第十一話 町へ
『メインミッション更新。
森を抜けて街へ到達せよ。
制限時間――日没まで。』
突然のアラート音と、文字が空中に浮かび上がった瞬間、私は思わず空を見上げた。
「日没?」
枝葉の隙間から見える太陽は、まだそれほど低い位置にはない。
確かに西へ傾き始めてはいるものの、今すぐ沈みそうな高さではなかった。
その事実に少しだけ安心し、胸の奥に浮かび上がった焦りをゆっくりと息と一緒に吐き出す。
「……びっくりさせないでよ」
状況は決して良くない。むしろ最悪に近い。そもそも、今いる場所が森のどこなのかもわからないのだ。
けれど、まだ完全に詰んだわけでもない。
そう自分に言い聞かせながら、私は改めて周囲を見回した。
どこを見ても森だった。背の高い木々が空を覆い、湿った土の匂いが漂い、枝葉が複雑に絡み合って視界を遮っている。人の気配はどこにもなく、道らしきものすら見当たらない。
「街に行けって言われてもね……」
地図もなければ、方向を示してくれるものもない。どちらへ進めばいいのか見当もつかなかった。
それでも、ここで立ち止まっていては本当に日が沈んでしまう。
私は小さく息を吸い込み、覚悟を決めて一歩踏み出そうとした。
その瞬間だった。
背後の茂みが、大きく揺れた。
「……え?」
思わず振り向く。すると、空気の質が一瞬で変わった。
低く、喉の奥から漏れるような唸り声が聞こえる。
木陰の奥から、ゆっくりと姿を現したのは見たことのない獣だった。
形は狼に似ているが、明らかに一回り以上大きい。
異様なほど盛り上がった筋肉、鋭く光る牙、そして黄色い目がじっとこちらを見据えている。
その視線に射抜かれた瞬間、本能が警鐘を鳴らした。
逃げろ。
「うわっ――!」
考えるより先に、体が動いた。私は反射的に駆け出していた。
背後で地面を蹴る重い音が響く。
獣も同時に走り出したのだと、振り返らなくてもわかった。
音が大きい。速い。確実にこちらを追ってきている。
枝が腕を叩き、頬をかすめる。
足元の根に何度もつまずきそうになりながら、それでも必死に前へ進む。
止まるわけにはいかなかった。
止まった瞬間、終わる。
心臓は耳のすぐそばで鳴っているかのようにうるさく、息はすぐに苦しくなっていく。
それでも足を止めることだけはできなかった。
「なんで! いきなり!」
半ば叫ぶように声を上げながら、私は森の中を無我夢中で走り続ける。
方向なんて考える余裕はない。
ただ、少しでも木々の間が開けていそうな方へと突っ込んでいくだけだ。
背後では、獣が地面を蹴り、枝をなぎ倒す音が追いかけてくる。
距離は確実に縮まっていた。
「ちょっと待ってって!」
もちろん待ってくれるはずもない。
走りながらでは調合スキルも使えない。
仕えたとしても、あの狼のような獣を倒すようなものが作れるとも思えない。
私はただ、走ることしかできなかった。
走って、走って、走り続ける。
やがて視界が揺れ始めた頃、前方の光がふいに強くなる。
木々の密度が急に薄くなり、空が広く見えるようになった。
出口だ、と直感した。
私はそのまま勢いのまま突っ込むと、次の瞬間、視界が一気に開けた。
足がもつれてバランスを崩し、私はそのまま草の上に倒れ込む。
勢いのまま何度か転がり、ようやく体が止まった。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
肺が焼けるように痛い。
心臓が壊れそうなほど激しく脈打っている。
震える体をどうにか起こし、恐る恐る森の方を振り返った。
森の奥で、何かが動いた気配がする。
だが、獣は外までは追ってこなかった。
しばらくそのまま様子をうかがう。
風が草を揺らす音だけが静かに響き、それ以外には何も聞こえない。
「……助かった?」
そう呟いた瞬間、全身から力が抜けそうになった。
そして同時に、あることに気づく。
「……あれ」
私は森を抜けていた。
狙って出たわけではない。
ただ逃げていただけなのに、結果的に出口へ飛び出していたらしい。
思わず空を見上げる。
その瞬間、顔が引きつった。
「ちょっと待って」
太陽が、かなり沈んでいる。
森の中では木々に遮られていたせいで気づかなかったが、思っていた以上に時間が経っていたようだった。
「やばい!」
慌てて周囲を見回す。
すると少し離れた場所に、土の道が伸びているのが見えた。
踏み固められた、明らかに人が通っている道だ。
「助かった……」
私は急いでそこへ向かった。
人の通る道に出たというだけで、遭難する可能性は一気に下がる。
道の脇には木製の看板も立っていた。
そこには矢印と街の名前、そして距離が記されている。
それを見た瞬間、思わず声が漏れた。
「街あるじゃん!」
これなら行ける。
ミッションもクリアできる。
そう思い、私は街道を歩き始めた。
しかし、歩き始めてすぐに気づく。
思っていたより遠い。
歩いても、歩いても、街の姿はなかなか見えてこない。
「……こんな距離だった?」
太陽は容赦なく沈んでいく。空は赤く染まり、地面には長い影が伸びていく。
焦りが、自然と足を速くさせた。
私はひたすら歩き続けた。
やがて――
視界の先に、ようやく石の壁が見えた。
「……あ」
街だ。
高い石壁。そして、その中央には大きな門がある。
だが、その瞬間――太陽が地平線に触れた。
「ちょっと待ってぇぇ!」
私は全力で駆け出し、街門へ駆け込んだ。
石造りの壁は近くで見ると想像以上に高く、夕日に照らされて赤く染まっている。門の前には数人の人影があり、その中には槍を持った門番の姿もあった。どうやら完全に閉まる直前らしく、まだ通行はできるようだ。
「はぁっ……はぁっ……!」
息を切らしながら門の前までたどり着くと、槍を持った門番の男が一歩前に出てきた。日に焼けた顔に無精ひげを生やした、いかにも兵士といった風貌の男だ。
「止まれ」
低い声で言われ、私は反射的に足を止めた。
「この街に入るのか?」
「は、はい……!」
息を整えながら必死にうなずく。
門番は私を上から下まで一度じっと眺め、それから事務的な口調で言った。
「入門料だ。銅貨二枚」
「……え?」
思わず聞き返してしまう。
門番は当然のことを言っているような顔で、もう一度繰り返した。
「銅貨二枚だ。払えば通れる」
「え、えっと……」
私は慌ててポケットを探った。幸い、財布はちゃんと入っている。ほっとしながら取り出し、中を開いた。
中には見慣れた硬貨が並んでいる。
十円玉。
百円玉。
五十円玉。
それを見た門番が、眉をひそめた。
「……なんだそれは」
「え?」
私は一枚、百円玉を取り出して差し出す。
「えっと、これで……」
門番はそれを受け取るでもなく、怪訝そうな顔で見つめた。
「それは貨幣じゃない」
「え?」
「少なくとも、この街のものじゃないな」
そう言われて、私は固まった。
財布の中をもう一度見下ろす。
十円玉。百円玉。五百円玉。どれも見慣れた日本の硬貨だ。
――日本。
そこでようやく、頭の奥で何かが引っかかった。
森。
見たことのない獣。
空中に浮かぶミッションの文字。
そして、石の城壁に囲まれた街。
門番は腕を組み、怪訝そうにこちらを見ている。
「銅貨はないのか?」
私は言葉を失ったまま、手の中の百円玉を見つめた。
日本円。
それは、この世界では何の意味もない。
胸の奥が、すっと冷えていく。
「……ここ、日本じゃないの?」
ぽつりとこぼれた言葉に、門番は首をかしげた。
「ニホン? なんだそれは」
その一言で、はっきりと突きつけられた。
ここは日本じゃない。
そもそも、同じ世界ですらないのかもしれない。
「……えぇ……」
力なく声が漏れる。さっきまで必死に走っていたせいで混乱していた頭が、ようやく現実を理解し始めたのだ。
つまり私は、見知らぬ世界の森に放り出されて、わけのわからないミッションを押し付けられて、そして今――
街の前で足止めを食らっている。
門番が軽く咳払いをした。
「入るなら銅貨二枚だ。なければ通せない」
「あ、はい……」
反射的に返事はしたものの、私は財布の中をもう一度見つめる。
やっぱり日本円しかない。
当然、銅貨なんてものは一枚も入っていない。
門番は少し困ったような顔で肩をすくめた。
「事情は知らんが、金がないなら今日は無理だな。野宿するか、誰かに借りるかだ」
「野宿……」
思わず森の方を振り返る。
さっき、あの獣がいた場所だ。
夕暮れの森はもう黒く沈み始めている。
「……無理」
思わず小さくつぶやいた。
私は門の前に立ったまま、途方に暮れてしまった。
銅貨二枚。
たったそれだけ。
それだけあれば街に入れる。
だけど――
その「たったそれだけ」が、今の私にはどうしようもなく遠かった。
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