7.女王の臥所
そして今日。
僕は主治医から、すでに毎日の恒例行事となっている液体の入った小さな茶色の小瓶を渡されていた。
「さあ、お飲みください」
渡された液体には、不安を抑える効果があるという。
「先生、どうか僕にもっとこれを下さい!」
これだけでは足りないと、僕は主治医にもっと薬をと強請ったが、主治医は首を横に振るだけだった。
「殿下。いけません。これ以上は体に毒です」
確かにこれを飲むときは、彼女との遭遇は避けられる。
でも、今日は僕がこの宮廷で最も求められている事を行う日だった。失敗は許されない日。
この薬一つだとなんと心細いことか。
僕はどうか彼女が現れないでほしいと思いながら、その薬を飲み干した。
そして寝間着のポケットの中にしまうと長い渡り廊下を歩き、案内役の小姓と共に女王の待つ寝室へと向かった。
渡り廊下の格子窓からは、微かに雨音が聞こえた。
◆◆◆
女王の寝所。
普段女王が使用している香りとは全く異なる、甘く濃厚な香が炊かれ、数本の蝋燭だけが付けられた薄暗い部屋。
僕はいつものように静かにそのカーテンを開けた。
女王は髪を垂らして、すでに寝台の中におり、その中央で膝を横に折りたたむようにして座っていた。
この時間の彼女は強大な女王ではなく、ただ一人の女性だった。僕よりも小さな体をした。
僕は彼女に近づき、そっと頬に手を添えて、愛をこめて口づけを始めた。静かな寝台の中ではその音しか聞こえない。
彼女の吐息が熱を帯びたものに変化したことを感じ取った僕は、口づけを繰り返しながら、手早く彼女の寝間着を取り払うと、自らの寝間着も取り払った。
その間、僕はこの行為のことしか全く頭にはなかった。なぜ人が肉体の交わりに溺れやすいのか、初めて理解できた気がしていた。
「愛しています、愛しています」
僕は繰り返しそう囁きながら、彼女の身体を寝台に押し倒し、頬に口づけをして、さら僕を受け入れてもらうための魔法を彼女の体に施していった。
彼女の身体は薔薇色に染まっており、僕は白く柔らかな手に指を絡めた。
そして腰を落とそうとした瞬間───
その刹那、微かに明かりが揺れた。
続いて、薄いとはいえ、開けなければ見えないはずのカーテンの向こう側が僕には見えていた。
眉間にはしわを寄せ、目はぎゅっと閉じて唇を噛み、服の一部を掴んでいる。
いつもなら微笑んでいるだけの亡霊の彼女が、悲しみの色を隠せないといった様子でカーテン越しの右側に立っていたのだ。
さらに、いつもなら僕の大声で消えていくというのに、この時に限っては僕が声を上げる前にスッとすぐに消えていった。
僕は右に顔を向けたまま固まり、動かすことができなかった。
その間、心臓の鼓動が体内で太鼓の音のように大きく響いているように感じた。
「……フリードリヒ? フリードリヒ?」
ようやく気が付いたのは、僕の下にいる彼女が僕の名前を呼んでからだった。
「すみません、何でもありません」
僕は違う、気のせいだ、と動揺する気持ちを押さえながら、彼女の髪の毛を軽く掴んで耳を出させると、甘噛みして行為を続けようとした。
けれども、僕よりも前に彼女がそれ以上は続けられない事を悟っていた。
彼女はさりげなく僕の腰よりも下を見ていたのだ。
途端に彼女の顔が、一人の女性としてではなく、いつもの女王の顔に戻った。それも怒気を込めた。
同時に破裂音が寝台の上で鳴り響いた。僕の頬には女王の平手打ちが見舞われていた。
「よりによって、この神聖なる時間に! あの女の幻影を見ていたのですね……!」
女王は僕に向かって、まるで早口で捲し立てるように何かを話しているようだった。
けれども、僕は茫然としたままで、その言葉が全く入って来なかった。
むしろ自分の中には奇妙な感覚が沸き起こっていた。
恥ずかしいと同時に、悲しみを感じるような気持ち。
それは決して、女王から平手打ちをされたからという訳ではなかった。
金髪の女性に、僕と女王との行為を見られたくなかった。
何故かそのように思っていた。
一方で女王は、僕のそんな気持ちを知る由もなく、知りたいとも思わないだろう。
不機嫌な顔を全く隠すことなく自らガウンを羽織ると、寝台に掛かる呼び鈴を鳴らした。
「お呼びでしょうか、陛下」
そう言ってやって来たのはアッテンボローだ。女王は彼にカーテンを開けて良いと命じた。
彼は服を着ていない僕に一瞥をくれると、次にわざとらしく、おやおやといった顔を僕に向けた。
「これ以上、この者の顔を見ていると腹が立ちます。すぐに下がらせなさい!」
僕は手早く寝間着を着た。失礼しますとだけ伝えると、女王の寝所を出た。
なんと無様な姿。
先ほどの奇妙な感覚から遅れつつも僕はそのように思い、女王の不興を買ってしまったと失意に陥っていた。
こういう時は一人にしてほしい。
僕がそんな気持ちでいるのにも関わらず、呼び出されたアッテンボローは見送ると言って、扉の前まで一緒についてきた。
「どうかお気を落とさず」
気遣いを込めた言葉だが、彼の顔は笑っていた。
その本心は僕への心配というより、負け犬と言いたいのが僕は手に取るようにわかった。
そしてこの先、きっと彼は後宮に行き、僕では女王を満足させられなかった代わりに、別の男を呼び出しにいく事も。
しっかりと髭を生やしたアッテンボローもそうだが、見たことはないが後宮の男たちは僕と違って完全な男だ。
そんな彼から慰めをもらったところで、僕は余計に悔しさと、敗北感を感じさせられるだけだった。