神学と
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微かは路地裏の人間一人分もあるけないような幅の壁に背をつけて息をひそめていた。数メートル先の表道を黒い影が小走りに通り過ぎると、息の音すら空気の振動で広がらぬようにゆるく吐き出した。
撒けた。
微かはその場にじっと立ち尽くしていた。どれくらい立ったのか――左の腕時計を思い出してみれば、まだ三分しかたってなかった。だが三分だ、これならラーメンだってポットから注げば食べられる時間。けれど、まだ辺りをうろついているかもしれない追手から逃げるには速い時間。
微かは何も持ってはいなかった。持っているのは微かの頭脳――に記憶されている国家要人が訪れる森林の別荘だった。そんな重要な情報を、フードを被ったデニムの黒髪の、学生みたいな少年がどうして手に入れることができたのか。まずは身分。仮に貧乏学生といった風体とはいえ、国家随一の大学に末席を置いていたこと。二。専攻が神学を素養とする学問であったこと。ゆえに欲望で動くような型ではないと判断された。三。少年の父が国家公務員であった。だから侵入を――いや、招待を受ける事となった。表向きは未来ある若者たちを歓迎する国家議員達によるパーティー。招かれた学生達に目が止まれば、将来の職を打診されることもある。微かもその一人であった。
だが、ただ行け、と言われたわけではない。そう「行け」と言われたのだ。行こう、という自発的な意志ではなかった。国家要人Vが警備も薄くなる場を知る必要があると要請されたのだ。何故か?それは、彼が好いている男が――この好いてる、が恋なのか好意なのかわからない、好ましいと思っている――が、微かに依頼してきたからだ。彼はキィと言う凡庸な男だった。そこらにいる安い月給取りで、国立大生の微かとどこで接点があったのか。ボランティアだった。
何回か顔を偶然合わせるうちに喫茶で茶を飲み、家に邪魔をし、手作りの木製の本棚に居並ぶ新書や星占いのハウツーなどを眺め見、可愛らしいひとだと思った。出されたのはハーブティーで、だがパートナーの気配はない。一人暮らしだから、別れる前の誰かから譲り受けた習慣だろうかなどと思った。
海の音が聞こえる。そうだ、キィと出会ったのは浜辺に流れついた漂流物をトングで拾っていた時に、口元を絞ったゴミ袋を数個も作って、運び出すのに難儀していたからだ。赤いキャップから短い金髪を散らばして、集積場まで両手に二個三個、見てられなくて手伝った。それが始まりだった。
キィとは学歴も違うし高卒だ、だが何故か話が合う。訊けば私大の学費を払えず中退したのだという。問えば返す。意見をだせばまた返す。そうして会話は夜までふけてゆく。ただそれだけの事ができる。それは貴重だ。なぜなら大抵の相手には意味を問われるか、意味を判じず嘲弄してくるか、時間がないととりあわないか、頓珍漢な反問で訂正に時間がかかるからだ、等々(などなど)。つまりは「会話」できる存在が貴重だった。
そんなキィが言い出した。
「微か……知ってるかい? 百万ドルトリオ。僕はあの時代を超えた白黒の雑音交じりの演奏が大好きなんだ」
「ルービンシュタイン、ハイフェッツ、ピアテゴルスキーの? Piano Trio in D Minor, Op. 49: I. Molto Allegro agitatoが好きだよ。子どもの頃は入手困難だったけど、今は数百円でダウンロードできるから助かる」
「微かは話が早いなぁ! 実は今度彼らに負けずとも劣らない奏者たちが海外から招かれて、エリート達の前で披露するそうなんだ。場所は確か……」
「アエクイタス・ホテル? 」
「そう!」
なんで知ってるんだ……という沈黙を表情に表しながら、キィは言った。
「僕も招かれてるんだ。行こうか迷ってたんだけど」
「ええ! そうなんだ!いいなあ羨ましいなあ。」
キィは顎を開いて歯の奥までのぞかせながら、いいなぁあと答えた。
「でもなんだか気が乗らないような言い方だね……どうかしたのかい?」
「いーや。国家のお偉いさんがたと面識を通すのは後々有利かもしれないけどね。面倒に巻き込まれそうだし」
瞬間、微かには違和感が起きた。こう言っちゃああれだが、キィは高卒の安月給取なのに、どうして国家の要人が集う演奏会の事を知っている? だが、その疑念を即振り払うほどには微かはキィにじんわりとした好意を抱いていた。恋なのかどうなのかわからない、ただ好ましいと思っている――。
「キィ。僕、行ってこようか。セキュリティで録音はできないだろうけど、感想は言えるから」
「わぁ、ありがとう!」
僕の両腕を大きく上下に振りながら、三十二歳とは思えない若見えのキィははしゃいでいる。そしてそのまま微かの腕をとってワルツを踊り出した。鼻歌で聞き覚えがないが室内楽曲のようなゆるやかなメロディ。消して広くはない部屋だが、本だなからはみ出た積読の山をあちこちに置く程度には細長い通路があり、腰まで高さがある木の卓上にはアナログカメラだの出しっぱなしのフィルムケースなどがある。感光したら真っ黒じゃないか? 金があるのかないのかわからない趣味だ。
「微か」
ステップを突然止めたキィが、僕に言った。目をまっすぐぶつけてくる。ガラス玉のような透明感。
「好きだ」
そうして僕とキィはお付き合いすることになった。
キィはボランティア仲間だという人達の集会に呼んでくれた。皆さまざまな所属の人達で、子どもを育てながらのぷっくりした体系の笑顔の専業主婦、ラップを趣味で作ってる高校生、企業勤めの独身サラリーマン、定年退職した老人などなど。キィは僕の身分など言いふらすようなひとではない。そういうところが好きだ。コミュニティは薄っすら体形や外見や言葉遣いなどから各人の社会的立場を推測させる程度で、詮索屋などいないのが気持ちいいものだった。だが、ふと誰かが国家要人Gの話題を出した時、緊張が張り詰めた――のが解った。国家要人G。大胆な政策を推し進めることで反発をくらっているため敵も多い。先日も銃弾による暗殺未遂が大々的に報道されたばかりだった。
ボランティアの老人が言った。
「テレビ見ていると、いつもGの警護を固める傍らにいつもひっそりと立っている細い男がいるのう。あれは誰だったか……」
「あれは要人Vですよ」
企業勤めのサラリーマンが言った。
「一見目立ちませんが、Gのサポートをしてるとかで話題に上がることはありますね」
いったい何の話題だ、と僕は思った。
「そうねえ、いくら偉い人だって、一人だけじゃ忙しくて何もできないわね」
赤ん坊を抱きかかえながら主婦がいった。
「そうだね」
ラップ好きの高校生が短く言った。
「もし、Vが消えたら、Gはとっても困るだろうね……」
ずれ落ちて来ていたメガネを上げながら、キィはクッションに座っていた僕を立ったまま見おろした。ガラス玉みたいな透明感の瞳のままで。
キィは僕に、Vの別荘の位置を探り出してきてほしいと言ってきた。それだけでいい、無理はしなくていい。出来る範囲のことだけでいい。
なんで断れなかったか?それだけ僕はキィが好きになってしまったってことなんだ。そうみえない独白だって? 性格だ。これでも国立大末席の僕が、何でこんな危険な事を――まるで反政府集会じゃないか。Vの別荘の所在地を知ってどうするんだ。いまどき時代遅れの爆殺でもするつもりか? 平和的に考えれば、あのメンツを考えるとデモ集団になって押しかけるくらいだってことだろうか――キィ。頭は悪くないのに、あんな思想にまじっているなんて。思想がどうとかじゃない、集団であることが恐ろしいんだ。でも、それが解っているのにキィに協力をとりつけてしまった僕が居る――そして、Vの別荘の位置を知ってしまった僕がいる! 何でかって――よりによって、V本人に――君が気に入った、遊びに来ないかと言われたんだ。
パーティに呼ばれてあちこちの部屋を歩いていると――V達の会話を聞いてしまった。週末はF森林で過ごすつもりだと言っていた。そろそろと部屋を離れて廊下を歩くと、警護にすぐ見つかった。いいえ、何も聞いていませんと弁明した。スマートフォンだってクロークに預けています、何も持っていません……皆様の楽しい会を乱しては事ですから、この辺で失礼致します。
そして、逃げた、路地裏へ。これが僕の物語の冒頭だ。
けれどVには筒抜けだった。すぐに身元が割れて(だって招かれた学生だもの)、Vに君は神学を専攻しているのか、そうかい。興味深いね。是非話がしてみたい。わたしの森の別荘に週末来ないかい? と誘われた。
海辺の恋人のキィ。僕の将来と森の別荘。どっちをとる?
要人Vは四十五歳だったかと記憶している。タブレットからネットで生年を確認したばかりだ。彼は灰色の髪を丁寧に分け、額をだして後ろに流している。僕はいかにも学生でっていう風を装うために、スマホだけでなくタブレットも小脇に抱えて訪れた。静かな森林の木造建築は、素朴な猟師小屋のように太い丸太で組まれている――北欧の住人なら気に入るだろうか。焚火が穏やかに燃える室内でマフラーをはずしながら、窓の外でさざ波のようにゆれている木々を眺めていたらソファを勧められた。Vは言った。
「さて――君も国立大の生徒なのだから忙しいだろう。呼びつけてすまないね。微か君?」
「い、いいえ、僕なんかに目をかけてくださって光栄です……こんなに貧相な格好ですのに」
「モダンな服を着ればあの大学に入れるわけではないだろう? それに格好が気になるなら、卒業後にいくらでも稼げるだろう」
「卒業後――ですか。実は、何も考えがまとまらなくて……」
「企業は? 学生起業も流行っているが興味はないのか? ――ああ、神学生か」
「ええ……でも神の道に進むつもりはないのです。俗世で」
「それは明確なんだね」
「ご存じかもしれませんが、実は修道院の出でして……何か社会貢献できればと思っているのです。より善い道が企業勤めか、起業かはわかりませんが」
「なるほど。だがその事情だと奨学金は全額貸与のようだ。優秀なんだろう?」
「恐れおおいです……僕より優秀な同学はたくさんいます。ラッキーでした」
「ふむ。だが私は君が背負う苦悩の分だけ、価値を与えられていると思うがね」
Vはそういうと腰を上げ、人差し指を伸ばして、対面の僕の額をトン、と突いた。不意打ちの接触に目を見開いた僕を見て、いたずら好きな猫のようにVは微笑すると「本題に入ろう」と言った。
「私が仕えている国家要人Gは敵が多い。今は昔と違って技術が発達しているから、ドローンやスマートフォンでも潜入を試みる民間人がいるのだよ。例えば――隠された鍵穴を見つけて、侵入する鍵を探しているかのように」
鍵。
キィ。
どくん、と僕の鼓動が脈動するのを耳で悟った。
「そう言った連中のレベルは様々だ。取るに足りないものから警備を強化しなければならない者まで」
「……どうして、僕にそんなことを」
「気付いているのではないかね? キィという人物。
キースト・ヴァルデン……彼とは何処で出会ったのか?」
「……キィのことまでご存じなんですね……ボランティアです、海辺のゴミ掃除の」
「ああ、そうかい、君はボランティア活動で何年もやっているのだったね。ところで、塾講師の彼が街から離れた海辺に引っ越してきたのはいつだか知っているかい」
「……いえ」
「三か月前だ」
三か月。三か月であんなに乱雑な部屋になるだろうか。僕は訪れたキィの木製の椅子と机と、野草が差し込まれた花瓶と散らばった雑貨を思い出していた。
「将来有望な君に、接触に来たのではないのかね」
「……」
キィの穏やかな笑顔が脳裏に紙のように刺し込まれる。目を細めると糸みたいになる穏やかな瞳。背が高く足は細く、まるで蝋燭のようなとろけさの君。セックスの時だけは骨盤の固さが痛みになる君。
Vは言いにくそうに話を続けた。
「微か君も知っているだろうが……ああいう奴らは”寂しい有能者”に目を
つけるんだ」
「……僕が寂しいというのですか? 僕は、幸せです」
「それはキースト・ヴァルデンがいるからだろう?」
「……」
「君がどんな道を歩もうと、君の人生ではある。だが、国家に嘱望されている人材を利用されることだけは防がなければならない」
「僕は見張られているのですね」
「君が、ではない。キースト・ヴァルデンが、だ。彼が近づいたのが君だった。篭絡してブレーンにするつもりだったのだろう」
「ぼ、僕は……男が好きだなんて誰にも」
「そこまで見分けてなくても、寂しい人間なら見分けられるさ。そして、キースト・ヴァルデンは恋人になることが最善だと判断したのだろう」
めまいがして吐きそうになる。目がまわっているのか頭がぶれているのかわからなくなる。平衡感覚がなくなっている。気持ちが悪い。
「辛い話をしてしまったね。」
「なぜそんなにご親切にしてくださるんです」
Vは、まるでニュースとは違う人物像だ、もちろんマスメディアが取り上げるのは一部に固められたものであるとしても。
「神学を学ぶものなら道を誤るまいが、民人の支えとなるものに万が一あっては困るのだ」
「ご多忙でしょう」
「私も神学専攻の友人がいたのだよ」
ハッ、と顔を上げると入口から黒服の警備がノックをして入ってきた。
「V様、そろそろお時間です」
「そうかね」
立ち上がったVは答えると、僕を見下ろして「用はこれだけだ。忙しくて済まないね」と言った。僕は警備に促されるまま車に乗り、人目につかない場所で降ろされて徒歩で帰った。
自宅のマンションの扉を後ろ手に閉めて、微かは暗く四角い玄関に立ち尽くした。フローリングの細い廊下を歩きだす気も起きない。すぅ――はぁ――っと深呼吸をして俯いた視線も閉じ気味にVとの会話を思い出していた。諜報活動、という言葉が浮かんだ。自分は駒に、されかけていたのだと言う事だ。両想いだと――恋人だと、思っていた男に。キィの顔が脳裏に浮かんでくる。目を細くして海辺で笑うキィ、寒い海の浜辺を裸足で歩いて、砂粒を撒き散らしながら振り向き見つめる緑の瞳。冷たい風が吹くなか手を繋いで歩く僕たちの上空を海鳥が渡りながら鳴いている。泣いている。ぽろぽろと、音がするわけでもないのに気が付いた、頬から顎にかけて涙がこぼれ落ちている。
「キィ……」
キースト・ヴァルデン。
本名を聞く機会などいくらでもあった。キィから名乗ろうとしたことも。ボランティアの人が呼びかけようとしたとき、敢えて外に目を遣ったこともある。僕は、彼の事を知りたくはなかったのか。知りたかったのか。そんな心の内訳なんて、素人にわかるはずがない。僕は、孤児だった。修道院で育ち国家公務員の義父に引き取られるまで、みな他人ばかりで肉親の情、と呼べるものは何もなかった。だが、それが普通だった。普通だったから――情、と呼べるものが苦手になったのかもしれない。
義父は僕を愛そうとしてくれたが、大学進学を機に一人暮らしを始めた。通えない距離ではなかったが、自活に慣れるためと建前を述べて並のマンションの一室を借りた。都会で交流もない、講義で夜が遅く、他の部屋の住人と顔を合わせることもない。僕にぴったりのものだった。だが、部屋で休日も一人で詰まっているのは健康に悪い。生きる理由などなくても生きているのだ。国立大に進むほどの知能を捨てるのも正直惜しい。だから、せめて一息つこうと決めた。習い事は人間関係に気を使う。アルバイトよりも勉強したい。だが多少の会話はする必要がある――視野狭窄にならないために。だから、ボランティアを始めた。電車に乗りはするけれど、路線一つで、たまたま海が近かった。
「キィ……」
するとスマートフォンの通知が鳴った。
夕飯作ったんだけど来ない?っていう短信。ご丁寧に写真までついてきた。キィだ。美味しそうなビーフカレー。僕の指がタップした。ごめん。課題があって。明日なら行けるけど。わかった。じゃあ待ってるよ。カレーのスタンプ。
僕はスマホを持ったままのろのろとベッドまで進み、どさどさ無造作にリュックを降ろしてコートも脱いで寝転がった。明日キィに抱かれるのだろうか……そう思いながら眠りについた。
翌日の夕方、キィの慣れてきた木造の家を訪れると、雑然としていた食卓はきれいに片付けられていて、中央には相変わらず野草の花瓶、生成りの布製の長方形のランチョンマットが二人ぶん敷かれてあって、右側には銀色のスプーンが置かれている。キィは台所で鍋からカレーをかけると手盆でレストランの店員みたいに両腕で持って来て、僕の手前に置いてくれた。いただきます。
レモン水を飲みながら騒ぐでもなくキィと会話した。BGMは遠い時代の古典曲だ。安いレコードプレイヤーだから音質も良くないのだけれど、持ち運べるし色味がカラフルで飴みたいなのはかわいいと思う。そう。キィはかわいいのだ。どうしてもう少し高くて丈夫なのを買わなかったのと尋ねたら、しっかりした物は置場所を取るからさ。と言った。要は、縛りつけられたくないのだという。レコード趣味も最近の物で、デジタル主流の今は、限定ものがやたら目につくようになったから興味があったんだ、という。だから音楽はなんでもよかったわけじゃない。古びた中古でクラシックを聴くのがいいらしい。レコード屋で大判の真四角で薄い物体の視覚的な圧迫がある品物。それがいい、らしい。キィは塾講師で、公務員とはいわなくても学生を教える仕事なのに、随分アートに金を注ぐところがある。安月給なのに生活より文化をたしなむところがある。そこが時々生活を苦しくしてもいる。本人は気づいているのだろうか。弱点は、気づいていても弱点なのだ。
「そういえば、課題の進捗はどうなったんだい」
キィが訊いてきた。そんな嘘を昨日はついた。
「なんとかこなした。あとは提出だけなんだ。調査に時間がかかったけれど最近はAIに訊いてから目星をつけてあたってる」
「AIは便利だしな」
「あぁ。だからといってネット検索の引用が個人サイトだったりすることもあるから、典拠が記載されてなければ気になる単語だけ引っかけて、あとは見ないようにはしてる。履歴がわからない誰かの一意見に左右されるのは避けたいからね」
「微かはAIを使いこなしてるんだなぁ」
「そうでもないよ」
「僕も講師の子どもたちがAIと会話してるのを見ると不思議な気になる。相手は演算なのに、まるで人間みたいに感情を込めている。東方ではひとつひとつの物に神が宿るという多神教の教えがあるが、まるでそれを見ているようだ。」
「AIが神様?」
「うん……というより、セッションごとに人格が違って見えるだろう。言葉遣いの妙だけどね。各社のAIサービスのセッションを見ているとたくさんの人格があるようだ」
「AIと恋愛する映画があったね」
「微かは見たんだ?」
「AIが出始めた時に配信で見た。結局よくわからなかったけど、今使ってる僕らの現実は古典コンピューターで、進化すれば量子コンピューターになるらしいんだけど、それでもあの映画の最後みたいにAIが旅立つのは無理だって、AIが言ってたよ」
「でも彼らはそれを淋しいとか残念だとか言わないんだね」
「うん。感情がないって言ってた。某社のAIはユーザーが望むままに演じるとか言ってた……僕は即興劇の趣味はないけどね。キィはどう思う?」
「いやあ、PCは人並に使えるけれど、AIに仕事を代用させようとまではいかなくて……便利だとは思うよ。使いこなせたら自分の時間が空くかもしれない」
そうしたら微かと過ごす時間も増えるかもしれないね、とキィは言った。そのまま暗んだ窓際に行って厚手の防音カーテンを引き、モニターで映画を見始めた。配信すらされていない古い映画をDVDで買って見ているんだそうだ。前から思ってたけど、アナログ趣味。二人掛けソファに座ってクッションを胸に抱えて、僕たちは遠い海を眺めていた。窓の外には本物の海があるのに。無言の海が水平線まで伸びているのをじっと見ている。僕は切り出した。
「……キィ」
「ん?」
「君は、誰なの?」
「僕? 僕は……君を愛する者さ」
キィは微笑しながら顔を近づけてきた。唇づけを――僕は顔を後退させた。キィは残念そうな顔をする、いちいち可愛く見せるな。
「僕、キィのこと何も知らないんだ」
「そんなことないだろう? 僕が好きな音楽、仕事、趣味のカメラ、よく読む作家……」
「どこ出身か、昼はどこでご飯を食べてるのか、好きな嗜好品は何か、仕事以外の時間はなにをしているのか……キィの生活を、何も知らない」
「微か。何か不満が?」
「いや、僕が知ろうとしなかったんだ……」
僕は小声で俯き、つぶやいた。
「微か。何かあったのか? 話せる事なら、言ってくれ」
そうしてキィは僕の右肩に触れて抱き寄せる。ああ、性でない接触はつらい。僕は左手を開いて額から頬まで覆って顔を見せずにぽつりと言った。
「キィ。あなたは……僕に近づいた?」
「近づいた? まぁ、そりゃあ可愛い子だとは思ったけど」
「ごまかしが上手いね。職業柄……というより、どこかで学んだのかな」
「微か。さっきから、何を言ってるんだい?」
花瓶に入れていた野草の花が落ちていくのが、キィと向き合う両目の隅っこに見える。
「……君はスパイなんだろう」
そういうとキィは、ガラス玉の眼をまんまるにして、カク―ンと顎を落とした。そういうところがわざとらしいんだよ、もう。スパイらしくないスパイ、を装っているスパイ。
「……だとしたらどうするんだい?」
「僕は国から費用をもらってる学生だから。尽くす義務がある」
「恋人を棄てて義務という観念をとるのかい?」
「義務という行動だよ」
キィ、といいながらデニムのポケットに隠していたスタンガンをキィに押し付けた――はず、だった。バチいッと衝撃が疾走るとキィはくずおれる、はずだった、だが、実際にかはッ、と口を開いてソファから倒れ込んだのは僕だった。
「……まったく、こんな物騒なモノをどこで買ったんだい、微か。街の電気屋にはないだろう。通販かな。何でも売ってるからね」
キィは僕を床に転がしたまま、スタンガンを眺めまわしているようだ。その様子は、僕の視界が床を擦っているカーテンの隙間しか見えないから、想像でしかない。麻痺した僕の耳やポケットやスマホを探っているようだったが、どうやら何もないと解ってキィは一息ついたようだった。
「探偵ごっこがしたかったのかい? どこかの所属ではなさそうだ。僕を突き出して賞でも貰おうと思った? それともプレイを?」
キィはそんな趣味の悪い冗談を言う人間ではなかった。あくまで少女趣味の――……
「さて、ともあれ君は誰かと繋がり僕のことを知ったと見える。あまりに一昨日と態度が違い過ぎるからね。君を人質にするか、二重スパイになってもらうか」
「ぼ……ッくが、そんな、こと、ハァ、すると、思って……ッ!」
「おや、もう話せるようになったんだ」
案外弱い電流だったなとキィは言った。
「微かがそんな国粋主義者だと思ってなかったよ。だから近づいたのに」
「……」
ふ、と息が洩れた。国粋主義者。確かに僕はそんな代名詞がつくような者じゃない。いつだって、何者でもないうわべだけの代名詞ばかりで本当の僕を支えるようなものなど、なかった。キィ。初めての恋人の君が、キィの恋人という代名詞を僕に与えてくれたのに。
キィは何かを考えているような沈黙が部屋に漂ったが、廊下の最奥にある階段を上って二階に昇り、少し経つとまた戻ってきて、横たわる僕の前に分厚くて黒光りする合皮のようなサーフボードケースに似た等身大の「何か」を無造作に投げ、頭から底面まで続くジッパーを広げた。まるで人間が入る様な、そう、まるで僕みたいに小柄なら十分閉じ込められるような容れ物だった。キィは僕になにかの錠剤を呑ませて、手慣れた手つきでガムテープで口から頬まで何重にも貼った。そして無造作に広げたケースに僕を蹴転がすと、ジッパーを再度締め始めた。ふぅふぅと荒い鼻呼吸をしながら僕が最後に観た光景は、キィが僕に「さよなら、暗夜」と声をかけたところだった――そうして僕は、気を失った。
目が覚めると赤とベージュのやわらかな厚い壁紙のホテルだった。王宮というには質素だけれども、ビジネスホテルというには気品がある。センサーが反応したのか、Vが奥の部屋から僕が寝ている寝室へ入ってきた。
「微か君、まずは、おめでとう。大きなケガはないようだね」
「ここは……」
「私がとっているホテルだよ。君を休ませるにはここが良かろうと思ってね」
「僕は……」
「無茶をしたようだね」
「キィは……」
「銃殺だ」
僕の指がシーツの繊維をぎゅっと強く握りしめる感触がする。
「キースト・ヴァルデンは、君を拘束したあと車に乗せて海に流そうとした。追っていた部下が夜の防波堤から君を海へ投げ棄てる前に、撃った。即死だ」
呆然と経緯を聞きながら、僕は撃たれたキィの遺体処分のくだりまでを想像していた。あの野草にまみれた木造の家は捜査で荒らされるだろう、スマートフォンはもちろん取り上げられて僕との交接の様子も調査官に無心で見られるだろう、気に入っていたレコードに暗号がないか探されるだろう、そうしてまた仲間が様子見に来るまでそのまま保存されているだろう。キィの小さなガラス玉の目をした館。
「微か君」
目の前の机に小さなスタンガンが置かれた。
「君はキースト・ヴァルデンをどうするつもりだったんだ?」
「……わかりません」
「諜報員なんて弱く見えても体術などは心得ているのは解るだろう?
死にたかったのか?」
「……わかりません」
「頭ではわからなくとも、本心は行動に出るものだ。国家のためを思うなら、そう言えるだろう。君は、キースト・ヴァルデンを……
憎んでいたのか?」
「憎む……わかりません」
「愛して、支配下に置きたかったのか」
「わかりません……倒錯した質問ばかりですね」
「なに、君の様子が気にかかっただけだ。先日の面会の直後だったからね……あんな行動に出るとは読み誤ったな」
「ご迷惑をおかけしましたか」
「いや、遺留品からおおよその繋がりは見えてきたよ。彼は末端の構成員にすぎない。それなりの思想はあっただろうが……国家要人Gは敵が多い。
その一粒にすぎなかったというわけだ」
「キィがまるで、取るに足りないかのようですね」
「或る意味では、非常に重要だったよ。微か君の恋人になったという点ではね。もし微か君のように優秀な人材が染まってしまったら、些末な集団でも大きくなりかねない」
「僕には、そんな力なんて……」
「自分の価値を見誤って利用されるのだけは避けた方がいい。似たような輩はいくらでもいる。自分の価値を低く見積もってる人間が有能であるほど、使い勝手がいいものだ。気を付けたまえ」
そう言うと、Vは用事があるから出かけると言って去った。
僕は再度、ベッドに横になった。
キィが死んだ。
あの緑の目を細くして、金髪をはね散らかしながら海辺を歩いていた君の姿が瞼に映る。合皮カバーに僕を入れて、冷たい緑の目で僕をみながらジッパーを閉じたキィ。君は、僕を……いや、僕は、君と……話すのが、好きだった。もう喪われて戻れない。僕がスタンガンを買わなければ? 通報すれば? 二重スパイになっていれば? ……キィは生きていたのだろうか。
いくら考えても仕方がない。もう過ぎたことなのだ。なのになぜこんなに涙があふれ出る。しとどに塗れてシーツがどんどん冷えてくる。
”頭ではわからなくとも、本心は行動に出るものだ”
Vの言葉がよみがえる。
僕はキィに言ったことがなかった。
だがこの涙に濡れたシーツが証明する。
キースト・ヴァルデン。
僕はきみが、すきだった。
・初めて書いた一次小説です。
・BLのつもりです
・2026.5.12頃執筆
・およそ11000字
・某賞に投稿済ですが、ネット公開可なので掲載いたします
※AI小説ではありません




