第三話 錬金術??
背後から迫ってくる足音が、地面を震わせる。ドスン、ドスンと重たい音が森の中に響くたび、心臓が跳ね上がるように脈打った。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
肺が焼けるように痛く、呼吸は浅く途切れ途切れになっている。走っても走っても足は重くなるばかりで、さっき転んだときにひねったらしい足首が、踏み出すたびに鈍い痛みを訴えてきた。それでも止まるわけにはいかない。止まった瞬間に終わることだけは、考えるまでもなくわかっていたからだ。
背後から低いうなり声が聞こえた。振り返るまでもなく、あの巨大な影がすぐそこまで迫っていることがわかる。それでも思わず肩越しに視線を向けると、木々の間から黒い塊のような体が現れた。森で最初に見かけたあのクマだ。しかも今度は、はっきりと私を追ってきている。
このままでは逃げ切れない――。
その現実をようやく認めた瞬間、不思議と胸の奥のざわめきがすっと静まった。恐怖は消えない。それでも、逃げ続けるだけではどうにもならないということだけははっきりしていた。だったら、せめて一度くらいは抵抗してみるしかない。
そう覚悟を決めた、その時だった。
視界の端に、淡く光るものが浮かび上がる。最初は気のせいかと思ったが、それはすぐに形を持ち、半透明のウィンドウとして目の前に広がった。
『スキル:簡易調合』
ゲームのメニューのような表示だった。
一瞬、思考が止まりそうになる。だが、ウィンドウの下に並んでいる文字を見た瞬間、理解が追いついた。そこには素材の一覧が表示されており、ポーチの中身と一致している。そしてさらに下には、作成可能なアイテムのリストが並んでいた。ポーション、毒消し、煙玉……いくつかの項目の中に、ひときわ目を引く名前がある。
爆弾。
逃げ場はない。迷っている時間もない。私はその文字を選択した。
次の瞬間、ポーチの中に入っていた素材が淡い光となって消えていく。そしてその代わりに、目の前の空間に二つのダイスが現れた。どちらも十面体のダイスで、空中に浮かびながらゆっくりと回転している。その横には判定条件が表示されていた。
成功条件:30以上
思わず息を呑む。十面ダイスは0から9までの数字が出る。二つ振ったところで最大値は18のはずだ。どう考えても条件を満たせない。
「……無理、じゃない……?」
一瞬、本気でそう思った。しかし次の瞬間、違和感に気づく。二つのダイスの色が違うのだ。片方は赤、もう片方は白。その意味に思い当たったとき、頭の中でばらばらだった情報が一気につながった。
赤いダイスは十の位。白いダイスは一の位。
つまり赤が3、白が0なら30。赤が5で白が7なら57になる。そういう判定方式だ。
理解した瞬間、自然と計算が始まる。成功条件は30以上。つまり問題になるのは十の位のダイスだけだ。赤いダイスが3以上なら成功、0・1・2なら失敗。三から九までの七通りが成功になる。
成功確率は七割。
「……いける」
背後で枝が折れる音がした。クマはもうすぐそこまで迫っている。重い足音とともに低い唸り声が近づき、振り返れば巨大な影が木々の間から姿を現した。黒い体毛が揺れ、鋭い爪が地面を掻く。逃げる時間は、もう残されていない。
私はその場で足を止め、目の前のダイスを見つめた。
ダイスが回転する。ゆっくりと、しかし確実に回り続けるその動きが、やけに長く感じられた。時間が引き延ばされたような感覚の中で、私は無意識に祈っていた。
「お願い……」
やがて回転が弱まり、ダイスが止まり始める。
赤いダイスは、空中でくるくると回りながら、ゆっくりと回転を弱めていった。
光を反射していた面が次第に揺れ、やがて傾き、角から地面に触れる。
小さく弾んだあと、ころりと一度だけ転がり、そこでぴたりと止まった。
浮かび上がった数字は——2。
それを見た瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
十の位が、2。つまり、この時点で合計は二十。成功条件は三十以上だから、もう届かない。
「……うそ」
思わず声が漏れる。
まだ白いダイスは空中で回っている。けれど、どんな数字が出ても結果は変わらない。頭では分かっているのに、私はその白いダイスが止まるのを、なぜかぼんやりと見つめてしまっていた。
白いダイスはくるくると回りながら落ちてきて、地面に触れて軽く弾む。もう一度だけ転がり、やがて回転が止まった。
表示された数字は——6。
「……二十六」
口からこぼれた声は、自分でも驚くほど力がなかった。
その瞬間、視界のウィンドウが赤く点滅する。
『調合失敗』という文字が浮かび上がり、乾いた電子音のような効果音が耳の奥で鳴った。
そして次の瞬間、足元で——ボンッ、と間の抜けた破裂音が響く。
地面に落ちていた素材が弾け、黒い煙がもくもくと噴き出した。私は思わず一歩後ろへ下がりながら、その様子を呆然と見つめる。
煙がゆっくりと広がり、その下から見えたのは——小さな黒い塊だった。
手のひらよりも小さい、焦げた何か。
どう見ても、爆弾ではない。
私は数秒間、それを見つめたまま固まっていた。
そして……背後で枝が折れる音がした。
ドスン。
ドスン。
重い足音が、さっきよりもずっと近い距離で響く。
ぐるるる……。
低い唸り声が背中に突き刺さり、思わず肩が強張った。
恐る恐る振り返る。
そこには、黒い壁のような巨体があった。
木々の間から現れたクマが、もうほんの十メートルほど先まで迫っている。
その小さな目が、こちらを真っ直ぐに見据えていた。
私はゆっくりと視線を足元へ落とす。
焦げた塊は、まだ薄く煙を上げている。
それから、視界の端に浮かぶ半透明のウィンドウへ目を向ける。
『スキル:簡易調合』
素材の数は、さっきより減っている。失敗したぶん、ちゃんと消費されているらしい。
けれど、作成可能なアイテムの一覧には、まだ同じ文字が残っていた。
——爆弾。
私は小さく息を吸い、ゆっくりと吐いた。
心臓は相変わらずうるさいくらい鳴っているのに、頭の中は妙に静かだった。
「……なるほど」
かすれた声が、勝手に口からこぼれる。
「材料があれば、まだできるのは当たり前だよね」
その言葉が聞こえたわけでもないだろうに、クマが大きく息を吸い込んだ。巨大な胸が膨らみ、次の瞬間、その巨体が地面を蹴る。
ドンッ、と重い衝撃が足元に伝わる。
一直線に、こちらへ突進してくる。
距離は、もうほとんどない。
逃げる時間なんて、ない。
私は震える指を持ち上げ、もう一度ウィンドウに触れた。
「だったら……」
喉の奥で、息が震える。
「次は、当てる」
その瞬間、空中に再び光が集まり、二つのダイスが現れる。赤と白の十面ダイスが、静かに回転を始めた。
成功は20以上。さっきより下がっている。これは2回目だからなのだろうか?
赤いダイスは、空中で回転しながらゆっくりと勢いを失っていった。
さっきと同じように、くるくると光を反射しながら傾き、やがて角から地面に触れる。小さく弾んでから、ころりと一度だけ転がり、そこでぴたりと止まった。
浮かび上がった数字は——1。
それを見た瞬間、胸の奥がすっと冷えた。
十の位が、1。つまりこの時点で合計は十。成功条件は二十以上だから、もう届かない。
「……あ」
思わず声が漏れる。
まだ白いダイスは空中で回っている。けれど、もうどんな数字が出ても結果は変わらない。頭では分かっているのに、その白いダイスが止まるのを、私はぼんやりと見つめてしまっていた。
白いダイスはくるくると回りながら落ちてきて、地面に触れて軽く弾む。
もう一度だけ転がり、やがて回転が止まった。
表示された数字は——3。
「……十三」
自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
その瞬間、視界のウィンドウが赤く点滅する。
『調合失敗』という文字が浮かび上がり、乾いた電子音のような効果音が耳の奥で鳴った。
そして次の瞬間、足元で——ボンッ、と間の抜けた破裂音が響く。
「え?」
間の抜けた音とともに、黒い煙が一気に噴き出す。
そして次の瞬間、煙よりも早く、何かが鼻を直撃した。
強烈な臭いだった。
腐った卵のような刺激臭に、焦げたゴムの焦臭さ、さらに何かよく分からない生ゴミみたいな匂いまで混ざっている。とにかく、とんでもなくひどい臭いだ。
「……っ!?」
思わず息が止まり、慌てて口と鼻を押さえる。
鼻の奥がつんと痛み、目の奥まで刺激が広がって、涙がにじんだ。
煙は地面を這うように広がりながら、風に乗って森の中へ流れていく。
そのときだった。
一直線に突進してきていたクマの足音が、ドスン、という一歩を最後に、ぴたりと止まった。
ぐるる……。
低い唸り声が聞こえる。
さっきまでの威嚇とは違う、どこか戸惑ったような響きだった。
私は恐る恐る顔を上げる。
クマは、ほんの数メートル先で立ち止まっていた。
巨大な鼻先がぴくぴくと動き、空気を何度も嗅いでいる。
煙に乗って流れてきた臭いを、真正面から吸い込んでしまったらしい。
「グォ……?」
怪訝そうな声を漏らした次の瞬間、その表情がはっきりと変わった。
巨大な頭をぶん、と横に振る。
もう一度、強く振る。
「グオッ……!」
苦しそうな声を上げながら、クマは後ろ足で一歩下がった。
さらにもう一歩、鼻を振りながら後退する。
どうやら——この匂いが相当効いているらしい。
そして突然、クマはくるりと体の向きを変えた。
ドスン、と地面を踏み鳴らしたかと思うと、そのまま森の奥へ走り出す。
重い足音が次々と遠ざかり、枝の折れる音が木々の向こうへ消えていった。
やがて、森は静けさを取り戻す。
私はその場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
荒い呼吸だけが胸を上下させ、心臓はまだ暴れるように鳴っている。
やがて視線をゆっくりと足元へ落とす。
そこには、まだもくもくと煙を吐き続けている黒い塊があった。
相変わらず信じられないほどの悪臭を放っている。
私は鼻を押さえながら、視界の端に浮かぶウィンドウへ目を向けた。
そこには、はっきりと表示されている。
『調合失敗』
私はその文字をしばらく見つめ、それから森の奥へ視線を向けた。
さっきまでクマがいた場所には、もう何もない。
「……結果オーライ?」
助かった……と自覚したのは、それからしばらくしてからの事だった
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