1.永遠の眠りへ
明るい陽射しが降り注ぎ、春らしい暖かな一日になるはずだったある日。
僕は所用を終えた後、彼女のいる寝室に出向くと様子がいつもと異なることに気が付いた。
僕は駆け寄るようにして彼女に近づいた。
手を近づければ、彼女の呼吸は止まり心臓の鼓動もせず、まるで人形のように微動だにしなかった。
彼女の中はすでに空っぽだった。
唯一人形と異なるのは、彼女が少し前まで生きていたという証である、肉の柔らかさと温かさだろうか。
けれどもそれも次第に失われつつあった。
「ついにこの日が……来たのか」
予兆はなかった訳ではない。
このところ、彼女はするはずがない咳をし始めていた。
僕は膝をつきながら、寝台に横たわった彼女に向って囁くと、衣装棚から彼女のお気に入りだった服を取り出して着替えさせた。
さらに僕は、化粧台から彼女のいつも使っていた口紅を持ち出し、鮮やかさを失わないよう唇に指で赤い色を引いた。
そして別の棚にしまっていた、この日のために僕が用意していた箱を手に持った後、横たわる彼女の背中と膝裏に両手を伸ばして、僕は家の外へと連れ出した。
僕たちの家の裏手には大きな湖畔がある。
そこの湖畔の岸辺には大きな一本の木があり、そこが彼女のお気に入りの場所だった。
僕はその木の根が這うところから、すこし離れた平らになった場所に彼女を寝かせた。
「ここでよくピクニックをしたね。あちらに行っても、こんな綺麗な景色を見ることができるかな」
辺りには優しく葉を揺らす風が吹いている。
「だといいわね。たくさんの綺麗な花が咲いているとは聞くけれど」
もし、彼女がいつもと変わらなければ、僕の隣に座りきっとそう答えていたはずだ。
けれども、今臥している彼女はもう何も話してくれない。
途端に、虚無が僕を襲い視界が霞んだ。
それを振り切るかのように僕は空を見上げた。
遠くには僕たちのことを知る由もない、鳥の群れがどこまでも続く青いキャンバスの上を舞っている。
今頃、彼女は数えきれないほどの色彩に溢れ、栄光と輝きを賛える歌声がやまない楽園で、天の御使たちに囲まれ愛に包まれた歓迎を受けているのだろうか。
それとも───
神に背いた罰として、天の門から締め出された罪深い人間たちが泣き喚き叫んでいる、言葉に尽くせぬ悪夢のような闇の園へ突き落とされてしまったのだろうか。
僕は膝を抱え込むようにして、しばらくその場に座ってそのように考え込んだ。
とはいえ、その答えを知るには、僕も彼女と同じ世界に向かわなければいけない事を知っている。
こうやっているだけでは、無意味な空想でしかないのだから。
僕たちはこの世界に長く居過ぎた。
僕の本当の意味で血のつながった家族がこの世界から居なくなってから、どのくらい時が経っただろう。
大昔、僕は家族のいるあちら側の世界に行きたいと願ったことがあったけれど、今横たわっている彼女が僕を引き留めてくれた。
でも、彼女ももういない。
ついに僕は本当の意味で一人になった。
それでも、僕だけがこの世界に残るのは一体なんの意味があるというのだろう。
終わるまで終わらない孤独。
それは前から覚悟していたはずだった。
幸いなことに、死は彼女のところへ突然訪れるのではなく、ゆっくりと近づいてきてくれた。
僕が去るのは、彼女がいなくなってしまってから。
前々から、いや、彼女と一緒になった時点でそう思っていた。でなければこんな猛毒なんて僕には必要がなかった。
願わくは……どうかあちらの世界に行っても、彼女といられますように。
僕は祈る気持ちを込めて、萎びて黒く小さくなった、僕にとっての”猛毒”を取り出すと口に含んで、彼女の隣に横たわった。
彼女のすっかり冷たくなってしまった手を握る。
さあ、毒よ。
速やかに僕の中を巡り、僕を蝕み、息も、心臓も止めて、あちらの世界に連れて行ってくれ。
二度と目を覚ますことのない夢を僕に見せてくれ。
そう思いながら、過去の回想と共に僕は目を閉じた。