9.対話
僕は咄嗟に片手で頭を庇った。
だが、痛みを感じることは一切なかった。彼女から剣を振り下ろされることはなかった。
何が起きている?
そう思いながら、恐る恐る腕を下げて目を開けると、剣は大地に置かれていた。
そこには、悲しげな顔をした彼女がしゃがみこんでいただけだった。
彼女は手に何かを持っていた。それは僕の衣服から抜け落ちた小瓶だった。
「なぜだ? なぜ僕を殺そうとしない?!」
愚かしいことに、僕は目の前の亡霊に向かってそう叫んでいた。
ところが、亡霊であるはずの彼女は、僕に敵意を向けるどころかさらに悲しむような顔をした。
「あなたこそ、どうしてそんな事をいうの? ……そう。きっともう、私を忘れたかったのね。フリードリヒ」
目の前にしている彼女は初めて言葉を発した。
もちろん悪魔やその他の怪異のように心に話しかけてくるわけではなく、ちゃんと口を動かしていた。
けれども彼女は舌を切り取られてしまったはずだった。
また信じられない事に僕の名前を知っていた。
「話せないはずではないのか?! なぜ僕の名前を知っているんだ?! 本当に君は一体誰なんだ!」
再び恐怖が僕を襲った。
訳がわからず、僕は顔を青くして彼女に向かって叫んでいた。
彼女は目を瞬かせると、手にしていた小瓶を見つめた。
「……これはあなたがいつも飲んでいる物なの?」
彼女は僕の質問には答えようとせず、別の質問を僕にぶつけてきた。
僕は返答をする代わりに、唇を噛んで押し黙った。
すると、彼女は何を思ったのか小瓶に指を入れると、わずかに残っていた液体を掬い取り舐めとった。
「忘却の水」
そう呟くと、また悲しそうな顔を浮かべた。
「あなたは自ら望んでこの水を飲んだの?」
彼女は小瓶を握りしめ、目をつぶって僕にそう問うた。
そうだ。僕は望んでそれを飲んだ!
もし、そのように答えていたら、このあと彼女はなんて僕に返事をしたのだろう。
僕はそのように答えなかったというよりも、答えられなかったと言った方が正しかった。
決してそのように答えてはいけない。
決して、決して、決して……
何故か本能的に脳内でそう警告がうるさく鳴り響いていた。
彼女を傷つけてはいけないと。
咄嗟に僕は別の答えを述べた。
「……忘却の水? いいや、違う。そんなものではない」
僕は彼女の意図をする事がよくわからぬまま、投げられた質問にははっきりと答えずに首を横に振った。
「それは僕の不安を取り除かせるための薬だと言われたんだ」
質問を否定すると、今度は彼女が首を横に振った。
「いいえ。これは心を落ち着かせるためのものではないわ。特定の出来事を忘れ去れさせるための水なのよ。間違えようがないわ」
ただし、忘れたい事に対してあまりに思いが強すぎると完全に消えず、幻影としてその人物や出来事が見えてしまうのだ、とさらに彼女は言った。
その話を聞いた後、僕たちには少しの時間、沈黙が降り立った。
「そんな……」
僕は呟いた。
なぜ主治医はそんなものを僕に出したのだろう?
仮に彼女が本当ならば、僕が今まで見ていたのは……
彼女の亡霊ではなく、過去の残滓だったのだろうか?
頭の中には新たな疑問が発生していた。
「それじゃあ、君は死んでいる訳ではないんだな? でも僕が刺したはずなのに、どうしてそうやって動ける? 何か幻術みたいな術を使っているのか? それなら、処刑されたあの女性は?」
僕は彼女に向って矢継ぎ早に質問を投げた。
「ええ、私は死んではいないわ。私は死んでいない……でも、私の事を覚えていないのなら、あなたにとってはそれが最も幸せなことなのかもしれない」
彼女はそう言っただけで僕の質問には明確に答えようとはせず、踵を返してこの場を去ろうとした。
「待ってくれ!」
僕は彼女に向かって叫んだ。
「待ってくれ。さっき、君はこの薬のせいで、過去の幻影が見えると言った。何か知っているのなら、どうか教えてくれないか。それに僕が剣で君を刺したのに、無事でいるなんて絶対にあり得るはずがない。君は本当に一体誰なんだ?」
彼女は僕の方に向って振り返ると、またしても悲しそうな顔をしていた。
さらに今度は涙を流していた。けれども彼女はまた僕に背を見せて離れようとした。
「お願いだから待ってくれ! 実は……」
僕はずっと彼女の幻影が見えていたことを伝えた。
僕の横で寝ていたり、お茶を持ってきたり、縫物や編み物をしていたり……
「いつも君は僕に向って微笑みかけていた。僕と君の関係は一体何だったんだ?」
「私の幻影を見ていたというの?」
すると彼女は先ほどよりも、もっと多くの涙を流し、僕に向ってこう言った。
「……本当に真実を知りたいの? でもそれを知ったところで、あなたはもしかしたら絶望するかもしれない。それでもいいの?」
絶望……?
なぜ?
彼女の知っている真実とは、何か危険をはらんだものなのだろうか?
僕は下を向いてしばらく考え込んだ。
けれども、彼女を行かせてしまえば、きっと一生真実なんてわかりやしないだろう。
それは僕にとって絶望すら超える何かへと繋がるだろうと、またしても脳内で警告が鳴り響いた。
「……いいや、それでも構わない」
僕は顔を上げて、彼女の目を見つめながらそう答えた。
「お願いだから真実を知らせてくれ。きっと何も知らないままでいれば、深い後悔に囚われたまま、僕は生涯を終えることになると思う」
彼女は手の甲で涙をぬぐった。
彼女にとっても僕はどういう存在だったのだろう。
そもそも、なぜ僕の前で泣いているのだろう。
「そう。わかったわ。きっと真実を知った後、あなたはまた判断に迫られるかもしれない。でも、私はあなたの意思に従うつもりよ」
すると何を思ったのか、彼女は大地に置かれていた剣を再び手に持った。
そして鋭くとがった剣先で、自らの舌を微かに傷つけて血をにじませた。
それから僕の所に近寄ってしゃがみむと、僕の顔に影を落として柔らかな唇を重ねた。
僕は目を閉じて彼女の舌を受け入れた。
まるで、甘い果実のしずくが口内を満たしていくような感覚。
そう思った瞬間───
全身起きた軽い痺れと共に、僕の頭の中にはある光景が広がっていった。