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「病院の規則だから」と父を突き放した夫が、元カノの母親にはVIP病室を手配していた

作者: 熾星
掲載日:2026/10/23


結婚して五年。夫の久世崇人には、口癖があった。


「病院の決まりは、誰のためでも曲げられない」


 父が心不全で月丘中央医療センターに運ばれたときも、そうだった。


 心臓内科に空きはなく、救急の医師が転院先を探していた。私は外科の副部長を務める崇人に、せめて専門の先生に相談してほしいと頼んだ。


「琴音、そういうのは担当の先生に任せよう。身内だからって、特別扱いはできないよ」


 父は救急の観察室で三日間、治療を受けながら転院を待った。けれど、受け入れ先が決まる前に容体が急変し、そのまま帰らぬ人となった。


 私は、崇人が誰に対しても厳格な人なのだと思っていた。


 ところが今日、妊娠を知らせようと病院を訪れた私は、特別個室のある病棟で足を止めた。


 崇人がストレッチャーを押している。


 横たわっていたのは、彼の昔の恋人、相沢奈緒の母親だった。


 奈緒が崇人に抱きつく。


「崇人、ありがとう。お母さんの部屋まで取ってくれて……」


 崇人はその肩を優しく叩いた。


「いいって。富美子さんのことだし、放っておけないだろ」


 私は二人に気づかれないよう、廊下の端まで歩いた。


 手にしていた検査結果には、妊娠八週と書かれている。


 崇人に見せたくて、わざわざ持ってきた紙だった。


 私はそれを折り畳み、ごみ箱に捨てた。



1



 病院を出ると、雨が降り始めていた。


 タクシーの後部座席でスマートフォンを開くと、崇人から音声メッセージが届いていた。


「琴音、雨だよ。今夜は窓を閉めて寝ろよ。最近、冷えるって言ってただろ」


 聞き慣れた声に、少しだけ指が止まった。


 けれど、続けて届いたメッセージを再生すると、その気持ちも消えた。


「それと、明日お粥を作ってくれないかな。奈緒のお母さんが入院したんだ。奈緒もろくに食べてないみたいでさ」


 私は画面を伏せた。


 父の葬儀の前夜、崇人は医学会に出るため家を空けた。どうしても彼が参加しなければならない会議ではなかった。それでも、一晩だけいてほしいという私の頼みは聞いてもらえなかった。


「琴音、こっちにも仕事があるんだ。つらいのはわかるけど、いつかは受け入れないと」


 あのとき、私は父の遺影の前で一人、弔問客を迎えた。


 夫はどうしたのかと尋ねられるたび、病院の仕事が忙しいのだと説明した。


 それなのに今、奈緒の母親が入院したとなれば、明日の食事にまで気を配る。


 家に帰ってから、私は戸棚にあった干し貝柱を奥へしまった。


 手術が続いて胃の調子が悪いとき、崇人は決まって私の作るお粥を食べたがった。使い慣れた保温容器が、流しの横に伏せてある。


 その夜、私は台所に立たなかった。


 翌朝、帰ってきた崇人は食卓を見て首をかしげた。


「琴音、お粥は? 具合でも悪いのか?」


 額に触れようとする手を避け、私は尋ねた。


「病院、ずっとベッドが足りないって言ってたよね。奈緒のお母さんは、どうして特別個室に入れたの?」


 崇人が手を止めた。


「昨日、病院に来たのか?」


「うん」


 彼は椅子に腰を下ろした。


「たまたま空きが出たんだよ。奈緒が困ってたから、担当の人に聞いてみた」


「自分で?」


「そうだけど。別に救急のベッドを使ったわけじゃない」


 私はテーブルの端を見つめた。


「お父さんのときは、何もしてくれなかったのに」


 崇人の顔から笑みが消えた。


「またその話か。義父さんのときとは事情が違うだろ」


「話を聞いてほしかっただけだよ」


「担当の先生が動いてたじゃないか」


 父が亡くなった夜のことを思い出した。


 酸素マスクを着けた父は、何度も胸が苦しいと訴えていた。医師も看護師も懸命に診てくれていたが、容体は少しずつ悪くなっていった。


 私は崇人に電話をかけ続けた。


 ほかに受け入れてくれる病院はないか。心臓内科の先生と話せないか。


 崇人から返ってきたのは、担当医に任せろという言葉だけだった。


「一度くらい、聞いてくれてもよかったじゃない」


「琴音」


「でも、奈緒の頼みならすぐ聞くんだね」


 崇人はため息をついた。


「奈緒まで責めるなよ。お母さんが入院して、ただでさえ参ってるんだから」


「私は責めてるんじゃない。あなたに聞いてるの」


 崇人が立ち上がり、私の髪に手を伸ばした。


 以前なら、そのまま耳にかけてもらっていただろう。けれど私は一歩下がった。


「義父さんが亡くなったのは、俺だって残念だよ。でも、奈緒のお母さんとは関係ないだろ」


「あなたには、もう終わったことなんだね」


「そういう意味じゃないって」


 崇人の声が強くなった。


「病院には守らなきゃいけない決まりがある。何度言えばわかるんだ?」


「奈緒のときは、自分から部屋を探したのに」


「空いてたから聞いただけだろ!」


 彼は椅子を戻した。


「もういい。少し頭を冷やしてくれ。俺はシャワーを浴びる」


 浴室へ向かいながら、付け足す。


「お粥は要らないよ。奈緒たちには何か頼んでおくから」


 水音が響き始めたあと、私は寝室の引き出しを開けた。


 そこには、先日病院でもらったもう一枚の検査結果が入っている。


 妊娠八週。


 結婚したばかりの頃、私たちは子どもができるのを楽しみにしていた。崇人が自分でベビーベッドを組み立てた日も、よく覚えている。


 今日、その人に赤ちゃんのことを話すはずだった。


 私は書類を引き出しに戻し、静かに閉めた。



2



 シャワーの音を聞きながら、寝室の隅にある古い木箱を引き出した。


 父の水野宗一は、長年木工の仕事をしていた。亡くなったあと、使い慣れた道具や小さな作品をこの箱にしまっていたのだが、一つだけ見当たらないものがあった。


 欅のマッサージローラーだ。


 崇人は手術で長時間うつむいているせいか、いつも首や肩が凝ると言っていた。そんな話を聞いた父が、半月ほどかけて作ってくれたものだった。


 底には「崇人へ 身体を大切に」と彫られている。


 箱の中をもう一度探していると、シャワーを終えた崇人が入ってきた。


「もしかして、あの木のローラー?」


 私は顔を上げた。


「どこにあるの?」


「富美子さんに貸してるよ。腰が痛いって言ってたから」


 崇人は平然と答え、箱の蓋に手をかけた。


「あれ、けっこう効くんだよな。使ってもらったほうがいいだろ」


「私に聞かなかったよね」


「借りただけじゃないか」


 箱の縁を握った指先に、ささくれが刺さった。小さな血の玉が浮かぶ。


「お父さんが作ってくれたものなの」


「わかってるよ」


 崇人はティッシュを取り、私の手をつかんだ。


「ほら、血が出てる。そんなに力を入れるなって」


 私は手を引き抜いた。


「返してもらってくる」


「琴音、待てよ」


 彼が顔をしかめた。


「富美子さん、まだ入院中だぞ。わざわざ取り返しに行くことないだろ」


「大事なものだから」


「奈緒も大変なんだ。少しは気を遣ってやれないのか?」


 私は返事をせず、玄関へ向かった。


 崇人が追いかけてくる。


「どこへ行くんだ?」


「病院」


「本気で?」


 彼はドアの前に立った。


「外は寒いし、そろそろ生理だろ。またお腹が痛くなるぞ」


「どいて」


「病人の前で騒ぐなよ」


 私は彼の脇を通り抜け、タクシーに乗った。


 特別個室の扉は、少しだけ開いていた。


 奈緒がベッドのそばに腰かけ、父のローラーで富美子さんの脚をさすっている。欅の表面にはマッサージオイルがべったりと塗られ、木目が鈍く光っていた。


「これ、本当に気持ちいいわねえ」


 富美子さんが嬉しそうに言った。


「崇人くん、よくこんないいものを持ってたわね。奈緒、ちゃんとお礼を言っておきなさいよ」


「言ったわよ。もう、お母さんったら」


 私は扉を開けた。


 奈緒の手が止まった。


「琴音さん? どうしたの?」


 私はベッドに近づき、ローラーを取り上げた。


「ちょっと、何するの?」


 富美子さんが身を起こす。


 奈緒も慌てて立ち上がった。


「あの、ごめんなさい。琴音さんのものだって知らなくて。崇人が持ってきてくれたから……」


 私はローラーの底を見た。


 オイルの匂いに吐き気がこみ上げた。父が彫った文字を袖で拭うと、見慣れた刻み跡が現れた。


 父は細かなところまで何度も磨き直していた。出来上がった日、手のひらに乗せて見せてくれたときの顔が浮かぶ。


 私はローラーを床に叩きつけた。


 乾いた音が響き、欅が真っ二つに割れた。


「きゃっ!」


 奈緒が壁際まで後ずさった。


 富美子さんは私を指さして怒鳴った。


「何なの、あなた! ただの木じゃないの!」


 そのとき廊下から駆け足が聞こえた。


 扉を開けた崇人は、床に散らばった木片と奈緒を交互に見た。


「琴音! いい加減にしろ!」



3



 崇人は大股で近づき、私の手首をつかんだ。骨に食い込むほどの力に顔をしかめたが、彼は気づかない。


「ここは病院だぞ。俺に怒ってるなら、俺に言えばいい。患者さんの前で何やってるんだよ」


 手を引こうとすると、さらに強く握られた。


 額に汗がにじみ、少し気分も悪かった。


「崇人、やめて。私が悪かったの」


 奈緒が彼の袖を引いた。


「琴音さんには申し訳ないことをしたわ。お母さん、もう帰ろう。これ以上迷惑かけられないよ」


 富美子さんを起こそうとする奈緒を、崇人は止めた。


「まだ検査があるだろ。勝手に退院するなよ」


 ようやく手を放したかと思うと、私に向き直る。


「琴音、謝って」


 富美子さんは胸に手を当て、ため息をついた。


「私のせいで喧嘩になっちゃったのね。もう帰ったほうがいいのかしら」


「そんなことないですよ。ゆっくり休んでください」


 崇人は富美子さんの枕を直し、私を振り返った。


「琴音」


 私は床にしゃがみ、割れたローラーを拾った。


「お父さんが作ったの」


 断面から、わずかに木の匂いがした。


「入院してたとき、あなたは一度も来なかった。お葬式だって……」


「またその話か」


「形見まで勝手にあげないでよ」


 崇人は私から木片を奪い、ごみ箱へ放り込んだ。


「もうやめてくれ! 義父さんは亡くなったんだ。いつまでそのことで周りを責めるんだよ」


 言い返そうとした瞬間、下腹部に強い痛みが走った。


 思わずお腹を押さえ、ベッドに手をついた。立っているのもつらくなり、私は何とか扉へ向かった。


「帰って頭を冷やせ!」


 背後から崇人の声が飛んできた。


 エレベーターに乗る直前、振り返ると、彼は奈緒の肩を抱いて何かを話していた。


 私には目も向けなかった。


 一階に着く頃には足が震えていた。救急外来の受付までたどり着き、カウンターに手をつく。


「すみません……産婦人科で診てもらいたいんです」


 看護師がすぐに車椅子を持ってきてくれた。


 検査を終えると、医師は超音波の画像を確かめながら説明した。


「妊娠八週くらいですね。ただ、赤ちゃんの発育については、もう少し様子を見る必要があります。痛みと出血もありますから、今日は入院してもらいましょう」


 診察室に、機械の小さな電子音が響いていた。


 私は膝の上で手を握り、ようやく口を開いた。


「先生……中絶したいと言ったら、すぐにできますか」


 医師はペンを置いた。


「もう決めているんですか?」


 私は答えられなかった。


 昨日、崇人と奈緒を見たときは、この子を産むことなんて考えられなかった。離婚して、一人でどこかへ行こうと思っていた。


 なのに今、流産するかもしれないと聞いて、胸が苦しくなっている。


「今は体を休めましょう。落ち着いてから、どうしたいか相談できますから」


 医師は家族に連絡してほしいかと尋ねた。


「夫には連絡しないでください」


「わかりました」


 その夜は病院で過ごした。


 看護師が何度か様子を見に来てくれたが、崇人から連絡はなかった。痛みが少し和らいだ頃、私はようやく眠りについた。


 翌日の午後、再診を受けたあと、安静と再受診について説明を受けて帰宅することになった。


 病院の玄関を出たところで、携帯電話が鳴った。


 崇人だった。


「琴音、今日が母さんの命日だって忘れてないよな? 奈緒だって朝から実家に来て手伝ってくれてるのに」


 私は手すりにつかまった。


「病院にいたの」


「昨日あれだけ騒いで、今日は具合が悪いって?」


「崇人、私……」


「とにかく来てくれ。父さんを待たせないで」


 電話が切れた。


 入口には救急車が到着し、隊員が担架を運び出していた。私はしばらくその様子を見つめてから、手首の真珠のブレスレットに触れた。


 結婚するとき、義母が贈ってくれたものだ。


 家を大切にして、崇人を支えてやってほしい。義母はそう言って、私の手首に留め金をかけてくれた。


 五年間、ずっと身につけてきた。


 私はブレスレットを外し、小さなケースにしまった。


 今日、久世家に返そう。



4



 久世家の実家に着くと、食卓にはすでに料理が並んでいた。


 義母の遺影のそばには花が飾られ、生前好きだった菓子が供えてある。台所からは、私が以前ここに置いていたエプロンを着た奈緒が、湯気の立つ鍋を運んできた。


 義父の隆一さんは、満足そうにその様子を見ていた。


「奈緒ちゃんは本当に気が利くね。忙しいのに、料理まで作ってくれて」


「いえ。私にもよくしてくださった方ですから」


 私に気づいた崇人は、顔をしかめた。


「やっと来たのか。今日くらい、時間を守ってくれよ」


 私は返事をせず、二階の義母の部屋へ向かった。


 部屋は生前とほとんど変わっていない。鏡台の引き出しを開けると、奥にいつもの宝石箱があった。


 私は真珠のブレスレットを戻し、蓋を閉めた。


 義母には何度も、夫婦の間で何かあれば妻のほうが少し譲ればいいと言われてきた。その言葉に従っていれば、いつか崇人もわかってくれると思っていた。


 階段を下りていると、再び下腹部が痛み始めた。


 手すりにつかまり、慎重に足を運ぶ。最後の数段に差しかかったところで、奈緒がスープの入った茶碗を持って現れた。


「琴音さん、顔色が悪いよ。少し飲む?」


「今は要らない」


 横を通り抜けようとすると、奈緒も一歩前へ出た。


 すれ違う直前、彼女の手から茶碗が落ちた。


 陶器が割れ、熱いスープが奈緒の脚に飛び散った。


「熱っ!」


 奈緒は脚を押さえ、その場にしゃがみ込んだ。


「琴音さん……どうして押すの?」


 私は足を止めた。


「押してないよ」


 騒ぎを聞きつけた崇人が、台所から飛び出してきた。割れた茶碗を見るなり、奈緒を支える。


「どうした?」


「私、スープを持ってきただけなのに……」


 奈緒の声が震えた。


 崇人は私を振り返った。


「琴音、何やってるんだよ。奈緒は心配してくれたんだぞ」


「何もしてない」


「じゃあ、自分でスープをかぶったって言うのか?」


 もう一度説明しようとしたとき、崇人の手が私の肩を強く押した。


 後ろへよろめき、腰が階段の角にぶつかる。


 激しい痛みが下腹部を貫いた。私はその場に崩れ落ち、息をするのも苦しくなった。


 ズボンの内側が温かく濡れていく。


 視線を落とすと、血が広がっていた。


「崇人、痛い……」


 声がかすれた。


 けれど、奈緒が先に彼の袖をつかんだ。


「ねえ、これ、痕が残ったらどうしよう……」


 崇人は奈緒の脚を確かめ、冷水で冷やすよう家の人に頼んだ。


「赤くなってる。病院で診てもらおう」


 そう言って、奈緒を抱き上げた。


 通り過ぎようとするズボンの裾を、私は必死につかんだ。


「崇人……」


「今度は何だよ」


 私は震える手で血のついたズボンを指さした。


「血が……赤ちゃんがいるの。お願い、助けて……」


 崇人の視線が血に落ちた。


 一瞬、動きが止まる。


 そのとき、腕の中の奈緒がすすり泣いた。


「崇人、早く……」


 彼は私を見下ろした。


「琴音、もういいだろ。そろそろ生理だって言ってたじゃないか。奈緒は火傷してるんだぞ」


「違う……」


「着替えて休んでろ。あとで話そう」


 彼は私の手を振りほどき、奈緒を抱えたまま玄関へ向かった。


 廊下の向こうで見ていた義父も、何も言わずに部屋へ戻ってしまった。


 私は階段の脇にうずくまり、何とか携帯電話を取り出した。震える指で119番を押し、住所と症状を伝える。


 救急隊員が到着したときには、意識を保つだけで精いっぱいだった。


 救急車の中で妊娠週数を尋ねられ、八週だと答えたところで、痛みに声が途切れた。病院に着くと、すぐに検査と処置が始まった。


 命は助かった。


 けれど、赤ちゃんは助からなかった。


「残念ですが、妊娠は継続できませんでした」


 医師は私の様子を確かめながら、出血量が多かったこと、今後も経過観察が必要なことを説明した。


「今は、まず体を休めることが大事です。次の妊娠については、回復を見ながら考えていきましょう」


 私は天井を見つめたまま、うなずいた。


 枕元の時計が深夜を指していた。看護師が汚れた服を片づけてくれたとき、家にある小さなベビーベッドを思い出した。


 翌日、出血が落ち着き、医師の許可が出てから退院した。再診の予約票をバッグに入れ、一人で家へ戻る。


 室内は静まり返っていた。


 廊下を歩いていると、使っていない寝室の前で足が止まった。


 結婚して間もない頃、私たちはそこを子ども部屋にするつもりでいた。壁には動物のシールを貼り、部屋の隅には崇人が組み立てたベビーベッドを置いた。


 その後、子どもには恵まれず、部屋はずっとそのままだった。


 私は扉を閉め、身分証や衣服、父の木工道具を荷物に詰めた。


 結婚指輪を外すと、指の根元に薄い跡が残っていた。


 指輪と離婚協議書を、玄関の棚に並べて置く。


 ちょうどそのとき、崇人からメッセージが届いた。


『奈緒の火傷がひどくて、今夜も付き添うことにした。明日は病院に来て、ちゃんと謝ってくれ』


 私は読み終えると、彼の連絡先をブロックした。


 それからスーツケースを引き、五年間暮らした家を出た。



5



 翌朝、久世崇人は奈緒を連れて帰宅した。


 奈緒のふくらはぎには包帯が巻かれ、歩くたびに顔をしかめている。崇人は彼女をソファに座らせると、いつもの調子で台所に向かって声をかけた。


「琴音、お湯を持ってきてくれないか」


 返事はなかった。


「琴音?」


 もう一度呼んでも、家の中は静かなままだった。


 台所に入ると、コンロは冷たく、やかんにも水が入っていない。


「何だよ。お湯も沸かしてないのか」


 奈緒がソファから声をかけた。


「まだ怒ってるんじゃない? 帰ってきたら、あんまり責めないであげて」


 崇人は上着を脱ぎ、玄関の棚に置いた。


 すると、上着の裾が何かに引っかかった。数枚の紙が床に落ち、結婚指輪が転がって靴の先で止まる。


 崇人は紙を拾い上げた。


 離婚協議書。


 表題を見た途端、思わず鼻で笑った。


「ずいぶん大げさなことをするんだな」


 奈緒が近づいてきた。


「琴音さん、離婚するつもりなの?」


「まさか。そんなこと、できるわけないだろ」


 崇人は指輪を手の中でもてあそんだ。


「昨日だって、奈緒にひどいことをしたから注意しただけだ。それで離婚なんて言い出してるんだよ」


「私のせいね……」


 奈緒はうつむいた。


「崇人が私を病院へ連れていったから、嫌だったんでしょうね。私、帰るわ」


 立ち上がろうとする彼女を、崇人が止める。


「まだ脚が痛いんだろ。無理するなよ」


 それから協議書を棚に戻した。


「放っておけばいい。琴音も頭が冷えれば戻ってくる」


 結婚して五年、琴音が本当にいなくなったことは一度もなかった。


 どんなに仕事で帰りが遅くなっても、家には灯りがついていた。食事の支度が間に合わない日でも、帰れば温かい飲み物くらいは用意してくれた。


 崇人はスマートフォンを取り出し、琴音に電話をかけた。


 つながらない。


 もう一度かけても同じだった。


「着信拒否までしてるのか」


 少し苛立って、電話をテーブルに置く。


「帰ってきたら、いい加減にしてくれって言わないとな」


 奈緒には食事を注文し、崇人は着替えを取りに寝室へ向かった。


 クローゼットを開けたところで、手が止まった。


 琴音のよく着ていた服が、ごっそりなくなっている。化粧台には化粧品が残っていたものの、引き出しに入っていた身分証などは消えていた。


 しばらく室内を見回したあと、崇人はつぶやいた。


「どうせ、アトリエだろ……」


 琴音は父から受け継いだ道具を使い、木製の花器や棚を作っていた。花屋からディスプレーの注文を受けることもあり、夫婦喧嘩のあとには仕事場で遅くまで過ごすことがあった。


 今回も、迎えに来るのを待っているに違いない。


 そう考えて、崇人は洗面所へ向かった。


 洗濯機の前を通ったとき、かすかな血の匂いがした。


 洗濯かごの奥に、見覚えのあるズボンが押し込まれている。昨日、琴音が実家で穿いていたものだった。


 持ち上げてみると、生地の広い範囲が暗い赤色に染まっていた。


 崇人は息をのんだ。


 階段のそばに倒れていた琴音の姿が浮かぶ。


 彼女は血が出ていると言った。


 赤ちゃん、とも言っていた。


 崇人はズボンを置き、玄関へ引き返した。離婚協議書の下に、病院の封筒が挟まっていたことを思い出したのだ。


 封を開け、書類を取り出す。


 妊娠八週。


 流産。


 大量出血に対する緊急処置。


 記された日付は昨日だった。


 崇人は名前と日付を何度も確かめた。


 琴音は妊娠していた。昨日、彼が階段のほうへ突き飛ばしたとき、そのお腹には二人の子どもがいたのだ。


 血を流して助けを求める琴音を置き去りにし、自分は奈緒を抱えて家を出た。


 崇人は書類を握りしめ、家を飛び出した。



6



 奈緒に呼び止められても、崇人は振り返らなかった。


 車を病院の駐車場に乗り入れ、そのまま救急外来へ駆け込む。


「久世琴音という患者を探しています」


 受付の看護師が顔を上げた。


「ご関係は?」


「夫です」


 看護師は状況を確認したうえで、診療内容については本人の同意なく答えられないと説明した。


 崇人は手元の書類を差し出した。


「昨日、ここで治療を受けたんです。今は連絡が取れなくて……本人に連絡してもらえませんか」


 必要な手続きについて説明を受け、連絡先を残した。


 それでも琴音がどこにいるのかは、わからなかった。


 救急外来の椅子に腰を下ろし、もう一度書類を開く。


 妊娠八週。その文字を見るたび、昨日の光景がよみがえった。


 琴音は腹を押さえながら、助けてくれと言っていた。自分のズボンの裾を握った手は、ひどく震えていた。


 崇人は病院を出ると、琴音のアトリエへ向かった。


 シャッターは下りていた。窓辺に並んでいた木製の花台も、店内の作品も、すべてなくなっている。


 大家を訪ねると、琴音は数日前に解約を申し出て、道具も作品も運び終えたと聞かされた。


「全部、持っていったんですか?」


「ええ。昨日、最後の荷物も出しましたよ」


 大家は崇人をじっと見た。


「あなた、ご主人でしょう? 知らなかったんですか」


 崇人は答えられなかった。


 それから琴音がよく通っていた材木店、義父の古い家、二人で初めて食事をした店まで足を運んだ。


 どこにも琴音はいない。


 電話をかけ続けても、つながらないままだった。


 日が暮れた頃、崇人は再び自分の勤める病院へ戻った。


 病棟を通り抜け、救急の観察室へ向かう廊下で足を止める。


 かつて水野宗一が治療を受けていた場所だった。


 琴音が何度も自分に頭を下げたことを、崇人は思い出した。


 心臓内科の医師に話を聞いてほしい。転院先をもう一度探してほしい。


 彼女はそう頼んでいたのに、崇人は規則を理由に断り続けた。


 それなのに奈緒から電話が来たときは、自分から病棟の担当者に連絡し、富美子のために空室を探した。


 崇人は椅子に腰を下ろした。


 両手で顔を覆っても、琴音が泣きながら訴える姿が消えない。


 しばらくして、自分の頬を強く叩いた。


「何が規則だよ……」


 震えた声が廊下に落ちる。


「俺は、何をしてきたんだ……」


 義父は亡くなった。


 琴音との間に授かった子どもも、もういない。


 そのどちらのときも、自分は琴音のそばにいなかった。


 深夜、崇人が帰宅すると、奈緒がまだリビングにいた。


「崇人、やっと帰ってきた。ずっと心配してたのよ」


 奈緒は立ち上がり、彼の肩に寄りかかろうとした。


「琴音さん、きっと戻ってくるわ。あんなにあなたのことが好きだったんだから」


 崇人はその手を払いのけた。


「帰ってくれ」


 奈緒が目を見開く。


「え?」


「君も、富美子さんも。これからの入院のことは、病院の担当者と話してくれ」


「どういうこと? お母さん、まだ具合が悪いのに」


「必要な治療は受けられる。俺が個人的に手配するのをやめるだけだ」


 奈緒の表情がこわばった。


「私たちのせいにするの?」


 崇人は何も答えなかった。


 すると奈緒は、苛立ちを隠さず言った。


「琴音さんを突き飛ばしたのは、私じゃないでしょう!」


 崇人は動けなくなった。


 そうだ。


 琴音を突き飛ばしたのは自分だ。


 血を流す彼女を置いて出ていったのも、自分だった。


「……わかってる」


 崇人はソファに座り込み、顔を覆った。


「だから、もう帰ってくれ」


 奈緒がしばらく何か言うのを待っている気配がした。けれど崇人は、もう顔を上げられなかった。


 やがて玄関の扉が閉まる。


 リビングには、琴音の結婚指輪だけが残されていた。



7



 二か月後、私は海沿いの小さな町、汐原市で暮らし始めていた。


 残っていた貯金で通りに面した店舗を借り、フラワーアトリエを開いた。以前の工房では木製の花器やディスプレー用の棚も作っていたので、その経験を生かして花と木工雑貨を一緒に扱うことにした。


 最初はお客さんも少なく、一日中店を開けていても、花束が二つか三つ売れる程度だった。それでも自分の好きな時間に店を開け、注文のない日は木を削ったり花器を磨いたりして過ごした。


 オレンジ色の猫も一匹飼い始めた。


 名前は団子。毎日窓辺で日向ぼっこをして、腹が減ると私の足元にまとわりついてくる。


 父の遺骨も、汐原市へ連れてきた。


 海の見える白波記念公園墓地に納めたのは、父が生前、海辺での暮らしに憧れていたからだ。若い頃に港町で働いたことがあり、仕事を辞めたら潮風を浴びながら散歩したいとよく話していた。


 納骨の日、私は墓前に腰を下ろし、新しい町で店を始めたことを報告した。


 アトリエの隣には「喫茶こもれび」という小さなカフェがあった。


 店主は榊原律という男性で、私より少し年上に見えた。


 初めて会ったのは、店先で重い花台を運んでいたときだった。


「手伝いましょうか?」


 私は大丈夫だと答えた。


 律さんは無理に荷物を持とうとせず、そのまま自分の店へ戻っていった。


 後日、注文した花材が予定より早く届き、店先に段ボールが積み上がったことがあった。そのときも律さんは、必要なら手伝うと言ってくれた。


 今度は遠慮せずにお願いした。


 彼は箱を店内に運び終えると、すぐに帰っていった。何かお礼を要求することも、長居することもなかった。


 雨の日には、カフェの入口に置かれた貸し傘を使わせてもらった。


「これ、借りてもいいんですか?」


「どうぞ。近所の人も使ってますから」


 私はその翌日、傘を返しに行った。


 そんなことが何度か続き、私たちは少しずつ親しくなった。


 店を閉めたあと、花が余っていればカフェに持っていく。律さんもコーヒーを届けてくれるようになったが、私の過去について尋ねることはなかった。


 汐原に来てから、夜はよく眠れるようになった。


 忙しい日は花の茎や包装紙の切れ端で流し台がいっぱいになる。それらを片づけ、鍵をかけて部屋へ戻ると、団子が玄関で待っている。


 そんな毎日が、私は気に入っていた。


 ある夕方、最後のトルコギキョウを整えていると、ガラス戸を軽く叩く音がした。


 律さんが温めた牛乳を持って立っている。


「琴音さん、明日、誕生日ですよね」


 私は顔を上げた。


「覚えてたんですか?」


「前に話してくれたので」


 律さんはカップをカウンターに置いた。


「よかったら、明日の夜、一緒に食事でもどうですか」


 私がすぐに答えられずにいると、彼は少し笑った。


「無理なら大丈夫です。席を予約しただけなので」


 ちょうど、いいですよと答えようとしたときだった。


 入口のベルが鳴った。


 ガラス戸が開き、久世崇人が姿を現した。


 以前よりずっと痩せていた。コートには皺が寄り、髪も乱れている。十時間の手術を終えたあとでさえ身だしなみを崩さなかった人が、今はひどく疲れた顔をしていた。


 私を見つけると、崇人の目が赤くなった。


「琴音……やっと見つけた」


 私は鋏を置き、花を水桶に戻した。


「すみません、今日はもう閉店なんです。お花なら明日お願いします」


 崇人はその場に立ち尽くした。


「琴音、そんな言い方をしないでくれ」


 彼は二歩ほど近づいてきた。


「二か月も探したんだ。前によく行ってた店も、知り合いのところも……」


 私は黙っていた。


「奈緒とは、もう会ってない」


 それを聞いても、私は何も答えなかった。


 崇人は私の顔を見つめ、何か言いたそうに唇を動かした。


「琴音……帰ってこないか」


 差し出された手を避けると、彼はその場に立ち尽くした。


「頼むよ。もう一度だけ」


 声が震え、崇人はゆっくりと膝をついた。


「子どものことも、申し訳なかった。これからはちゃんとそばにいる。体のことだって、一緒に……」


「崇人」


 私が呼ぶと、彼は顔を上げた。


「これから妊娠できるか、わからないの」


 崇人の顔から血の気が引いた。


「……どういうこと?」


「こっちに来てからも検査を受けてる。回復がよくなくて、次の妊娠は難しいかもしれないって」


 彼は立ち上がろうとして、よろめいた。


「そんな……」


 そして私に手を伸ばす。


「大丈夫だ。子どもがいなくたって、俺は――」


 律さんが私たちの間に入った。


「すみません。その人、嫌がっていますよ」


 崇人の視線が律さんに向いた。


「誰だ、あんた」


「隣のカフェの者です」


「俺は琴音の夫だ!」


 律さんは動かなかった。


「それでも、嫌がる人に触っていい理由にはなりません」


 崇人は律さんの胸ぐらをつかんだ。


「俺たちは五年も一緒に暮らしてきたんだ。部外者が口を出すな!」


 団子が驚いて窓辺から飛び下りた。


 牛乳のカップが倒れ、床で砕けた。白い液体が床に広がり、花の切れ端が濡れていく。


 私はそばの箒をつかみ、二人の間に差し入れた。


「やめて」


 崇人が私を見る。


「琴音、そいつをかばうのか?」


「律さんを放して」


 崇人の指がゆっくり離れた。


 私は律さんを後ろへ下がらせ、店の扉を開けた。


「離婚の書類、まだ返事をもらってないよね」


「琴音……」


「話し合いに応じないなら、離婚調停を申し立てる。弁護士からも連絡が行ってるはずだよ」


 私は出口を指した。


「帰って。これ以上、店を荒らさないで」


 崇人はしばらく私を見ていたが、やがて肩を落とし、外へ出ていった。



8



 崇人は汐原市から帰らなかった。


 アトリエの向かいにあるビジネスホテルに泊まり、毎朝、店を開ける頃になると通りの反対側に立っていた。夜、私が灯りを消すと、ようやくホテルへ戻っていく。


 朝食の袋を持っている日もあれば、花束を抱えている日もあった。


 私は一度も受け取らなかった。


 袋に貼られたコンビニのレシートや、きれいに包まれた花を見ても、何か感じることはなかった。店員にも預からないように頼み、持ち帰るよう伝えた。


 律さんが心配そうに尋ねてきた。


「警察に相談したほうがよくないですか?」


「まずは弁護士に話してみます」


 崇人には、もう来ないでほしいとはっきり伝えていた。いつ現れ、どれくらい店の前にいたかも記録するようにした。


 それでも、彼は毎日やって来た。


 以前の私は、崇人が少し咳をしただけで、夜中に起きて温かい飲み物を作っていた。胃が痛いと言えば食事を変え、帰宅が遅い日は、何時になっても起きて待っていた。


 崇人はきっと、今も同じように私が折れると思っているのだろう。


 秋になり、強い台風が汐原市に接近した。


 三日間、激しい雨と風が続いた。商店街の店は次々とシャッターを下ろし、私も花台を中に入れて早めに閉店することにした。


 外を見ると、崇人がまだ立っていた。


 雨で髪が額に張りつき、コートもびしょ濡れになっている。


「琴音! 一度だけでいい。俺を見てくれ!」


 私はシャッターを下ろした。


 ホテルに戻ることもあったようだが、雨が弱まると、また店の前に現れた。


 四日目の朝、裏口を叩く音で店を開けた。


 地域の防災担当者が立っていた。


「すみません。お店の前で男性が倒れているんですが、お知り合いの方ですか? 救急車は呼んであります」


 外へ出ると、崇人が入口のそばに倒れていた。


 濡れた服の胸元に、古い布袋を抱きしめている。袋の口から見えたのは、二つに割れた欅のローラーだった。


 父が作った、あのローラー。


 病室のごみ箱に捨てたはずのものを、いつの間にか拾い戻していたらしい。


 崇人は救急車で運ばれていった。


 昼頃、病院から電話があった。


「久世崇人さんが搬送されてきました。緊急連絡先が琴音さんになっていまして」


 入院が必要な状態だと説明され、ほかに連絡の取れる家族がいるか尋ねられた。


「今、離婚の手続き中なんです。お父様の番号ならお伝えできます」


「ありがとうございます。こちらから連絡してみます」


 電話を切ったあと、私は弁護士に連絡した。


 翌日、崇人が落ち着いて話せる状態になったと確認してから、弁護士とともに病院を訪れた。


 崇人はベッドに横たわっていた。


 部屋へ入ると、寝ぼけたような声が聞こえた。


「琴音……行かないで……」


 弁護士が椅子を引く音に、彼は目を開けた。


 私を見つけた途端、表情が明るくなる。


「琴音……来てくれたんだな」


 手を伸ばしてくる。


「やっぱり、心配してくれたんだろ?」


 私はベッドから少し離れた場所に立った。


「違うよ」


 弁護士が書類を広げる。


「離婚の話をしに来たの」


 崇人の顔がこわばった。


「嫌だ。サインしない」


 崇人は上半身を起こそうとした。


「奈緒にはもう会わない。琴音が嫌がることは、二度としない」


 私は何も答えなかった。


「ここに住んでもいい。店の荷物運びでも、何でもするから」


 崇人は私の返事を待った。


「……駄目か?」


「久世さん、まずは落ち着いてください」


 弁護士が静かに制した。


「夫婦の問題なんだ!」


 声を荒らげたあと、崇人はもう一度私を見た。


「琴音……お願いだ」


 私はバッグから別の書類を取り出した。


 父の救急受診記録、転院調整に関する資料、富美子さんの特別個室の入院記録。それから、私が流産した日の診療記録もあった。


 弁護士と相談し、確認できる範囲で集めたものだった。


「お父さんの転院のことも、奈緒のお母さんの病室のことも、正式に調べてもらうつもり」


 崇人は書類に目を落とした。


「病院に……?」


「うん。あなたがどんな手続きをしたのか、私にはわからない。だから調査をお願いする」


 私は流産の記録を指で押さえた。


「それに、あの日のことも」


 崇人の唇が震えた。


「琴音……」


「階段で倒れた私を見たよね。血が出てるって言ったのも、聞こえてたよね」


 彼は何も言えなかった。


「お父さんが病院にいたときも、私はあなたに何度もお願いした。あの日だって、助けてって言った」


 崇人の目から涙が落ちた。


「もう一度、やり直させてくれ……」


「もう、終わりにしたいの」


 弁護士が協議書を彼の前に置き、内容について意見があれば確認するよう伝えた。合意できなければ、調停などの手続きに進むことになる。


 私はペンを置いた。


「読んで、決めて」


 崇人はペンに触れず、書類を見つめていた。



9



 崇人は顔を上げ、涙のたまった目で私を見た。


「仕事を辞めてもいい。家だって琴音に渡す。奈緒にも富美子さんにも、もう二度と会わないから」


 私は黙っていた。


「何でも直すよ。悪かったところは全部……だから、帰ってきてくれないか」


「もう帰らない」


 崇人は何か言いかけたが、言葉が出てこないようだった。


 弁護士が改めて離婚協議書の内容を確認する。


 長い時間が過ぎてから、崇人はようやくペンを取った。書類の末尾に名前を書き終えると、力が抜けたように枕へもたれかかった。


「琴音……」


 私は書類を受け取り、弁護士に渡した。


「これから、一人で大丈夫なのか?」


 崇人の声はかすれていた。


 私はバッグを持った。


「この二か月、ちゃんと暮らしてるよ」


 それだけ伝えて病室を出た。


 背後で何度も名前を呼ばれたが、振り返らなかった。


 その後、弁護士を通じて必要な手続きを済ませ、離婚届も受理された。私は旧姓の水野に戻った。


 崇人とは、それきり会っていない。


 月丘市に戻った久世崇人を待っていたのは、職場での処分だった。


 汐原市で半月ほど入院したあと、崇人が勤務先へ復帰すると、すでに病院では特別個室の手配について調査が始まっていた。


 きっかけの一つは、奈緒からの苦情だった。


 崇人が以前のように取り計らわなくなると、奈緒と富美子は病院の窓口へ出向き、これまでの対応について説明を求めた。崇人に何度連絡しても応じてもらえなかったため、今度は病院側に怒りを向けたのだ。


 それだけでは収まらず、奈緒はインターネットにも動画を投稿した。


 崇人が富美子のストレッチャーを押し、特別個室へ向かう写真が添えられていた。


「困ったときは何でも力になるって、ずっと言ってくれてたんです。それなのに、今になって自分は関係ないって……」


 画面の中で、奈緒は涙ながらに訴えていた。


 動画は地元で広まり、病院も正式な調査を始めた。崇人が関わった病室の調整記録や、担当者とのやり取りが調べられた。


 琴音の弁護士から提出された資料も、調査で取り上げられた。


 崇人自身も何度か事情を聞かれ、富美子の入院について説明した。だが、内部の手続きを経ずに担当者へ働きかけていたことを否定できなかった。


 休憩室の前を通ったとき、同僚たちの声が聞こえてきた。


「奥さんのお父さんのときは、決まりだからって動かなかったんだろ?」


「それで昔の恋人のお母さんには、自分で病室を手配したって……」


 崇人が扉を開けると、話していた二人は黙り込み、足早に出ていった。


 以前なら軽く声をかけていた相手だった。


 崇人は誰もいなくなった休憩室に立ち、しばらく動けなかった。


 調査の結果、富美子の入院手続きへの不適切な介入が認定された。


 崇人は管理職を解かれ、臨床業務の一部からも一時的に外された。診療記録の整理などを担当するようになり、それまで使っていた執務室も明け渡した。


 壁に掛けていた感謝状や表彰状を箱に詰め、部屋を出る。


 廊下では何人もの同僚とすれ違ったが、立ち止まる者はいなかった。


 それからしばらくして、父の隆一が倒れた。


 近所で崇人の処分について噂を聞き、興奮した直後に急に言葉が出なくなったのだという。


 救急車で運ばれた病院に駆けつけると、父はすでに診察を受けていた。


「父が倒れたと聞いて来ました。どういう状態ですか?」


 担当医は検査の結果を説明し、脳卒中の治療を進めていると告げた。


 崇人も医師だったが、この場では患者の家族だった。


 診察室の外で待つよう案内され、椅子に腰を下ろす。


 医療スタッフが忙しく行き交う廊下で、時計ばかり見ていた。誰かが診察室から出てくるたびに立ち上がり、父の名前が呼ばれるのを待った。


 父の状態が落ち着いたのは、しばらくしてからだった。


 面会できるようになり、病室に入る。


 ベッドに横たわる隆一は、右手を思うように動かせず、話す言葉も不明瞭だった。


 崇人は椅子を引き寄せ、父の手を握った。


 こんなふうに琴音も待っていたのだろうか。


 義父が入院していた頃、何度も崇人へ電話をかけてきた。あのときの彼女には、頼れる相手がほかにいなかったのかもしれない。


 崇人は父の手を包み込んだ。


「父さん……ごめん」


 隆一はかすかに指を動かした。


 数日後、父の容体は少しずつ落ち着いていった。


 崇人が一人で自宅へ戻ると、台所の蛇口は以前から壊れたままだった。


 ぽたり、ぽたりと水滴が落ちている。


 琴音がいた頃は、こんなことを気にした覚えがなかった。電球が切れればいつの間にか替わり、冷蔵庫には必要なものがそろっていた。


 仕事着もいつも清潔で、夜遅く帰っても何か食べられるようになっていた。


 台所のカレンダーには、琴音の字で書かれた予定がまだ残っていた。最近の日付は、何も書かれていない。


 崇人は工具箱を引っ張り出し、蛇口を直そうとした。


 ところが部品を外し間違え、水が勢いよく噴き出した。


 服も床も濡れ、慌てて元栓を閉める。


 濡れた床に座り込んだまま、崇人は食卓を見た。


 向かい側の椅子には、もう誰も座っていない。


「琴音……」


 口にしても返事はなかった。


 崇人は顔を覆い、声を上げて泣いた。



10



 二年後、私のフラワーアトリエは二つの支店を持つまでになった。


 新しい店の開店日、窓から柔らかな日差しが差し込んでいた。スタッフが祝い花を入口に並べ終えた頃、一台の車が店の前に止まった。


 榊原律さんがトランクを開け、大きな向日葵の花束を抱えて降りてきた。


「琴音さん、開店おめでとう」


「ありがとうございます」


 私は花束を受け取った。


 律さんはいつものようにカフェへ戻らず、その場に立っていた。少し緊張しているらしく、上着の裾を指でつまんでいる。


「一つ、お願いがあるんですけど」


「何ですか?」


「これからも、向日葵を贈っていいですか?」


 思わず笑ってしまった。


「私、花屋ですよ?」


「知ってます」


 律さんも笑った。


「でも、琴音さんはいつも誰かのために花を選んでるでしょう。たまには僕にも選ばせてください」


 入口にいたお客さんたちがこちらを見ていた。スタッフも笑いをこらえている。


 それでも律さんは、答えを急かさなかった。


 二年前、初めて花台を運んでいたときと同じだった。手を貸すかどうかは、いつも私に決めさせてくれる。


 私は腕の中の向日葵を見下ろした。


 花はちょうどきれいに開いたものばかりで、包装紙も私の好きな色だった。


「……はい」


 顔を上げて答えると、律さんが嬉しそうに目を細めた。


「じゃあ、今日が一日目ですね」


 差し出された手に、私は自分の手を重ねた。


 同じ日、月丘市では雨が降っていた。


 久世崇人は病院での仕事を終え、傘を差して商店街を歩いていた。


 以前の管理職には戻れず、しばらく手術からも離れていた。今は一部の臨床業務を再開しているが、あの処分を受けた事実は変わらない。


 病院の近くにある木工用品店の前で、崇人は足を止めた。


 ショーウインドーに、木製のマッサージ器具が並んでいる。その中の丸みを帯びた一つを見た瞬間、義父の作ったローラーを思い出した。


 崇人は店に入った。


「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」


 店主に尋ねられ、スマートフォンを取り出す。


 画面には、まだ壊れていなかった頃の欅のローラーが写っていた。


「これと同じものを作りたいんですが……教えてもらえますか?」


 店主は写真をじっくり見た。


「作れなくはないけど、結構難しいですよ。こういう曲面は、慣れてないと時間がかかる」


「やってみたいんです」


「一度削りすぎたら戻せませんからね。何個か失敗するつもりでいたほうがいいですよ」


 崇人はうなずいた。


「それでも、やってみます」


 店主から道具の使い方を教わり、彫刻刀や紙やすり、欅の木材を買った。


 自宅へ戻ると、食卓に道具を並べ、戸棚から古い布袋を取り出した。


 中には、二つに割れたローラーが入っている。


 あの日、琴音が病室で床に叩きつけたものだった。


 崇人は怒りに任せて捨ててしまったが、琴音の流産を知ったあと、病院へ戻って探し出した。清掃担当者に頼み、まだ回収されていなかったごみ袋から見つけたのだ。


 その後、きれいに拭いて家に保管していた。


 汐原市へ琴音を追いかけたときも、肌身離さず持っていた。台風の日、店先で倒れたときに抱えていたのも、この二つの木片だった。


 崇人は古いローラーの長さを測り、新しい木材に線を引いた。


 最初の一刀を入れると、細かな木くずが食卓に落ちた。


 思ったより硬い。


 手術器具には慣れていても、木の繊維に沿って刃を進めるのはまるで勝手が違った。力を入れすぎると深く削れ、慎重になりすぎると形が整わない。


 一つ目は、曲面を削りすぎてしまった。


 二つ目は途中で割れた。


 三つ目は形こそ残ったものの、何度やすりをかけても、元のような滑らかな丸みにならなかった。


 崇人は手を止め、古いローラーを持ち上げた。


 義父が削り出した曲線は、見れば見るほど滑らかだった。手のひらに収まり、どこにも角が当たらない。


 受け取ったとき、木目に沿って磨くのが大事だと教わった気がする。


 けれど崇人は、あの日、携帯電話を見ながら礼を言っただけだった。細かな説明はほとんど覚えていない。


 新しい木材の底に、義父が残した言葉を書き写そうとした。


 崇人へ 身体を大切に


 鉛筆を握ったまま、手が止まった。


 この二年、崇人はよく眠れず、酒に頼る夜も増えていた。そのせいか、手元が以前ほど安定しない。


 彫刻刀を当てると、刃先がわずかにぶれた。


 次の瞬間、刃が滑り、親指と人差し指の間を切った。


 血が木材に落ちる。


 崇人は道具を置き、傷口を洗って包帯を巻いた。


 それから、古いローラーの二つの破片を手に取った。


 切断面を合わせてみる。


 木目はつながる。


 けれど、真ん中にはどうしても隙間ができた。


 強く押しつけても、元の形には戻らない。


 崇人は木片を食卓に置いた。


 義父が半月かけて作ってくれたものを、自分は便利な道具くらいにしか思っていなかった。


 肩が凝れば使い、必要なくなれば片づける。そして奈緒の母親が欲しがれば、琴音にひと言も相談せず渡してしまった。


 あのとき、琴音がどれほど悲しんだのか。


 今なら少しは想像できる。


 けれど、それがわかったところで、義父が生き返るわけではなかった。


 失った子どもも戻らない。


 琴音はもう、別の町で自分の人生を歩いている。


 崇人は新しい欅の木材を取り、再び紙やすりを動かし始めた。


 窓の外では、いつの間にか雨がやんでいた。


 夜が更けても、義父が作ったものと同じローラーは完成しなかった。


 机の端に置かれた二つの破片も、最後まで一つには戻らなかった。


(完)





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