6.些細な悪意が生んだ種
入学式を終えてから早1ヶ月。
早々に行われた基礎科目試験の結果が、全学生が往来するロビーから学年毎の別棟に渡る廊下の壁へと貼り出されていた。
途中で会ったクレイグとともに廊下を歩き始めると、真っ先に総合得点上位の名が目に入る。
(いくら優秀な留学生っていっても、あり得ないよ!!)
1位 ネヴィル・クラタナス 698点
2位 アスタシオン・ヴァンビエント・ヴァルトセレーノ 695点
3位 カスト・ブルーベン 683点
4位 マティアス・オーレン 670点 ……
基礎科目は7科目で各100点。つまり、1問しか間違っていないということではないか。それに並ぶ第二王子も流石だが、大差をつけられた結果にマルティエナは茫然とした。
必ずネヴィルを見返してやると決めた日から、死に物狂いで勉学に励んだ一月だったのだ。本来であれば4位になった時点で充分喜べるのだが、たった1人の名がそれを邪魔する。
「お前が4位! さすが優等生だね〜、オーレン君は!!」
「……そういう君の名はどこにあるの?」
視線を右へと動かしても、視界に映る範囲にクレイグの名はない。
「これでも努力はしたぞ? 優等生の仲間入りは無理だったみたいだけどさ〜」
そう言うクレイグは呑気なもので、結果に落胆してなさそうだ。
羨ましいよ、と心の中で呟く。
ネヴィルに闘志を燃やしているマルティエナに対して向こうは歯牙にもかけていないのだが、それすらも腹立たしい。
「それにしても、カストも頭良かったんだな〜」
「本当に。薄々気付いていたけど、ここまでとは知らなかったな」
カストとは大抵の講義を横並びで受けてきた。教師の話を聞く姿勢は実直で、教科書へ書き込む量も膨大だ。マルティエナが悩んでいれば声をかけてくれるし、難解な問題の解き方を尋ねると悩みながらも正解へ導いてくれる。
これまでのやりとりを思い返せば、マルティエナよりも成績が良いのは明白だ。
紳士淑女が粛々と挨拶を交わす廊下は、今日に限っては下町のようにどこからともなく会話が飛び交う。
マルティエナもクレイグと貼り出された名前の羅列を追いながら雑談を交えて講堂に辿り着くと、見慣れた赤茶髪の少年を発見した。既に他の学友も集まっていて、気遣い屋で親切な彼に賛辞が送られている。
カストが座る席の横は二人分空いていた。すれ違う学生に挨拶をしながら通路を歩いていくとカストが気づいて「おはよう、二人とも!」と朝の挨拶をくれる。気を遣って席を離れていく彼の友人にも会釈してカストに挨拶を返すと、既に聞き飽きているであろう言葉をマルティエナ自身も伝えたくて言葉を続けた。
「おめでとう。カストが手助けしてくれたお陰で私も健闘できたよ。いつもありがとう」
「ありがとう! 僕もマティアス君と教え合った成果かなって思ってたんだ」
カストと話していると、ゆるゆると顔が綻ぶ。
頬を指で掻きながら恥じらいながらも喜んでいるカストはマルティエナにとって癒しの存在だ。悔しさばかりが勝っていた気持ちが消えて、純粋に自分の努力を喜べる。
「じゃあ俺も今後はカスト先生に教えてもらおっかな~」
「もちろん! クレイグ君も一緒に頑張ろう!」
「ふっ! ははッ」
マルティエナの背後からの間延びした冗談まじりの発言にもカストは満面の笑みで頷く。そんな二人のやり取りに、マルティエナは開いた口に手の甲を当てた。
「冗談のつもりだったんだけど……」
「次のクラス分けで下がらないためにも頑張っておいた方がいいよ、クレイグ」
廊下に張り出された試験結果はクラス別ではない。上位から順に見ていくとマルティエナがいるSクラスの学生の名が並んではいたが、それでも時々知らない名が混じっていた。
呑気に学院生活を過ごしていれば、日に日に追い越されていくだろう。
なんだかんだ三人で過ごす時間をマルティエナは気に入っていて、恐らくカストも同じように考えているのだ。
声をだして笑ったせいで涙の滲んだ眦を指先で払った。
そんな時だった。
「流石、オーレン君は優秀だな」
これから嫌味を言います、と主張するように小馬鹿にした声がマルティエナを呼んだ。
「ああ、フォディール君ありがとう」
フォディール伯爵家の次期当主であるダレンは身分が同格の兄を値踏みしているような雰囲気があって、マルティエナはどうも好きになれない。
それでも卒なく人付き合いをしてきたつもりでいたので、彼の急激な変化に笑みを保ちつつも首を傾げる。
「まあでも――それだけが取り柄だもんな。身の回りのことが何一つできないお坊ちゃんはさ」
ぴたり、と賑やかだった空気が一転する。
「もしかして、私のことを言ってるの?」
それでもマルティエナは普段通りの何気ない雑談を意識して微笑んだ。
長々と続ける気がないのなら冗談として聞き流してあげよう。成績の優劣から生まれる多少のやっかみならば、兄は寛容に見逃すはずだから。
「使用人を二人も連れてくるなんてオーレン君しかいないからな。秀才だと噂で聞いてたけど、所詮は勉強しか取り柄のないお坊ちゃんだったってことだ」
剣呑さをオブラートに包みもしないダレンの嫌味が飛び火することを恐れて、近くにいた者は徐々に遠巻きになっていく。
顔にかかるくすんだ茶色混じりの金髪を指先で流したマルティエナはううむ、と頭を悩ませた。
さて、どうしたものか。
こんなことをして注目を集めたところで、彼には何の得もないはずだ。成績で劣っても自分の方が総体的に優れていると主張したところで、満足するのは己のプライドだけ。
そもそも、貴族が使用人を連れてくるのは慣れない寮生活での不便を減らすため。使用人は学院本棟には足を踏み入れないのだから「身の回りのことが何一つできない」と結論付けるのは早合点ではないだろうか。
とはいえ、彼も本来の兄と同様に、親の期待を一身に背負っているのだろう。
心身共に成熟前の彼は、自分の評価を高くすることに固執して感情が先走ってしまったのかもしれない。
兄に対する侮辱は決して許せないが、何処かのタイミングで問われると思っていたことだ。正面きって言いにきてくれた彼に免じて、なるべく穏便に済ませよう。
「二人も連れてくるのは目立ってしまったかな? フォディール君には話してなかったと思うけれど、私の双子の妹は入学前に体調を崩してしまって休学しているんだ。学院寮に慣れたメイドがいれば、復学した時に妹も安心できると思ってね」
視線を投げると、窓の奥の真っ白な雲が浮かんだ青空が映る。
妹の回復を願う兄のように、失踪した兄が無事に戻ってくることを祈る。
兄の失踪には理由がある。そして、置き手紙に「戻る気はない」と記したのは、命の危険もあるからだと捉えるのは考えすぎだろうか。
希望を持たせたまま待たせたくなかったのでは?
そんな悪い結末を想像してしまう自分を恥じて、瞼を閉じる。
「学院の規則で認められている範囲だし、許可は得ているから大目に見てもらえると有難いな」
憂いと恥じらい、申し訳なさをひと匙含ませて告げたマルティエナは、ダレンから視線を外すために前髪に触れる。
彼が更に鼻息を荒くしたからだ。
そんな事情があったのかと適当に同情でも装ってくれれば良いものを、彼の態度はその逆をいく。
決して彼を窮地に立たせたいわけではないのだが、マルティエナが下手に出たのに態度を変えないダレンは傍目から見て良くは思われないだろう。遠くから成り行きを伺っていた者達が遠巻きにし始めていることを何とはなしに感じる。
彼がこれ以上騒ぎ立てる前に何とかしてくれ、と面白半分で傍観しているクレイグをひじで小突くと「俺かよ〜」と場にそぐわない呑気なぼやきがマルティエナにのみ届いた。
「あ〜っと、フォディール君」
「みんな揃って立ち止まっているなんて珍しい光景だね。何かあったのかな?」
けれど、一歩踏み出したクレイグを止めたのは離れた場所から問われた一言だった。
決して大きくはないのに、抑揚のついた一音一音が広い講堂の隅々まで届いて、耳に残る。
所々で低音が効いた馴染みの良いそれには生まれ持った風格が表れていて、自ずと背筋が伸びる。
「殿下、おはようございます」
一人一人の挨拶に笑顔で応えるアスタシオンが歩み寄ると、勝ったとばかりに綻んだダレンが仰々に向き直った。
「殿下、オーレン君は従者だけでなくメイドも連れてきていたんですよ! これだから貴族はと平民に陰で馬鹿にされるんです。私は貴族の品位を保つため、彼に忠告をしようと思っていたところです」
「そうなんだ? 素晴らしいね」
ふわりと柔らかく綻んだアスタシオンは本心から賞賛している。より口元の弧を深めて勝ち誇ったダレンがマルティエナを捉えて口を大きく開けた。
「ところで」
けれど、次いで放たれたのはアスタシオンの一言だった。
大きく吸い込んだ息を呑み込まなくてはいけなくなったダレンを見届けてから、マルティエナもアスタシオンへと視線を戻す。
「使用人を二人連れることが何故貴族の品位を落とすことに繋がるのか、私に教えてはくれないかい? 私には思い至らないのだけれど、視野の広い君には彼に忠告をするに足る根拠があるのだろう」
今度の疑問もアスタシオンの本心だ。
少なくとも、間近で表情や仕草を目にしたマルティエナにはそう感じた。
「え、あ……それは、ですね……」
失速した勢いのままに口籠るダレンは唇すらも青褪めていく。ここまで言われれば、言葉通りの賞賛ではないことに気付かざるを得ない。
(お兄様ならどうするかな?)
当事者ではあるが、他人事のように成り行きを眺めてしまったマルティエナは考える。
引き返すタイミングを与えていたのに引かず、結果として恥をかいたのはダレンだ。
そんな彼はアスタシオンの手前、逃げ出すこともできず、適当な言い訳もできず、素直に非を認めることもできないでいる。
例え相手が自分を馬鹿にしていたとしても、非道な行いを反省したら許し、寛容に受け入れる。困っている人には手を差し伸べる。
マルティエナの見てきた兄はそんな人だーー
「殿下、彼は私に仕えてくれているメイドの身を案じて忠告をと声をかけてくれたのだと思います。ご存知の通り、男子寮棟にいる使用人の大半は男ですから」
「ああ、そういうこと?」
視線の合ったアスタシオンは意向を察してくれたらしい。
「へ……? あ……」
アスタシオンににこりと微笑まれたダレンは、きょとんと眼を丸くしてマルティエナへと視線を移す。
マルティエナも口角を上げて浅く頷くと、つられてダレンも頷いた。
「フォディール君、メイドの身を案じてくれて感謝するよ。でも、心配しないでほしい。もう一人の従者が上手く立ち回っているし、私も気を配っているからね」
ここで話を終わらせてもよかった。
けれど――
「それに、私の信頼するメイドに手を出そうだなんて――誰であっても許しはしないからね」
柔和だった雰囲気の中、眼差しだけを氷点下まで一思いに下げる。
これは牽制だ。
これまでの施しを当然のように享受して忘れ去られては困る。そこまで馬鹿ではないと思いたいが、腹いせにカーチェに手を出されてはたまったものではない。
釘を刺すには絶好のタイミングだろう。
案の定、マルティエナの仲介によって血の気の戻ってきていたダレンは、幽霊でも見るように目を見開いては喉仏をゆっくりと上下させた。
「あ、ああ……なら、いいんだ。悪かったな、時間をとらせて。……殿下も、お時間をとらせてすみませんでした。……私は、ええと、所用を思い出しましたので、一旦下がらせてもらいます」
「講義に遅れないように気をつけて?」
アスタシオンの了承を合図に脱兎のごとく去っていくダレンをマルティエナは右手を掲げて送り出した。
気分は好調。これで兄の評判は上々ではないか。
「殿下、お見苦しい場に立ち合わせてしまい申し訳ありませんでした。間に入っていただいたこと、お礼申し上げます」
「私は何もしていないよ? 気にしないでくれて構わない」
「寛大な御心いたみいります」
下げた頭を上げて、再び浅く礼をする。
実をいうとアスタシオンとの会話は今日が初めてだ。
びっしりと詰められた基礎科目の講義は座学が主で話し合う機会はなかったし、アスタシオンの隣にはいつもネヴィルがいた。アスタシオン自身は最後列の席から全体を様子見しているような雰囲気で、彼から積極的に交流を図ることはなかったように思う。
それに、講義以外の時間は有象無象に囲まれている姿をよく見かける。そのうちの一人にはなりたくなかったマルティエナは、父には申し訳ないと思いつつも、第二王子と接点を持つのは戻ってきた兄に任せようと思っていたのだ。
だから、廊下ですれ違う際や目が合った時に会釈をする程度で、数多いる貴族の次期当主のうちの一人に声をかけるほどアスタシオンも暇ではなかったのだろう。
「それよりも、オーレンは優秀なんだね。ブルーベンも。私も気を引き締めないといけないな」
「あ、ありがとうございます!?」
「ありがとうございます。ですが、殿下には遠く及びません。まずは競い合える土台に立つことを目指します」
「これも縁だ。お互いを高め合う学友として、気楽に接してくれたら嬉しい」
第二王子の手のひらがマルティエナへと差し出される。
「光栄です、殿下」
これも、きっと本心だ。
交流を深めるにも第二王子としての立場がある。色々と考えはあるのだろうが、言葉の裏に何か隠されていたとしても微塵も透けて見えない。
言葉と共にマルティエナも右手を差し出して、握る。
そうしようとした。
(今のは一体……)
握る手前、触れる手前、関節を緩く曲げた互いの手が掠った一瞬。
反射的に手を払い除けたくなる稲光のような衝撃が走った。
振り払うなんて失礼なことにはならなかったが、ピクりと全ての指の先が反応するのを止められない。
愛想良く笑んでいたアスタシオンは僅かに目に力がこもる。
マルティエナも、青みを帯びた透き通るエメラルドのその瞳に同じように映っていた。
似たような微弱な痛みは乾燥をもたらす火の季節で時々起こる現象だ。しかし、今は緩やかな空気が肌を撫でる穏やかな風の季節。
こんなことマルティエナは経験がなかった。かといって、それがあり得るのか否かは知らない。研究者が不可解な現象の分析をしているらしいが、まだ実証はされていないと小耳に挟んだことがある。
偶々――だろうか?
気を取り直して、指先が触れていたアスタシオンの手を握る。少し遅れてマルティエナではない力も加わった。
「……よろしく、オーレン」
あっさりと離れた手は、次いでカストへと向けられる。
これまでと変わらない、余韻を占める低音まで耳に心地良いアスタシオンの声。
仕草も、表情も、アスタシオンの人柄を表す全てが本心だと告げていた。
けれども違うのだ。
触れた手のひらの熱から受け取った直感が、それを否定していた――