喧嘩ばかりの私たちが、入れ替わったあの日、あなたの“想い”を知った
ここは、森に囲まれた小国――カトーシュ国の王城。
「はぁ……どうしたものかのう」
玉座で頭を抱えるのは、この国の王、アッザム・カトーシュ陛下。
最愛の王妃を亡くして五年。ようやく来年、結婚式を迎える一人息子――皇太子ローエン・カトーシュと、その婚約者ミミンナ・ハーランド嬢の仲が、ここ一ヶ月ほどで急速に悪化したと報告を受けた。
――ふう。どうしたものかの。
ローエンとミミンナは政略結婚ではない。側近や周囲の人々の話、仲の良い二人は恋愛結婚だったはずだ。だが最近では、些細なことで言い争いが絶えないという。
彼らの専属メイドの報告によれば、
――ローエン皇太子が、どこぞのメイドと妙に仲が良い、とミミンナ令嬢が不満を持っております。
――またや、ミミンナ令嬢が、いつも待ち合わせに遅れてくると、ローエン皇太子が愚痴をこぼしている、とのこと。
国王としても、親としても、どうにかしてやりたいと策を練り、舞踏会、晩餐会、お茶会を開き、二人が自然に仲良くなれる場を何度も設けた。
このときは、仲睦まじい様子を見せてくれるが、裏では口論ばかり。ときには使用人の前で、言い合いを始めてしまう始末。
(このままでは政略結婚、のちに仮面夫婦じゃ……ワシの目には、あの二人はどう見ても相思相愛。あとは素直になるだけじゃと思うのだが……)
本日の午後でもそうだった。
バラと季節の花々が咲く庭園でのお茶会――予定では甘いひとときを過ごすはずが、またもや些細なことで言い争い、たったの十分でお茶は終了。
機嫌を損ねた皇太子は執務室へ、令嬢は体調がすぐれないと王妃教育を休み、公爵家の馬車で帰ってしまった。
(……これは、困ったものだ)
つい先日、カトーシュ国は各国に、二人の結婚式の招待状を送ったばかり。もはや延期も中止もできぬ。そこで国王は、ある人物に助けを求めることにした。
それは――北の森に住む魔女、ドドーラ。
かつては城の相談役として仕えていたが、「飽きた」という理由で、突然森へと引きこもってしまった奇人。
今回ばかりはと、毎日贈り物と手紙を送り続け、ようやく心を動かされて城へ来てくれることになった。
日暮れ前。玉座の間の扉の外で、騎士が声を上げる。
「国王陛下、魔女ドドーラ様がお見えです」
「通せ!」
待ちに待ったドドーラの来訪に、王は立ち上がらんばかりの勢いで声を上げた。
騎士に先導され、黒いローブを身にまとったドドーラが優雅に玉座前に進み出る。彼女は膝をついて、ゆったりと頭を下げた。
「よい、よい。頭など下げずとも良い。顔を上げてくれ……ドドーラ、よく来てくれた!」
「はぁ? 毎日毎日、高級薬草や一品物の調合具など、これでもかと贈り物を送られてきたら……人として、お礼を言いに来るのが当然でしょう? ……まあ、私は魔女ですが」
透き通るアメジスト色の瞳で国王を見据え、ドドーラは微笑む。
「すまぬ、どうしてもドドーラに相談したくてな……」
二十年前から容姿の変わらぬ美しき魔女――王はかつて、本気で妻として迎えたいと願ったが、「他の女を思う人など願い下げ。私だけを見てくれる人がいいですわ」と一蹴されたこともあった。
……それはさておき。
「ドドーラ。皇太子ローエンとミミンナ嬢が、最近とみに仲が悪い。なんとかならぬか?」
唐突な本題に、ドドーラはわずかに眉をひそめた。無理もない。王自身が混乱しているのだ。
「陛下、なんとかとは具体的に?」
「……半年ほど前からじゃ。急に喧嘩ばかりになって……ワケがわからんのだ」
王はまたもや、頭を抱える。
「……それは、簡単な話ですわ。喧嘩の原因を、当のご本人たちに聞いてみてはいかがかしら?」
「それはもう聞いた! だが、二人とも“相手が悪い”と譲らんのだ。ローエンは“愛しているが、最近文句ばかり”といい、ミミンナ嬢は“浮気者に言われたくありませんわ”と……」
ドドーラはしばらく考え――ふと、アメジストの瞳を細めて言った。
「……ミミンナ様が最近口うるさくなったのは、件の“噂のメイド”が原因ではなくて?」
そして、何かを思いついたように口元を吊り上げ、妖艶に微笑んだ。
「陛下。私、最近とっておきの新魔法を覚えましたの。“入れ替わり”の魔法――試してみませんこと?」
「入れ替わり、とは……?」
「魂の交換ですわ。ローエン皇太子とミミンナ嬢の心を、一日だけ入れ替えてしまうのです。それぞれの視点で相手の行動や言葉を見れば、きっと、理解が深まるでしょう」
「二人の魂を入れ替える? おおっ……! それは素晴らしい!」
感激して身を乗り出す王を横目に、側近は苦笑を浮かべていた。なぜなら彼だけが気づいていた。――これは、ドドーラの新魔法の実験台に二人を使っているだけだと。
しかし、混乱している陛下は、もちろんそんなことに気づかない。
「今すぐ頼む!」
「かしこまりましたわ。では、お二人の私物を用意してくださいませ」
数時間後、玉座の間にドドーラによって魔法陣が描かれた。
ドドーラは漆黒の杖を構え、儀式を開始。
魔法陣の中に現れたのは、男女の黒い人形。それぞれに皇太子と令嬢の私物を埋め込むと、ドドーラは呪文を唱えた。
瞬間――黒い球体がそれぞれの人形から飛び出し、「男から女へ」「女から男へ」と入れ替わる。人形が消えた瞬間、儀式は成功した。
「陛下。魔法、成功いたしました。効力は一日です」
「うむ。二人以外の関係者には、入れ替わりの事実を必ず伝えるように」
すぐさま関係者たちに極秘で手紙が届けられた。そして、皇太子と令嬢の魂が一日だけ、入れ替わると知った者たちは――大混乱に陥ることとなった。
⭐︎
「うわぁっ!?」
目を覚ました瞬間、視界に飛び込んできたのは――満面の笑みを浮かべる自分だった。
(……ん? なんで僕の顔が、天井に?)
天蓋の布に描かれている自分の顔。
それも、かなり繊細なタッチだ。
この絵の雰囲気は……たしか、ミミの専属メイドが描いたものじゃなかったか? たしか、タマ? リマ? ……うーん、名前を思い出せない。だって、ミミ以外の女性に興味がないから、仕方ないな。
――すん。
……甘い香り? なぜ僕の体から、バラのような甘い匂いが?
お、おお? フリルに、リボンのピンクのネグリジェ?
そしてこの華奢な手。ふくらんだ胸。……この体は、僕のじゃない。
(じゃあ、これは……誰の体なんだ!?)
甘い香りに包まれたベッドから、そっと降りる。ピンクのカーテンに、真っ白なクローゼット、猫脚テーブル。
――僕の絵と、可愛い品ばかり。
僕の絵は置いておいて、明らかに“可愛いもの”が好きな女の子の部屋だ。僕は部屋の隅に立てかけられた姿見に、自分の姿を映す。
「……っ!」
サラサラの銀髪。
透き通るサファイアの瞳。
しなやかな手足に、ふっくらした胸。
「この姿は、僕のミミだ……!」
綺麗で、可愛くて、しっかりしていて、スタイルも良くて、肌もすべすべで、しかも良い匂いの――愛してやまない、僕のミミ!
一瞬、夢かと思って頬をつねる……お、ぷにぷにだ。
ミミの柔らかい頬に、少し感動してしまった。
いったい、誰がやったのかは知らないが……グッジョブ!
(まさか……! 常日頃、執務をがんばっている僕へ、神様からのご褒美か!?)
鏡の前で、ミミを眺めてうっとりする。
胸元のリボンに手をかければ、そこにあるのは――
(……あ、でも、あまり見すぎるのは……失礼か?)
――いや、これは緊急事態だ!
(普段、ミミの胸元をこっそり眺めていた僕としては、いつか、その胸に触れる日を夢見ていたのだが……)
いいかな、触っても……
「おはようございます、ミミンナお嬢様。……それと、先ほどから何をなさっているのですか?」
いきなり背後から、女性の声がした。
慌てて振り向けば、ミミの専属メイド……僕は、メイドの顔には見覚えがあった。
(この子は、その辺の画家よりも絵が上手く。ミミの寝顔、笑顔、寝起きのぼーっとした顔まで、全部スケッチしては、僕に高値で売ってくる……守銭奴の女じゃないか!)
まぁ、僕も僕で、可愛いミミが欲しいから、つい買ってしまう。
なぜ? そんなに金が必要なのか調べで見ると、彼女のスガーロン男爵家は昔、友人と共同で立ち上げた鉱石会社が倒産して、多額の借金を背負ってしまった。
その多額の借金に、共同経営をしていた友人は逃げ、多額の借金を負ったスローガン男爵家。だから彼女は、家計のために必死なのか。
(しかし、男爵。鉱山を持ってるなら、原石売りじゃなく。職人を雇い、石を加工すれば……いや、今はその話じゃない!)
――今はとにかく、ミミらしく振る舞わねば!
「おはよう。いま、着替えようとしていただけよ」
「……お一人で? そうですか(※彼女は中身が皇太子であると知っている)」
メイドが用意したぬるま湯で顔を洗って、ミミらしい上品なドレスに着替え、髪を結ってもらう。
おお……髪を下ろしたのもいいが、整えたミミも可愛い。バラの香りがふんわりと香り、ふと見ると、メイドは寝具やカーテンに、何やらスプレーをしていた。
「おい、それは何だ?」
「え? ミミンナお嬢様がお好きな、バラのエッセンシャルオイルとアルコールを混ぜた香りです。“これを使うと癒やされる”と、以前おっしゃっていました」
「え、ええ、そうだわ。私、そう言ったわね」
(危なっ、普通に聞いてしまった……)
支度が終わった後、メイドは「食事の時間にお迎えにあがります」と言って、部屋を出て行った。
――ふうっ。なんとか、ミミらしく演じきれたよな。
一息ついて周りを見渡す。そう、いま僕はミミの部屋で一人。当然のように探索を開始する。
まず、目についたのはピンクのタンス。
一段目、二段目――ミミの紐パンとドロワーズ。三段目、四段目――ブラとコルセット。五段目――可愛いネグリジェの宝庫!
(す、すごい……! どれも、バラの香りがする!)
このバラの香り、いつも彼女からほのかに漂っていたのは――これだったのか。元に戻ったら、側近に頼んで、同じ香りを作ってもらおう。
そうすれば、夜でもミミの香りに包まれて眠れる……ふふ。
……そして、ふと気づく。
(ミミ……それにしても、僕のこと好きすぎないか?)
壁に飾られた、僕の幼少期からの絵。
棚に並べられた、僕があげたプレゼント。
書斎の机の上にあった日記には――僕とのデートのことばかりが書かれていた。
(ふふ……可愛いな。早く会って、抱きしめたい。その時、彼女は僕の名前を呼んで、驚いて、顔を真っ赤にして、頬をふくらますかな?)
でも、よかった……ミミに嫌われていなくて。
ということは、今、ミミは僕の体に?
(彼女も、驚いてるだろうな……僕みたいに、タンスを漁っていたりして?)
――まぁ漁ったって、僕のシャツ、下着しか入ってないけど。にしても、こんなことを仕掛けてきたのは……もしや、父上の仕業か?
⭐︎
ところ変わって、皇太子の寝室――
「……んっ」
目を覚ますと、いつもと違う香りに包まれていた。スーッと鼻に抜ける、爽やかな柑橘系の香り……どこか落ち着く匂い。
これって、ロー様の香りに似てる。
……ん? あれ? なにか違和感。
わたくし、パジャマを着ていない!?
えっ、ええっ……!? わたくしの自慢の美乳が……ちいぱいに!? って、違うこれは、どう見ても、鍛えられた胸板。
ま、まさか。私、男の人になっているの!?
……あ、うん、立派。
――ちがうちがう、偶然よ、偶然に見てしまったの。……それより、わたくしはいったい、どうしたの?
近くにあったガウンを着て、ベッド脇の鏡に映る姿を見ると。蜂蜜色の髪。赤くて涼しげな瞳。引き締まった輪郭と、どこか物憂げな表情。
「これ、ロー様だわ」
……えっ、ええ? わたくし、ロー様になっている!?
(夢かしら? 幸せすぎ……!)
しばらく、その姿を眺めた。ロー様、素敵。このブルーで統一された家具、ふかふかの枕とシーツ、大きな天蓋付きのベッド。ふふ。ロー様はこの寝室で、休まれているのね……
――ちょっとだけ、いいかしら? もそもそとベッドに潜り込み、シーツに顔を埋めて、思いきりすーっと吸い込んだ。
(ああああ……ロー様の香り。まるで、抱かれているようなこの感覚……とても幸せ……)
ロー様の香りを堪能していると、ノックの音とともに、ロー様付きのメイドが入ってきて、身支度が始まった。
(ロー様の、普段は絶対に見られない貴重な姿)
ガウンを脱ぐと、彼の鍛えられた筋肉、長い手足……。櫛を通し、蜂蜜色の髪が整えられて。準備された、ジュストコールを羽織った。
「ローエン殿下、失礼いたします」
「ありがとう」
メイドが下がり、わたくしはまだロー様の鏡を見ていた。
(はぁ、素敵すぎて、息が止まりそう! ロー様、大好きです……!)
コンコンコンと、ノックの後。
「おはようございます、皇太子。本日のスケジュールを届けにきましたので、ご確認ください」
と聞き覚えのある、落ち着いた声が部屋に響く。
(この声は、モスリンお兄様だわ)
お兄様はロー様の側近であり、わたくしの兄。
「確認が終わりましたら、ごゆっくり部屋で朝食をおとりください」
「ありがとう」
⭐︎
ミミンナの兄、モスリンは皇太子の中が、可愛い妹だと知っていだ。
(くっ、皇太子の中が、可愛い僕の妹でなければ……小言を言えるのに)
皇太子姿の可愛い妹に、モスリンはキツく言えない、重度のシスコンである。
「ローエン皇太子、朝食はどうされますか?」
ロー様のことをよく知るお兄様。だけど、いくら聞いても、ロー様と親しい噂のメイドについて何もおっしゃってくれない。
(お兄様はロー様の側近だから、噂のメイドについて知っているはずなのに……)
「ローエン皇太子?」
「え、あ、今朝の朝食は部屋でとる」
「かしこまりました。そのようにメイドに伝えてまいります」
「ありがとう」
(ふふ。ロー様の香りに包まれながらの食事なんて、最高すぎる……!)
最近、お互いに忙しくて会える時間が少ないのに、あの噂のせいで喧嘩ばかり。わたくし、ロー様不足ですこし病んでいたけれど……
――今日はたくさん、ロー様を吸収しましょう!
⭐︎
ミミ姿のローエンはミミの家族と朝食を終え、自室へ戻ってきた。フウッとため息をついて鏡を覗けば、そこには変わらず可愛い、ミミの姿が映っていた。
「ふふ、ミミ。君には……僕から見ればモスリンもだが。もう一人、シスコンの弟がいたんだね」
今朝出されたサンドイッチを一切れ手に取り、口に運ぶ。舌にピリリとした刺激――これは、カラシだ。サンドイッチを口に入れた途端、ミミの弟、アッサムがくすくすと笑い出した。
(……なるほど、これは悪戯か)
幸い、僕は辛いものが得意だ。問題なく食べられる。けれどもし、ミミが口にしていたら……どうなっていただろう。
(目に涙を浮かべて『あ、辛い……』と、唇と頬を赤く染めるか? ……絶対、可愛いに違いない)
想像しただけで、顔が綻びそうになる。
そのとき、ふわりと上質な茶葉の香りが鼻をくすぐった。メイドが紅茶を淹れてくれている。サンドイッチは面白かったが、今朝の温かいスープと食後のコーヒー、どれも美味しかった。
――そういえば、温かい料理をゆっくり味わうのは久しぶりだ。
皇太子になってからというもの、毒見の手間が増え、食事はいつも冷めたものばかり。執務室で飲む紅茶も、ぬるい。
(……ミミには話していないけれど、僕は子供の頃から毒に慣らされてきた。国王になるというのは、命を賭ける覚悟が必要なんだ)
静かにカップを口に運びながら、そんなことを思い出していた。
⭐︎
朝食を終え、部屋に戻ったミミ(中身ローエン)を見送ったあと、食堂に残ったのは両親と弟のアッサムだけだった。料理が口に合ったことに安堵する両親とは対照的に、空になった皿を見たアッサムがぼそりと呟く。
「今日の姉様、怒らなかった……変なの」
そのアッサムの一言で、両親の顔が一気に青ざめる。彼らはミミと皇太子の、中身が入れ替わっていることを知っていた。
最近、アッサムの“姉いじり”がエスカレートしていたため、彼には入れ替わりのことをあえて伏せていたのが、仇になった。
「おかしいなぁ……カラシ、けっこう塗ったのに……」
その呟きに、両親はガタガタと震え出す。
彼らの頭をよぎるのは――不敬罪、確定の四文字。
ミミの父、トーリフは慌てて書斎に駆け込み、国王陛下宛の謝罪文をしたため、早馬で城へと送った。
――しかし、事件はそれだけでは終わらなかった。
昼過ぎ。ミミ(中身ローエン)は、メイドとともに花々が咲き誇る庭園を歩いていた。
そのとき――突然、足元の地面が崩れた。
「――うわっ⁉︎」
なんと、現れたのは落とし穴。
幸い、底には真綿がたっぷり詰められていたため、怪我はなかった。――だが。これは、完全に仕掛けられたもの。
罠に掛かった直後に現れたのは、またしても弟・アッサム。その姿を見たミミ(ローエン)は眉をひそめ、毅然とした声で告げた。
「アッサム! 怪我をしてからでは遅いのですわ!」
その叱責を聞いた両親は、またしても血の気が引いた。即座にふたたび謝罪文をしたため、今度は手紙を二通に分けて――謝罪の文は陛下に、魔女のドドーラには「早く、この術を解いてください」と書いて早馬で送った。
⭐︎
ロー様の部屋で食事! そう思った瞬間から、わたくしの胸は高鳴っていた。
――えっ、うそ。
部屋に、運ばれてきた食事に箸を伸ばした瞬間、その冷たさにびっくりする。味はたしかに美味しい。けれど、すべての料理は毒味済みで、温かさを失ってしまっていたのだ。
(……いまロー様は、私の家で温かい食事を食べているのかしら? そうだったらいいな)
そう思いながら、わたくしは冷めた食事をそっと口に運んだ。
朝食後、ロー様の部屋を探索していると、コンコンとノックの音。
現れたのはモスリンお兄様だった。
「ローエン様、執務のお時間です」
「執務? は、はい」
お兄様と一緒に執務室へ向かい――扉が開かれた瞬間、私は息を呑む。
「……え……」
壁一面に飾られていたのは、私の絵。
微笑む顔、舞踏会でのドレス姿、窓辺で本を読む横顔……どれも、私を見つめるロー様の視線を感じるスケッチばかり。
(このタッチはわたくしの専属メイド……リマさん? そして、ロー様の噂の相手……)
「ローエン様? どうなさいましたか?」
「……いいえ、なんでもないわ」
わたくしは無理に微笑み、ローエンの執務机に腰を下ろした。そして、目の前に置かれたものに――再び息を呑んだ。
それは、彼女が誕生日に贈った、手作りのクマさんのぬいぐるみだった。丸い瞳とふわふわの手足、赤いリボンが胸元で揺れている。
(……ロー様、大切にしてくださっているのですね)
頬がゆるむのを感じた、その時。
兄・モスリンの口から、衝撃のひとことが飛び出す。
「ローエン様。今日は挨拶されないのですか?」
「……え? 挨拶ですか? (お兄様には、もうしたはず……)」
「いえ、クマたんにですよ。いつも通り……」
「く、クマたん……?」
モスリンは、ごく自然に続けた。
「いつも『ミミ、今日も頑張るね』『疲れたよ、ミミ癒して』『終わった、ミミ』とお話しされてますよね」
(……ふ、ふぇぇ……!? ロー様、クマたんが……わたくしの代わり……!?)
嬉しさが込み上げて、顔がニヤけそうになる。
(ど、どうしましょう……。嬉しすぎて、顔が緩んでしまいますわ)
「……ふふ。クマたん。執務、がんばりますね」
そうして始まった“ロー様”の執務。
「ローエン様、この書類に印をお願いいたします」
「わかったわ」
わたくしは頷いて、ペンと印を手に取った。
(あら? これなら、わたくしにもできそう)
提出書類に目を通し、ハンコを押した。
⭐︎
二人は、入れ替わったまま、一日を過ごし――
翌朝、魔女ドドーラの魔法が解けて、元の身体に戻った。
たった一日。けれど、濃密な一日だった。
この入れ替わりで、二人は初めて、互いの“本音”に触れ、ミミがいつも遅れるのは、シスコンの弟・アッサムの妨害が理由だったことを、ローエンは知った。
ミミンナも、ローエンが“自分だけ”を深く、愛してくれていると知った。
――いやになるくらいに、イタイくらいに、お互いを想い合っていたことを。そして、二人して、リマからお互いの絵を買っていたことを。
「愛しいミミ」
「大好き、ロー様」
あの日から、二人はもう言い争うこともなくなった。以前よりずっと素直に、より深く、心を通わせるようになった。
その報告を受けた国王陛下は、心底ほっとしたという。
⭐︎
だが、ローエンには一つだけ、気がかりがあった。
――ミミと僕に絵を提供してくれていた、メイドのリマ。
彼女の男爵家は莫大な借金を抱えていて、このままでは、没落するしかない。僕が借金の肩代わりすると言っても、彼女は頑なに頷かない。
ここは、所有する鉱山に賭けるしかない。
その鉱山から、良い石が発掘できれば……借金を返せるだろう。しかし、男爵家にはその資金がない。
(この話を、ミミにもしよう)
今日のお茶の席で、ローエンはミミにリマのことを話した。
「えっ、リマの実家、男爵家が没落する?」
事情を聞いたミミは、初めて知る事実に目を見開いた。
ローエンは静かに頷く。
「リマの家ーー男爵が所有する鉱山から宝石になり得る、鉱石が採れるかは賭けだが、彼女の家には鉱山が残ってる。少しでも可能性があるなら、手を打つべきだと思うんだ」
その話に、ミミは微笑みながら言った。
「……なら、わたくしの資金を使いましょう。彼女が、私のそばで絵を描いてくれるのなら、喜んで出しますわ。彼女の絵――わたくし大好きなんです」
その一言に、ローエンも心から頷いた。
話の後、二人はすぐに動いた。
リマの父、スガーロン男爵から鉱山をローエンとミミンナが高値で買い取った。
所有権を手に入れた二人は次に、男爵を鉱山の責任者に任命した。鉱山が売れた男爵は、借金の半分は返済できることになる。あとの残りは――鉱山の運に託すしかない。
それから数ヶ月後。
「ローエン様、鉱山からクォーツと、ローズクォーツの原石が採れました!」
スガーロン男爵から、朗報が届いた。
「……よし、それを宝飾品に加工しよう」
質の良いクォーツは、見事な宝石へと生まれ変わり、販売ルートでも大成功を収めた。スガーロン男爵は借金をすべて返済して、男爵家は没落を阻止できた。そして、リマの弟たちも学園をやめずに済んだ。
リマは大粒の涙を流しながら
「いくら感謝しても、感謝しきれません。ローエン皇太子殿下……ミミンナお嬢様……ありがとうございます……っ!」
二人の前でひざまづいた。
「よかった。わたくしのそばで、たくさん絵を描いてね」
「ああ、よかったな。……でも、もしまた怪しい話があったら、すぐに報告すること。それと――」
ローエンは優しく続けた。
「もうすぐ、僕とミミンナの結婚式があるんだ。二人の絵を……君に描いてもらえないか?」
「まぁ……! ステキですわ。ぜひ、お願いします」
「なんて幸せな話。しっかり描かせていただきます!」
⭐︎
そして――
数ヶ月後、ローエンとミミンナは、国中からの祝福の中で盛大に結婚式を挙げた。
メイドのリマは二人のお抱えの絵師にして、ミミンナの王妃専属メイドという地位を得た。
⭐︎
その頃。
「……よし、これですべて丸く収まった! これでワシも、ローエンに任せて隠居できる……!」
元王は、心から胸を撫で下ろした。
――が、そのすぐ横には、相変わらず涼しい顔の魔女・ドドーラの姿があった。
「ドドーラ……この機会に、ワシと一緒に隠居生活などどうじゃ?」
「ふふ。いいですわよ? あと百年待ってくだされば――」
「なに、百年⁉︎ ワシ、もうとっくに……死んどるがな!」
――国王陛下の“春”は、まだまだ遠かった