に辿り着けるようリハビリを繰り返すことだった。わざと女癖の悪い男を選んだり、辛い別れを用意したりすることで恋愛についての免疫をつけていった。恋愛で人生を壊しかけた絵津子にとっては、それと上手くやっていくことは死活問題だった。恋愛は媚薬であり、毒薬であった。精神が歪みすぎて、具体的に体に支障が出そうになると、純平のことを思い出した。純平と平穏に暮らし続ける自分を想像すると、どんなにめちゃくちゃな状況の中でも均衡を保つことができた。しかし均衡を保てた後、絵津子は必ず泣いた。それは心を乱すものではなく、むしろ心を調整するための涙だった。まるで純平と一夜だけ過ごした、明け方の雨の中で流した涙のように。
二十二歳の誕生日に、絵津子は地元に戻った。両親からすれば、絵津子は上京する前と何ら変わらない絵津子であり、むしろ変わらなさを笑ったくらいだった。
「東京に出て、これだけ垢抜けないのも珍しいな」という父親に対し、
「仕方ないわよ、父さんの子だもの」と絵津子は言って笑った。
絵津子は地元に戻る一ヶ月前に、最後の仕事と最後の男との関係を終わらせ、伊豆へ一人旅に出た。伊豆下田から数泊ずつしながら再び東京に戻った。稼いだ金を自分のアイデンティティとしていた男から貢がれた金は、その一ヶ月でほとんど使い果たした。その間、化粧もほとんどせず、質素な服を選んで着た。それは絵津子にとって目的を達成するための総仕上げだった。純平のことを思い出しても泣かなくなっていた。純平のことは変わらず好きだったが、幸せになってくれていればいい、ただそう願っていた。
帰郷早々、絵津子は両親に、お見合いがしたい、と言った。両親は多少びっくりしたが、早速色々なつてを使ってお見合い相手を用意した。絵津子は用意された写真の中から、ろくに説明も聞かず一人を選び、その人と結婚する、と言った。両親は、まず説明を聞くように言ったが、絵津子は聞く耳を持たなかった。そうして行われたお見合いの翌月、絵津子と、絵津子が直感で選んだお見合い相手は結婚した。夫は寡黙な人間だったが絵津子をしっかり愛してくれた。絵津子も少しずつ夫を愛していくようになり、二十四歳で娘を産んだことを機に、その気持ちは大きな木の幹のように、確固たるものとなった。その後、二十九歳のときに男の子を授かった。絵津子はその家庭の中で、妻として、母として生きることができることを心の底から幸せだと思った。そして、これは家族には一言も言わなかったが、十九歳のときにバーテンダーの純平と過ごした一夜が、すべてのきっかけだと信じており、感謝の気持ちを常に抱えていた。