第2章
高校を卒業するとすぐ、絵津子は上京した。東京にある、大手電化製品の会社に就職するためだ。絵津子は頭もよく、整った顔立ちで、小柄ながらスタイルもよく、地元にいるときから、いわゆる『もてる』タイプだったのだが、上京してからその『モテ度』は大幅にアップすることとなった。地方出身の素朴さと、純粋さが功を奏したのかもしれない(功を奏す、というのはあくまで『もてる』ということに焦点を置いた場合、ということだが)。しかし、あまりにも濃度の高い純粋さは、ときに毒となり、当人と、その身近にいる人を滅ぼしてしまう場合もある。
絵津子と関わることになった周囲の人々(特に男性)は積極的に絵津子の歓迎会を開いた。歓迎会の規模は十人前後の場合もあり、二、三人の場合もあったが、ほとんど毎日開催された。男たちは何とか絵津子と近づこうと必死だったのだ。しかし、そんな男たちの気持ちには全く気づかず、絵津子は、東京の人達は何て親切なんだろう、と思うだけだった。
結果的にその中の「営業部のエリート」と呼ばれる二十八歳の男が絵津子のハートを射止めた。初めての恋愛(地元でも何人かの男子に誘われ二人で出かけることもあったが、絵津子はそれを恋愛と思っていなかった。男子側は無論恋愛だと思っていた)に絵津子は夢中になった。ファーストキスを奪われた瞬間、絵津子の頭の中は真っ白になった。しかし、人と人とが、そんなにも接近し、親しげに交わす行為は絵津子にとって、自分の新しい一面を見出すきっかけとなった。一般的によくあることではあるが、絵津子は、二十四時間彼と一緒にいたい、と思うようになった。初体験をしてから、その思いはますます強くなった。そしてそれは、それまで誰ひとり予想しなかった、異常な嫉妬へと発展した。
まず、彼が他の女性と話していることが我慢できなくなった。仕事上の関係だけならまだしも、買い物先のレジの女性と接点を持つときなどでさえ我慢できなくなった。一緒に歩いていてもすれ違う女が皆、彼を見ているような気がしてきた。どうしてもそんな気持ちを胸に秘めておくことができなくなり、ついに彼に思っていることを打ち明けた。しかし彼は「どちらかというと君のほうがもてるし、それに僕だって君のことで心配したりもするよ」とあまり真剣にとりあってくれなかった。なんとか自分を制御しようと試みたが、そのうち、彼がいない部屋にひとりでいると、ありとあらゆる考えが思い浮かぶようになり、叫び出したい気持ちでいっぱいになった。そして、実際に叫び出すようになり、近所からの苦情を受けて大家から注意を受けた。
会社終わりには人目もはばからず出口で彼を待った。その頃にはすでに、いくつかの『小さな事件』も起きていて、彼は絵津子から逃げ出したくなっていた。ある日、いつものように彼を待っていると、同期入社の男から「ごめん、先輩から伝えるように頼まれたんだけど、今日仕事先の人と接待がてら飲みに行くから一緒に帰れない、って」と言われた。「誰と?何処の会社の何ていう人と?」そう言って詰め寄る絵津子の迫力(後日、その表情は同期入社の男にとってトラウマのようなものになる)に男は完全にびびってしまい、「ごめん、ごめんなさい、何か他の女の人と会うから上手く言っておけって言われて、ごめんなさい」と涙ぐみながらばらしてしまった。「そう」絵津子はそう言い、会社に背を向け歩き出した。不思議と悲しみや怒りはなく、ただ「他の女と一緒にいる彼を見つける」という使命だけがそこにあった。
絵津子の勘は絶妙だった。執念が呼び寄せた偶然と言ってもいいかもしれない。渋谷まで電車で出て、いたる路地から路地へと渡り歩いた。彼の性格や、そこから導き出されるパターンから、場所は渋谷に間違いないと確信していた。急ぐこともなく、絵津子は渋谷と呼ばれる場所を歩き尽くした。終電時間間際、明治通りを挟んだ山手線側に、他の女といる彼を見つけた。そして感動も何もなく、元々予定されていたかのように彼の名前を呼んだ。そんなに大きな声では無かったが、絵津子の声は音と音の間をすり抜け、彼を振り向かせた。彼の表情は凍りつき、その手を握る女は訳が分からない、という顔をしていた。赤信号の横断歩道を絵津子は躊躇なく駆けだした。
次の瞬間、大きな音がして絵津子はそこに倒れた。一瞬息ができなくなり、体の中が完全に詰まってしまったような感覚に襲われた。そして、次第に呼吸が開放されていくに従い、自分が車に轢かれたということが分かった。人がたくさん集まっていたが、そこに彼がいないことは分かっていた。彼は今ごろ他の女と山手線のホームに立っている。少し前に起こった現実を、あれは夢だ、と自分に言い聞かせながら。頭にあてていた手を見ると真っ赤な血がついていた。血は温かくヌルヌルしていて、その感触は、絵津子の中で化学反応を起こした。固形物がみるみる溶けて液体になり、その液体は血と共に流れ出した。そこにあった何かが終わり、代わりに新しい何かが生まれた。彼を異様なまでに愛していたことが、他人の物語のように思えてきて、その顔さえ思い出せなくなった。顔があったのかどうかさえ確信が持てず、顔の無い男が、顔の無い女と電車を待っている姿を想像して、彼らのことを可愛そうだと思った。救急車が到着する音を聞きながら、絵津子はその表情に密やかな微笑みを浮かべていた。
退院後、絵津子は会社に退職願いを出した。会社側から多少の説得があったが、絵津子の意思は変わらなかった。社内において少し前までは、絵津子について色々と囁かれることもあったが、事故を境に、同情すべき対象、として扱われるようになっていた。逆に、それまで同情されていた『彼』は叩かれる立場となり、会社での居所を無くしていった。しかし絵津子はそんなことに全く興味が無かった。会社を去る絵津子の前に、事故にあった彼女を見捨てた後、自分を責め続けていた『彼』が現れ、膝を地につけて頭を下げてきた。「許してくれ、ごめん、許してくれ」と。しかし絵津子には、まずそれが誰なのか、なぜそんなことをするのかが分からず、にっこりと笑って「おつかれさまです」と言い、会社を出てから「あぁ、あの人か」と気づいたほどだった。絵津子は、事故のときすでに『彼』を、行き場を失った言葉のように黙殺し、一緒に過ごした時間は始点と終点をハサミで切り取って、流れる血の中で燃やしてしまっていたのだった。