10.船
一面が白に覆われた世界。
わかるのはゆっくりと左右に揺れ動く濡れた木の床、そして海の潮の香り。
僕は船の甲板にいた。僕は女王の名代で異国に移動している最中だった。
「殿下! いけません。いま外は霧で満ちて危険です。どうか船室にお戻りください」
そう言って僕に声を掛けてきたのは、夜の見張りを終えたばかりの船員だった。
「ああ、すぐ戻るよ。でも、僕はこんな景色を見たことがなかったから見てみたかったんだ。僕が生まれ育った場所は海なんてなかったからね」
僕が船員にそのように言うと、彼も実は海がないところの育ちで、海に憧れていたため船員になったのだと返した。
「そう。君はどこ出身なの?」
見たところ船員の年頃は僕と近く、親近感を覚えた僕は彼にそう尋ねた。
すると、彼はなんと僕の生まれ育った村の隣村出身であることが判明した。
先月、彼は親戚の結婚式に出席するため、久しぶりに故郷に戻ったのだという。
僕は偶然、同郷の者に出会えたことに嬉しさを感じた。
また同時に、故郷の事を思い出したことで、僕の家族についても強く気になり始めていた。
僕は王配になった際の約束をこの時点でもまだ忠実に守っており、家族とは引き続き連絡を一切取っていなかったのだ。
もちろん、彼が僕の家族まで知っているとは思わなかった。
けれども、村に変わりがないと知れれば、それだけで満足だった。
「奇遇だね。ぼくはその隣のデメテル村出身なんだ。村のみんなは元気そうだとか何か知ってる?」
僕は笑顔で彼にそう尋ねた。
だが───
彼はそれまで明るい笑顔をしていたというのに、急にその明るさを失い、視線を少し下にして真剣な表情へ変化させた。
「その、あの……大変無礼なことをお聞きしますが、殿下はあの村のことをご存知ないのですか?」
知らない? 知らないとはどういう事だろう。
僕はたまに従僕や、秘書官に自身の村や家族の事をどうしているかと聞けば、彼らは詳しいことはわからないが、元気でやっている様子だと伝えられていた。
けれども、あえてそのことは彼に言わなかった。
嫌な予感が、僕の頭の中を過った。
「君を信用して聞く。君が話したと誰にも言わないから村の事を教えてくれないか? もうずっと帰っていないから、僕は全く何も知らないんだ。城のものに聞いても教えてくれないから……」
後ろめたさを感じつつも、僕は船員に嘘を含めてそう尋ねた。
船員は困惑した表情を浮かべて黙っていた。
「お願いだ。頼む」
しかし、僕の懇願が彼の正義感を突き動かしたのか、ついに口を開いた。
彼はそれならばどうか落ち着いて聞いて下さい、と前置きした。
「このようなことをお伝えするのは大変心苦しいですが……殿下のご出身の村は現在廃村となっているのです」
彼によれば、僕の故郷である村は、ある日病に侵されて住民全員が死亡してしまったという。
しかも、それは僕がシビラ女王に選ばれて数ヶ月後の事だった。
彼の言っていることが僕は信じられず言葉を失った。
でも、彼は少し震えるような声でそう言っていたので、揶揄っていたり、嘘をついているようには全く思えなかった。
また、ここで僕の中である疑問が急に浮かび上がった。
「待ってくれ。もし本当に君の言う通り、病気の蔓延が本当であるならば、医師の派遣は? 看護師たちの応援は? そのような事があれば、領主を通じて宮廷に報告され、直ちに彼らが向かわされるはずなんだ!」
実は去年、ある別の村でそのようなことが起きたのだ。
使いが来たあとに、女王は最優先で対応するよう家臣たちに命を出した。
これはもちろん住人の看護の目的もあるが、他の地域に感染を拡大させないための措置でもあった。
慈悲深いと言われるシビラ女王であれば、必ずそうするはずだった。
「いいえ。応援が派遣されたという話は聞いておりません。それどころか、病気が出たという噂が僕たちの村に届いた直後、あの村には絶対に立ち入るなという通達が出ただけだと聞いています。よほど恐ろしい病だったのでしょうね……」
彼はとても申し訳なさそうな顔をしながら、僕にその話をしてくれた。
一方の僕は頭がくらくらし始めていた。
彼からその話を聞くまでは、宮廷がなんとか助けようとしたものの結局村は助からず、僕にショックを与えないための優しい嘘をついていたのだと思っていた。
しかし、真実はそれすらもなかった。
仮にもし助からなかったとしても、女王は国民と共にあるとして、原因を突き止めるための調査員くらいは派遣するはずなのだから。
それに流行病であれば、村一つだけではなく周囲の村に伝播していてもおかしくない。
あまりにも不自然すぎた。
きっとその答えは───
『すべては外部に王家の秘密を漏らさぬため』
僕の脳裏にその言葉が浮かんだ。
宮廷はそれを実行するために、僕と家族、そして過去を完璧に切り離すため、村ごと処分した。
病気というのは口実として、飲料としている飲み水に毒でも混ぜて……
そうとしか考えられなかった。
もし僕が誰かに話して王室の秘密が漏れれば、女王の神秘性は崩れ、国民を欺いていたと糾弾される事は目に見えているのだから。
僕の頭の中には優しかった祖父母、僕を学校に入れるため必死に働いていた両親、そして僕が役人になることを応援してくれていた、可愛い弟や妹の姿が浮かんだ。
そんな無垢な彼らを殺すという、なんという残忍さ。
どうしてそのような事があるかもしれないと、今まで僕は気づきもしなかったんだろう。
僕は愚かだった。いや、愚かすぎた。
彼らが一体何をしたというんだ。
僕が王配になんて選ばれなければ、家族は今頃……
「殿下、あの大丈夫ですか?」
すっかり顔色を悪くしていた、僕に向って船員はそう声を掛けた。
「いや、大丈夫だ。ありがとう。君こそ眠いところ引き留めて申し訳なかったね。僕もすぐにもどるからゆっくり休んでくれ」
何とか僕は冷静な顔を保ち、その場を取り繕ろったものの、内心は悲鳴を上げていた。
僕は彼が船内に戻っていくのを確認した後、船の縁に両手を掛けてむせび泣いた。
今まで一体、何のために頑張っていたのか。
女王を愛しているのと同時に恐れ、男としての一部を失い、笑われ、蔑まれ。
そしてさらに、この忌々しい体。
女王の側近たちは立派な髭を蓄え、鍛え抜かれた肉体を持っているのに対し、僕の肌は滑らかでキメ細かく、体形も彼らに比べれば華奢で手足も長い。
なんて不自然な体。
それでも耐えられたのは、すべては愛する家族のためだった。彼らの幸せのためだった。
果たしてこれから先、どんな気持ちで僕は女王に接していけばよいのか……
絶望、虚無、孤独、憎悪。
それらが全て心の中で交じり合い、たくさんの刃物で切り刻まれたような痛みを感じるよりも前に、僕は縁から身を乗り出して海に身を投じていた。




