3.これぞアホへの通過儀礼
ざまあと見せ掛けて違う何か
「このように頭の足りない方を伴侶に迎えねばならぬとは―――――アウフスタ殿下も気の毒に」
へロルフが生家であるエッセリク伯爵邸から帝都にある皇帝の宮殿に移り住んで約三ヵ月が経過した頃、敢えて聞こえる音量で囁かれた家庭教師からの毒を拾って彼は教本を読むのを止めた。アホでもパァでも女帝の伴侶として最低限これだけは叩き込まねば、という基礎教養だとかマナーの類を学ぶへロルフの授業態度は真面目なものだが成績は良くも悪くもない。言ってしまえば普通だった。
「アウフスタ殿下はこのように初歩的なことなどたった一度教本に目を通しただけで完璧にご理解されましたのに………はあ、なんと、嘆かわしい」
彼としては純粋に、かつての教え子であったアウフスタ皇女のことを気の毒に思っているのだろう。それはそう、とへロルフも思った。優秀な皇女の伴侶が底抜けのアホ―――――もとい、頭の足りない感じの田舎貴族の三男坊では心配にもなる。それは分かる。
分かるのでとりあえず同意した。
「そうですね。僕は皇女殿下みたいに本読んだだけで教師は要らない、みたいな天才肌じゃないアホなので先生には今後ともお世話になりますところでココってどういう意味です?」
「え? は?」
嫌味を普通に受け止められた挙句『教本一回読んだだけで全部理解出来る皇女殿下には本があればお前なんか別に要らねーじゃん何を厚かましく恩師面してんだ』みたいな言葉を投げられて教師はちょっと思考が止まった。実際へロルフはそんな煽り目的ではなくただ純粋に言葉通りの意味で『自分アホなんで分からないところ先生に聞けて超助かる』くらいの感覚でしかなかったのだが、嫌味と当て擦りと婉曲表現に慣れ切ってしまった人間にはそんな受け止め方は出来ない。そしてなんとも不幸なことに、帝都に生まれ帝都で育った宮廷伯家の血筋たる男性教師はへロルフ程に単純でもなければ当然パァでもなかったのである―――――それ逆に幸運判定じゃない? と思うことなかれ、この場合は不幸だ。何処にでもあるちょっとした擦れ違いって悲しいね?
(この私をアウフスタ殿下の元筆頭家庭教師と知っての狼藉か………!?)
余談だがへロルフはそんなこと知らないし狼藉だとも思っていないが相手も相手でそんなことは知ったことではないのであった。
さて、この田舎者ときたらアホの分際で一丁前に囀るとはいい度胸だ、と言わんばかりの臨戦態勢に入ってしまった家庭教師は眼光鋭くへロルフが指し示した教本の一文に視線をくれてから鼻で笑う。
「そのような初歩の初歩さえも読み解けないようでは私の授業を受けるに値しませんな。教えたくとも今の貴殿には何も教えられません。残念ですが今日のところはここまでとしておきましょう。分からないところは分かるまで自分で調べて考えなさい。ああ、そうだ、基礎をしっかりさせるためにもこちらのテキストのここからここまでを本日の課題とします。明日までに解いておくように。怠けずしっかり励みなさい―――――では」
そう言って、家庭教師はへロルフをひとり残してすたすたと足早に部屋を出て行ってしまった。舐めた態度を取った生徒に授業放棄を突き付けて放置することで反省と改善を促そうという試みだったとしてもそれは悪手も悪手―――――だって相手は裏表とか一切ないただのパァなんだもの。
「あ、帝都基準だと基礎すらなってないのね僕」
そりゃあ先生も困るし帰るわ、と彼は納得してしまった。
家庭教師歴数十年の男性教師の経験的には焦って教師に追い縋り誠心誠意謝って教えを乞うような場面でしかし、へロルフは他でもない己の学力がマジで基礎さえ覚束なくて先生に出直せと諭されるレベルだと認識してそれを受け入れた。なんなら「見捨てずちゃんと課題を出してから帰るあたりが親切だなあ」とさえ思っているのでポジティブである。
そういうわけでへロルフはじゃあ頑張るか、と頑張った。
その翌日のこと。
「そなたの役目は無くなった。ご苦労。もう辞して構わぬよ」
「え」
入室するなり一瞥とともにぶん投げられたアウフスタ皇女の一言により、彼はその場に固まって二の句が継げなくなってしまった。そんな相手の反応などお構いなしに言うべきことはもう言ったと皇女は素っ気なく視線を外し―――――そして隣で唸っているへロルフの手元を覗き込んでからなんとも柔らかな声を出す。
「ああ、そこは飛ばして良いぞ。そなたにそこまでは求めておらぬ」
「そうなんです? じゃあいいか」
男のプライドを傷付けかねない戦力外通知の一言だろうがへロルフ・エッセリクは驚異のパァなのでそもそも傷付く土壌がない。要らないって言われてるからにはホントに要らないんだな、という素直さであっさり見切りをつけて、彼はさっさとページを捲った。しかしアウフスタ皇女はさらに続けて待ったをかける。
「うむ、へロルフよ、私が思うにその教本はそなたには不要であるようだが。読みたいのか?」
「課題でして。これを理解出来ないようでは先生も授業のしようがないので読まなきゃダメなパターンらしく―――――あわよくば僕は読みたくないです」
「素直でよろしい。読まんで良いぞ」
「皇女殿下って僕に甘過ぎないです? お言葉には甘えますけども」
「な、なっ………なりませぬ!!!」
宣言通りお言葉に甘えて秒で教本を閉じたヘロルフの姿にはっとして声を荒げた教師だがその胸にあったのは焦燥だったし脳はしっかり混乱していた。多忙を極める皇女殿下が何故この時間この場所に、というある意味妥当な驚愕は、しかし当の皇女本人から向けられた無機質な眼差しによってあっという間に塗り潰された。何にって? 恐怖に決まってるだろ。
「辞して良い、と伝えた筈だがそなた何故まだ留まっておる………ならぬと言うなら理由を示せ。ヘロルフにでなく、私にだ」
言葉だけでもう圧がすごいが皇女は目力もすごかった。しかし教師は教育者としての矜持からそれに屈することなく、むしろ堂々と異を唱えてみせたのだから立派である。
「畏れながら、アウフスタ様………! 次期女帝であらせられる御身に並び立ち支える者たる皇配としてヘロルフ卿の無知は罪! いいえ、忌憚なく言わせていただくとすれば彼は阿呆にございます! その程度の教本も理解せずして御身のお側に侍るなど許されませぬ!!!」
「許すも許さぬもなかろうよ―――――種馬に学など求めてどうする」
とんでもねえことを堂々と言い切るアウフスタ皇女殿下は実のところ花も恥じらう十六歳だが本人の属性はヘロルフに出会ってからというものすっかり覇王一色だったので違和感が仕事をしなかった。この程度で恥じらいを見せるような精神構造の持ち合わせがない。かつての超人然とした人間味の薄さ(ヘロルフは人伝に聞いた程度にしか知らない)は何処かへ消し飛び今や世紀末君臨系覇王のような世界を統べる資質を備えた威厳と闘気がその全身から余すところなく大盤振る舞いで放出されている。目を凝らせば後光が拝める気もした。
皇女殿下がそんな感じだったので、あんまりにもあんまりな物言いに教師は思わず口を噤んだがそこで彼が目撃したのはうんうんと納得気味に頷く呑気なヘロルフの姿である。
「それはそう―――――あ、でもアレですよ皇女殿下。種馬だろうが女帝の伴侶として最低限の振る舞いは覚えませんと的なアレ」
発言そのものがふわっと馬鹿っぽいが言いたいことはまあわかる、もとい種馬であることを否定しないどころかむしろ前向きな姿勢の表明に家庭教師はぎょっとした。あわよくば教本を読みたくないと正直に白状するパァではあるが、頭が空っぽなりに言い渡されたタスクを黙々と行う素直さはある。そんな婚約者に微笑みを向け、美しい皇女は言い切った。
「何を言う。そなたはもう既に『最低限』は熟せているとも―――――人語を介しこの私とコミュニケーションが取れるであろう。他に何が必要か」
「あっ、なるほど種馬なのに帝国語が話せて偉いね的な?」
「左様。そら、この通り、我が意を汲む理解力もある。阿呆は阿呆でも優れた阿呆よ。これ以上の学など不要であろう?」
弾ける笑顔は何とも目映く同時に途轍もなく雄々しい。それは己のお役目が種馬であることを正しく理解しているヘロルフを信頼した上で言い放たれた皇女流帝国ジョークも交えた愛ある全肯定かもしれなかったがちょっと特殊性癖っぽいというか些かキレッキレ過ぎませんか殿下と家庭教師は慄いた。けれども、安心して欲しい。
アウフスタ皇女に割ととんでもねえ愛情表現を向けられたパァはハッピー気質のパァなので。
「下手に知恵とかつけちゃうと逆に面倒臭そうですし、僕も僕はアホのままのが都合が良いと思います! でもアホ過ぎて皇女殿下に嫌われたら悲しいんで言ってください、必要なだけご要望通りに頑張ってお勉強しますから!」
「ふ、ふふ、はっはっは。良い。なんとも愛いことを―――――興が乗った。茶菓子を持て。本日の執務はここで行う。構わんな? へロルフよ」
「皇女殿下がいいならいいです!」
皇女と阿呆がじゃれている。きゃっきゃうふふと会話を交わし、不思議な嚙み合わせで仲睦まじい様を見せ付けられた家庭教師はその日のうちに非礼を詫び、職を辞して母方の生家がある領地の片隅に引っ込んだ―――――曰く、馬に蹴られてはかないませぬゆえ、とのこと。
次回、義理の家族が出るかも