第1話 「千紫万紅」
――硬い装甲に覆われた巨体が、仁王のごとく立ち塞がっていた。
幾度となく拳や蹴り、斬撃や銃弾を叩き込んでいる。だが、敵は微動だにしない。
クロカタゾウムシ。
その名の通り、全身を黒光りする装甲に包まれた怪物である。
「こんなの、冗談じゃないよ……!」
汗を滴らせながら、ひまわりが叫んだ。身体を大きく構え、再び正拳を繰り出す。
「これならどうだ!!――慈恩!」
烈風を伴う拳が、クロカタゾウムシの腹部に突き刺さる。大地すら揺るがす渾身の一撃だった。
だが、返ってきたのは乾いた手応えのなさだった。
「……効いて、ない……?」
驚愕した瞬間、クロカタゾウムシが動いた。受けた拳をものともせず、不敵な笑みを浮かべる。
「ファッッハッハッ!!なかなかいい突きだ! だが――その程度の拳では、オレの装甲は砕けんよっ!」
がし、とひまわりの右腕を掴む。そのまま凄まじい膂力で引き寄せ、巨体を振りかぶった。
轟音と共に、ひまわりの体が地面に叩きつけられる。肺の空気を一瞬で奪われ、声すら上げられず意識を失う。
黒い影がのしかかる。クロカタゾウムシが右脚を高く上げ、無防備なひまわりを踏み潰そうとした瞬間、
「ひまわりさんから離れなさいっ!」
鋭い叫びと共に、桜が駆け込んでいた。白刃が閃き、クロカタゾウムシの首元を正確に狙う。
金属同士がぶつかるような硬質音が響くも、刃は首の装甲を前に、寸分たりとも進まない。
「なっ……!」
「そんなナマクラ刀じゃ話にならんな」
嘲笑と同時に、桜の鳩尾へと鋼鉄の脚が叩き込まれる。
「がはっ――っ!」
息を呑む間もなく、桜の身体が宙を舞う。瓦礫に叩きつけられ、意識が揺らいだ。
「桜お姉ちゃん!!」
「このやろーーーーっ!!」
ビオラが悲鳴混じりに叫び、アサルトライフルを構える。指が引き金を引くと同時に、銃口が火を噴いた。
怒涛の弾丸がクロカタゾウムシに直撃する。しかし、硬質な装甲に弾かれ、火花を散らすばかり。
「嘘でしょ……?!」
「さっきも言ったろう? その程度の弾丸じゃ、俺の装甲は貫けん!」
巨体が疾走する。ビオラの目の前に迫ると、振り抜かれた拳が顔面を直撃した。
「っぐぅ……!」
視界が反転し、衝撃で意識が飛ぶ。ビオラの小さな体が力なく崩れ落ちた。
――残るは一人。
「さぁ~~て、最後は嬢ちゃんだけだな」
クロカタゾウムシは唇を歪め、ヒガンバナを見据える。背後には倒れ伏した仲間たち。怒りと憎悪が、彼女の胸を灼く。
「絶対に……絶対にお前を許さない!」
握り締めた両拳が震える。般若の面のように歪んだその顔は、もはや少女のものではなかった。
「おぉ、怖い怖い。仲間がやられちまってキレるのも当然か! で? 次はどんな技を見せてくれるんだ? 無様に転がった奴らの代わりに、オレを楽しませてくれよ!」
クロカタゾウムシは挑発しながら笑う。だが、その笑みはすぐに凍りついた。
――ヒガンバナの顔から、感情が消えたのだ。
さきほどまで固く握り締めていた拳を開き、全身を弛緩させる。その姿は、怒りを超えた静謐を帯びていた。
「……殺す」
呟きは低く、しかし揺るぎない決意の響きを持っていた。敵に向けた言葉というより、己に課した誓い。
「コロすぅ~? ファッッハッハッ!! 嬢ちゃんの力じゃ、この装甲に傷一つつけられやしねぇよ!」
クロカタゾウムシが再び腹を抱えて嗤う。だが、ヒガンバナの声がそれを切り裂いた。
「ええ、確かにアナタの言う通りね」
「……だってアナタは、これからその装甲に傷一つつけることなく死ぬんだから」
そう告げた彼女は、両の掌を開いたまま重ね、静かに大地へ向ける。
「――千紫万紅……曼珠沙華」
その瞬間、世界が光に包まれた。
閃光に思わず目を閉じるクロカタゾウムシ。だが、再び瞼を開いた時、そこには常識を超えた光景が広がっていた。
辺り一面――紅の華が咲き乱れていたのだ。
地を覆い尽くし、空を染めるほどの《彼岸花》。
燃え立つように揺らめきながら、ただひとりの少女の周囲に集い、鮮血の園を築き上げた。